ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミが指示した場所は彼女の知り合いが店長をやっている「猫カフェ」であった。
この店は第一次
住人が手放してしまった普通の民家を猫たちが暮らしやすいようにリフォームし、1階が約20畳の広さの「猫の居室」で、2階がスタッフの事務所と猫用の医務室と寝室となっている。
客はその猫の居室にお邪魔して猫が寛いでいる姿を観察したり、時には猫に
原則として保護猫を家に迎えたいという人間に限って入店可能なのだが、ツグミはこの店のオープン時から毎月寄付をしている会員なので入店は自由であり、同伴する人間も3人までならOKということになっている。
第一次
「保護猫カフェ・
「ここで靴を脱いでスリッパに履き替えてください。わたしは店長を呼びに行ってきます」
まるで自分の家であるかのように、ツグミはスリッパに履き替えると玄関脇の階段を上って2階の事務所へと向かう。
その様子を呆然と見送った男たちが言われたとおりにスリッパに履き替えて玄関ホールで待っていると、30代前半くらいと思われる白衣姿の男性がツグミと一緒に階段を下りてきた。
「みなさん、ご紹介します。こちらがこの猫カフェの店長の徳島さんです」
ツグミが青年を紹介すると、少し驚いたような顔で挨拶をした。
「ようこそいらっしゃいませ。当保護猫カフェ・
一行は徳島に案内されて猫たちの居室へと入る。
そこは8畳の和室と約12畳の広さのフローリングのダイニングキッチンを二間続きにした広い空間で、畳敷きの部屋には縁側があって暖かな日差しが差し込んでいる。
それだけでは普通の民家と変わらないのだが、インテリアが
和室の壁には古い階段箪笥が置かれ、フローリングの部屋には天井まで届くキャットタワーが2台置かれている。
さらにキャットウォークが張り巡らされていて、人間用のソファや椅子は置いてあるものの全部が十数匹の猫たちによって占領されていた。
「では、今からこの施設について説明をします…と言いたいところですが、ツグミくんの言うとおりにしていれば問題ありません。わからないことは彼女に訊いてください。僕は用事があるので失礼します」
徳島はそう言うと元の持ち場へと戻って行った。
「徳島さんは昨日から具合の良くない仔猫の看病をしているんです。彼は獣医で、週3日はここでボランティア活動をしています。じゃあ、ここでのルールを説明しますね」
ツグミが「眠っている猫を起こさない」とか「追い掛け回さない」「猫が近寄って来るのをおとなしく待つ」といった基本ルールを説明した。
「他に何か質問はありますか?」
するとハイレインがツグミに訊いた。
「猫カフェというものについてはおよそわかったが、なぜ我々をここに連れて来ようと考えたのだ?」
「それは簡単です。陛下とヴィザさんのどちらも猫が大好きだからです」
「どうして猫好きだと思うんだ?」
「
伝聞ということにしたのは彼女がゼノンたちと潜入調査や破壊工作を行ったことを知られたくないからだ。
ハイレインの猫好きのことやヴィザが年老いた猫を亡くして哀しんでいたという話はランバネインが
他愛のない会話の中にもいろいろな情報が含まれていて、それがいつどこで役に立つのかはその時はまだわからない。
だからこそ頭の中の引き出しにすべての情報を整然と納めているのだ。
「小動物を愛でるのは子供かヴィザ翁のような老人だけで、おまけに国王たる俺が猫好きだなどと口が裂けても言えない。…しかし俺は猫が大好きだ。可愛いものは可愛い。猫だけでなく犬も小鳥も愛らしく、その姿を見ているだけで心が癒される」
ハイレインがふと穏やかな表情になり、縁側に置かれている座布団の上で眠っている黒猫に視線を向けた。
「あそこにいる猫は俺が可愛がっていたニゲルに似ている。その年の初雪の降った日の夜に屋敷の庭に迷い込んできた仔猫に俺が名を付けた。もちろん屋敷の倉庫や厨房に出るネズミを獲ってもらうために飼うことにしたのだが、俺にとってはもうひとりの弟のような存在だった」
ハイレインの視線の先にいる黒猫は目が覚めたようで、大きく背伸びをすると座り直してツグミたちの方を金色の目で見つめる。
「ニゲルもあんな金色の目をしていた。ニゲルも俺に懐いていて、冬の寒い夜などは俺のベッドに潜り込んできて一緒に寝たものだ。しかし周りの大人たちは次期当主が庶民の子供と同じように猫と戯れているなど許されないと言って引き離そうとした。だから俺は父上や家庭教師の目を盗んではニゲルと遊んだよ。…ところが突然ニゲルはいなくなってしまった。たぶん父上が怒って捨ててしまったか、どこかの家に譲り渡してしまったのだろう。俺は生来小さくて頼りない生き物を愛おしいと思う気持ちを持っていた。それは猫に限らず犬でも鳥でも何でもかまわない。だが俺が一番愛していたニゲルがあんな目に遭ったのは俺のせいで、俺が可愛がらなければニゲルは本来の役目…屋敷のネズミを獲るという仕事をしながらずっと一緒に暮らせたはずなのだ。それ以来、俺は生き物に触れることをやめた。俺にとって家族は一番大切なものだったから、もう二度と大切なものを失いたくはなかったのだ」
「……」
「大切なものを失いたくないのなら、強い力を持たなくてはいけない。欲しいものがあるのなら、やはり強い力が必要だ。子供ながらに俺はそう理解した。今の俺はアフトクラトルの国王だ。ならば国内のことであれば俺が望んだことは何でもできる。俺の邪魔をする者たちへ仕置きをし、もう歯向かう連中はいない。アフト国内に限って言えば、もう俺はどんなものでも手に入るし、失うようなことはない。だが
「……」
「…っと、余計な話をしてしまったな。つまりおまえが言うように俺は猫が大好きで、こうしてたくさんの猫に囲まれてぼんやりしているのも悪くはないということ。おまえがここに連れて来てくれたことに感謝をする」
ハイレインは微笑みながらそう言った。
「ところであの黒猫の名前は何というのだ?」
「あの子は『スミ』という1歳半くらいの女の子です。約1年前に徳島さんが拾ってきた時はボロボロだったんですけど、今ではあんなにツヤツヤの綺麗な美人さんになりました。スミというのは黒色の別名の墨色と、保護したばかりの時には部屋のすみっこで小さくなっていることが多かったのでそう名付けられました」
「スミ…か」
スミという黒猫を抱っこしたそうに見つめているハイレイン。
しかしここのルールではすべてが猫の意思によるもので、人間の側から近寄ってはいけないことになっている。
だからスミの気が乗らなければいくら待っても触れることすらできない。
「わかりました。では、ちょっと待っていてください」
ツグミはそう言って立ち上がるとキャットタワーの一番高い場所にあるベッドで香箱座りしている三毛猫の下まで歩いて行った。
「こんにちは、ミケコ
まるで人間と挨拶をするように話しかけるツグミ。
そんな彼女にミケコさんは「にゃあ」と返事をした。
「今日はわたしの友人を連れて来ました。おわかりのように全員猫好きで危険はありませんので、どうかみんなにそう言ってもらえませんか?」
ツグミが頼むとミケコさんはよっこらしょとばかりに身体を起こし、キャットタワーを降りて彼女の足元に立った。
そしてそのまま彼女と一緒にハイレインたちのいる和室まで付いて来て、座ったツグミの膝の上に乗ると「にゃお」と鳴く。
すると今まで寝ていたり勝手に遊んでいた猫たちがわらわらと集まってきた。
「これは…!」
驚くハイレインにツグミが言う。
「ミケコさんはこの施設のボスで、すべての猫たちは彼女の指示で動きます。彼女が『この人間たちは大丈夫だから遊んでやってもかまわない』と言ってくれたので、猫たちは安心して集まって来たということです。ほら、スミが遠慮がちに待っていますよ。抱っこしてあげてください」
するとハイレインはこれ以上ないというくらい嬉しそうな顔でスミに手を伸ばし、小さな黒い毛玉のような猫を恐る恐る抱き上げた。
「ああ…温かい。こんなに小さくて頼りないのにちゃんと生きている」
スミは嫌がる気配はなく、むしろ自分を慈しんでくれるハイレインに身を委ねている。
そんな彼の姿をヴィザは細い目をさらに細めて見ていた。
「陛下がこのような穏やかな表情をしているのは久しぶりに見ました。やはり動物というものは人の心を癒してくれる。…おやおや、私も気に入られてしまったようですね」
ヴィザの周りにもマンチカンやエキゾチックといった猫たちが集まって来ていて、茶トラ柄の仔猫が彼の膝に乗ろうとして足掻いていた。
それを見たヴィザはひょいと掴み上げると自分の膝に乗せる。
「猫に限らず動物というものは言葉が通じなくてもこの人間が優しいのか危険なのかわかるものです。おふたりはこの子たちから優しい人だと認めてもらえたということですから、どうぞゆっくりと寛いでください」
ツグミはミケコさんを撫でながら言った。
「ツグミ、俺は特に猫好きだというわけじゃないが、なぜか懐かれているみたいだ」
迅はハチワレ柄の猫にスリスリされて戸惑いながら言う。
「この子がジンさんのことを気に入ったんですから、相手をしてあげてくださいな。この子…ポンちゃんはオモチャで遊ぶのが好きなので、そこに置いてある猫じゃらしで遊んであげるといいです」
迅はテーブルの上に置かれている猫じゃらしを手にすると、ポンに向けて振る。
するとポンはそれまでの様子と打って変わって興奮し、猫じゃらしの先に付いているネズミの形のオモチャに飛びついた。
3人がそれぞれ猫たちに
「第一次
「おまえが何で関わってるんだ?」
迅の質問にツグミは少しだけムッとした顔で答える。
「忘れちゃったんですか? まあ、もう5年半も経つんですから仕方がありませんね。徳島さんは第一次
「あ、ああ…あの時のか…!」
迅は思い出したようであった。
第一次
それが徳島で、彼は自分が逃げる時に目に付いた逃げ遅れの猫を助けていて、リュックサックと懐に1匹ずつ、さらに1匹を抱えながら走っていたものだからバムスター追いつかれてしまったのだ。
そこに偶然駆けつけたツグミがバムスターを一刀両断にし、彼と3匹の猫を救出した。
その時の1匹がミケコさんで、ツグミのことを命の恩人だと理解しているらしく彼女のことを絶対的に信頼しているのだった。
そして徳島が猫カフェを開店すると知るとツグミは積極的に協力し、ボーダーの給料の一部を運営資金に充てている。
だからこうして突然であっても入店は叶うし、猫たちからも慕われているのである。
「ミケコさんは徳島さんのことを命の恩人だと考えているらしく、この
今年で12歳になるミケコさんは人間で言うとヴィザと同じくらいで老齢の仲間となる。
だから1日中眠っていることが多く仔猫相手に遊んでやるようなことはもう無理だが、そこに彼女がいるだけで他の猫たちは安心するらしくボスと言うよりも頼りになるグランドマザーという感じで
「人間は保身のために平気で嘘をつきます。わたしだって必要とあらば嘘をつくこともあります。でもその嘘がすべて対象者を害するためとは限らず、場合によっては対象者のために嘘をつく場合もあります。だから人の言葉を100パーセント信用することはできないと言えるわけですが、動物たちは違います。彼らも生きていく上で他者よりも自分を優先することはあります。他者の命を奪うこともありますが、嘘をつくことは絶対にありません。だからここの猫たちが陛下とヴィザさんに撫でられているのは本心から撫でられたい、この人の愛情が欲しいという正直な気持ちなんです」
ツグミはそう言ってハイレインとヴィザのふたりの顔を見た。
「わたしはここに来るまでおふたりのことを100パーセント信頼できずにいました。ですがわたしが不安を抱いている以上にボーダーの上層部メンバーやキオンとエウクラートンの人たちは不安…と言うよりも懐疑心を抱いていることでしょう。そんな人たちが集まっている場所に顔を出すおふたりの方がずっと不安で疑い深くなっているということにわたしは気が付き、少しでも気持ちが楽になればと考えてここにご案内したんです。でも猫たちの態度を見ているうちにおふたりを信じても大丈夫という気持ちになってきました。わたしはおふたりを全面的に信頼することに決めました。だからおふたりにもわたしのことを信用していただきたい。わたしが
ツグミがハイレインたちを猫カフェに連れて来たこと、これこそが彼女の行動原理の一例である。
猫好きの自分が猫に会いたかったという気持ちが一番なのだが、ハイレインたちが猫好きであると判断したからこそ連れて来たわけで、彼らにとっても
アフトクラトルがボーダーに対してのわだかまりを捨て、ボーダーもアフトクラトルが敵とならない確証が得られるのであれば、拉致被害者市民の救出もやりやすくなるだろう。
そして
結局、ツグミが自分のためにやっていることが回り回って大勢の人間の幸福に繋がることになり、自分だけが幸せになるのではなく自分の手の届く範囲の人間が幸せにならなければ満足できないと公言する彼女の根本となるものなのだ。
迅はそのことを良く知っているが、ハイレインとヴィザにとってはこれまで会った人間とはまったく違う考え方や行動をするツグミに対して改めて感心してしまった。
彼らの考え方では自分が利益を得るためには他者が不利益を被るのは当然のことであり、相手方に何らかの不利益があったとしてもそれは「弱者は強者に従う」ことが当然と考える彼らに言わせれば「強者=正義、弱者=悪」で、弱者が虐げられて当然であるから心を痛めることはない。
しかし圧倒的な強者であるアフトクラトルの国王であるハイレインが
またキオンの元首という自分と対等な権力者であるテスタが武力を捨てて対話によって
それを教えてくれたツグミに感謝とまではいかなくとも一定の敬意は示さなばなるまい。
「ツグミ、俺もおまえに対しては個人的な恨み辛みはない。もちろん
ハイレインは自分の価値観だけによる行動によって多くの犠牲を出してしまったことに後悔はしていないと言うものの、他に道があったかもしれないという可能性を無視したことについては多少悔いがあるようだ。
このまま自分の価値観による道を突き進めば破滅が待ち構えており、それを阻止してくれたかもしれないツグミに信頼を寄せるのは当然の流れである。
「俺はこれからキオンのテスタ・スカルキに会うことになるが、正直言ってどんな顔をして会えばいいのかわからずにいた。俺は
ツグミはハイレインの懺悔のような言葉をひとつ残らず聞いていた。
自分が
そして続く言葉に耳を傾けた。
「俺は
「はい! わたしたちだけでなくスカルキ総統やリベラート殿下も
ツグミの膝の上でずっと会話を聞いていたミケさんはひと言「にゃう」と鳴くと、安心したかのようにそのままぐっすりと寝入ってしまう。
スミもまたすっかりハイレインに懐いてしまったらしく、へそ天の状態でスヤスヤと眠っていた。
そして夜の会食の時間に間に合うように猫カフェを後にしたが、ハイレインとヴィザは後ろ髪を引かれるような気分でいたのだった。