ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
調印式は無事に終了し、関係者は市内のホテルのバンケットで祝賀パーティーを開いていた。
キオン・エウクラートンとの同盟締結調印式は事情によって昨年の1月に行われたものを6月だと偽って公式に報告している。
そのために祝賀パーティーもボーダー関係者の内輪だけのデリバリー料理の立食で、ボーダー本部基地の講堂でささやかに行われた。
しかし今回は大勢の人間の前で調印式は行われ、スポンサーや三門市長を始めとしたお偉方も招待した大規模なものであったからパーティー自体もそれなりの形式を伴ったものにしなければならない。
そういった意味で避けては通れない
このパーティーの主役はメノエイデスの3人だが、彼らとボーダーを結びつけた一番の功労者が彼女であることは間違いないので城戸よりも注目されていて、来賓客たちは入れ代わり立ち代わり彼女から話を聞こうとするのでひと息つく暇さえない。
それでも彼女がまだ18歳なので酒を勧められないだけマシなのだが、3日前からほとんど休む暇もなく業務に専念していてさすがの彼女でも少々お疲れ気味である。
まだ明日に控えているマヌエルたちの市内訪問というイベントにも付き添わなければならないので、彼らが帰国する夕方までは気が抜けない。
一方、同じ総合外交政策局でも平局員である修は会場の隅でパーティーの様子を眺めていた。
修と遊真と千佳は一防衛隊員として入隊しているので
そういった
嵐山隊が防衛隊員でありながら広報の仕事をしていることは知っていたが、実際にどちらも両立させている彼らのことを修は改めて尊敬してしまう。
特に彼はこれから自分がこの仕事を続けていくのだと決めているから人一倍真剣に考えを巡らしていた。
(霧科先輩はこの仕事の方がぼくには合っていると言って特別に
修は
しかし具体的に何をすればいいのかなどわかるはずもなく、今はただツグミのそばで彼女のやることを見て学ぶことが必要だと感じたらしい。
ツグミも教えるというよりは見て覚えさせること、そして自分で考えさせることに重点をおいていて、その方が彼の成長を促すと理解していた。
だから自分の行動の際には常に同行させているのである。
このパーティーでも総合外交政策局長であるツグミの出席は必須で局員たちは特に出席の必要はなかったのだが、こうした
修
遊真や千佳はそれなりに楽しんでいるようだが、修は真面目に仕事の一貫だと考えているからそれどころではないらしい。
「修、そんなところで突っ立ってないでおまえも料理を楽しんだらどうだ?」
修に声をかけたのは麟児である。
彼は料理を載せた皿をふたつ両手に持っていて、そのうちのひとつを修に渡した。
「ありがとうございます、麟児さん。なんだかこんなパーティーに出席したことがないんでちょっと気後れしちゃって…。それに霧科先輩がぼくたちをここに連れて来たのは総合外交政策局の仕事にはこういうものもあるんだって教えたいからだと思うんです。だから学ぶべきものは学ばないと ──」
「たしかにそんな意味もあるだろうが、それだけじゃないはずだ。彼女がおまえの立場だったならきっとパーティーを楽しみながらも勉強するんじゃないかな。そういうのが得意そうだから」
「…そうですね。霧科先輩ならそうするでしょう。ぼくたちには想像もできないことを思い付いて実行しちゃう人ですから」
「それに『腹が減っては戦はできぬ』だ。玉狛支部に戻れば夕飯の残りはあるだろうが、せっかく一流ホテルの料理が食べられるんだ、遊真や千佳みたいにおまえも楽しめ。ほら、このシーフードグラタンなんてこのホテルの名物なんだぞ」
そう言って麟児は自分の皿のグラタンを口に入れた。
「麟児さんって
「馬鹿にするなよ。俺はエクトスの諜報員だったんだ。
「さすがですね。それがプロフェッショナルか…。霧科先輩もいろんなことを知っていて、必要な時にさっとその知識と経験を役立てることができる。麟児さんたちと同じですね。ぼくも頑張っていろんなことを知ろうと思います。まずはこの料理から…」
修はそう言うと麟児と同じくグラタンを口に入れた。
「美味しい! 母さんの作る料理も美味しいけど、やっぱりプロの料理人の味は違いますね。…たぶんこれはホワイトソースに秘密があるんじゃないかと思います」
修がそう言うと麟児がニコリと笑って言う。
「ひとつためになることを教えてやろう。この料理のベースとなるソースはベシャメルソースといって小麦粉とバターを加熱して混ぜたルーに牛乳を少量ずつ加えながら溶いて煮詰め、塩・胡椒などで調味したものでフランス料理の基本的なソースのひとつだ。ホワイトソースとはベシャメルソースを含む白色のソースの総称のことを言う。日本においてはホワイトソースとベシャメルソースが同義語として使われることが多いが、ここの料理長はフランスで修行したそうだからベシャメルソースを使っていると言うだろうな。ま、ホワイトソースでも間違ってはいないが、知っておいて損はない」
「へえ…ベシャメルソースって言葉さえ知りませんでした。なんかホワイトソースって言うよりも高級な感じがします」
「それに誰かとの会話の時に『このホテルのグラタンに使われているベシャメルソースは…』なんて言えば、相手は『おおっ、この少年は物知りだな』って思ってくれるだろう。ちょっとした知識を持っているかどうかで印象も変わってくる。ツグミはそういうところが得意で、初対面の人間であっても上手く会話ができて相手を
「それに敵だった
「……」
「ぼくがアフトへ行った時、ハイレインは大規模侵攻の件でぼくに謝罪をしようとしました。国王である彼がぼくに対して頭を下げようとしたんです。それは霧科先輩の気持ちや行動がハイレインを変えたからだと思います。でもその時に先輩は公式の場ではなくプライベートな場でできるよう配慮をしてくれました。公式の場であれば国王の謝罪ということになりアフトという国が公式に
修の決意表明と思える言葉に麟児は驚き、そして同時に嬉しくなった。
自分の
家庭教師と教え子という関係でしかなかったのだが、修の真面目で面倒見のいい性格を見込んで…いや、利用して麟児は目的を果たした。
内向的で他人を信じることのできない千佳が唯一心を開いていたのが修であったことで、麟児は自分の不在の間
ところが修が「千佳を守らなければ」と思い込み、ボーダーに入隊することを決めたのだがトリオン能力が基準を満たしていない彼は試験で不合格になった。
ここでオペレーターや
修を精神的に追い込んでしまったと知った麟児は深く後悔したが、結果として最後に会った時と比べてたくましくなっていて、なによりも千佳を守ってくれたことが嬉しかった。
家族でも友人でもなく単に利用しただけだった修のことを今ではかけがえのない仲間として認識している麟児。
だからその成長がとても嬉しいのだ。
「おまえの覚悟は良くわかった。俺にはおまえを導くなんて大層なことはできないが、見本となる人間がいるのだからおまえはそれを見習って多くを学ぶといい。しかしそれがひとつの正解かもしれないが、他にも正解はあると俺は思う。だからひとつのことに囚われずにいろいろなものに目を向けろ。そしてボーダーの仕事に限らず何かを成すためには焦ってはいけないということだ。俺がエクトスから
「ぼくの名前に込められた意味…」
「そうだ。『修』という字には『正しくする、学ぶ』という意味があるそうだ。たとえば『修理』とか『修正』といった『修』という字を含む熟語は知っているだろ? それには『問題点を改善して良い状態にする』という意味があり、きっと親御さんは『失敗しても改善ができ、その失敗を活かして高みを目指すことができる子』になってほしいと名付けたんじゃないかと思う」
麟児が難しい話をするものだから修は目を丸くして驚いてしまった。
「麟児さんってすごいですね。漢字の持つ意味についても良く知っていて驚きました。ぼくなんて全然知りませんでしたから」
すると麟児は困ったような顔で言った。
「ハハハ…これはツグミの受け売りだよ」
「霧科先輩の?」
「そうだ。前に話をしていた時におまえのことが話題になって、修という名前がおまえに似合っていると彼女は言っていた。『名は体を表す』という言葉もあるらしいな。ならばおまえは親御さんの期待に応えられる人間になれ。おまえは自分の判断と行動で進むべき道を決めた。その道は平坦なものではないが、道標となるものは確実に存在する。時にはうっかりその道を踏み外すことがあるかもしれないが、道標を見失わなければ大丈夫だ。なにしろおまえにはたくさんの仲間がいて、期待してくれている人がいる。彼女を裏切るような行為をしなければ必ずおまえを見捨てずにいてくれるだろう」
「はい!」
「いい返事だ。じゃあ、もっと料理を楽しもう。彼女がおまえをここに呼んだのは勉強させるためもあり、これまで頑張ってくれたおまえに対する慰安の気持ちもあるんだと思う。だから遠慮せずにたくさん食べろ。そうすれば彼女も満足するだろう」
「わかりました」
修と麟児は皿の料理を全部食べてしまうと、新しい料理を取るためにバンケットの中央へと一緒に歩いて行った。
◆
修と麟児の間にそんな会話があったことなど知らないツグミは入れ替わり立ち代り彼女と話をしようとする来賓客の相手をしていた。
それも仕事と言えば仕事であって仕方がないことなのだが、美味しい料理を前にしても手を出せず、ただ行政のお偉方やスポンサーのオジサンたちに愛想笑いをしながら彼らの話題に合わせて会話を盛り上げていくのは18歳の少女には酷だ。
それでも彼女だからできることで、お腹の虫の鳴く音を聞かれないように上手く誤魔化しながら2時間のパーティーをジュースだけでやり過ごしたのだった。
しかしこうなることは想定内で、自分の分だけでなく城戸や忍田たちの分の「折り詰め」をホテルスタッフに依頼しておいた。
客に出した料理を少しずつテイクアウト用の容器に入れておいてもらい、持ち帰って家で温めて食べられるようにというもの。
名物のシーフードグラタンも当然持ち帰ることができるように小分けされていて、それがあるからこそツグミは空腹に耐えることができたのだ。
来賓客が帰ってしまうとバンケットにはボーダー関係者だけとなった。
ホテルのスタッフが折り詰めを運んで来てくれて、それを城戸や忍田たちにひとつずつ手渡していく。
玉狛メンバーの分はツグミが渡そうとして手持ち無沙汰で部屋の隅に立っている修たちに声をかけた。
「みなさん、渡すものがあるからこっちへ来てくださ~い」
ツグミに呼ばれた修と遊真と千佳と麟児は彼女のいる場所へと歩いて行く。
「みなさん、パーティーを楽しんでもらえましたか? まあ、慣れない場所で緊張もしていたかと思います。それで十分に料理を楽しめなかった時のためにお持ち帰り用の料理を用意しておきました。持って帰って玉狛で食べてください」
ツグミはそう言ってひとりひとりに折り詰めを手渡した。
「先輩、ぼくたちは十分に料理を堪能しましたから別にこれは…」
遠慮がちに言う修にツグミは言う。
「それじゃあレイジさんたちへのお土産にすればいいわ。このホテルのシーフードグラタンは絶品よ」
「ええ、知っています。料理長がフランスで修行した人で、ベシャメルソースに特に手をかけているそうですね」
するとツグミは驚いた。
「オサムくん、料理に詳しいのね。ベシャメルソースなんて言葉、普通はあまり使わないのに。だいたいの人はホワイトソースって言うわよ」
遊真と千佳も修を尊敬の眼差しで見ながら言った。
「オサムは物知りだな。おれは食って美味いとは思ったが、それがどんなものを使っているかなんて考えたこともない」
「わたしも感心しちゃいました。修くんは前にもここの料理を食べたことがあるの?」
「えっと…」
修は正直に言おうかどうか少し迷い、隠しておきたくないと告白することにした。
「実は麟児さんから教えてもらっただけなんだ」
そう言ってツグミたちの反応を見る。
修はがっかりされると想像していたのだが、ツグミの意外な言葉に驚いた。
「そっか、麟児さんに教えてもらったのね。麟児さんって意外なところで凄腕諜報員だったってことを思い出させるわ。ちょっと調べれば簡単に知ることができるものであっても、普段の生活で関わってこないことは誰もすすんで知ろうともしないから無知のままってことは多い。別に料理のソースの名前なんて知らなくてもいいことだけど、知っているとちょっとだけすごいなって感じる知識だわ。無駄と思えるような知識でもどれだけ持っているかで人としての幅と奥行が違ってくるとわたしは考えているの。そういう点でオサムくんは良い先生がいて恵まれている環境にあるってこと。そばにいる時間が長いんだから、いろいろ教わるといいわ」
ツグミは修にがっかりするのではなく麟児のことを褒め、さらに彼から学ぶよう勧めた。
ついさっき麟児がツグミから学ぶようにと言われたばかりで、修はツグミと麟児に似たものを感じた。
(このふたりは似ているんだ…。どちらも教師として人に教養や知識を与えるという立場の人間じゃないけど、ぼくみたいな未熟な人間を導いてくれる存在。そして互いに相手をリスペクトしていて、ぼくもこのふたりから学びたいことがたくさんある。先輩のいうとおりぼくは恵まれた環境にあるんだ。だったらそれを最大限活かさなきゃもったいないぞ)
修がそんなことを考えているうちにツグミは話を進めていた。
「では明日の確認をします。明日はメノエイデスの方々と一緒に市内視察と買い物タイムになります。お客様の発つ時間は一七〇〇時を予定しています。スケジュールは以前の渡したものに変更はありません。オサムくん、あなたにはもう1日だけ頑張ってもらいますから、どうぞよろしく。玉狛支部には〇八〇〇時にジンさんが迎えに行ってくれるそうなんで、それまでに準備をして待っていてください」
「はい、わかりました。それで先輩は?」
「わたしとジンさんはこれから七尾のホテルに同行してお客様のお世話をすることになっています。昨夜は城戸司令と忍田本部長にお願いしてしまったので、今夜くらいはわたしがしなきゃいけないもの。それじゃあ、今日はこれで解散。お疲れさまでした」
ツグミと迅はメノエイデスの3人をホテルまで送り届けてそのまま宿泊することになっている。
ホテル側には客が
前夜は城戸と忍田と迅の3人であったが、調印式が終わったので今夜はツグミが交代してその役目を果たすのである。
まあ、何事もなければ高級リゾートホテルに宿泊して温泉に入ることができる
こうしてボーダー側の人間も解散し、それぞれ帰って行った。