ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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532話

 

 

オーラクル家は代々エウクラートンの女王を輩出している最も尊い家系であるから最高水準の医療体制が整えられており、国内で一二を争う優秀な医師が主治医となっているのは当然である。

とは言え近界(ネイバーフッド)の医療レベルが玄界(ミデン)の数百年前のもので、玄界(ミデン)であれば庶民でも受けられる医療が近界民(ネイバー)だと皇族や貴族であっても受けられずに死亡することは珍しくない。

単純に比べることはできないが、玄界(ミデン)で中世から近世と呼ばれる時代の文明レベルに近く、その時代にトリオンという生体由来のエネルギーの文明を発展させたものが近界(ネイバーフッド)の世界と考えればわかりやすい。

病気の原因が判明しなければ治療方法など確立できるものではなく、上下水道などのインフラの未発達は衛生面でもデメリットとなる。

特に乳幼児と妊産婦の死亡率は非常に高く、玄界(ミデン)における開発途上国並だ。

これが改善されたら人口増が見込めるために十分な食料さえあれば国力は上がるというもの。

それもトリオンに依存しない技術の導入によってトリオンを得るための愚かな戦争もなくなることが想像できる。

したがってまずは近界(ネイバーフッド)玄界(ミデン)と同レベルの医療ができる医師を増やすことが最優先で、それに気が付いたレクスは自ら医師になる道を選んだ。

なにしろ近界(ネイバーフッド)の医師は日本でいう江戸時代から明治時代にかけての頃と似たようなもので、王家の主治医といっても正式に医学を学んだのではなくこれまで多くの患者を治した医師 ── 正しくは治したというよりも単に症状を緩和させ、軽症の患者は完治して重症であった場合は死亡している ── が王家に取り立ててもらっているだけだ。

だから待ち望まれている皇太子夫妻の子供の出産には玄界(ミデン)の知識と技術を頼りにし、万全の体制を整えようというのだ。

もちろんこれは()()に過ぎず、いずれは玄界(ミデン)に医師や医師を目指す若者を留学させてエウクラートン国民すべてのために働いてもらおうとエレナは考えている。

その受け入れについての交渉も兼ねて主治医を玄界(ミデン)へと派遣したのだった。

45歳の女医トゥーナと24歳で軍医見習いのクルトは弓手町の寮でツグミたちと生活を共にし、約1ヶ月の間三門市立病院で研修をすることになった。

彼女たちが近界民(ネイバー)であることは病院関係者には周知させることになるが、住む世界が違おうとも人命を救いたいという同志であることに違いはなく、スマートシティ内の診療所に出向している仲間もいることから受け入れは容易であると判断された。

 

 

本部基地で城戸と面会してツグミが事情を説明し、トゥーナとクルトが女王からの親書を手渡すという「儀式」を終えると、迅の運転する車で一緒に食事に出かけた。

現在はゼノンとリヌスが出張中で、テオは家族と一緒にスマートシティ内で暮らしていて、レクスがアフトクラトルから帰って来ていないので寮には誰もいない。

そこで夕食は4人で外食となり、トゥーナのリクエストで蕎麦を食べに行くことになった。

エウクラートンでは主食は小麦だが、首都から離れた一部の農地ではソバを育てているのだそうだ。

それは(マザー)トリガーのある首都を中心として中心に近いほどトリオンが多く供給されるために土地が肥えて良質な作物が育つのだが、離れるとだんだんトリオンの量が減るために土地はやせ細っていく。

そんな土地では小麦の育成には向いていないため、辺境の農家はソバを育ててそれを主食としているという。

エウクラートンに限らず小麦が育たない土地ではソバを育てて、そば粉生地を薄く伸ばして焼いた「ガレット」を食べる文化は近界(ネイバーフッド)に広く分布しているが、麺として食べることはないらしい。

そんなソバを麺として食べることが一般的だという日本の文化に興味を抱き、三門市に着いたら蕎麦を食べたいと言っていたトゥーナの希望を叶えることにしたのだった。

見た目も味も想像していたものとまったく違ったようでトゥーナだけでなくクルトも驚き、そしてカツオや昆布を使った出汁や醤油という未知の味に戸惑いながらも味わいながら食べてくれたようだ。

そして小麦粉を使ったうどんにも興味を持ち、翌日の夜は鍋料理にしてシメにうどんを入れることになった。

 

 

レジデンス弓手町に着くと空き部屋になっている4階の2部屋をトゥーナとクルトのふたりにひと部屋ずつ使ってもらうことになり、いつものように部屋の中にある照明や電気、水道などの使用方法を説明するとふたりは驚き、そして感激していた。

どの近界民(ネイバー)であってもほぼ同様の反応をする。

それは庶民であろうと貴族であろうと差はなく、ツグミたちが生まれた時から当然のように存在するものが近界民(ネイバー)にとっては珍しく驚嘆すべき技術なのだと実感してしまう。

トリオンの存在を認識してそれを使った文明を発達させるがトリオンが足りないと強者が弱者から奪ってきた近界(ネイバーフッド)と、トリオンの存在を知らず別の道を進む段階で地球にある資源を食い潰すように使って進歩してきた玄界(ミデン)

現在の状況だけを見れば玄界(ミデン)に軍配が上がりそうなものだが、近界(ネイバーフッド)の国々が(マザー)トリガーなしに存在しえない状況であるからには仕方がないことであろう。

ならば双方の長所を取り入れて短所を補うことができれば今よりはるか高みを目指すことは可能だ。

近界民(ネイバー)たちが玄界(ミデン)の文明を取り入れてより一層豊かな暮らしをしたいと思わせることがポイントで、それも武力ではなく対話や協力によって得られるとなれば彼らだって無茶なことはしなくなる。

こうして何人もの近界民(ネイバー)の反応を見ているツグミだから確信できるのだ。

さっそくトゥーナとクルトは風呂にたっぷりの湯を張り、ボディソープとシャンプーを使って生まれて初めての入浴(経験)を楽しんだのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

ゼノンとリヌスと麟児の3人が帰国した。

彼らは約4ヶ月前に玄界(ミデン)を発ち、拉致被害者市民救出計画の次の国をどこにすべきか決めるために該当する残りの7ヶ国に潜入してその国の治安や兵力、また現地での庶民の暮らしぶりなどを調査して情報収集を無事に終えた。

その情報を精査して次の遠征先を決めるのである。

単純に拉致被害者市民の数が多い国を優先するというわけにはいかない。

対象となる国が現在第3国との戦争の真っ只中であればそこにボーダーが乗り込んで行くことは危険を伴うが、トリガー使いとして使役されている者たちを一刻も早く救出したいと考える。

また国によって事情が違うため、トリガー使いを優先して欲した国があれば花嫁となる女性を多く購入した国もある。

そうなるとどちらを先に救出するのかを問われても正解というものはないのだ。

そこで現在の対象国の状況と玄界(ミデン)との距離を考慮し、さらにボーダーが拉致被害者市民の返還を要求して条件によっては()()()答えを出してくれそうな国から交渉することに決まった。

それは可能な限り早く「結果」を出すことによって三門市民の感情に配慮するのはもちろんだが、近界(ネイバーフッド)におけるボーダーの影響力を広めるためである。

すでにボーダーがアフトクラトルを倒したこと ── 噂が広がるたびに尾ひれが付いて話が大きくなり、ボーダーがアフトクラトルを従属国にしたというガセ情報が庶民レベルには流れている ── やキオンと同盟を結んだこと、ヒエムスとレプトではエクトスから入手した三門市民を返還することで玄界(ミデン)との結びつきを強めて以前よりも国力が増しているなどの真実と虚偽が混じった不確実な情報が広まっている。

これはボーダーにとって都合の良いことであり、三門市民のいる国の政府は彼らを返還してヒエムスやレプト以上に利益を得ようと考える者もいるだろうし、ボーダーを敵に回せばキオンも敵になってしまうと考える者も出る。

つまり救出した人数よりも交渉に成功した国の数を増やせば、それだけボーダーとの交渉に応じようと考える国が出る。

ただし現在激しい戦闘が行われている国では交渉どころではないだろうから、後回しにせざるをえない。

そして拉致被害者市民の人数を考慮しないのは、彼らがその国では大切に扱われているという事実があるからだ。

高額で買った人間を死なせてしまってはならないと、政府が手厚く保護しているので今のところ死亡した拉致被害者市民の情報はない。

そうなると一刻を争うという緊急事態ではないので、申し訳ないが戦争中の国は後回しにさせてもらう。

そういった理由で残り7ヶ国の順番を決め、「第3回拉致被害者市民救出遠征」を行うために総合外交政策局を始めとして各関係部署が動き出した。

 

 

 

 

次の遠征先の「ラグナ」は玄界(ミデン) ── こちら側の世界に近付く軌道を持たない惑星国家である。

近界(ネイバーフッド)の中においてそのような国は珍しいものではないが、そんな国であっても玄界(ミデン)の存在は知られていて「玄界(ミデン)へ行けばトリオン能力者やトリオン器官を狩り放題」だというとんでもない噂がこの国でも広まっていた。

ラグナは9年前に首都で()()()()()が起き、首都はおろか半径2000メートルが巨大なクレーターとなってしまった。

(マザー)トリガーこそ無傷であったものの、当然そこにいた住民はすべて消滅し、国王や政府の人間も全員死亡してしまったのだが、運良く首都を離れていた国王の8歳の姪が無事であったために彼女が新女王として王座に就いたのだった。

大爆発とはトリオン研究施設において開発中だった新兵器の起動実験の失敗によるものだと噂されているが、真実を知る者たちが消えてしまったために真相は闇の中だ。

そして首都とその近郊に住んでいた住人が消えたことで人口の約4割が減ってしまい、残った7万弱の国民たちは新しい女王と共に国を立て直すために行動を開始した。

元々この国はトリガー開発に関しては先進国だったのだが、その研究施設や資料、そして技術者(エンジニア)がすべて消滅したために残ったものは国土と国民のみ。

おまけに若い男女の多くが首都近郊で暮らしていたために生き残ったのは郊外で暮らしていた中年から老人が多く、総人口の半数以上が40歳以上であるから今後人口が増える可能性は非常に低い。

そこで政府はエクトスから若い男女を購入することにした。

他国と戦争をしていないラグナが購入した男性13人と女性31人の合計44人はトリガー使いではなくすべて一般人である。

つまり単純に子供を産んで育ててもらう要員なのだ。

トリガー使いとして役に立たない男女は比較的安く買うことができたためなのだが、44人というのはラグナにとって大きな賭けであった。

国の主要産業であるトリガー開発の拠点を失ったことで他国から侵攻される心配はなくなったが、玄界(ミデン)の人間がラグナで生きていくことと住民たちと馴染んでいくかどうかの不安があったのだ。

通常なら逃亡を防ぐためにバラバラにしてしまうのだが、女王は監視の容易な新しい首都の一角に三門市民全員をひとつの居住エリアに住まわせて、そこにほぼ同数のラグナ国民を一緒に住まわせることにした。

異国で孤独になれば心身を壊すことになるが、同胞がそばにいてくれるとなれば安心して暮らせるというもの。

そしてラグナの人間が彼らをサポートすることで早いうちにラグナでの生活に慣れていく。

このやり方は上手くいったようで、約6年の間に三門市民同士の結婚やラグナ人との結婚などによって20組以上の夫婦ができ、子供は30人以上生まれている。

また幸いなことに三門市民の中には医師と看護師の夫婦がいたこともあり、44人の拉致被害者市民とその家族は無事に6年を過ごしていたのだった。

この政策は成功しているのでラグナ政府が三門市民を返してくれるかどうかはわからないが、それ以上に価値のあるものを提供すれば不可能ではない。

ラグナで必要なのは働くことのできる若い国民で、そのためには生まれた子供が死なずに成長できる環境を整えてやればいいのだ。

今回の拉致被害者市民救出計画はそこにポイントを置いて進めることに決まったのだった。

 

 

 

 

半年ぶりに総合外交政策局メンバーが全員揃い、ラグナ遠征に向けて行動を開始した。

そこには()玉狛第2の4人も顔を揃えている。

修と遊真と千佳は麟児が帰国してから事情を説明し、その上で正式に()()()()()()()()玉狛第2の解散届を提出することにしていて、つい先ほど書類を提出して正式に解散となっていた。

遊真の延命を最優先とすればそれが当然の選択であり、なによりも彼だけでなく他の隊員たちであっても近界民(ネイバー)と戦うことがない方が好ましいに決まっている。

有吾の(ブラック)トリガーで作られたトリオン体(日常体)をそのままトロポイで作ってもらった換装専用トリガーに切り替え、そのトリガーが周囲のトリオンを吸収して生存に必要なエネルギーとしている。

ただし換装専用トリガーで吸収するトリオンの量では日常の活動でギリギリであるから、彼はもう実戦で戦うことはできない。

そうなると防衛隊員としてはやっていけないし、修と千佳も防衛隊員を続ける理由がないということで玉狛第2は解散となったわけだ。

麟児はエクトスの件でボーダーに対して謝罪と賠償を体で払っているようなものなので、別に防衛隊員である必要はない。

むしろ自分のせいで大きな犠牲を出した結果の償いとしては総合外交政策局員の仕事の方が相応しいし、彼のこれまでの経験と知識が大いに役立つというもの。

そこで4人揃って総合外交政策局に異動することに決めたのだった。

以前の部屋はツグミが玉狛第3としてB級ランク戦に参加した際に本部基地に与えられた部屋であったため局員が増えたことで手狭となり、小会議室を総合外交政策局に改装してその部屋を使用することになった。

局長のツグミを始めとして迅、ゼノン、リヌス、テオ、修、遊真、千佳、麟児の9人は新たに用意された「総合外交政策局室」に全員集合した。

 

 

「…ということで、幹部会議で次の遠征先がラグナという国に決まりました。上層部の希望では2ヶ月以内に遠征を行いたいということなので、わたしたちは遠征に向けてそれぞれの役割分担を決めて行動を開始します。といっても玉狛のみなさんには何をどうしたらいいのかわからないと思いますので、まずは麟児さんから近界(ネイバーフッド)の現状について説明してもらい、近界民(ネイバー)たちにとって何が必要なのか、またそのためにわたしたちができることを考えてください。その間にわたしたち残りの5人は具体的な計画を立てて動くので、オサムくんたちには()()勉強に専念してもらいます」

 

「わかりました」

 

修がそう答え、遊真、千佳、麟児は黙って頷いた。

ツグミは修たちに即戦力となることを求めているのではなく、これから先の近界民(ネイバー)との友好的な交流を目指す上で相応しい人材として彼らを局員に迎え入れたのである。

だからより多くの近界民(ネイバー)と出会うことによって自分たちと同じである部分と異なる部分を知ってもらい、お互いに共存できる道を近界民(ネイバー)たちと一緒に模索してもらいたいと考えていた。

自分がまず荒地に道を拓き、そこを先頭に立って歩き、そしてその後ろを修たちに付いて来てもらいたい。

それがツグミの願いで、最善の道だと信じているのである。

 

「それから拉致被害者市民救出計画とは別に今はまだ口外無用の案件があります。それはアフトの同盟加入についてで、幹部会議では正式にアフトの加入を決めました。そしてキオンとエウクラートンの2ヶ国には連絡をしてそちらからも承認を得ています。…しかしアフトは三門市民にとって敵性近界民(ネイバー)であり、すんなりと彼らを受け入れることは難しいでしょう。そこでどのように発表するかはすでにシナリオができていて、現在進行中となっています。これはまだボーダー関係者であってもごく一部の限られた人にしか知らされていないことなので書面にしてしまって情報漏えいした時に問題が大きくなるので口頭でのみ伝えます」

 

そう前置きをしてからツグミは迅と修の3人でアフトクラトルへ行ってハイレインと()()()()()をして来たことを説明した。

局員たちは全員「玄界(ミデン)近界(ネイバーフッド)双方に()()()()()共存を目指す」というスタンスであるから、アフトクラトルが同盟に加わることについて反対意見はない。

「金の雛鳥」として狙われた千佳ですらハイレインの蛮行について恨みはなく、直接対話した修は彼の謝罪を受け入れている。

ゼノン隊の3人にとってもキオンという国がアフトクラトルの敵対国認定をやめ、ボーダーを介して共存と近界(ネイバーフッド)全体の治安の安定を目指す仲間として認めているのだから同盟加入は賛成すべきことだ。

アフトクラトルの同盟加入については直接何かすべきことがあるわけではないが、局員である以上は知っておくべきことだとツグミは彼らに()()()情報を伝えたのだった。

 

 

再び動き出した拉致被害者市民救出計画及びアフトクラトルとの同盟締結。

ツグミたちはまだ見えぬゴールに向けてまた新たな一歩を踏み出した。

 

 

 

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