ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ボーダーの遠征艇に戻ったツグミはすぐに忍田たちに交渉の報告をした。
その流れの中で捕虜としたレプトの兵士46人が帰国しても不遇な人生を送ることになりそうだと話し、ニクラスが彼らを亡命者として扱うことにすると提案をした。
本人たちが納得すれば問題はないようだが、祖国のために戦った兵士たちがその祖国に見捨てられるという現実を告げられるのは辛いことになるはずだ。
レプトという国の徹底した「女尊男卑」の思想は忍田たちにとっても想像以上のものだったらしく、だいぶショックを受けているようである。
この国では女王が絶対的な権力を握り、彼女の一族の女性が要職に就くということで「女性が国を動かす」と認識して、有能な男性の遺伝子だけを残すことでより優秀な子供を生み育てるという循環によって国を強く豊かなものにしようという
実際に政庁で働く職員は女性ばかりで、男性の姿は見かけなかった。
その代わりに街の中で働いているのはほとんどが男性である。
ヒエムスなど他の国では市場で物売りをしているのも買い物をしているのも女性が多かったが、レプトではその両方が男性ばかり。
重いものを運んだり汗を流す労働は全部男性の仕事らしい。
適材適所と言えばそのとおりだが、そのような仕事をするのは女性を労わるためではなく、
しかしこれはレプトの国是であり、口出しすることは「相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉」の原則に反することになるので厳禁である。
したがってレプトが
遠征部隊のメンバーはまたもや暇を持て余してしまった。
レプト側が武力行使となればボーダー側は専守防衛として戦うことになるが、相手が出て来なければ戦う正当な理由がないのでやることはない。
しかしいつでも出撃できるように準備はしておかなければならず、遠征艇の周囲で模擬戦をしたりサッカーやバドミントンなどのスポーツをする程度の自由はあったから時間つぶしにはなったようだ。
レプト軍の兵士たちにはツグミが自ら事情を説明し、彼らは
彼らの反応からするとそうなることは覚悟をしていたようで、むしろ国内での待遇改善のためにヒエムス侵攻で功績を残そうと遠征軍に加わったということだった。
司令官のボスマンですらベテランのトリガー使いであったが能力の衰えを感じ、ここでヒエムスを制圧すればもうひと花咲かせることができると考えてのことであった。
だからヒエムスで亡命者として引き受けてくれると知ると彼らは複雑な気持ちになった。
敵であった国に保護されるからということではなく、むしろ彼らにとって居場所を失った自分たちを受け入れてくれるヒエムスに対して感謝している。
だが46人のうち37人には親やきょうだいという家族がいて、さらに4人には妻子がいる。
亡命するとなれば彼らは家族と離れ離れになってしまうことになるわけで、単純に喜んではいられないのだ。
もっとも亡命をせずにレプトに残るとしても家族と暮らせるとは限らず、僻地の鉱山での強制労働となれば同じ国にいても会うことすら叶わない。
いっそ家族もヒエムスへ迎えることができるのなら良いのだが、現状ではそうもいかないだろう。
兵士として貴重な人材であるにも拘わずボスマンたち見捨てるというのは彼女のプライドが「負け」を認められないため。
そんなちっぽけな人間が宰相を勤めている国に未来などないとツグミは今後の友好的な交流を半ば諦めている。
だからこそ拉致被害者の女性たちを全員帰国させたいと考えているのだが、彼女たちがレプトで家族とともに快適な生活を過ごしているとなれば永住を希望する可能性は高い。
ゾラの言葉だけでは信用できないと、ツグミは自分の目で確かめることに決めた。
ひとまず政庁からの呼び出しがあるまでは待機ということになるのだが、ツグミ
見られたところで何の問題もないとゾラはボーダーのことを舐めてかかっているのだろう。
そして男性は不可という点がレプトらしい。
だがツグミはキオンのベテラン諜報員から諜報のイロハを教わった優秀な諜報員であり、そんな彼女が街の中を歩き回ればいくら隠し事をしていても情報はダダ漏れとなる。
ゾラの最大の失敗はボーダー側の相手がツグミであったことだ。
レプトでは男性は女性よりも低く見られているからその彼女たちの常識をついツグミたちにも当てはめてしまい、彼女が交渉の責任者であることは男性陣に外交の能力がないためだと考えている。
たしかに城戸や忍田にとって
ゾラが自分の国の
◆◆◆
ツグミは例によって現地
これがアフトクラトルやヒエムスなどの国であれば女性は市場で商売をしていたり買い物をするために店を見て回っているものなのだが、レプトではそれは男性の仕事である。
したがって働いている女性の姿は見られない。
ところが若い女性もたまに見かけることがある。
それは結婚適齢期とされる15から25歳くらいの庶民階級の女性で、自分の結婚相手となる男性を探している場合だ。
好まれる男性のタイプは働き者で料理上手、胸板が厚く屈強な男性ということなのだが、食料事情が悪い
だからせめてどんな仕事でも文句を言わずに働き、貧しい食材を上手く使って美味しい料理を作ることで夫として相応しい相手であるとPRするのである。
そういうことでツグミは結婚相手を探している娘を装って街の中を歩き回って情報収集をすることにしたのだった。
(若い男性ばかりだわ…。ボスマンさんは歳を取って働けなくなった男性は野山に放置されてしまうなんて言ってたけど、あれってもしかしたら冗談とかじゃなくて本当のことなのかも? 日本の伝説にも口減らしのために高齢の親を山に捨てるというものがあるんだから、それと同じようなものが
街の男性たちは誰もが黙々と働いているのだが、ツグミが通りかかるとチラリと彼女を見る。
しかしそれだけでナンパしようという様子はない。
というのもレプトの男性はみだりに女性に声をかけることは禁じられていて、女性の方から声をかけるまで口を利くことはできないのだ。
(ここまで徹底しての女尊男卑だなんて驚きだわ。他の国では男女対等だけど男性が女性を大切にする習慣があるってレベルで、この国では明らかに男性が虐げられているように感じるもの。女性の数が少ないから単純に男性が結婚できずに生涯独身ってことになるのは仕方がないとしても、女性に選択権があって、結婚後も男性が女性の下僕状態というのは納得できない。拉致された女性たちはこんな習慣をどう感じているのかしら?)
自然界の生物においてメスがオスを選ぶというシステムは普通にある。
上手く巣を作ることができる魚とか踊りが上手な鳥のオスがメスを惹きつけるなど、他者よりも優れているものを持つオスをメスが選ぶのは自然の摂理だ。
しかしオスがメスよりも劣る存在だというわけではなく、メスが優秀な遺伝子を残すために本能で優れたオスを選んでいるだけである。
(誰かに話を聞いてみたいけど、下手に声をかけて
人が多い市場を抜けて住宅地へと足を向けたツグミ。
さすがに王都なだけあってどの家も立派なもので、石造りの家屋が整然と並んでいる一角に足を踏み入れたところで彼女は意外な人物と出会ったのだった。
黒いボブショートの髪型の女性は20代前半くらいの年齢で、妊娠をしているらしくお腹が少し膨らんでいる。
そして彼女のそばには3歳くらいの女の子がいて、ふたりは仲良く手をつなぎながらツグミのいる方へ向かって歩いているのだが、その母親と思われる女性は「森のくまさん」の歌を歌っていたのだ。
女の子はその歌を何度も聞いて覚えたのか、一緒に口ずさんでいた。
「あの、お聞きしたいことがあるんですが…」
ツグミは自分のそばを通り過ぎようとした女性に声をかけた。
「はい、何でしょうか?」
女性は立ち止まって微笑みながら答えた。
「もしかしたらあなたは6年前に
ツグミの言葉を聞いたとたん、その女性の笑顔が消えて少し寂しげな表情に変わった。
「ええ、そうです。ですがそれがどうしましたか?」
「わたしは三門市からあなたや他にこの国に売られた拉致被害者を救出するために来たボーダーという組織の人間です」
「救出」という言葉を聞き、女性は両目から大粒の涙をポロポロと零し、突然地面にしゃがみこんで大きな声で泣き出した。
女の子は母親の変化に驚き、何が何だかわからないとばかりに彼女も一緒に泣き出してしまう。
そんな母娘に対しツグミは同様にしゃがんで女性に優しく声をかけた。
「驚かせてしまってすみません。突然こんなことを言われたら動揺するのは無理もありません。ですがどうか落ち着いてわたしの話を聞いてくださいませんか?」
すると女性はゆっくりと顔を上げ、しゃくり上げながらツグミに訊いた。
「本当にあなたは日本人なんですか?
「ああ、これは現地の人間に似せたトリオン体に換装しているだけです。わたしはれっきとした日本人、三門市民ですよ。名前は霧科ツグミといいます」
「わたしは笹岡初音(ささおか はつね)です」
ツグミは記憶していた拉致被害者のリストの中から該当する人物の情報を頭に思い浮かべた。
「笹岡初音さん、たしか住所は朝日町3-2-8で、当時は六頴館高校の2年生でしたね?」
「はい、そうです! でもどうしてそれを…?」
「拉致被害者の方のデータはここに全部入っていますから」
そう言ってツグミは自分の頭を指さした。
「侵攻時、あなたのご両親とお兄さんは市外の勤務先や大学にいらしたので被害は受けていません。ですが部活動で登校していたあなただけが
ツグミが初音に家族の無事を告げると彼女は再び涙を流し出した。
6年前に突然平穏な日常を奪われ、家族がどうなったのかもわからない状態で見知らぬ国へ連れて行かれ、トリガー使いとしての訓練を受けたものの才能がないということで花嫁候補としてレプトに売られた17歳の少女。
6年という年月が彼女の家族に会いたいという願いを摘み取ってしまい、今を生きていくことで精一杯だったところに故郷から「救出するために来た」と言われたら感無量で泣いてしまうのは無理もないことだ。
「突然こんなことを言われたら驚きますよね。でもこれは事実です。たぶん政庁から呼び出しをされているんじゃありませんか?」
「そういえば…政庁の役人が明日の午前8時に政庁に出頭するようにという手紙を持ってきました。それが宰相閣下の命令だったので何があったのかと驚きました。それはあなたがこの国に来たことと関係あるんですか?」
「はい。わたしの所属しているボーダーは三門市と三門市民を脅かす
「じゃあ、わたしは帰れるんですか!?」
「こちらは全員を連れて帰りたいと考えていますが、レプト政府はあなた方を返したくはないようです。なにしろエクトスから高額で買った
「ありがとうございます。…それでもし良かったらもっと詳しく三門市のことを教えてもらえませんか?」
「もちろんいいですよ」
「でしたらわたしの家に来てください。すぐそこですから」
ツグミは初音に案内されて彼女の家に向かったのだった。
◆
初音の家は10畳くらいのリビングダイニング、3畳くらいのキッチン、そして6畳と8畳くらいの広さの寝室があるレプトの「子育て世代」の家としてはごく普通の間取りであった。
「お茶を淹れるので少し待っててください」
初音は娘を6畳の子供部屋で寝かせるとキッチンでお湯を沸かし始めた。
「いえ、おかまいなく。それに妊娠なさっているようですから無理はしないでください」
「大丈夫。5ヶ月だから安定期に入っているもの。それに少しは運動しないと後が辛くなるから。この国には産院なんてものがなくて、自宅で産婆さんに手伝ってもらうの。昔の日本みたいでしょ? マリアの時…さっきの娘を産んだ時は大変だったのよ。初産でまだ19だったからわからないことだらけですごく不安だったし、近所に産褥で亡くなった人もいたから」
初音は明るく言うが医療体制の整っていない
「レプトでは子供を産むと政府から報奨金が出て、それも女の子だと男の子の2倍貰えるんですよ。そして3人以上産んで成人…ここでの成人というのは15歳なんだけど、3人全員を成人させたらその夫婦は年金を貰えるので老後はだいぶ楽に暮らせるんですって。だからこの子も女の子だと嬉しいんですけど、無事に産まれてくれるなら男の子でもいいかなって思ってます」
そう言って初音はお腹を撫でた。
ツグミには妊婦の気持ちは理解できないが、子供を産み育てる女性が尊いことはわかる。
そしてきっかけは酷いものであっても優しい男性と出会って幸せな家庭を築いているのならそれで十分ではないかと感じていた。
しかし現実はそうもいかないらしい。
「この国では子供を産める若い女性がとても大事にされているの。肉体労働は全部男性がやってくれて、女性は子育てに専念できる。そう聞くと素晴らしいって思えるけど実際には女性は子供を産んで育てるために
初音はそう言って大きなため息をついた。
「女性が大事にされている理由は理解できましたが、だからといって男性を粗略に扱うのはおかしいと思いませんか? 他所の国でも女性は大切に扱われますが、こんな女尊男卑な方針の国はレプト以外でわたしは知りません」
ツグミの疑問はすぐに解けた。
「そんなの簡単よ。今の宰相閣下は男性が嫌いなの。特に貧しくて結婚なんて一生無理だと思える男性のことを汚らわしいって毛嫌いしているから。なぜかわかる?」
「いいえ」
「メスと
「はぁ…」
「女王陛下も男性のことはお嫌いだったけど後継者を残さなければならないからどこかの名門貴族の男性と結婚したそうよ。ところがその人が若くてたくましい男性だったものだから、今では8歳から2歳まで3男1女の母親。彼女には愛人もいて、それを合法化するために法律を一妻多夫に変えたっていう噂があるくらい。だけど宰相閣下は生涯独身かも。あの方はとても優秀な政治家で前女王の次女だからプライドがものすごく高いの。そんな女性を満足させられる完璧な男性なんてこの国にいるわけないから」
「……」
「とにかく男性にとってはパートナーが見付からないと苦労する国よ、レプトって。…あ、それからわたしたちみたいな
「不便だという話はヒエムスで救出した女性たちから聞いています。トイレが温水洗浄便座じゃなかったりトイレットペーパーが超高級品で貴族しか使えなかったり。シャンプーやボディソープといったものがなく、全部洗濯する時と同じ石鹸で洗わなければならないとか」
「そうそう。生理用品も使い捨ての紙ナプキンがないから毎月憂鬱だったわ。それでも妊娠中はそれがないから楽になるけど。それにお風呂の水汲みは男性の仕事だから楽ができるけど、4-5日に1回くらいしか入れないから夏場は汗をかくと気持ち悪くってたまらない。わたし、温泉が大好きでよく家族と一緒に温泉旅行をしていたんだけど、その時のことがすごく懐かしいって思うことがある。ああ…日本に帰りたいなぁ…」
最後の「日本に帰りたい」が初音の本心であり、他の女性たちも同様に思っていることだろう。
しかし一時帰国なら良いが
初音のような若い女性はレプトにとって財産であり、それをみすみす手放すようなことはありえないのだ。
(でもヒエムスの時と同じであのゾラ宰相に15人の女性よりも価値がある思うものと交換すると提案すれば効き目はあるはず。いちおう
それから1時間ほどツグミは三門市の現在の様子を話し、初音のレプトでの暮らしぶりについて話を聞き、マリアがお昼寝から目覚めたところでツグミは艇に戻ることにした。
短い時間ではあったが拉致被害者の女性がレプトでどのような暮らしをしているのか「生の声」を聞くことができたので大きな収穫となったのだった。