ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
食事を終えたツグミは忍田に送ってもらって寮に戻るとすぐに迅の携帯電話にメッセージを入れた。
「寮に戻りました。明日一〇〇〇時に本部基地へ出頭するまでフリータイム。いつでも連絡待ってます」
すると1分もしないうちに返信が来る。
「今から行く」
携帯を握りしめてツグミからの連絡をずっと待っていた迅の姿が目に見えるようで、ツグミは微笑んだ。
(ジンさんたら…。でもすごく嬉しい)
ニヤニヤしながら昼間のうちにできなかった洗濯をするツグミ。
全自動洗濯機の中に約10日分の下着や衣類を放り込むとスイッチをONにする。
トリオン体でいる時間を増やすことで生身の状態の時間を減らし、それによって洗濯物を減らしたために20日間の半分で済んでいる。
遠征艇に洗濯機を載せることはできても水が貴重なために事実上洗濯は不可能なのだ。
したがってボーダーの遠征隊も都市部から離れた場所に
このインターバルタイムが遠征では重要で、参加隊員の休養も兼ねているために短縮することもできない。
そのために遠征を行う場合は目的地の軌道を正確に把握して航行計画を立てなければならず、第1回の市民救出遠征は調査隊が訪れていて現地の案内人もいるヒエムスと決まっている。
まだ遠征決行の時期や誰が参加するのかなど具体的に決まっていないが、少なくとも3月までには行いたいというのが上層部の希望であった。
なにしろ修が記者会見の場で遠征計画を暴露してしまったために、城戸が第一次
そろそろ次の話をしなければスポンサーと市民に対してボーダーの「本気度」が伝わらないだろうから、上層部が一刻も早く第1回の市民救出遠征を成功させたいと思うのは無理もない。
ここでボーダーがキオンを協力者として遠征を行うことを
ツグミが同盟締結に必死になるのはそれが理由である。
(ヒエムスでの救出計画が成功すればそれが次の成功へのステップになる。逆に失敗すればそれでケチが付いて2回目以降の計画が上手くいかないなんてことも多いから慎重に事を進めなければいけない。この遠征では目的地が比較的近いからチカちゃんを機関員として連れて行く必要はなくて、玉狛第2はB級ランク戦に専念できるという点では良かったと思う。目的地が遠くなるとどうしてもチカちゃんのトリオン頼りになるから、いくら麟児さんがいてもオサムくんが一緒に行きたがる。ユーマくんの身体のことがあるから
そんなことを考えてながらランドリールームを出ると、玄関のドアを開ける音が聞こえた。
玄関はオートロック式になっていて、登録されたトリガーをかざすことにより開閉するシステムであるから、ドアを開けられる人間は限られている。
ゼノンとテオはすでに自分の部屋で休んでいるし、リヌスはまだエウクラートンにいる。
そうなると該当者は迅だけであるから、ドアを開けた人物は迅以外にありえない。
ツグミは思わず駆け出してしまい、玄関ホールにいた迅が彼女の姿が見付けると声をかけた。
「おかえり、ツグミ」
「ただいま、ジンさん」
ツグミはそのまま走って嬉しさのあまり迅に抱きついてしまう。
「少し痩せたみたいだな。
「そんなことはないです。真史叔父さんもそうだけど、みんな心配しすぎです。無理をして倒れるようなバカなことは二度としませんって約束したじゃないですか」
「それはそうだが…ほら、ここなんてこんなに細くなってるぞ」
迅はそう言ってツグミのウエストに手を回す。
「まあ、多少は変化もしますよ。3週間近く
「う~ん、たしかにここはたっぷり肉がついているもんな」
迅の手はさらに下へ移動して彼女の尻を撫でていた。
「フフッ、くすぐったいです。だけどたっぷり肉がついているなんて失礼な言い方ですね。無断でお尻を触ったことよりもその暴言が許せません」
「じゃあ、こうして尻を触ることはOKなんだな?」
「わたしのことを大人だと認めてくれたということで許します。…ひとまずわたしの部屋に行ってゆっくりと話をしましょう」
ツグミは迅の腕に自分の腕を絡め、並んで自室へと歩いて行った。
◆◆◆
ツグミはキオン、エウクラートン、そしてアフトクラトルであったことを城戸に提出した報告書並みに詳しく話した。
彼女がキオンではサーヴァと模擬戦をし、エウクラートンでは次期女王候補という立場を利用して議員たちを
「相変わらず
「だってゆっくりと説得している時間はないんですもの。強者が弱者を支配するという
「…まあ、結果オーライだし、おまえに怪我がなかったからいい、か」
「トリオン体で戦うんだから怪我なんかしませんよ。サーヴァさんとの模擬戦はガチ対決だったので、すごく楽しかったです」
迅は呆れたような顔で、やれやれと言いたげな感じで頭を掻いた。
「しかし単身でハイレインの城に乗り込むなんて無謀だぞ」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず…ですよ。それにハイレインはバカではなく彼は彼なりの手段で
「これも結果オーライであったからいいが、もし捕らえられてしまっていたらどうするつもりだ?」
「その時にはわたしの服に付けたビーコンで位置を確定したゼノン隊長が
そう言ってツグミは自分の頭を指さした。
それは彼女の思い上がりではなく、実際にガロプラのガトリンと取引をしてハイレインを欺いたり、ボーダー本部基地内の情報収集のために潜入させた超小型ラッドに偽の情報を持って帰らせたり、ディルクと内通して協力関係を結ぶなどハイレインの知らないところで彼女は
それまでに結果を出しているからこそ、城戸たちが彼女の行動を認めているのだし、一般隊員にはありえない
「最近のジンさんは確定した未来しか視えなくなっているから不安なのはわかります。もし悪い未来が視えてしまったら、それを回避することはできないってことになりますからね。でもわたしは自分にとって都合の良い未来を自力で引き寄せるし、悪い未来を力技で捻じ曲げる覚悟でいるのでわたしに関する未来は不確定要素が多すぎて視えなくなっているんですよ。すべての可能性のある未来が視えてしまったら、ジンさんの頭はパンクしちゃいます。だから自己防衛ってカンジで確定した未来しか視えなくなったのだとわたしは思います。そういうことですから、わたしのことを信じて待っていてくださいな」
そう言われてしまうと迅には言い返す言葉がない。
「それからお礼が遅くなりましたが、留守中のレクスくんのこと、どうもありがとうございました」
ツグミが正座をしてお辞儀をするものだから、迅は戸惑ってしまった。
「いや、玉狛ではゆりさんとレイジさんがいろいろやってくれたから、礼を言われるようなことを俺は何もしていないんだ。他にも宇佐美や陽太郎が遊び相手になってくれたし、メガネくんたちも暇があれば勉強をみてくれた。レクスも掃除や料理の手伝いをするし、いい子にしていたからもうしばらく玉狛で預かることになっている。忍田さんから聞いているよな?」
「ええ。同盟締結の件が済むまではわたしもそっちに専念しなければならないので、レクスくんのお世話は大変だろうって」
「今月いっぱいは俺も玉狛で過ごすから、しばらくは寂しいだろうが我慢してくれ」
「わかっています。ゼノン隊長とテオくんも三門市での暮らしに馴染んでいますからわたしが同行しなくても普通にスーパーで買い物ができますし、調理だって慣れたもんです。わたしは自分のペースで行動させてもらえるので助かってます」
「俺の手伝いが必要ならいつでも遠慮なく言えよ。城戸さんの指示で俺は自己判断で行動できるようになっているから」
「じゃあ、唐沢部長に同行する時以外はジンさんに運転手をお願いします。
前回はランバネインひとりだけであったから彼の世話はボーダー側の人間だけでできたが、今回はいくらゼノン隊の3人が手伝ってくれるとしても人手不足だ。
だからと言って他の隊員や職員を動員することもできず、ホテルのスタッフにお願いするしかない。
もちろん
「ツグミ、おまえって最近はずっと
「アフト遠征からずっとなんで7ヶ月くらいじゃないかしら。S級になってからは市内巡回の当番から外されてるし、
「それはそうだが、腕を鈍らせるなよ。…あ、キオンの伝説のトリガー使いとの模擬戦が引き分けだったっけな」
「ええ、心配ご無用です。
ツグミは何度も
それが紛争地であることは特に珍しいことではなく、戦場から離れた場所に艇を停めて火の粉が降りかからないようにしていたのだが、一度だけ戦闘に巻き込まれてしまった。
軍を脱走した兵士が彼女たちの前に現れ、兵士を追いかけて来た小隊と遭遇。
敵軍の工作員と間違われてしまい、おまけにキオンの艇であったものだからツグミとゼノン隊の3人は現地のトリガー使い十数人と交戦することになった。
幸い全員がノーマルトリガーであったから大事には至らず、相手を全員戦闘不能状態にしてから事情を説明して敵ではないことをわかったもらったのだった。
メノエイデスでツグミがウェルスと出会った時も同じように敵側の人間だと勘違いされたことが原因で、そういったトラブルは特別なことではないためにボーダーは遠征 ──
相手が誰であっても戦闘で負けてしまえばそこで捕虜となり、計画が台無しになるだけでなく三門市に帰還できなくなるのだから
したがってツグミは稽古を欠かさず、時間とトリオンに余裕があればリヌスやテオを相手に模擬戦も行っていた。
ちなみにツグミとゼノン隊が戦闘に巻き込まれた事件は城戸に提出された報告書には記載されていない。
正直に報告すれば城戸や忍田が心配するからである。
「とにかくここまでは計画どおりに進んでいるので、最後までこの調子でいきたいと思ってます。ジンさんには
頭を深々と下げるツグミに迅が声をかける。
「言われるまでもないさ。おまえがやろうとしていること手伝うのは当然だろ? そしてそれが俺の幸せな未来に続くとなればなおさらだ。ただ、俺はあんまり頭が良くないからおまえの考えや何をやっているのかを説明してもらわないと理解できないところがある。だから何でも話してくれ。俺たちの間に遠慮なんていらないからな」
「嬉しい…」
「……!」
目を潤ませたツグミが顔を上げて愛おしげに見つめるものだから、迅は理性のタガが外れそうになる。
しかしここで前後の見境なく感情のままに突っ走ってしまえば最悪の未来が確定してしまうことになると瞬時に理解し、かろうじて抱きしめるだけに留めた。
「フッ…あんまり男を惑わすような顔をするなよ。おまえは無意識なんだろうが、そんな顔をされたら思わず押し倒したくなるじゃないか」
「押し倒すって…。でも気を付けます。真史叔父さんを哀しませたくないですからね。いくらジンさんのことが世界で一番大好きな男性であっても、真史叔父さんを超えることは絶対にできないんですから、ここはあなたに我慢してもらうしかありません。でもあと3年、20歳までという約束ですからあっという間ですよ」
「たしかにあっという間だろうな…。それに
「そこまではできなくても
ツグミが言うように
どこかで必ず戦争 ── 国対国の戦いが起きていて、古代から現代へと文明は発達して、発達と共に簡単に大勢の人間を殺せる武器や兵器が次々に開発されていく。
現代ではスイッチひとつで地球上の人間を何十回も滅亡させることができるほどたくさんの核兵器が存在し、それを外交の切り札として使用している国はいくつもある。
だから
(
ツグミは迅の腕の中で思う。
(仕方がない…って言葉は嫌い。それって諦めの言葉にしか聞こえないから。嫌いだけど日常の中には溢れている。それだけ世の中には何とかする方法や手段がないくてどうにもならないことや、救いようがないことがいっぱいあるってこと。でも本当にそうなのかな…? 自分ひとりではダメでも誰かと一緒ならできるかもしれないのに。今はダメでも将来は叶うかもしれないのに…)
ツグミは理想主義者であるが現実主義者でもある。
「理想主義」と「現実主義」という言葉は対義語として扱われているが、両立しないということはない。
「理想主義」という言葉は「それは理想論にすぎない」というように否定的な意味で使われることがあり、理想を言うだけで実行が伴わなければ
しかし「理想主義」の本来の意味は理想を実現することを諦めないことで、理想や目標を実現するために具体的な努力をし続ける態度のことを言う。
そのためにはまず現実を直視しなければいけない。
一方「現実主義」という言葉には「現実はこうだから仕方がない」と現状を諦めているように思える部分があるが、現実を良く分析して理想を実現するための具体的方策を考えたり実行していく態度のことをいうのが本来の意味である。
だから彼女が理想主義者であり、かつ現実主義者であることに矛盾はないのだ。
100年前には誰もが不可能だと考えていたことが現代では実現していることなどいくらでもある。
ツグミが20歳になるまで約3年。
その間に彼女の願いがすべて叶うはずはないのだが、少なくとも第一次
有吾と織羽が願い、その「夢」に城戸や最上たちが賛同して創設されたボーダーは「
そのせいで不利な条件を突き付けられても承諾するしかなかった
そして隊員の半数を失う悲劇に見舞われ、残された大人たちは若くして散っていった子供たちへの罪の意識に苛まれた。
同時に残された子供たちに対して、彼らに任せることしかできない自分たちの不甲斐なさを悔いたのだった。
過ぎ去ってしまった過去を振り返って「あの時もしこうしていたら?」などと考えるのは無意味だが、もしツグミがもう少し成長していて城戸たちに意見できて自ら行動できる立場であったなら状況は今と大きく変わっていたかもしれない。
相手が
そして
そうすれば一方的にボーダー側が損をする取引にはならなかっただろう。
今、ツグミは自身の努力の積み重ねによって自分の願いを叶えるための力を手に入れ、現実を直視しながらも理想を実現するために奔走している。
彼女の行動に賛同して協力する者は多いが彼女を否定する者も少なからずいる。
それは自分が持っていない行動力や諦めないという根性を持っている彼女に憧れる者がいて、同時に彼女の持つ
これからの彼女の「敵」は
それは
保守的な人間は現状に満足していないとしてもこれ以上悪くなるよりはマシと考えて停滞を生み出す原因となり、
これまで誰もが「現実はこうだから仕方がない」と諦めて「これ以上悪くなるよりはマシ」と現状維持に留めていたことに対し、「それは理想論にすぎない」と否定されても「現実を良く分析して理想を実現するための具体的方策を考えたり実行していく」ことを自らの正義とした彼女の「戦い」なのである。
(こうしてジンさんの温もりを感じていると不安は全然感じない。この人さえいてくれたら怖いものなんて何ひとつないと思わせてくれる安心感があって、この人と一緒に幸せな人生を送れるんだったら今はどんなに大変でも頑張れるよ。…ありがとう、ジンさん)
迅の手が自分のお尻に伸びていても不快に感じず、それすら幸せだと思うツグミであった。