ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ヒエムスからレプトへは約60時間かかり、目的地に到着したのは2日後の午後だった。
レプト側は自軍が圧倒的な勝利を得て凱旋したのだと勘違いをしており、またレプトの遠征艇を囮にしてボーダーの艇はステルスを用いていたために
そのおかげで王都から1000メートルも離れていないすぐそばの「港」に
敵襲の警戒などまったくしていなかった上に自軍の遠征艇以外の艇が一緒に現れたとなれば「レプト軍が完勝してヒエムスの艇を奪って捕虜を連れて来た」と思っただろうが、実際には「ボーダーとヒエムスの連合軍がレプト軍を全員捕虜にして連れて来た」のだからまさに青天の霹靂というもの。
想定外の出来事に現場が大混乱に陥り、レプトの元首である女王にその事実が伝えられるまでに数時間がかかってしまった。
もしかしたら全面戦争になるかもしれないという状況で、レプト軍には十分な戦力が残されていないことは明らかであったからだ。
トリオン兵は金さえ積めばエクトスなどの他国から購入することは簡単なのだが、トリガー使いは「育成」に時間がかかるためにすぐに用意はできない。
レプトはヒエムスに攻め込むためにトリオン兵を大量に購入したものの意味はなく、今ではそのトリオン兵も卵の状態でヒエムスの軍総司令部に保管されている。
彼らに残された軍備は数人の国防要員と数百匹のトリオン兵のみである。
やろうと思えばヒエムス軍を総動員してボーダー・ヒエムス連合軍でレプトを制圧することも不可能ではないが、ボーダーは
しかしレプト側はそんなことを知らないわけで、レプトの遠征艇の操縦室からニクラスがボーダー遠征軍とともにやって来たのだと呼びかけたのだからパニックに陥るには無理もない。
軍部と政庁ではお偉い方が緊急招集されて徹底抗戦か降伏かのどちらかを選ばなければならないと上へ下への大騒ぎとなるが、その間ボーダー隊員たちは暢気なもので遠征艇の中でゲームや昼寝をしていた。
そして正式な書簡を持った使者がツグミたちの前に現れたのは夜になってからで、戦闘は避けて交渉のテーブルに着くという旨が記載されていた。
交渉にはレプト軍総司令官ロマナと宰相ゾラ ── この国では女性が国防や政務を担っている ── が出席することになり、ボーダー・ヒエムス側からはツグミとニクラスが出席することになった。
レプトではルドミラ女王が
全男性は全女性に尽くすことが国是となっているくらいで、すべて女王の意思ひとつで決まるこの国らしい。
トリガー使いや一般兵の中に女性がひとりもいなかったのは「女性が戦場で傷つくことなどもってのほかである」という女王の意思によるものらしく、
ツグミはこの話をエヴァルドから聞かされていたのでレプトにいる女性たちの待遇が不幸なものではないと安心していたのだが、そうなると相対的に男性が粗略に扱われているということになるので交渉は難しいかもしれないと考えていた。
ヒエムス軍と戦って戦果を残すどころか全員が捕虜となって戻って来たとなれば司令官ボスマンはもちろんのこと部下45人に対して厳罰が下る可能性が高い。
それでも拉致被害者の女性たちとの交換に応じてくれるのなら良いのだが、負け犬に用はないとばかりに見捨てられることにでもなれば交換どころではない。
そうなった場合には当初の計画 ── ヒエムスの時のように
◆◆◆
政庁からの迎えの馬車 ── 正しくは馬の姿をしているトリオン兵 ── が来ると、それにツグミとニクラスのふたりが乗り込んだ。
できることなら忍田が付き添いたかったのだが、ふたりまでという人数限定であったこととツグミの護衛としての男性はニクラスだけで十分だとレプト側から言われたのだ。
ニクラスはヒエムスの代表としているのであってツグミの護衛ではないのだが、レプト側としては「男とは対等に話す価値はない」ということらしい。
以前にヒエムスとレプトの戦争の終結の際、戦勝国であるヒエムスの当時の宰相セルジョや軍総司令官アシッドによって散々嫌な思いをしたという経緯があるものだから、ヒエムスの男性には特に拒否反応を起こすのだろう。
ここでツグミたちが承諾しなければ交渉が始まらないので、ひとまず同じテーブルに着くためにレプト側の条件をのむことにしたのだった。
万が一の時にはツグミの位置がわかるのだからゼノンが
ツグミたちが案内されたのは政庁内にあるゾラの私室であった。
夜の8時近いため軽い夕食を取りながらの「顔合わせ」ということになり、本格的な交渉は翌日からとなる予定だ。
まあ、ゾラとロマナのふたりがツグミたちの
ゾラは30代半ば、ロマナは20代後半くらいの年齢だとツグミは判断した。
ふたりとも国政や国土防衛を担う責任者だということもあって貫禄のある女性たちで、前女王の次女と三女でふたりとも未婚だそうだ。
前女王には3男4女がおり、男性はすべて軍人となり20代になったばかりの四女もまた独身で姉であるロマナの秘書をしているという。
この国も
そして女王の長女が次の女王として育てられ、ゾラとロマナの姉であるルドミラが現女王なのである。
その代わりに絶対的な権力を持ち、あらゆることが女王の意思によって行われるのだ。
そして子供たちのうち男性は軍人になることを強制され、結婚したくとも女性に選ぶ権利があるのでなかなか難しいようだ。
女性は政治や軍の要職に就き、結婚をしたいのであれば大勢いる男性の中から気に入った人物を夫にできるらしい。
それも一夫多妻ならぬ一妻多夫というシステムで、女王は正式な夫の他に愛人が数人いるという噂である。
つまりゾラとロマナが未婚なのは彼女たちに結婚の意思がないか、彼女たちのお眼鏡に適う男性が現れないかのどちらかだろう。
これは王家に限らず一般庶民でも同様で、稼ぎがあって楽をさせてくれる男性でなければ結婚はしたくないと言う女性が多いそうだ。
その話を聞いたツグミは思った。
(女性は数が少ない上に気に入った男性がいなければ結婚しないなんて言っているから人口が増えないんじゃないの? 強制的に結婚させられるよりはマシかもしれないけど。この国の人口比はだいたい男性5:女性1だから単純に計算すれば男性の約8割が生涯独身ってことになる。だからエクトスから女性を買って、その女性とレプトの男性を結婚させたってことなのね。それでも大事にされているはずだから病気や飢えで苦しんでいることはなさそうで安心したわ)
出された料理は
それはヒエムスの人間に対して格の違いを見せつけたいというレプトの「見栄」で、ツグミからすれば化粧やブランド品を持つことで自分を飾り立てて価値ある人間のように見せかけている残念な人にしか見えない。
同性として尊敬できる対象ではないと判断し、翌日から始まる交渉においてもそれを踏まえた上で行うことに決めたのだった。
◆◆◆
再び政庁に呼び出されたツグミとニクラスは宰相執務室へと案内された。
前夜の招きはあくまでもプライベートなもので、今日から始まる交渉は公式なものという意味でもある。
出席者は前夜と同じくゾラとロマナ、ツグミとニクラスの4人だけで行われる。
もっともゾラとツグミのふたりで話を進め、ロマナとニクラスは同伴者という立場であり、ただひとりの男性であるニクラスは少々肩身が狭いようだ。
「さっそくだが、そちらの訪問の目的から話してくれ」
ゾラが上から目線で言う。
書状で用件は承知をしているのだが、改めて
ツグミは負けじと堂々とした態度で端的に答えた。
「ヒエムスにおいて捕虜とした貴国の軍人を全員引き渡す代わりに我が同胞の女性たち15人を返してもらいたい」
するとゾラはくだらないという顔つきで言い放った。
「却下だ。まったく話にならぬな。
「その言い方ですと彼らをレプト国民として認めたくないというように聞こえます。本来であれば捕虜といえどもレプト国民なのですから、政府は全力をあげて彼らを保護する義務があると思うのですが」
「我がレプトでは優秀な男は子孫を残すために必要とするのだが、そうでない者は単なる労働力として農場や鉱山で力仕事に従事して一生を終える。男が女性よりも優れている点は力があるというだけだ。それすらもトリオン体になれば女性でも生身の男を上回る力を出せるのだから、頭脳や器量でよほど秀でていなければ意味はない。すわなち価値ある存在であれば保護するが、そうでない者は我が国には不要なのだ」
「なるほど…そのお考えは一理ありますね。女性の数が少ないのですから、女性側からすれば男性は選び放題。男性も結婚をしたいと思えば女性に対して自分がいかに優れているのかを知ってもらおうと働きかける。軍人、特にトリガー使いとして活躍すれば女性は惹かれる。単純な肉体労働に従事している男性と比べて力強くて魅力的ですから。その軍人が簡単に敵に捕らわれてしまい、惨めな姿で帰って来たのですからそっぽ向かれるのは当然でしょうね」
「わかっているではないか。やはりお主も男どもを従える立場にあるのだから我々の考え方を正しく理解しておる。ならばこの取引が成立しないことも納得できるはずだ」
「理解はできても納得できるかどうかは別物です。…では捕虜となっている46人の身柄はそちらでは必要ないとおっしゃるようですので、こちらで引き取らせていただきます。そうなると三門市民の女性たち15人を返していただくには別の方法が必要ということになりますね。
ツグミはレプトの「女尊男卑」の考え方では捕虜となった兵士たちを返したところで辛い仕打ちが待っていると察して彼らを
そうなると拉致被害者の女性たちを救出するには別の方法が必要で、当初の取引案を進めるしかない。
「我が国が望むものだと? …フッ、そんなものはない。ヒエムスと違って
「それが事実であればこちらも無理に連れて帰ろうとは思いません。ですが
ツグミがそう言うとゾラの眉間にしわが寄った。
それは彼女にとって都合が悪いという意味で、つまり真実を知られてしまうと化けの皮がはがれてしまうという証だとツグミは察した。
「もしここで閣下が頑なに拒むようであれば逆に何か不都合があって面会ができないのではないかと疑ってしまいます。それにわたしは子供の使いではありませんので、閣下の言い分を信用して上官に報告するだけでは済みません。何らかの証拠となるものが必要ですので、このままでは引き下がることはできません。いざとなれば武力によって要求を突きつけるという乱暴な手段を用いなければなりません。幸いにもこちらには優秀なトリガー使いが20人、祖国に見捨てられたレプトの兵士46人がいつでも戦えるよう準備をしています。他にも卵の状態のトリオン兵が数百匹いるということもお忘れなく。…あ、ちなみにミリアムの
ツグミはそう言ってミリアムの
ゾラもミリアムの
なにしろキオンが20年以上も探していて
「…わかった。本人の意思を尊重して無理やり連れ帰るようなことをしないと約束するのなら
「承知致しました。では15人の女性が全員集まったところでご連絡くださればわたしとわたしの上官である忍田本部長がまいります。そこで彼女たちの本人確認をし、
判断は拉致被害者の女性たちに任せてボーダーはその手伝いをする
ここで拒否すれば痛くもない腹を探られることになり、ボーダー側の心象を悪くすることが得にならないと理解しているなら答えはひとつだ。
「よかろう」
するとツグミは笑みを浮かべて言った。
「それでは今日はこれで話し合いはおしまいですね。閣下のご厚情に対してお礼をさせていただきたいと思います。実は閣下に贈り物を用意してございます」
「私に相応しい贈り物だと? それは何だ?」
「洗顔・洗髪専用の
ニクラスは運んで来たダンボール箱をテーブルの上においてふたを開く。
するとそこには普通のドラッグストアで売っているシャンプーとコンディショナー、洗顔クリーム、化粧水と美容液、バラやラベンダーの香りの入浴剤がきれいに詰められている。
簡単に使用方法を説明すると、ゾラだけでなくロマナも目を輝かせていた。
「なかなか良さそうなものではないか。こういう気遣いできるとはそれなりに賢い娘なのだな。賢いのであれば愚かなことを考えることもなかろう」
「もちろんです。ボーダーは貴国と事を構えることを望んではいません。望んではいませんが、
レプト軍の捕虜との交換は成立しなかったものの、当初の計画どおりには進みそうであった。
ゾラは拉致被害者の女性たちを返したくないようだが、本人の意思を最優先するとなれば他に方法はない。
仮に帰国せずにレプトに永住するというのであれば彼女たちの幸せのためにできることをすればいいだけで、必ずしも全員を帰国させなければならないということではないのだから。
もちろん帰国すれば残されたレプトの家族のこともあるので、いずれ自由に行き来できるようにして彼女たちが気軽に「里帰り」できるようにすることが今後のツグミの仕事となる。