ボーダー本部では上層部のメンバーがアフトクラトルの国王であるハイレインから譲渡された黒トリガー「夜の雫」の扱いに苦慮していた。
黒トリガーが1本あれば戦況を一気に覆すことができると言われるほど強大な力を持っていて希少であるから、どの国でも喉から手が出るほど欲しいものだ。
アフトクラトルにおいては十数本を所有しているらしいが、適合者がいないからという理由でボーダーに譲渡するというのだから素直に喜べるものではない。
裏に何かあるのではないかと疑いたくもなる。
おまけにアフトクラトルの人間ですらその能力がわからないというのだからお手上げだ。
ランバネインの話では30年くらい前に適合者が死んで以降ずっと王家が管理していたということだから、若いベルティストン兄弟が知らなくても無理はないが、ヴィザという老戦士がいるのだから知っていそうなものである。
そこでツグミはそれとなくランバネインに尋ねてみたものの、ヴィザですら知らないと言う。
30年前ということはコヴェリ家が王家であり、当時のベルティストン家はその配下の一貴族にすぎなかったそうだ。
そんな弱小貴族のベルティストン家が四大領主の一角を占めることになったのはハイレインとランバネインの父親である先代当主がヴィザを重用したことで、歴戦の勇士であったヴィザが星の杖の適合者となったことによってベルティストン家の今の地位が盤石なものとなったのだった。
コヴェリ家の配下のトリガー使いが夜の雫の最後の適合者であったようだが、新しい適合者を探すにしても自分の配下の中にいれば良いがそうでなければ諸刃の剣となってしまう危険を秘めている。
仮にライバル貴族の家臣の中に適合者がいたとすれば夜の雫を渡さなければならない。
そうなると下克上もありうるわけで、ライバルになりそうな人間に渡すくらいなら封印してしまった方が良いと考えたのではないかと推測される。
そしてハイレインが王となり、王家の管理下にあった黒トリガーの数本は新しい適合者が見付かったものの、夜の雫だけは誰も起動できなかったのだった。
夜の雫の詳細を知っていそうな前国王はハイレインがクーデターを企んだ貴族の一味として断罪してしまったから由来や能力を知る者はいない。
そして宙ぶらりんになった黒トリガーを取引に使おうとした結果がこの顛末ではないかとの報告書を城戸に提出していた。
ひとまず夜の雫は城戸が預かって総司令執務室の金庫に保管しているのだが、これをどう扱うべきかを上層部で相談することになった。
「やはり正隊員全員に適正があるか確認してみるのがいいのではないですか?」
根付の意見に忍田が反論する。
「待ってください。たしかに使うことができれば戦力増強になりますが、正体不明の黒トリガーだという点がどうも引っかかります。過去にミリアムの黒トリガーの例があります。あれはかつてエウクラートンがキオンの大軍勢に攻め込まれた時に使用され、危機一髪のところで戦況をひっくり返してキオン軍をほぼ壊滅状態にしたそうです。おまけに使いすぎれば使用者にも精神的・肉体的ダメージを受けるということで、城戸司令はずっと封印してきたんです。その事実はここにいるみなさんはご承知でしょう。夜の雫の適合者の死亡原因がミリアムの黒トリガーと同様のものであった可能性もあり、そんな得体のしれないものを隊員に使わせるわけにはいきません。幸いミリアムの黒トリガーは適合者のツグミ…霧科隊員が起動しないことを約束しています」
すると今後は鬼怒田が手を挙げた。
「いや、だからこそ詳しい能力を知っておくべきではないのかね? 適合者が見付かったからといってすぐに使うような状況にはならんだろ。もうこれ以上戦わんで済むように近界民たちと同盟を結ぼうと働きかけ、ようやく目処がついたのだ。アフトで適合者が見付からんのなら正隊員の中にいない可能性は高いが、とりあえず全隊員を対象に起動実験だけはしておくべきだろ」
「本格的な戦争をしないで済むように動いているなら、今さら黒トリガーの適合者を探す必要もないんじゃないかな?」
林藤がひとり言のように言う。
さらに唐沢が意見を述べた。
「林藤支部長の言うことはもっともです。ボーダーが新しい黒トリガーを手に入れたと近界の国々に噂を流すだけでも充分効果はあります。ミリアムの黒トリガーの件では少々危険ではありましたがツグミくん本人が常に所持していて自らそのことを各地で吹聴してきましたから、ボーダーがアフト軍を撤退に追い込んだりさらわれたトリガー使いを敵本拠地まで乗り込んで行って全員無事に帰還した事実と共に『玄界は侮れない国となった』と考えた国が手を出さなくなったのではないかと推測されます。アフト遠征後、本格的な侵攻や大掛かりな市民の誘拐作戦はゼロに抑えられています。月に1-2件ある門の発生とトリオン兵の出現はそういった情報が届いていない国によるものではないですかね。その事件もすべて未遂で終わっていますから、敵さんもこれ以上玄界の人間をさらおうとしても効果は薄いと諦める流れになるのでは、と考えられます。実際、本年度の近界民絡みの事件の件数のグラフを見ますとアフト遠征に成功した6月くらいまではなだらかな下り坂を描いていますが、遠征直後から一気に減っています。今月はゼロです。これは各国がボーダーの活躍を知って、かつての『玄界は効率の良い人間の狩場で、簡単に人間を捕まえられる』という考え方を改めたからだと思うんですがね」
今のところ適合実験をすべきだというのは鬼怒田と根付、それに反対なのは忍田で、林藤と唐沢は反対というのではなく不要ではないかという意見であった。
城戸は彼らの意見を黙って聞いていて、最後に自分自身の意見を述べた。
「私は黒トリガーなど使わずに済むことが一番だと考えている。それは皆も同じだろう。そして使うか使わないかはともかく、能力を知らないのであれば価値は半減する。ミリアムの黒トリガー場合は能力が判明していて、そのことも含めて噂を流していたからどの国でも恐れて手出しはしなくなった。しかしこの夜の雫はまったくの未知の存在だ。卵の冠のようにトリオンにしか効果がないという情報だけではその能力が刃タイプのトリガーではなく弾トリガーである可能性が見えてくるものの、それすら推測の域を出ない。私は適合者がいるのであればその能力を把握するところまではしておきたい。そしてその能力次第では適合者が望んでも夜の雫は封印してしまうつもりだ。そして夜の雫の存在自体を秘密にしたい。ボーダーが軍事力を増強して力で近界への影響力を高めようとしているとは思われたくはない。こちらは平和的な方法で治安を安定させたいのだからな」
こちら側の世界の核兵器も実際に使用すればおしまいだとわかっているから所有している国は使わずにいて使用をちらつかせているだけである。
それは核というものがどれだけ恐ろしいかを誰もが知っているからで、夜の雫が具体的にどのように恐ろしいものなのかがわからなければ噂を流すにしても効果は薄いだろう。
さらに城戸の「ボーダーが軍事力を増強して力で近界への影響力を高めようとしているとは思われたくはない」という言葉は「戦いの連鎖は誰かが断ち切らなければならない。わたしはその誰かを待つのではなく、自らが止めるための行動をしたい」というツグミの気持ちを知っていたからこそ口から出たものだ。
近界民から力で蹂躙されないようにするためにはボーダーも同等かそれ以上の力を持たなければいけないと考えて、城戸は積極的に遠征部隊を近界へ派遣し、トリガーの技術を取り入れて戦力を増強してきた。
それは当然必要であったわけだし、そのおかげでアフトクラトルの大侵攻の際には最小限の被害で食い止めることができたのだから間違ってはいない。
それにある程度の戦力を保持しているからこそ近界民たちと同じ舞台に立つことができるというもの。
ただし近界民に警戒心を抱かせるようになるほどの力をアピールするのは逆効果ともなりうる。
現時点ではハイレインがボーダーと戦って2度負けたことは有名な話になっているが、ボーダーに謝罪をして夜の雫を譲渡したことはアフトクラトル国民ですら知らないことである。
プライドの高いハイレインにとってボーダーとの戦いは悔しいものであり憤りを感じるものとなった。
本来なら三度目の正直とばかりに再び三門市に攻め入って軍事大国の面目躍如を果たしたいところだが「神」の交代をしたばかりであり、失ったトリオン兵の補充もできていないためにすぐに行動はできないでいる。
またライバルとなる有力貴族を処分したことで国民の新王に対する支持率や好感度は非常に低い。
その状態で新たな戦争を起こして勝つのはまず不可能で、時間をかけて充分な準備をしてから少しずつ支配地域を拡大していく予定であった。
ところがボーダーとキオンが手を結ぶという話を知り、それを邪魔するために自らの矜持と国益を秤にかけたのだ。
だからハイレインとしてはこの屈辱的な謝罪は誰にも知られたくはないもので、それを理解しているボーダーも「アフトクラトル国王が頭を下げた」という事実は公にしないことにしている。
ハイレインも好き好んで憎いボーダーに黒トリガーを譲渡するはずもないのだから、これには「口止め」の意味も込められているのではないかとも思われる。
そう考えるとボーダーは夜の雫の存在を公にせずにいた方が実際に使用するよりもはるかに効果が高いと思われ、ミリアムの黒トリガーと同様の「使い方」ではなく違う形で利用したいと考えたのだった。
話し合いの結果、夜の雫の存在を知っているボーダー関係者は大勢いるために正隊員全員に平等に機会を与えて起動実験を行ってもらうことになった。
ただし特に緊急を要するものではないので時期は未定となっている。
その中に適合者がいなかった場合のみ訓練生にも同じことをやってもらうが、適合者がいればその隊員の中から協力者を募集してどのような能力があるのかを調べることにする。
未知の武器であるから安心して隊員に使用させることはできないが、隊員本人にやる気があるならお願いするしかない。
もし協力者がいないのであれば城戸がかつてのミリアムの黒トリガーと同じく厳重に保管することになるだろう。
協力者がいて能力がわかったとしても適合者の隊員が管理できないようなものであった場合はやはり城戸が管理することになる。
今のボーダーには黒トリガーなどなくても近界民と戦える力があるのだ。
◆◆◆
会議が終わって上層部メンバーは解散をし、それぞれが自分の執務室へと戻って行く。
その中で最後まで城戸は席を立たず、目の前に置かれている夜の雫を見つめて何か考えているようであった。
それはツグミから聞かされていた夜の雫の可能性について気になる点があったからなのだ。
(このドッグタグの姿をした黒トリガー…。近界民たちの戦争は基本的にトリオン体で戦うから死者は滅多に出ることはない。生きたまま捕虜にして利用したいという思惑があるから殺すことまではしないからだ。だから彼らはこのような認識票を使用していないらしい。氏名や年齢、所属部署などの証明となるものは兵士が所持するトリガーに記録されているか、もしくは腕輪状のものに刻印して身につけているという。ゼノンたちは諜報員なだけあって近界のことには詳しい。そんな彼らがドッグタグの存在を知らないというくらいだ、近界には存在しないものと考えるのが妥当。そうなるとこの黒トリガーになった元の人間がこちら側の世界の人間であった可能性が高くなる。それも自衛隊や軍などの関係者か、ミリタリーファッションを好んでいた人物だというツグミの推理はあながち間違ってはいないのではないか…?)
30年近く使用されていなかった黒トリガーの元になった人物が誰であるかは今のボーダーにとってどうでもいいことである。
夜の雫の経緯から推測すると現在のボーダー関係者の友人や知人だという可能性はかなり低いのだが、だからといってその人物がこちら側の人間であった可能性があるとすれば気にかかるというもの。
(今はまだその時期ではない。いずれ市民救出計画が完了して界境防衛の仕事がひと段落したところで可能な限り調べてみよう)
城戸は夜の雫を小箱に戻すと立ち上がった。
そしてそれを手にして会議室を出て行く。
(それにしてもツグミが戦いのない世界を目指している中で新たな黒トリガーを手に入れるなど、なんて皮肉なことだろうか…)
城戸は歩きながら自身の歩んできた道を振り返っていた。
(すべては織羽と有吾のふたりが門の向こう側からやって来たことから始まった。あれから20年以上が過ぎ去ったが、ふたりとももうこの世にはいない。彼らはこの現状をどのような想いで見ているのだろうか…?)
しかし過去へ旅立った城戸の意識はすぐに現在へと引き戻されてしまった。
ツグミが総司令執務室の前に立っていた。
どうやら会議が終わるのを待っていたらしい。
「城戸司令、5分だけお時間をください」
アポなしでの面会であるから急ぎの用なのだろうと、城戸は頷いた。
「いいだろう。中へ入りなさい」
ツグミは城戸に招かれて執務室の中へ入るとさっそく話を始めた。
「お忙しい司令のお時間を奪うわけにはいきませんので手っ取り早く済ませます。まず、わたしとゼノン隊の4人による外交訪問団は明日の朝出発予定でしたが、半日ほど前倒しして本日一九〇〇時に出発することにしました。これはメノエイデスでの滞在時間を長く取り、その間にウェルスさんを経由して政府の外交担当責任者にボーダー・キオン・エウクラートンによる三国同盟締結の場にメノエイデスの代表者を招きたいと考えているからです。以前のお話ですと今後同じように同盟に加わりたいと希望する国が現れた時には趣旨を知ってもらうためにボーダーの活動を公的に見学してもらうことはやぶさかではないということでした。ですので往路の途中で先方に打診だけしておき、復路で返事をもらおうかと思っています」
「現在でもメノエイデスはボーダーに対して好意的に接してくれており、鳩原智史の件でも世話になったこともある。彼らが同じ志を持って足並みを揃えるのであれば今後の市民救出計画においても協力を得られることだろう。…ならばこの件に関してボーダー最高司令官としての親書を急いで書くことにしよう」
「ありがとうございます。それともう一点あります。夜の雫のことですが、今のところ誰も詳しい話どころかその存在自体も初めて知ったという状態です。そこでキオンへ着いたらサーヴァ・コンプソス総司令に訊いてみようと思っています。彼は68歳で現役のトリガー使いですから、30年から40年前の戦争のことなら知っているのではないかと思ったからです。キオンとアフトは全面戦争に至ったことはないそうですが、最大のライバルとなる国のことなら無視できませんから諜報員を派遣していろいろ調べていたはず。戦争で夜の雫が使用されたことがあれば、もしかしたらキオンの軍関係の文書の中に記載されているかもしれません。アフト国内では情報統制されていて同世代のヴィザが知らないとしても、他国の情報までは操作できないですから」
「うむ…それはありうるな」
「コンプソス総司令が知っているかどうかわかりませんし、知っていても教えてもらえない可能性もあります。ですがどのようなものかわからない黒トリガーなんですから扱いは慎重にすべきで、急いで適合者探しをしなければならないというものではないのですから、三国同盟の件が無事に済んでからでもよろしいのではないかと思います」
「もちろんだ。現状で三国同盟の件を優先するのはそれが市民救出計画に大きく影響するからだ。夜の雫はいわばイレギュラーなもので、後回しにしても問題はない。先ほどの会議でも起動実験の時期はまだ決まってはいない」
「そうですか。ではこの件については城戸司令の胸の内に収めておいてください。場合によっては不都合な真実が明らかになることもありえますので」
ツグミの言う「不都合な真実」とは誰にとっての不都合なのか…
あえて城戸は何も言わないでいた。
「そうなると遠征艇の準備を急がねばならぬだろ? 大丈夫なのか?」
「はい。もうトリオンタンクは満タンにしてありますし、先方へのお土産も積み込んであります。城戸司令の許可をもらったのですから、あとはこうして関係者のみなさんに挨拶をするだけです」
「そうか。私はこの後スポンサーの人間と会わなければならない。たぶん夜までかかるから見送りにはいけないだろう」
「そんなこと気にしないでください。それに慣れたとはいってもやっぱり苦手ですから」
そう言ってツグミは困った顔で笑った。
見送る側も見送られる側もあれから何度も経験したし、再び会えるとわかっていればそれほど辛いものではない。
しかし近界と玄界を行き来するのであれば、100パーセント安全であるとは言い切れないのだ。
「わかった…。必ず無事に帰って来るんだぞ、ツグミ」
城戸は総司令としての立場だけでなく父親の気持ちも込めて力強く言った。
それに応えるように、ツグミもハッキリとした声で返事をする。
「はい! 必ず役目を果たして戻って来ます」
それからツグミは忍田や唐沢たちに予定の変更と挨拶をし、夜の帳の下りた三門市を後にした。