ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
迎賓館の庭にはトリオンを使用する照明器具があり、通路の足元をぼんやり照らしているため恋人同士の夜の散歩にはぴったりのロマンチックな雰囲気が漂っている。
ツグミは自分の腕を迅の腕に絡め、身体を寄せて甘えた様子でいる。
三門市にいる間はふたりともいろいろ忙しいのでふたりきりの時間を持てず、なによりも常に人目があるものだから恋人らしいことをしようとしてもなかなか機会がない。
だからこれはふたりにとってまたもないチャンスなのであった。
「おいおい、今夜は妙に積極的じゃないか。何かあったのか?」
「別に何かあったというわけじゃないんですけど、いろいろ思うところがありまして…」
そう言ってからツグミはひと呼吸おいて続けた。
「わたしは周囲の人たちの手助けがあって自分のやりたいことをさせてもらっています。それってわたしにしかできないことで、みんながわたしに希望を託してくれているというのですからwin-winであって気にすることではないのかもしれません。でも結果的にみんなのためになっていますが、それはわたしひとりで達成できたものではありません。そうなるとわたしがワガママを言って周囲の人間を巻き込んでしまっているんじゃないか…と。それにわたしが何もしなくても時が経てば解決することだったり、誰かが代わりにやってくれるのにわたしが出過ぎたことをしているだけなのかもしれないんです」
すると迅が優しく諭す。
「バカなことを言うんじゃない。おまえは俺たちにできないことをやっているのは間違いないし、周囲の人間を巻き込んでいると言ってもみんなが喜んでいるんならそれで十分さ。ワガママだなんてことはない。それに誰かが代わりにって、三国同盟締結とかアフトを仲間に引き入れるなんてことどこの誰にできるって言うんだ? おまえだからできたこと。いや、おまえ以外にそんなこと考えることすらしないぞ。キオンを味方にできたのはおまえがゼノン隊の3人を助けたいと自分の身の危険を承知でキオンまで行って総統と交渉したからで、それがあったからアフト遠征は成功してC級を無事に連れて帰ることができた。第一次侵攻の拉致被害者市民の救出だって順調なのはボーダーがキオンと同盟を結んでいるという事実があるからこそで、すべてはおまえの勇気と
「ジンさんは優しいですね。わたしはその優しさに甘えすぎていて、自分を優先して恋人であるあなたのことを蔑ろにしているんじゃないかって不安なんです」
「俺のことを蔑ろにしているって? 何を根拠にそんなことを言ってるんだ?」
驚く迅にツグミは顔を見られたくないとばかりに下を向いて答えた。
「…ジンさんはわたしとセックスしたいって気持ちはないんですか?」
「へ?」
ツグミの口からそんな露骨な言葉が出るとは思ってもいなかったので、迅は間抜けな声を出してしまう。
そして返答に悩みながらも、自分の正直な気持ちを打ち明けることにした。
「う~ん…おまえのことは愛しているし、俺もできることならしたいって思ってる。俺も人並みに女の子の身体に興味はあるし、性欲だってある。だからえっちなことをしたいと思うのは自然の摂理であって後ろめたいって気持ちはないな。それで目の前に好きな子がいれば触りたくなるし、裸もみたいって思う。今もおまえがいいって言えばすぐにでも抱きたい。念の為に言っておくけど、誰でもいいってわけじゃなく、おまえだからしたいって思うんだぞ。だけど忍田さんとの約束もあるからな…」
それは本心から言っているのだが、自分で言っていてそれが言い訳や弁解のように聞こえてしまう迅。
内心で「マズったかな?」などと思っていると、ツグミが申し訳なさそうな声で言う。
「ごめんなさい、ジンさん。やっぱりわたしがあなたに我慢をさせてしまっているんですよね? わたしが真史叔父さんと約束してしまったから。わたしの自己満足のためにあなたの気持ちを無視して約束をして、それをあなたにも守らせているから我慢をしてもらうことになってしまう。わたしが20歳になるまで忍田ツグミでいたいってワガママを言っているから結婚できるのもまだ2年も先になるわけで、それまで ──」
ツグミがそこまで言いかけた瞬間、迅は右手の人差し指を立てて彼女の唇にそっと当てた。
「そこまでだ。おまえが何と言おうとも俺は2年後を楽しみに待っているだけだ。そりゃおまえを抱きたいと思っておまえがいいと言っても、俺は忍田さんに顔向けできなくなるようなことは絶対にできない。だって俺の
「でも…」
「…ところで何で急にそんなことを言い出したのか、そっちの方が気になるな。まさかおまえの口からセックスなんて言葉が出るなんて想像もしていなかったぜ。何があったんだ?」
迅はツグミを拒絶するのではなく、理解をしようという意味で訊いた。
彼女の気持ちがわかれば寄り添えると考えたからだ。
「それは…」
言いにくそうではあるが、隠すことよりも正直に打ち明けるべきだと考えたツグミは言う。
「去年の2月に訪問した際にわたしは女王陛下と約束をしました。それはわたしが20歳になるまで『猶予』をもらい、それまでの間にわたしは自分のやりたいことをやって心置きのないようにするというもので、わたしが20歳の誕生日を迎えた100日以内にエウクラートンへ来て戴冠式を行うことになっています。それについてはジンさんにも説明しましたから知ってますよね?」
「ああ。俺もそれを承知で結婚をしてからおまえと一緒にこの国で暮らす覚悟を決めたからな」
「実はリベラート殿下の奥様であるイレーネ妃殿下がご懐妊になったんです。現在は5ヶ月ということで、もしそのお子さまが女児であれば女王後継者候補となります。その女児が成長して次期女王と決定すれば、わたしはその責任を全うしたということで解放されます。つまり中継ぎであり、女王のお役目がなくなればわたしは三門市に帰り普通の暮らしに戻ることができるんです。わたしにはエウクラートンの血が半分しか流れていませんが、リベラート殿下とイレーネ妃殿下のお子さまであれば純粋なエウクラートン人となり、その方が王家だけでなく国民にとっても喜ばしい。それにわたしとジンさんの子供だとエウクラートンの血は4分の1ですから、もしかしたら
「それはいいことだと俺も思うが、それとどんな関係があるんだ?」
「だって妃殿下は19歳で63歳のリベラート殿下との間に子供ができたんですよ。正式に結婚して半年で妊娠。前妻との間には子供ができなかったのは女性の側に問題があったということは明らかです。なにしろミリアムさんは16歳でオリバ…父を出産しているんですから。そうなるとリベラート殿下が若い頃はもちろんのこと60歳を過ぎでもまだ十分に行為ができるということ。男性の性欲がどのようなものなのかはわかりませんが、少なくとも好きな女性とはそういうことをしたいという気持ちがあって、女性側もそれを受け入れることが当たり前なんじゃないかって思えてきたんです。それに第一次侵攻で拉致された女性の何人かは15-6歳で結婚して出産もしています。結婚自体は強制されたものですが、
迅はツグミの話を黙って聞いていたが、彼女がそんなことで悩んでいたと知ってこれまで以上に愛おしいという気持ちが溢れ出てきた。
そして優しく抱きしめると耳元で囁くように言う。
「おまえが俺のことを愛してくれていることは良くわかった。おまえが世界で一番大好きな忍田さんに約束したことを守りたいという気持ちと俺に対する愛情の板挟みになっていて苦しんでいることも。だけどおまえが苦しむことなんてないさ。それに俺は我慢をしているなんて思ってはいないんだ。そりゃあ性欲はあるからその発散はしないとツライが、だからっておまえを抱こうとすればそれは自分のためにおまえを利用していることと同じだ」
「わたしはそんなこと ──」
「いいや、俺はそんな気持ちでおまえを抱きたくない。そんなことをするくらいだったらひとりで何とかするさ。そういう方法はいくつもあるし、これまでもそうしてきた。そんな俺を穢らわしいとか思うか?」
「そんなことはないです。それにジンさんがそう考えているのならわたしにはもう何も言えることはありません」
「なら、それでいいじゃないか。…だけどおまえにも自分でどうしようもないことにぶち当たって解決策が見付からないからって諦めることもあるんだな」
迅が少し意地悪なことを言うが、ツグミには反論する気さえ起きない。
「それは…そうですよ。だって真史叔父さんとの約束は絶対で、選択肢はふたつしかないんですもの」
「選択肢がふたつ? ま、普通ならそう思うだろうな。だけどいつものおまえなら抜け道を探してどうにか丸く収まるように解決させてしまうというのに、今回に限ってはもうお手上げってか?」
「そんなことは…ないとは言えませんね。たしかに自分が悪いと自ら責め、あなたに申し訳ないと謝るだけでおしまいにしようとしましたから。それにいつもなら裏ワザを考えたり多少卑怯なことをしたりと何とかして解決する道を考えるんですけど、これはプライベートでデリケートなことですから…。ジンさんの言いたいことは良くわかりました。この件については聞かなかったことにしてください。わたしがバカでした」
「うん、それでいい。俺も聞かなかったことにするし、これまでどおりに仲の良い恋人同士ってことで約束の日を待つことにするよ」
「ありがとうございます、ジンさん」
ツグミの顔に笑顔が戻ったところで迅は思い付いたかのように言う。
「そうだ、ひとつ頼みがある」
「頼み? 何ですか?」
「それはその『ジンさん』って呼び方なんだが、結婚すればおまえだって『迅』になるわけで、いつまでも俺のことを『ジンさん』って呼ぶわけにはいかないんだぞ。だからこうやってふたりきりの時には『悠一』って名前で呼んでもらえたら嬉しいな」
「そうですね。じゃあ、ふたりの時には名前で呼びますね、悠一さん」
ツグミは生まれて初めて愛する人の名前を口にした。
初めて会った時からずっと彼女にとって迅悠一は「ジンさん」で、迅本人も周囲の人間には「迅」と苗字で呼ばせていた。
そんな迅がツグミにだけは名前で呼んでほしいと言うのだから、世界で唯一特別な存在であると考えているのは間違いない。
(ま、今はこれでいいとするか)
迅はツグミに強がって見せたが、実際に煩悩の塊であって彼女を抱きしめている今もカッコつけたいものだからじっと歯を食いしばっているのである。
それを悟られずに済んだが、ツグミからは「とても優しくて理性のある立派な男性」認定されたことで聖人君子とまでは言わないが紳士として振舞わなければならなくなった。
それでもツグミが笑顔でいてくれることが一番で、もう自分のことで彼女の顔を曇らせまいと心に誓う迅であった。
◆◆◆
滞在期間が短いためにツグミのスケジュールは分単位のものであった。
翌日は午後から国会に出席して三国同盟へ新たにアフトクラトルが加入することになった経緯や、
さらにその翌日は午前中から大臣や主要な地方領主の何人かと懇親会を行い、そこで領民たちがどのようなものを必要としていて、それがボーダーで支援できるものかどうかなどについて話し合った。
そしてそういった対外的な仕事の合間にはエレナと一緒にいて話し相手になり、女王としての役目を果たすために失われてしまった彼女の人としての大切な部分を埋めることに努めた。
ツグミにとって彼女の健康は重要なことである。
もちろん大叔母であるから健康を取り戻して長生きしてもらいたいのは当然なのだが、彼女が2年以上女王としての勤めを果たせるのであれば2年後のツグミの女王就任も延期される可能性も生まれる。
その間に皇太子夫妻の娘が成長して女王を継ぐことができるようになればツグミはエウクラートンの女王にならずに済むのだからここは何としてでもエレナには女王を続けてもらいたいのだ。
逆に2年を待たずに彼女が女王を退くことになれば、ツグミはその時点でエウクラートンに渡って女王とならざるをえないという約束になっている。
今のところ医師の指示どおりに生活しているし、皇太子妃の懐妊の知らせはエレナの健康回復の一助となっているのは明らかで、ツグミが心配するようなことにはならないだろうとのこと。
だからエウクラートンのことで頭を悩ませることはなく、ボーダーの総合外交政策局長として役目を果たすことだけを考えればいい。
そしてわずか4日間の滞在を終え、ツグミと迅はエウクラートンを発つのだが、その時にオーラクル家の主治医と従者も一緒に三門市へ向かうことになった。
それは皇太子夫妻の赤ちゃんが無事に生まれ、健やかに育つようにと
どの時代、どの世界でも出産は女性の命懸けの仕事であって、安心して出産できる環境を可能な限り備えて臨まなければならないことだ。
しかし
さすがに
そういった理由でツグミは自分の判断で
◆
エウクラートンからの帰途についたツグミと迅。
艇にふたりきりであることは往路と変わらないのだが、ツグミが迅を「悠一」と呼ぶようになったことで艇内は甘い空気が漂っていた。
往路ではお互いに遠慮がちで別々の居室で過ごす時間が長かったが、復路では常に一緒にいるようにして睡眠時間には同じベッドで身体を寄せ合って眠るようになったくらいだ。
シングルサイズのベッドにふたりが横になるのだから窮屈だが、それでもツグミが素直に甘えるようになったものだから迅は嬉しくてたまらない。
もちろん性交渉はないのだが、お互いに半裸になってキスをしたり相手の性器を手で愛撫するところまでは許されるだろうとツグミが言い出したのだ。
彼女に言わせれば「性行為とは男性器と女性器に挿入する行為である」ため、それがなければ忍田との約束を反故にしたことにはならないとのこと。
迅は自分のやせ我慢を承知して、彼女が自分を喜ばせたいとの一心で考えに考え抜いて出した答えを拒否するはずがなく、夜 ──
そもそも忍田に対する後ろめたさがなければふたりとも気持ちはひとつなのだから何の抵抗もない。
それに子供が戯れている程度で、21歳と18歳の男女の行為だとすればあまりにも幼いものだ。
そして
◆◆◆
4日間の航海の後、2隻の艇が三門市に到着した。
国際港として使用している旧三門軟石の採石場跡にはボーダーの出張所ができていて、そこに防衛隊員が交代で滞在して
これは
三門市北部の山間部に
これをボーダーがアフトクラトルに命じて
この日の当番は三輪隊で突然現れた艇に驚くが、それがボーダーの艇であり同伴しているのがエウクラートンの王家の紋章を付けた艇であったために大騒ぎにはならずに済んだ。
そして本部基地に連絡をしてもらい、迎えの車を呼ぶ。
時間は午後5時を過ぎていたので辺りは暗闇に沈んでいたが、20分もすると車のヘッドライトが近付いて来るのが見え、ツグミたちの待つ出張所の建物の前に停まった。
その運転手はこともあろうか忍田で、ツグミのことを心配して自ら迎えに来たようだ。
彼はツグミと迅がふたりきりで渡航することに不安を抱いていたのだろうが、ふたりの態度に変化がなかったために勝手に安心したのだった。