ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
「ツグミ、待ちなさい」
会議室を出たツグミは背後から声をかけられて振り向いた。
「忍田本部長、何かご用ですか?」
「おまえはこれからどうするんだ?」
「どうする、と言いますと今後の予定の意味ですか? それならまず寮に戻って洗濯を済ませ、次に白峰先生にエレナ大叔母様の容態についての報告をして、それから玉狛支部に行っているレクスくんにディルクさんとマーナさんの手紙を渡して、そして ──」
「おまえはいつ休むんだ!? 朝早く帰って来てすぐに報告だ会議だと休む間もない。どうせ仮眠をとったとか言うのだろうが、おまえのことだからアフトクラトルでの役目を終えるとすぐに出発し、艇のエネルギーとしてのトリオンもリヌスくんがいない分をおまえが提供したはずだ」
「…たしかにそのとおりなんですけど、早く帰って来たのはこの後の仕事を早く片付けて余裕をもって
言い訳をするツグミに忍田は父親として腹を立てている。
「だからといって無理をすれば元も子もないのだぞ。城戸さんは何も言わないが、気持ちは私と同じだ。洗濯なんて後でいい。白峰先生への報告だって特に急ぐ必要はない。手紙なら迅に寮まで取りに来させろ」
「わかりました。じゃあ、今日のこれからの予定は少し早めの昼食を
「今夜の夕食は私がご馳走する。食べたいものがあれば何でもかまわない。どこでも連れて行ってやろう」
「…それなら『幸寿司』でお願いします。しばらく生ものを食べていませんので、お腹いっぱいお寿司が食べたいです」
「幸寿司」とは忍田の家から徒歩圏内にあるこぢんまりとした寿司屋で、実家に住んでいた頃は忍田によく連れて行ってもらった馴染みの店である。
「わかった。では午後6時に寮へ迎えに行くから待っていろ」
「はい」
夕食の約束をしてツグミと忍田はそれぞれ廊下を反対側へと歩いて行った。
◆◆◆
寮の自室に戻って来たツグミは風呂に湯を張る。
ボタンを押すだけで自動的に湯を張る風呂などというものは
そもそも庶民は風呂に入ることすらできず、数日に1回水浴びをするかタライに湯を入れて濡らした布で身体を拭くという程度。
バスタブに湯を張って入浴できるのは貴族階級の人間だけであるから、キオンのゼノンたちやガロプラのガトリンたちは庶民階級の家に風呂があることにカルチャーショックを受けたくらいだ。
水洗トイレのウォシュレットについては現代社会で生きる人間にとってなくてはならないものとなっている。
しかし
別に風呂の給湯システムやウォシュレットトイレがなければ生きていけないということはないが、トリオン兵を造って戦争をするよりはずっと
(ああ、気持ちいい…)
毎度のことだが
しかし目に見えない細菌やウィルスなどの存在を知らないから、それらの付着した手でそのままパンを掴んで食べて体内に細菌やウィルスを取り入れて病気になってしまうとか、傷口に触れて化膿させてしまうなどで病気になったり怪我を悪化させてしまうのは日常茶飯事である。
そういったことで命を落とす子供が多く、人口が増えないことがトリオン獲得のための戦争の一因となっていて、彼らの悲劇の多くが「無知」によるものなのだ。
家でのんびりしようとしても
(それもそうよね…。大規模侵攻から約1年になるけど、そのうち3分の1は
風呂から出ると忍田との約束どおりに夕方まで眠ることにしたツグミ。
しばらく使っていなかったために少し湿気ているものの羽毛布団はフカフカで温かい。
遠征艇の備品や
◆◆◆
忍田が寿司屋に予約しておいてくれたので、ツグミたちは6畳の座敷に通された。
内密の話をするとなれば個室でなければならず、ツグミはそれを承知でこの店を指定したのである。
店の主が忍田の中学校時代の同級生で、忍田以外のボーダー関係者も利用することがあってボーダーの良き理解者であるからこの店での
いつものように「おまかせ」で注文をした先付けが運ばれて来ると、さっそくふたりは話を始めた。
「早速だが城戸さんに提出した正規の報告書には書かれていない内容について教えてくれ。もちろん本部長ではない父親としての私にだけ話してほしい」
忍田の言い方は明らかにエウクラートンでの女王後継問題についての進展具合だ。
「特にこれといった話はありませんが、女王陛下の健康状態は回復の兆しを見せています。貧血症状も食生活を見直したことでもう不安はなさそうです。ですから今すぐに大きく動くことはありません。主治医も彼女の回復がめざましいもので驚いていました。
「ああ、もちろん女王の後継問題については話しておきたいことが山ほどあるからな。娘の人生を左右する重大事をエウクラートンの人間だけで決められては困る。…しかし彼らも人の親。おまえの幸せを蔑ろにしてまで国の維持を優先するとは思えない。だから不安はないが、私に心配をかけたくないからと隠し事はしないでくれよ」
「わかっています。わたしは20歳になるまでは忍田ツグミでいると約束しましたから、それまでは結婚もありえませんし、女王になることもありえません。そのことは女王陛下にもリベラート殿下にも言ってあります。だから女王陛下には健康の回復に努めてもらっているんです。わたしが20歳になる前に女王の役目が果たせなくなっても、わたしは自分を犠牲にするなんて絶対にないと断言しましたから、彼女も必死になって健康を取り戻そうとしているんですよ。あと3年は頑張ってもらわないといけませんからね」
「それならいいが…」
「わたしが世界で一番大好きな真史叔父さんを哀しませるようなことをするはずがありません。ジンさんのことが好きでも結婚を20歳まで我慢するのだってそれまでは真史叔父さんの娘でいたいからです。それに結婚しても娘である事実は変わりません。この言葉を信じてもらえないなら何を言っても効果はないと思うんですけど…」
そう言ってツグミは忍田の顔をじっと見る。
「おまえのことは信用している。…わかった。この件はリベラート殿下とお会いした時に3人で話そう」
「はい。いずれ女王陛下ともお会いしていただくつもりですが、三国同盟の件が無事に済んだらボーダーの代表として城戸司令にもお願いしようと考えています。エウクラートンがこちら側の世界に接近している間でないと無理でしょうから、その点は城戸司令と打ち合わせをしておいてください」
「ああ、わかった。…それから
「すると残りはわたしひとりですね」
「そうだ。それとキオンの3人にも起動実験には参加してもらおうと思っている。彼らの中に適合者がいたとしても
「相手を警戒させることにもなりますけどね。それに能力よりも元になった人間の素性の方が気になります。もしこちら側の世界の人間であるのなら、そして遺族がまだ存命なら
「できればミリアムさんみたいに語りかけてくれたら素性がわかるんですけどね。他の
「おまえとミリアムさんには祖母と孫娘という血のつながりがあるからな。とにかく明日にでもゼノン隊長とテオくん、そしておまえには本部基地で起動実験をやってもらいたい。リヌスくんが帰国したら彼にも頼むが、ひとまずおまえたちだけでやってほしい」
「了解です。…それにしても300人近くいる隊員でひとりも起動できないなんて、よほど人見知りの激しい
「
忍田は途中前言いかけて口を噤んだが、その様子を見ていてツグミは勝手に想像する。
(たぶん続きは『有吾さんが生き返れば』なんだろうな。でもそれはユーマくんを死なせてしまうことになるし、有吾さんはそんなことをしてまで生き返ることなんて望むはずがない。…それに
お互いに深刻な顔をして黙り込んでしまったので、ツグミは話題を変えた。
「ところでお願いしてあったレクスくんの就学の件はどうなってますか?」
「ん? ああ、それならおまえのシナリオどおりの設定にして手配をし、4月の新年度から小学4年生として編入できるよう進めている」
レクスが日本で暮らしていく上で必要なことはたくさんある。
そのひとつが就学で、彼の年齢なら小学校に通うのが当たり前であり、医師になりたいというなら必要不可欠であるため、彼の架空の設定をツグミが考えたあった。
国籍は例のごとく「カナダ」で、先天性の病気の治療のために来日し、治療は完了したもののずっと日本にいたために帰国せずに日本で暮らすことになったという設定で、両親が仕事の関係で帰国したためにボーダー関係者の知人の家で預かっていることになっている。
書類上の彼の保護者は忍田であるが「ボーダー関係者の知人」を保護者としたのはレクスのプライベートに深入りさせないためである。
レクスの友人が彼の家に遊びに行きたいと言っても「ボクの家はボーダーの人の家だから、普通の人は来ちゃいけないんだ」と言わせて断ることができるし、プライベートな話をしなくても「家であったことや話したことは学校で言っちゃいけないと禁じられている」ということにすればいい。
もっとも「外国人」「両親が帰国」「ボーダー関係者の家に預けられている」はすべて事実であり、
日常生活に関しては日本人の子供と同じレベルでできるようになっているし、勉強も素地はできていたので小学3年のレベルには達していて落ちこぼれる心配もない。
ただしサイドエフェクトの関係で周囲の人間の気持ちが視えてしまうという副作用が気がかりではあるが、アフトクラトルにいた時のようにあからさまな悪意の気持ちを向ける人間はいないだろうと楽観している。
レクス本人もツグミに影響されたらしく「他人の気持ちは変えられないけど、自分自身の気持ちはいくらでも変えることができる」と考えているので、あとは本人の頑張り次第だ。
「わたしが留守の間ずっとジンさんと玉狛支部のみんなにお任せしてしまったので気になっていました。明日からはまた ──」
ツグミがそう言いかけると忍田が制止した。
「待て。三国同盟の件が済むまでふたりにはそのまま玉狛支部で暮らしてもらうことになっている。何でもかんでも自分で抱え込もうとしてはダメだ。おまえは器用だがひとりの少年の人生を左右することにもなる重大事とボーダーの今後を変えることになる同盟締結の件を並行して行うとなれば相当な負担となる。せめて同盟締結が済むまでは…いいな?」
「はい、わかりました。レクスくんも玉狛支部にいた方が賑やかで楽しいでしょうし、勉強もゆりさんとレイジさんがいれば安心です。…そういえば麟児さんの様子はどうですか? 2月になるとB級ランク戦が始まりますし、また最下位からの出発ですからみんなで気合入れているんでしょうね」
昨年11月に麟児が正当な手段を踏んで入隊し、入隊日にB級昇格をしたことで新生玉狛第2が誕生していた。
隊長は修のままだが、ヒュースと遜色ない優秀な隊員を加えたことで早くも来期の注目No.1株となっている。
ヒュースと違って麟児は千佳の実の兄として入隊しているので、他の隊員からの妬みや疑いの目がないことは幸いである。
もっとも鳩原未来の事件を知っている二宮隊や風間隊のメンバーたちには彼が第一次
万が一麟児がボーダーに不利益となる存在となった場合、直ちに適切な
「二宮隊がA級昇格したことで玉狛第2も上位3位までに入ることも夢ではない。そうなれば彼らにも
「それは良い傾向ですね。彼はユーマくんと出会うまではC級だというのに仲間と切磋琢磨する気すらなくずっと停滞したままで、突然B級に昇格すると玉狛第1や本部のA級隊員に手助けをしてもらってようやくB級ランク戦で戦っていたというイメージでした。だからずっと
「ああ。太刀川が『ちょっとは使えるようになった』と言っていたからな。もっとも遠征に連れて行けるレベルではないから、彼には留守番組に入ってもらうが」
「戦闘になる
「そのとおりだ。…っと次の料理が運ばれて来たようだ」
良いタイミングでメインとなる特上握りが運ばれて来たものだから、ツグミと忍田はしばし料理を楽しむことにした。