ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミたちが向かったのは自転車販売店である。
ここはツグミが愛用しているクロスバイクを購入した店で、その後も運転免許を持っていないゼノンたちが行動するために必要だからと彼らに1台ずつ自転車を買っていた。
ボーダーの経費で落とせるからと使用者が自分にとって一番使いやすいものを選び、仕事以外のプライベートでも頻繁に使用している。
自転車とは
車輪のある乗り物はあるが、それは人や荷物を乗せた車を馬やトリオン兵に引っ張らせるというものだ。
ところが自転車とは基本的に使用者が自らの力を動力とするものである。
貴族階級の人間は移動をする際には馬車を使うし、庶民はそれほど遠くへ移動する理由がなくてせいぜい城壁に囲まれた都市内の移動であるから徒歩で済む。
しかし都市内の移動であっても徒歩より早く目的地へ着くことができ、荷車に載せるほどの荷物ではない小型や少量のものであれば自転車の前かごに入れたり荷台に積んでもいい。
自転車とは地上を移動するにあたって非常に効率の良い乗り物である。
特に燃料が不要であるから発展途上国では重要な移動手段になっており、同様にトリオン依存の
店に到着するとテスタとジルドは珍しいものばかりを売っている店内を興味深そうに見回している。
ツグミは顔馴染みの店主に具体的な希望を告げると、店主はすぐに適当なものを見繕って店舗の裏にある広い駐車場に運んでくれた。
それは三輪自転車で、ツグミは駐車場にテスタとジルドを招き、実際に乗ってもらうことにした。
「
ツグミがハンドル操作やブレーキなどの説明をひと通りすると、ジルドが試乗してみることにした。
もちろんいきなりひとりで乗ろうとしても無茶なので、ツグミが隣でアシストする。
「まずは左右のハンドルをしっかりと握り、跨ってサドル…その椅子の部分に腰を下ろしてください。そして左足をペダルに載せて右足で地面を蹴って勢いをつけ、動き出したら右足をペダルに載せて右と左を交互に踏みしめるように動かしてください。初めは力が要りますが、すぐに惰性で走るようになります」
「わかりました。やってみます」
ジルドはツグミに言われたとおりにハンドルを握ってから大きく足を上げて跨り、サドルに腰を下ろした。
二輪ならここから漕ぎ出すまでが難しい。
そもそも二輪の車で倒れない方がおかしいのだが、ある程度スピードが出てしまえば倒れることもなく走ることができるものだ。
だからアシストをする人間が自転車の後ろで倒れないように支え、バランスをとる練習をする。
しかし三輪なら安定性は抜群で、よほどのことがなければ倒れるものではない。
ジルドは深呼吸をひとつしてからペダルに左足を乗せ、右足で強く地面を蹴った。
すると自転車はその勢いで前に動き出し、両足でペダルを交互に強く踏み込むとさらにスピードを上げて前に進む。
元々運動神経が良いらしく、ジルドは何の問題もなく漕ぎ出した。
そんな彼をツグミは走って追いかけて声をかけた。
「それでいいです。ハンドルを急に動かすとバランスを崩しやすいので、ゆっくりと操作してください」
「はい、わかりました」
そう言ってジルドは駐車場の端に近付くとハンドルを切って左に曲がった。
それは初めて自転車に乗った人間とは思えないほど滑らかな動きで、1周100メートル弱の駐車場をぐるりと回って元の位置に戻って来る。
彼は面白い玩具を手に入れた子供のように顔を紅潮させていて、自転車を止めると直ちにツグミの前へ立って言った。
「ツグミさん、これは素晴らしいです。歩くよりも筋力を使わず、素早く移動することが可能。とても効率の良い乗り物ですね」
「ええ。
自転車がキオンの都市内であれば非常に有用な道具であることはテスタとジルドにはすぐ理解できた。
テスタは自分でも確かめてみたいと言って自転車に跨り、ジルドのように楽々と乗りこなしてみせる。
「これはいい。街の中を車で移動している時によく自転車が走っているのを見かけたが、ほとんどが二輪であり器用に走らせているなと感心していた。しかし三輪なら倒れる不安がないから私のような初心者でも簡単に運転できる。ぜひ我が国でも導入したいものだ」
テスタが自転車とそれに乗っている人間に興味を持っていたことに気付いたツグミであったから、自転車販売店に連れて来たのだ。
想像どおりにテスタとジルドは自転車に強い関心を抱き、欲しいと思うようになっていた。
「お気に召したのであれば新しい艇の設計図のお礼としてプレゼントいたしますよ。とりあえず10台、急いで手配します。他にもお土産として持ち帰りたいものがこれから増えるでしょうから、今回は10台にしておきましょう。追加が必要であれば、次は大きめの艇で来ていただきましょう。それとメーカーに頼んで設計図も取り寄せます。ごらんのとおり単純な構造ですから、複製するのもそう難しいことではないと思います。また自転車に詳しい人物をキオンへ同行させますので、技術者の方に整備の仕方など教えておけば故障した時にもすぐ対応できますから」
「それは助かるよ。しかし大丈夫なのかい? 庶民でも手に入りやすい価格といっても10台ともなればかなりの金額になるだろう。キド司令や他の幹部の人に相談せずに勝手に判断して叱られないかな?」
「ご心配は無用ですよ、閣下。
ツグミはそう言って微笑んだ。
この自転車の価格が8万9000円で、10台なので89万円。
1件につき100万円未満の案件であれば彼女の判断だけで決裁できることになっているのだ。
それに新しい艇の設計図の礼としての自転車10台なら誰も文句など言うはずがない。
ツグミはさっそく店主に自転車本体とサドルやペダル、ブレーキレバーなどの予備品の注文をし、3日後に納品されることを確認してから店を出た。
◆◆◆
テスタの希望であったとしてもキオンの総統をツグミたちの住む寮の部屋に泊めるということはかなりの
キオンの庶民の暮らしから見れば1DKの狭い部屋であっても羨ましいと思えるほど機能的で居心地が良い。
集合住宅でありながら各部屋にバス・トイレが完備されていて、冷暖房もスイッチひとつで切り替えができる。
そもそも庶民の住宅には水道やガスといったインフラがなく、生活に使う水は集落の中心にある井戸の水を汲んで炊事に使うために、水を大量に使う入浴自体が贅沢な行為だ。
ただしそれは庶民であり、テスタのような上級国民がこの狭い部屋で満足できるとは考えにくい。
ところが彼を部屋に案内して部屋の様子を見たとたんに初めて自転車に乗った時以上のリアクションをしたのだった。
「これは…素晴らしい! 人がひとり暮らすための最低限の広さでありながら必要なものはすべて揃っている。うん、話には聞いていたが実際はそれ以上だという印象だ。こんな恵まれた環境に住んでいるのなら、ゼノンたちが本国に帰還したいという希望を願い出るはずもない」
キオンの政庁内の執務室よりもはるかに狭い部屋で寝起きすることを自ら望むなど酔狂だと思うが、今回の
そうなるとツグミも遠慮なく庶民としてのサービスを楽しんでもらおうとやる気まんまんである。
「お部屋にあるものはご自由に使っていただいて結構です。わからないことがあればわたしやテオ少尉に訊いてください。それから夕食の買い物に出かけますが、どんなものを召し上がりたいのか言っていただければできる限りご希望に沿うよう努めます」
「それなら私でも調理できて
「そうですね…いくつか候補がありますけど、今日はあまり時間がないので簡単なものにします。明日以降はちょっと手間のかかった料理を作りますので、これから材料を買いに出かけましょう」
小学校から帰って来たレクスとテオを含めた合計6人でスーパーマーケットへと買い物に行き、大量かつ複数の種類の食材を購入すると直ちに準備に取りかかったのだった。
◆◆◆
買い物をしている時だけでなく料理を手伝っている時もテオの元気はなかった。
テスタから本国帰還の打診があり、そのことでずっと悩んでいるようなのだ。
ツグミはもちろんのこと迅やレクスにもハッキリとわかるほどで、このままずっと悩み続けていてもすべて丸く収まる解決策などでないことも誰もがわかっている。
人生の中で大きな分岐点はいくつもあるのだが、これまでの彼の選択肢は「こちらを選ばざるをえない」という状況にあってそれを選んできた。
軍に入ることしか家族を養う手段がないから入隊した。
トリガー使いとして有能であり、諜報部隊に入れば難しい任務であっても成功さえすれば昇級ができ、家族に渡す給料も増えると聞いてゼノン隊に加わった。
彼の選択はすべて家族のためであり、一緒に暮らすことが一番の願いであった。
ならば今回の帰国は彼の望みが叶うものであって悩む必要などないはずだ。
しかしゼノン隊の仲間と別れること、そして
家族のためにと頑張ってきた彼にとって家族と同じくらい大切な存在ができてしまい、「こちらを選ばざるをえない」ではなく「どちらも選べない」という状況になったために心を痛めているのだ。
ツグミ個人としてはキオンに帰って家族と一緒に暮らしてほしいのだが、総合外交政策局長の彼女としては優秀な局員を失いたくないと考えている。
ゼノンとテスタにとっても弟のように可愛がっている仲間を失いたくはないだろうが、本物の家族と一緒に暮らすことを勧めるに違いない。
ただしそれは言わずともテオ本人はわかっていることで、誰かに相談したところで「正答」は得られず、答えを出すのは彼自身である。
そこでツグミはひとつの「策」を講じ、料理の下準備が終わったところでテオを寮の屋上へと呼び出した。
「テオくん、スカルキ総統から話は聞いているわ。あなたにとってとても重要で辛い選択を強いられているそうね」
「……」
「あなたの気持ちはわかるし、あなたもわたしたちの気持ちはわかってくれていると思う。だから悩むのは当然だし、判断に苦しんでいるってことは理解できる。でもわたしやゼノン隊長たちがあなたに適切な答えを与えることはできない。自分で判断しなきゃならない問題だから答えが出ないのよね」
「…ああ」
テオはぶっきらぼうに答えた。
その短い言葉の中には「当然だろ」というニュアンスが含まれていて、彼のどうしようもない葛藤が滲み出ている。
「そこで今すぐに答えを出さなければならないってものでもないようだから、ひとまずあなたに総合外交政策局の仕事として局長であるわたしが局員のあなたに任務を命じたいと思うの」
「任務?」
「そう。実はスカルキ総統から貰った新しい艇の設計図のお礼に三輪自転車を10台プレゼントすることになったんだけど、ただ物を渡すだけじゃダメ。自転車の詳しい仕組みを知らない
ツグミの「戻って来なさい」という命令に従う以上は少なくとも
この「任務」は一度キオンに帰って家族と相談して決めろという意味であり、勘の良いテオにはそれがツグミの精一杯の思いやりであることをすぐに悟った。
「了解しました、局長。…ってツグミはオレのことを必要としてくれているんだよな?」
テオが遠慮がちにツグミに訊く。
「当然じゃないの。わたしたちは仲間であって友人でもあって家族同様の絆で結ばれている。だからこそあなたにとって最善の道を歩んでもらいたいって思っているのよ。このまま一緒に仕事をしたいけど、家族と一緒に暮らしたいというあなたの気持ちもわかっているから引き止めることはできない。それにあなたのご家族のことでもあるんだから、あなたひとりで決められるものじゃないでしょ? だからキオンに戻って家族で十分に話し合って後悔のない答えを出すべきなのよ。これはどちらが正しいとか間違っているという選択ではない。それに人間に限らず生き物はいつまでも親やきょうだいと一緒に暮らせるものではないわ。あなただっていつか結婚をして新しい家族を作るとなれば、元の家族とは別れなければならないこともある。でもだからって縁が切れるわけではなく、会いたいと思えばいつでも会える。家族だけでなくゼノン隊長やリヌスさんも同じ。彼らも結婚して自分の家族を持つようになれば今までどおりにはいかなくなる。人は出会いがあれば別れもある。喧嘩別れや死に別れたのでなければまた会うことはできるものよ」
「そう…だよな」
「ええ。それにエンジンを改良した新しい艇を使えばこれまでの半分以下の日数で行き来できるようになるんだから、仮にあなたがキオンでご家族と一緒に暮らすようになっても長期休暇をもらえたなら
「わかった。今のオレはボーダーのために働いているキオンの軍人だ。
テオの表情はいつもの朗らかなものに戻っており、もう心配する必要はないとツグミは確信した。
「別にお礼なんて必要ないわよ。たとえあなたがどんな選択をしようともそれをわたしは尊重する。ゼノン隊長やリヌスさんも同じ気持ちだと思う。あなたのことは心配しないで3人で待ってるから」
「ああ」
「じゃあ、部屋に戻りましょう。あなたがどんな道を選んで進むとしても
朝からずっと曇り空のような気持ちだったテオの心の中は頭上に広がる青空のように晴れ渡っていた。
◆◆◆
その日の夕食はテスタとジルドの歓迎会も兼ねており、テスタに
キオンでも手に入れることのできる食材を使い、手間がかからず、それでいて美味しくてパーティーで盛り上がるものといえば「タコ焼き」と「お好み焼き」で、タコはキオンで入手不可であるが代わりにベーコンやソーセージ、チーズ、ウズラの卵などを使えば問題はない。
どちらも基本は小麦粉であり、キャベツなどの野菜はキオンでも収穫できるが、エウクラートンでの生産が増えればキオンでも安く流通するようになる。
ソースはレシピさえあれば
そして何よりも大勢でワイワイと作りながら食べるという
パーティーは片付けを含めて午後9時前に終了して解散となった。
この寮の規則で小学生のレクスがいる時には彼の生活パターンに合わせて9時以降は深夜時間帯として静かにしなければいけない。
他にも集団生活を送る上での規則がいくつかあって、誰であってもその規則は守らなければならないために相手が最高クラスのVIPであってもツグミは容赦しないのだ。
もちろん翌日の朝食の仕込みは終わっており、ツグミは就寝時間までの2時間を自由時間として過ごすことになる。
しかしテスタとジルドのリクエストに応えるためにいろいろと準備をしなければならず、また経理課に提出する昼間に購入手続きをした自転車の伝表を書くなど雑務もある。
到底自由とは言えない時間だが、彼女にとってこの作業も自分の夢を叶えるために必要なものなのだ。
(日曜日は学校もお休みだから、レクスくんを誘って水族館に行きましょ。六会市までは車じゃなくて電車に乗るのもいいわね。
電車とバスの時刻を調べ、準備万端の状態でらツグミは眠りに就いた。