忍田から指定された時間に合わせてツグミとゼノンとテオはボーダー本部基地の対近界民戦闘用訓練室へとやって来た。
「夜の雫」の起動実験のためであるが、現状ではまだ誰ひとりとして起動できた者はいない。
誰が所有するかどうかではなく、ひとまず夜の雫の能力を知りたいということで適合者を探しており、ツグミだけでなくゼノンとテオにも参加してもらうことになったのだ。
黒トリガーに関してはトリガー使いが自らの全トリオンと命を注ぎ込むというその製造過程自体が特殊であり、能力は元になった人間の人格やその時の状況などに大きく影響するらしいというところまではわかっているものの、それ以上の詳しい情報はない。
キオンでは黒トリガーから核を抜き出してノーマルトリガーと融合させるというハイブリッドトリガーを作り上げた事例はあるものの、それもリヌスの持つ武器ひとつだけである。
おまけにミリアムの黒トリガーに関してだが、ミリアムの人格や記憶がトリガーに残っていて適合者のツグミと会話ができるという特殊な例もあり、ますます黒トリガーの謎は深まっている。
もし黒トリガーの元になった人間が適合者と会話することができるのであれば、風刃になった最上が息子のように可愛がっていた迅に呼びかけてこないのはおかしい。
血のつながりが影響するというのなら祖母と孫娘という関係のミリアムとツグミが会話できるが、最上と迅には血のつながりがないために不可能だという理由で説明はつくがまだ解明されていない。
そしてミリアムの話によれば黒トリガーには元になった人間の魂が宿っていて、その人物が適合者を選ぶということだから、すべては元になった人物の気持ち次第ということになるのかもしれない。
仮にそうだとすれなこれまで誰にも起動できなかったということは、夜の雫の元になった人物はミリアムと同じように二度と使用されたくはないと考えているのではないかと推測される。
ともかく起動できるかどうか試してみることが重要であったため、ゼノンやテオにも協力してもらうことになった。
夜の雫を武器として使用するかどうかは二の次で、黒トリガーの謎を解明する一歩となればと期待されているのだ。
忍田がハガキサイズの箱を持って対近界民戦闘用訓練室へ入って来た。
通常、本部管理の黒トリガーは総司令執務室の金庫の中に厳重に保管されていて、必要な時のみに城戸の許可を得て金庫が開けられる。
夜の雫も同様で、この小さな箱の中に収められているようだ。
「これから夜の雫の起動実験を行ってもらう」
忍田はそう言って箱を開けると、中から認識票の形をした武器を取り出した。
「まずはツグミにやってもらう。それでダメならゼノン隊長とテオくんにもお願いすることになる」
ツグミは忍田から夜の雫を受け取ると、鎖を右手に巻き付けてタグの部分を握ると目を閉じた。
「トリガー、起動」
ツグミは心の中で念じながら、その気持ちを夜の雫に伝えるかのように声に出した。
しかし夜の雫は応えてくれなかった。
「やはり無理か…」
忍田は残念そうな顔でそう呟く。
ただツグミは何かに気付いたようで、首を傾げながらゼノンに夜の雫を手渡す。
そしてゼノンが起動しようとするがやはり夜の雫は無反応であり、テオも起動できずに終わってしまった。
テオが夜の雫を忍田に返却し、これで起動実験は終了となるのだが、ツグミは忍田に自分が感じたこととそれを元にした「仮説」を話すことにした。
「忍田本部長、これはわたしの思い込みかもしれないんですが可能性のひとつとして話を聞いてもらえませんか?」
「ん? それはかまわないが、何か気になることでもあるのか?」
「はい。わたしは風刃とミリアムの黒トリガーというふたつの黒トリガーとボーダーのノーマルトリガーの3種類の武器を起動することができます。他の人はどうかわかりませんが、わたしはこれから戦うための武器を起動するんだという覚悟を対象のトリガーに込めるカンジで起動するんですが、その時にそれぞれ何というか…言葉にするのは難しいんですけど、その武器から何か感じるものがあるんです」
「武器から何かを感じるのか?」
「そうです。ボーダーのノーマルトリガーは特に強い何かを感じるというのではなく、何となく自分の込めた気合の反動といったもので、強く念を込めるとその反動も強く、そうでないと反動が弱い…というものです。でも黒トリガーとなるとこれがだいぶ違います。風刃の時には最上さんの『心配するな。俺に任せろ』という励ましのイメージが伝わってきて、ミリアムの黒トリガーの時は『もう人を死なせるようなことはしたくない』というミリアムさんの哀しみを感じるんです」
「……」
「そしてこの夜の雫の場合はわたしが適合者ではないからなのかもしれないですが、元になった人の気配すら感じられませんでした。まるで死んでいる人に声をかけても反応がないというような…。そこでわたしは仮説を立ててみました」
「仮説?」
「はい。わたしたちは武器を起動して戦う時に、自分のトリオン器官で生み出したトリオンを使用して戦闘体を構成し、同時にそのトリオンをエネルギーとして戦います。ですからトリオン能力が高い人は低い人よりもトリガー使いとしての基本的な能力が高いといえるわけです。そしてトリオンが一定のレベル以下になると戦闘体を維持できなくなって換装が解けてしまい、ボーダーのノーマルトリガーの場合は強制的に緊急脱出して生身の身体を安全な場所へと転送することになります。これもトリオン能力の高い人はそれだけトリオンの量が多いということで、低い人よりも長い時間戦うことが可能になります。つまり仮にトリオン能力が『5』の人は自分の身体が生み出す『5』の分だけ、『10』の人は『10』の分だけ戦うことができるということになりますが、これが黒トリガーだと事情が変わります」
ツグミは忍田だけでなくゼノンたちにも理解してもらえるように自分の仮説を説明した。
同じ人間でもノーマルトリガーを使用する場合と黒トリガーを使用する場合では基本となるトリオン能力の値が異なることから、黒トリガーにはトリオン能力を底上げする力があると言うのだ。
具体的な例を挙げると迅はノーマルトリガーを使用した場合のトリオン能力が「7」であっても風刃を使用する場合にはそれが「37」となる。
これは他の隊員の場合は調べていないので不明だが、少なくとも迅はトリオン能力が5倍以上になっていることが数値で証明されている。
他の黒トリガーでもノーマルトリガー使用時よりもトリオン能力が底上げされているのはまず間違いなく、その能力の特殊性はもちろんのこと使用者のトリオン能力がアップされるために黒トリガーが戦局を大きく変えることにもなるのだ。
「ですがみなさんは『エネルギー保存の法則』というものをご存知だと思います。これはエネルギーがある形態から他の形態へ変換する前後で、エネルギーの総量は常に一定不変であるという法則のことです。たとえば高所にある物体は落下によって位置エネルギー減少しますが、運動エネルギーを得ることになり、その和は常に一定となります。そうなると黒トリガーを使用する場合、使用者が生み出すの本来のトリオンの量以上のトリオンが計測されますが、その分のトリオンはどこからやって来たのでしょうか? 普通に考えれば黒トリガーから供給されているということになります。黒トリガー自体が元の人間の全トリオンと命を注がれて作り上げられたものですから、そこから生み出されたものだと考えるのが妥当です。そしてそうなると推測できることがあります」
ツグミは黒トリガー内部にはトリオンを供給する機能が内蔵されていて、使用者のトリオン能力を底上げしていると言う。
遊真のトリオン体に関してレプリカが「黒トリガーからトリオンが供給されている」と発言しており、その言葉から彼女の説の一部は裏付けられる。
さらに黒トリガー起動時にはノーマルトリガーを起動する時と比べて計測されるトリオンが桁違いに増えている事実に対し、単純に本人のトリオンだけでは起動するための出力が足りずに黒トリガーからトリオンを供給してもらわなければならないから、ノーマルトリガーを起動した時と比べて計測されるトリオン能力の数値が大幅に増えているのではないかとも言っている。
しかし黒トリガーには外部からエネルギーを得る機能はなく、いずれトリオンは枯渇することになるはずである。
それは母トリガーと仕組みは同じだが、母トリガーの場合は新たな「神」を融合させることでエネルギー供給を受ける点が大きく異なる。
そして黒トリガーは内蔵されたトリオンが尽きたとなれば起動することもできなくなるはずで、彼女はそれを「黒トリガーの死」と表現した。
「黒トリガーが死んでしまったとなれば、どんなにトリオン能力が高い人間でも起動することができず、適合者はいない…ということにならないでしょうか? まだ黒トリガーとしての命を永らえている風刃やミリアムの黒トリガーからは最上さんやミリアムさんの気配を感じ、すでに死んでしまった夜の雫からは何も感じない。夜の雫は約30年前に最後の適合者が亡くなって以来ずっと沈黙を続けていますが、いつ作られたのか、どれだけ多くの戦場で使用されたのかは誰にもわかりません。もしこの仮説が真実であったなら、今後夜の雫を起動できる者は現れないでしょう」
忍田とゼノン、そしてテオは黙ってツグミの仮説に聞き入っていた。
彼女の言い分には確たる根拠はなく、黒トリガーを起動した時の感覚は本人の思い込みによるものだが、だからといって否定する理由も見付からない。
「エネルギー保存の法則」に沿った考え方をすれば外部からトリオンを得る仕組みがない以上は黒トリガーに内蔵されたトリオンを使用していることは間違いなく、「無から有は生まれない」のだから内蔵されたトリオンを使い切ってしまえば黒トリガーは起動しないのは当然だという理屈には頷けるものがある。
「ツグミ、今の説明を文書にして城戸さんに提出してくれ。私は夜の雫の適合者がいなかったことを報告し、返却をするだけにしておく。その時におまえの仮説について耳に入れておく。たぶん詳しい話を聞きたいと呼び出しがあるだろう」
忍田にそう言われ、ツグミは頷いた。
「了解しました」
「…それからゼノン隊長、テオくん、ご苦労だった。そして無駄足になってしまって申し訳ない」
忍田が申し訳なさそうな顔で言うと、ゼノンはそんなことはないと言わんばかりに首を横に振った。
「適合者であろうとなかろうと、俺たちはかまわない。まあ、ボーダーの役に立てなかったのは残念だが、ツグミの面白い仮説を聞かせてもらったからな。それで起動実験に付き合った甲斐はあったというもんだ。なあ、テオ?」
「はい。オレたちは上から与えられた武器を使って戦うだけで、戦って勝つこと以外は何も考えない。黒トリガーになった元の人間のことなんて想像もしたことないから、ツグミみたいに深く考えることもこれまで一度もなかった。だけど黒トリガーになった奴にもそれまでの人生があって、家族とか友人とかいたんだろうなと思うと少し胸が苦しくなってくる。戦争さえなければこの夜の雫になった奴だってもっと長生きできただろうし、家族と美味いもん食って楽しく暮らせたはずだ。逆に言えば、戦争が続く世界のままなら次はオレが黒トリガーになるかもしれない。そう思うとツグミがやろうとしていることは玄界のためだけじゃなくて、オレたちの住む近界にとってこそ必要なんだって思えてくる。だからシノダ本部長も気にしないでください」
「そう言ってくれるとありがたい。そしてツグミのために今後も協力してやってほしい」
「もちろんです。だってオレたちを助けようと危険を承知でキオンまで来てくれた大事な友人だから」
屈託のない笑顔で答えるテオを見ていたツグミの顔に自然と笑みが浮かんだ。
(こうしてわたしのことを信じて一緒に歩いてくれる人がいると、自分のやってきたことが正しいんだって自信が持てるようになる。…昔、失うことが怖いから何も持たなければいいと思ったことがある。だけど失うことを恐れるくらいなら失わないように自分が強くなればいいって覚悟を決めて、そして今のわたしがある。今でも失うことは怖いけど、大切なものを得た時の嬉しさには敵わない。今もテオくんの言葉を聞いてすごく嬉しいもの)
現在の近界においてはどんな武器よりも信じられる仲間こそが強力な武器となるとツグミは考えていて、これまでの行動が彼女の信念を証明してきた。
アフトクラトル遠征ではゼノンたちキオンの人間だけでなく、アフトクラトルのヒュースやディルクを味方にしたことでボーダ側は誰ひとりとして負傷することなく無事にC級隊員を救出して帰国できた。
仮にこの段階でボーダーに複数の黒トリガーがあってハイレイン隊とアウェイで戦うだけの充分な戦力を持っていたとしよう。
そうなれば本格的な戦闘にならないように裏工作をする必要などなく、全面戦争に突入していた可能性がある。
いくら戦力強化したところで緊急脱出をすれば一発で遠征艇の場所がバレてしまうという状況においての戦闘は非常に危険であり、緊急脱出システムを外しての戦闘となれば負傷者だけでなく死者が出たかもしれない。
物理的な戦力が充分とはいえない状況であったからこそ、戦闘を避けるために人的な戦力 ── ボーダーの味方となる人間を得ることによって水面下での工作を進めるという一見遠回りだが確実な方法を選んだのだった。
そう考えると彼女が近界民の協力者を得て、C級隊員を遠征艇まで逃がすための時間稼ぎという戦闘を最小限に抑えたことで負傷者なしにできたといえるのだ。
城戸や上層部メンバーも彼女の成果を認めており、近界民を徹底的に排除しようとしていた城戸ですら彼らの存在を必要とするようになっていった。
もっとも彼が本心から近界民を仲間として受け入れているのか、それとも市民救出という大規模プロジェクトを成功させるために利用しているだけなのかは本人にしかわからないのだが、それでも近界民を憎む気持ちが和らいできているからこそだと思える。
以前の彼であったら自分のお膝元である本部基地内を近界民が歩いているなど絶対に許せるものではなかったはずなのだから。
城戸がずっと抱えている顔と心の傷が少しでも癒えたのであればいいとツグミは思うのだが、本当の笑顔を取り戻すにはまだ時間がかかることも承知している。
(旧ボーダーのメンバーは多かれ少なかれ心と身体に傷を抱えている。その中でも城戸さんの傷は大きいし深い。それに立場上あの人が昔みたいに朗らかな笑顔を見せる日はまだずっと先になるだろう。わたしにとってあの人は家族…父親でもあるんだから一日でも早く自分で自分にかけた呪縛を解くことができるよう心から祈ってる)
◆◆◆
ツグミは自分の隊室へ行くと城戸に提出する報告書を書き始めた。
ボーダーのノーマルトリガー、風刃、ミリアムの黒トリガー、そして夜の雫の4つの武器を起動しようとする際の「感覚」の違いを説明し、それを根拠にして黒トリガーには「寿命」があるのではないかという仮説を立てている。
それは忍田たちの説明したものと同じ内容なのだが、報告書には続きがあった。
遊真の持つ「有吾の黒トリガー(仮称)」についてだが、遊真の仮の肉体に黒トリガーからトリオンが送られていて、仮にこの仮説が正しかった場合は戦闘で黒トリガーとして使用すれば彼の寿命が縮むことになってしまうというのだ。
黒トリガーという内蔵電池のエネルギーを生命維持のみに使用したとしても限界があり、瀕死の状態の生身の身体のこともあるから遊真の寿命を無駄に減らさないようにするためには武器としての使用を止めさせるしかない。
念のために彼が黒トリガーを使用するような戦闘を回避する更なる努力が必要だと書いて締めくくった。
(今のところユーマくんが黒トリガーを使ったのは去年の大規模侵攻の時だけ。それ以降はボーダーのノーマルトリガーだけだからそれほど心配をしなくても大丈夫…よね。わたしの仮説が外れならいいんだけど、当たりだった場合には人ひとりの命に関わってくることになる。…本人には無理だから、レプリカにちょっと相談してみようかな)
ツグミは携帯電話を取り出すと遊真に電話をかける。
数回のコール音に続いて遊真の怪訝そうな声がした。
「きりしな先輩、久しぶり。何か用?」
「うん。実はレプリカに相談したいことがあるんだけど、ユーマくんの今日の予定がどうかなって」
「今日は午後に本部基地に行ってよーすけ先輩たちとランク戦をする予定なんだけど」
「じゃあ、あなたがランク戦をしている間にレプリカと話をするのはかまわないよね?」
「いいけど、相談したいことって?」
「黒トリガーのこと。レプリカが知っていることを教えてもらって、それを参考にしたいことがあるのよ」
「…わかった」
「ありがとう。わたしは本部基地の隊室で待っているから、お願いね」
電話を切ったツグミはため息をつく。
「はぁ…。電話なら嘘はバレないけど、直接話したらバレちゃうのよね。でも黒トリガーのことで知りたいことがあるのは本当だし、事実と異なることと嘘とは別物ってことでOK…かな?」
誰もいない隊室で呟くツグミ。
そこに意外な人物が突然現れた。