ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
翌日、軍の寮で気さくな兵士たちに囲まれながら朝食を済ませたツグミたち総合外交政策局のメンバーはそれぞれ自分の担当の仕事をするために一度解散し、昼食時に集合することにした。
ツグミと修はエヴァルドとの面会のために政庁へと向かうのだが、その途中で何人もの兵士や下士官たちに敬礼されて恐縮してしまう。
「どこに行っても先輩は人気者ですね」
修にそう言われ、ツグミは苦笑する。
「元々女性の数が少ない上に軍や政庁で働く女性は全体の2パーセントで、それも食堂の調理担当だから他の場所ではほとんど見かけることがない。だから珍しいのよ。それに
「そうなんですか…」
「でもわたしが前の宰相と軍総司令官を辞めさせたんじゃないわよ。ボーダーは『相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉』を大原則としているから、ヒエムス政府に何らかの圧力をかけたわけじゃない。ただ国王陛下と巫女様という夫婦の関係を修復したら結果的に国政の癌を取り除くことになっただけだもの。それに夫婦の関係修復っていってもわたしはおふたりに『自分の気持ちに正直になれば?』って助言しただけ。これは内政干渉にはならないでしょ?」
「先輩は簡単に言いますけど、日本でいえば天皇陛下と皇后様に直接会って個人的な悩みの解決をしたってことと同じじゃないですか。それに総合外交政策局の局長という肩書だって国でいえば外務大臣とか大使みたいなもので、それってすごいことですよ」
「まあ、ボーダーを代表するってことは
「ぼくも相手が
「麟児さんは任務と雨取家の家族に抱いた愛情の板挟みになって苦悩したそうで、だから第一次侵攻ではチカちゃんたちを守るために一時的に市外へと連れ出した。彼も
「はい。遠征艇や千佳を守ることができてC級隊員を全員救出できたとしても犠牲者をひとりでも出してしまったらこの遠征は失敗となる。ぼくが死んでしまったら城戸司令たちが責任を問われ上層部のメンバーが辞任を含めた処分を受けることにもなると」
「そう。でもそれだけじゃないわ。自分が命を懸けてでも守りたいと思うものがあっても、死んでしまったらもう二度と守ることはできない。生きているからこそ守り続けることができるのよ。生きるってことはとても重い責任を負うことになる。人の生き死には本人だけのものじゃないんだって心得ておいてね」
「はい、わかりました」
修にとってツグミの言葉はどれも胸に響くものばかりであった。
美辞麗句を並べ立てただけの薄っぺらなものではなく、彼女が自分の経験から培った彼女にとっての「真理」から生まれる言葉だからこそ重く受け止められるのだ。
◆◆◆
ツグミはこれまでエヴァルドと何度も会っているために特に緊張することはないのだが、初めての修にとっては総理大臣に会うようなものだということで執務室のドアの前で固まってしまった。
「部屋に入る前からそれじゃ先が思いやられるわ。深呼吸をして気を落ち着けなさい」
ツグミにそう言われ、修は深呼吸をする。
しかしあまり効果はないようだ。
「先輩は慣れているんでしょうけど、ぼくは初めてなんです。緊張しないでいるなんて無理ですよ」
「でもここまで来たんだから腹をくくりなさい。それにエヴァルド閣下は怖い人じゃないわよ。それに挨拶さえしてしまえば後はわたしと閣下の会話を横で聞いているだけでいい。相手に対して礼儀を忘れず、そして謙虚でいれば嫌われることはないから安心しなさい」
「…わかりました」
修はもう一度深呼吸をすると、ツグミに合図をするかのように無言で頷いた。
「じゃ、行くわよ」
ツグミがドアをノックすると中から聞き覚えのある少女の声がして、内側からドアを開けてくれたのはマリであった。
「いらっしゃいませ、ツグミ様。中へどうぞ」
意外な人物に招き入れられ、ツグミは執務室の中へ入る。
修は彼女の後ろから付いて行った。
「エヴァルド閣下は国王陛下のご用事で少し遅れるそうです。そこでわたしがおふたりをお出迎えするように申し付かっております」
「でもあなたはリータ王女付きの侍女だったはすだけど」
「はい。実はリータ王女が巫女様になるための
「そうだったのね。…ということは、あなたの願いが叶ったってことかしら?」
「はい。国王陛下のおかげです」
「それでエヴァルド閣下とはどう? 上手くいってる?」
「それは…」
口ごもるマリ。
どうやら彼女の願いは叶ったものの、その先はまだのようだ。
「どこの世界にもそばにいる女性の気持ちに気付かない鈍感な男性っているものね。困ったものだわ…」
事情のわからない修はどうしたものかと思ったが、ツグミに訊くことにした。
「霧科先輩、話が見えないんですけど。ぼくが聞いて構わない話なら教えてもらえますか?」
「う~ん…それはちょっと無理ね。とてもプライベートなことだし、エヴァルド閣下に関わることだからあの方を偏見や先入観で見てしまうとマズイから教えられないわ。でもこのままだとヒエムスの未来にとって良いとは言えないことだから、なんとかしなきゃって気にもなる。今はレプトとの件があるから触れない方がいいかも」
「それなら別にいいです。知らなくてもいいことなら知る必要はありませんから」
修が素直に引き下がってくれたので、ツグミはひと安心だ。
マリはツグミたちにハーブティーを淹れて勧めると、彼女自身は部屋の隅に置かれているスツールに腰掛けた。
ツグミとマリは個人的に親しいが、この場では宰相の客人と使用人という関係となる。
だから親しげに会話をするわけにはいかず、マリはツグミから用事があって声をかけられるまでは控えているしかないのだ。
それから10分ほどしてエヴァルドが執務室へと戻って来た。
一国の宰相ともなれば分単位のスケジュールになるのは当然であり、またいつレプトとの戦争が始まるかわからない状態なのだから政庁内自体が慌ただしい。
そんな状態でわざわざ面会をしてくれるのだから、10分や15分の遅れなど大したことではない。
約束の時間に遅れたことを謝罪するエヴァルドにツグミは言った。
「閣下に非はないのですから謝罪は不要です。むしろこの忙しい時にこちらの用向きで面会くださるのですからこちらは感謝しかありません。それはそうとわたしの部下を紹介いたします。彼は三雲修、わたしと同じくトリガー使いですが
ツグミが修のことを紹介すると、修はすっと立ち上がってエヴァルドに礼をする。
「はじめまして。三雲修です。まだ見習い中ですけど早く先輩の…いえ、局長のお役に立ちたいと思っています。どうぞよろしくお願いします」
「オサム、こちらこそよろしく」
エヴァルドが握手をしようと手を伸ばすと、修は少し戸惑いながらもその手を握った。
「閣下、昨日のうちにレプトの件は軍のニクラス閣下と打ち合わせを終えています。ですのでこちらは例の件を確認しておきましょう」
「ああ、わかった。…マリ、私の机の上に置いてある書類をこちらへ」
「はい」
マリはエヴァルドに指示されて書類を運んで来る。
それを直接ツグミに手渡した。
ツグミはその書類をチェックし、満足のいく結果が出ていることで笑みを浮かべた。
「エヴァルド閣下、思いのほか良い結果が出ているみたいですね。まだ3ヶ月ほどしか経っていないので数値には大きく出ていないようですが、被験者の感想を読むと明らかに効果が表れていることがわかります」
「ああ。彼女たちにはきみから渡された医師の指示書のとおりに服薬してもらっていて、家族にも彼女たちの身体を最優先にするよう命じておいたからな。今のところ首都在住及び周辺の町や村の10代から40代の女性たちだけが対象だが、
「その件に関してはもうしばらくお待ちください。現在、
「それは十分わかっている。こちらはお願いをする立場なのだから無理なことは言わぬよ」
「わたしもできる限りの努力をしておりますので、準備ができたらすぐにご連絡いたします」
「頼むよ」
ツグミとエヴァルドの会話の中に「医師」「被験者」「服薬」「結果」などの言葉が出ているので医療関係の話をしているのだということだけは修にも理解できるのだが、それだけであとはまったくわからない。
それに医学に関しては素人のツグミが何をやっているのか気にはなる。
「局長、何のお話をしているのか教えてもらえますか?」
「ええ、いいわよ。これは拉致被害者市民を返してもらうことの条件としてボーダーはヒエムス政府に人道的援助を行うことになっていて、まずは女性特有の症状の改善についてから始めたの。
「はい」
「そこでわたしがこれまで
「それでその結果がその書類に書かれているんですね」
「そうよ。それと投薬ばかりじゃないわ。病気ではないんだけど女性には月に1回どうしても避けられない症状がある。それが何かわかる?」
「はい。それは…生理、ですよね? 保健体育の授業で教えてもらいました」
「ええ、そうよ。誰にでも起きる症状だけど、中には腹痛や頭痛、吐き気やストレスなどで日常生活にも支障が出る人がいる。幸いにわたしはそういったことがなかったけど、毎月苦しんでいる人は大勢いるの。それは
「良い報告ができそうで良かったですね」
「ええ。問題はレプトとの戦いだけど、そっちもたぶん大丈夫だと思う。拉致被害者のトリガー使いも救出できるはずだから」
ヒエムスという小国の女性たちの健康の改善など
ツグミはかつて城戸と会話をした際に「バタフライ効果」について言及していた。
自分の手の届く範囲は狭いので玉狛支部での暮らしを守るのが精一杯だが、蝶の羽ばたきが大風を起こすという例えもあり、自分が結果を出せば他の隊員にも影響を与え、こちら側の世界だけでなく
バタフライ効果とはほんの些細なことであっても、徐々にとんでもない大きな現象の引き金に繋がるかという考えのことを言う。
もっともこの
結論から言えば、蝶の羽ばたきは竜巻を起こすかもしれないが、だからといって竜巻の発生数には影響するかどうかは不明であるという
つまりツグミという蝶が羽ばたいて竜巻が起きたとしてもそれは局所的なものであり、その先は誰もわからないということになる。
しかし彼女は自分が世界に
◆
ツグミがハーブティーのおかわりを淹れてもらって次の話をしようとしていた矢先、執務室のドアをノックする者が現れた。
その人物は政庁の役人ではなく軍服を着た若い士官である。
非常に慌てた様子で、エヴァルドのそばへ駆け足で近寄る。
「宰相閣下、ニクラス総司令からの伝言です! レプトの遠征軍が現れました!」
「そうか、やはり早かったな」
エヴァルドは特に驚いた様子もなく、使者の士官に言う。
「わかった。ボーダーの援軍はまだのようだが、彼女たちの作戦の準備は完了している。すぐに彼女たちにも配置についてもらう。総司令にそうお伝えしろ」
「了解です!」
若い士官は来た時と同じように駆け足で執務室を出て行った。
「ツグミ、どうやら奴らの方が少し早かったみたいだ。しかし援軍到着までこちらの兵士とトリオン兵で防衛線を死守する。きみたちの仲間が到着したら事情を説明してすぐに戦闘に参加してもらうことになるだろう。疲れているところを申し訳ないと思うが頼む」
エヴァルドがツグミに言うと、彼女は首を横に振って答えた。
「これは仕方がありません。こちらも可能な限り急いで準備をしましたが間に合いませんでしたね。それに本隊が予定どおり到着せず遅れる可能性もあります。とにかく今はあるだけの戦力で戦うだけです。では、わたしたちはこれで失礼します」
ツグミと修はエヴァルドに一礼すると執務室を出た。
そして廊下を走って政庁の正面玄関へと向かう。
緊急事態であるから廊下を走ることくらい礼に反することにはならないだろう。
「オサムくんもちゃんとトリガーは携帯しているわね?」
「はい、もちろんです! だけどぼくたちは直接戦うことはないんですよね?」
「それはそうだけど念のために換装しておいた方がいいし、本隊が到着すれば向こうから通信が入るはず」
「そうか、戦闘体の内部通信ですね」
「そういうこと。予定ではあと3時間で到着するはずだけど、それはあくまでも予定であって未定。もし本隊到着が遅れるようならヒエムス軍に頑張ってもらわなきゃならないけど、例のものを使えばトリガー使いの何割かは無力化できるはず。まずはトリオン兵を尖兵として進軍してくるだろうから、それをどれだけ押し止められるかが重要。最悪の場合はわたしとジンさんとゼノン隊のふたりが
「はい、わかりました!」
「じゃあ、トリガーを使うわよ。トリガー、
「トリガー、
政庁を出たツグミと修はトリガーを起動すると、自分の役目を果たすために城壁の上にある見張り台へと向かって全力で走り出した。