ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
翌日メノエイデスの3人を市内視察と買い物に案内し、午後4時に送り出したことでツグミたちの仕事は無事に終了した。
マヌエルにとっては初めての
マヌエルは恵まれた側の人間だった。
貴族といっても末端の貧乏領主であったが両親が学問の重要性を理解していたために幼い頃から様々なジャンルの本を読むことのできる環境を整えてくれていた。
だから学校へ通うようになっても学力はトップクラスで、卒業後は政庁勤めとなってずっと政治に携わってきたのだそうだ。
そして今の自分があるのは学問のできる環境に生まれ育ったからであり、そうでなかったらどういう人生を歩んできたかわからないと言い、どの子供にも才能が眠っているのであればその才能を目覚めさせることが大人の責務であると確信に至った。
しかしどのようなシステムにすべきなのかわからずにいたところ、
日本には過去に「寺子屋」という子供たちに文字の読み書きや計算を教える学問施設があって、それが
寺子屋には一定した就学年齢はなく、無学年制フリースクールと同じようなシステムである。
入学時期や進級時期など特に決め事はなく、個人の能力に合わせて入学や進級できるなら子供たちを伸び伸びと育てることができるというもの。
さらに最低限の読み書きや計算ならばどの町にも教えられる先生となる人物はおり、集会場として使用している建物を利用すれば場所としては十分だ。
寺子屋のおかげで庶民階級の識字率は高く、「和算」という日本で独自に発達した数学が江戸時代にはブームにもなったそうだ。
学ぶことに興味を持つ環境づくりは重要で、子供の頃に勉強が楽しいと思えるかそうでないかによってその子供の将来は大きく変わっていく。
庶民階級の子供の中にも優秀な人材はいて、それを埋もれさせないようにするためには大人が掘り起こすしかない。
今では寺子屋などないが日本の教育システムに興味を持ったマヌエルは第一に幼稚園と保育園を視察したいと希望をしていて、半日かけて視察を終えた後の買い物も子供向けの知育教材を選んでいた。
メノエイデスは
◆◆◆
メノエイデスとの同盟締結のニュースはキオンとエウクラートンの時ほど騒がれることはなかった。
二度目ということもあるが、三門市民にとっては朗報であってもそれ以外の人間にはさほど影響のないことだからだ。
そして
三門市ではヒエムスやレプトから帰還した拉致被害者市民の配偶者や子供たちが受け入れられ、彼らが三門市民としてのルールを守っていることでトラブルが生じることもない。
したがってもう彼らが文字どおり
しかし調印式を公開したことでその場にいた市民にとっては
これまでにも何人かの
伝聞よりも実際に自分の目で確かめたという事実が重要で、約700人の市民が歴史の転換点に自分が居合わせたことによって感銘を受けたというのだ。
特に小学生から高校生を優先的に招待したことによって親
元々第一次
三門市内のどの学校でも
そういう点でツグミの策は成功したといえよう。
新年度の始まる4月にはランドセルを背負ったヒエムスやレプトの子供たちが
そしていずれはこの両国も同盟に加入することになり、ボーダーと
◆◆◆
しかしその前に
第3回拉致被害者市民救出遠征の目的地がラグナと決定したことから、その遠征に向けての準備をしなければならないのだ。
途中までは進んでいたのだが、急遽メノエイデスとの同盟締結事案が飛び込んできたためにそちらを先に進めたことで計画遂行がタイトなものとなっている。
ラグナはこれまでのヒエムスとレプトとは事情が少し違うために市民を返してもらうために支払う
なにしろラグナはトリガー使いを集めて自国の戦争に投入しようというのではなく、純粋に国内の人口を増やそうということでエクトスから三門市民を買ったのだ。
男性13人と女性31人の合計44人の三門市民はラグナ政府によって保護され、慣れない土地での暮らしではあったが全員が無事であるとのこと。
約6年の間に三門市民同士の結婚やラグナ人との結婚などによって20組以上の夫婦ができて子供は30人以上生まれているため、ラグナ政府がボーダーから市民の返還要求をしても簡単には首を縦に振ることはないと思われる。
そこでラグナが必要としているもの、つまり必要なのは働くことのできる若い国民が増えることが望みなのだから、そのためには生まれた子供が死なずに成長できる環境を整えてやればいい。
今回の計画はそこにポイントを置いて進めることに決まったのだが、これは単純に片付く問題ではない。
医療に関しては
しかし同盟国でもない国に民間人の医師を送り込むことはまだ不可能で、医薬品等の物資を提供するだけでは解決策とはいかないのだ。
ひとまず一時帰国だけでも叶うよう交渉することから始め、最終的には帰国を希望している三門市民とその家族全員の帰国を目指すことにした。
その一時帰国のために代価として乳幼児用の粉ミルクや栄養補助食品、女性向けの日常雑貨などを選んだ。
そして出発は2月28日と決まり、ツグミ、ゼノン、リヌス、修、千佳の5人でラグナ政府との交渉に赴くこととなった。
千佳を同行させるのは艇のエネルギーとなるトリオン供給を担ってもらうためだが、それ以外にも理由はあった。
彼女は現在第一高校の1年で4月からは2年生になるのだが、進級の際に文系と理系のどちらに進むかの選択で自分の将来が漠然としていて決められず、とりあえず文系にしたという経緯がある。
彼女にはボーダーに居続ける強い理由はなく、かといって何かやりたいことがあるというわけでもない。
特に成績が良いとも悪いとも言えず、高校卒業後は
そこで修の時と同じように別の「可能性」を示すことで彼女に自分の未来を決めさせようというのだ。
ツグミはずっと雨取夫妻に対して千佳と麟児のふたりのフォローを続けており、本人がボーダーを続ける意思があるなら黙って見守ると約束させている。
したがって千佳と麟児がボーダーを辞めないというのなら誰もそれについてとやかく言うことはない。
麟児はその立場上ボーダーをクビになるまではずっと働いてくれるだろうし、別に就職先を探そうとする気もなさそうなので問題はない。
千佳は迷っていることが周囲の目にも明らかであるため、ツグミが
ボーダーにとってトリオンモンスターには辞めてもらいたくはないが、いくらトリオン能力が高いからといって千佳の将来を縛り付ける権利はない。
だからいつ辞めると言い出しても引き留めることは難しいので、本人が残ると覚悟を決めてくれるよう誘引しようというのが本音である。
彼女がいるといないでは今後の拉致被害者市民救出計画にも大きな影響が生じるだけでなく、本部基地の地下にある
千佳本人も自分の道は自分で決めなければならないことは理解しており、ツグミのことを全面的に信頼できるようになった今は彼女の提案を素直に受け止められるのでラグナへ同行することに異論はなかった。
◆◆◆
ラグナまでは約9日間の旅となる。
途中でふたつの国に立ち寄って水の補給や現地の簡単な調査を行うことになっており、それほどタイトなスケジュールではない。
先遣隊の調査で安全な国を選んで経由地にしているので戦闘状態になる心配もなく、長い間ずっと艇内に閉じ込められているストレスも発散できる。
半分は仕事だが、もう半分は慰安旅行的な意味もあってツグミはそのための道具をいくつも積み込んでいた。
メノエイデスで休憩をした後、艇のトリオン補給を兼ねてパルウムという小さな国に停泊する予定だ。
この国は人口が約14万人であるから三門市の約28万人の半分ほどしかいない。
それでひとつの国家であるから、他国との交流がなければ発展は見込めない。
それはこの国に限ったことではなく、小さな国がたくさんあってそれぞれが宇宙に漂う惑星のようなものだから他国との交流は頻繁ではないし、他国と関わりを持つとすると交易か戦争しかないのだから、
特にパルウムのような小国だと他国にとって価値がないとみなされていて、エクトスのような交易国家からも利益がないからと眼中にもないそうだ。
したがってこのような国は自国内ですべてを賄っていて、他国から侵攻されることも他国を侵攻することもない。
つまり平和で穏やかな農村がいくつも集まって国家を形成しているというもので、豊かでもない代わりに貧しくもない平凡な国がパルウムであった。
しかし他国の人間が訪問をすることが滅多にないということはボーダーの艇が現れたとなれば大騒ぎになるのは明らかで、いちおうパルウム政府に挨拶をする用意はしている。
パルウムはヒエムスと同じで巫女である女王がいて、その配偶者の男性が国王として政を司っているそうだ。
ゼノンたちの調査ではまだ30代という若い女王と国王で、国民の支持は高いという。
ただしこの国も他の国と同じで労働人口はなかなか増えず、平均寿命も約50歳と短い。
もしパルウムが同盟に加わる意思があるのならボーダーは拒むことはないが、そうでないのならこちらから積極的に手を差し伸べる義務はない。
そういう意味で政府に挨拶するというのは単に艇を停めて水の補給と乗員の休憩を許可してもらうだけで、手土産程度のものしか用意はしていないのだった。
ボーダーは三門市民の生命と財産を守るために存在し、敵性
パルウムのような国にまで関わっている余裕はないのだから艇を停める許可をもらうだけ十分なのだ。
◆◆◆
三門市を出発して6日目の昼頃、ツグミたちの乗った艇はパルウムの王都に近い平原に到着した。
風景はエウクラートンのように見渡す限り畑であるが、作物の状態はあまり良いとは言えない。
素人目にも土壌に活力がなくて十分に育たないうちに収穫期を迎えてしまうためだと思われる。
ツグミはそんなことを考えながらもまずは政府への挨拶の準備を始めた。
どの国でもそうだが国内のいずれでも
なので放っておけば
ツグミが土産を用意している間にパルウムの兵士 ── この国の軍は騎乗用のトリオン兵が数十匹とトリガー使いが十数人いる程度で、戦力はボーダーが新体制になった頃と大差はない ── がやって来た。
彼らに事情を説明し、艇の中を調べさせ問題がないとわかれば検閲はおしまいだ。
そしてツグミたちを準国賓と認定した兵士に案内されて水が補給できる場所へと移動し、そこでキャンプを張ることにした。
ツグミが兵士に国王と女王への献上品という名の土産を託し、兵士は王都へと引き返して行った。
これで入国と滞在を許されたことになり、約18時間の滞在の後に旅立つことを伝えてあるからそれを守っていればもう誰も来ないはずである。
艇の中での食事はレトルトや簡単に調理できるものばかりで味気ない。
そこで停泊地では屋外でバーベキューや鍋をやることが多くて、今回はバーベキューである。
総合外交政策局の備品として購入したバーベキューコンロ1式、米を炊くためのライスクッカー(5合炊き)が2台、冷凍してあった肉を解凍したもの、適切な環境で保存している野菜を艇の外に運び出す。
パルウムでは今が夏であるらしく、少々日差しが強いものの湿気が少なくて風があるので過ごしやすい。
そして蚊がいないので非常に快適なキャンプとなった。
大量に用意したはずの肉や野菜は男性陣の胃袋にどんどん消えていき、10合炊いたご飯も千佳が大喜びで食べていて5人で用意したすべての食材を完食してしまう。
夜は艇の部屋に戻って睡眠を取り、翌朝の9時にパルウムを発った。
こうしたレクリエーションを交えながら旅を続け、予定どおり9日目の朝に目的地であるラグナに到着したのだった。
◆◆◆
9年前の大惨事によって王都が丸々消えてしまったラグナは新女王の就任と同時に新しい王都を建設した。
場所は元の王都にできた大きな窪地のすぐ脇で、そのクレーターは近くの川から引いた水を満たして湖となっている。
それは大勢の犠牲者を生じた事故の痕跡を消したいという気持ちだけでなく、瞬時にして消えた住民の鎮魂の意味もあるのだろうとツグミは感じた。
なぜならその湖の周囲は広葉樹が植樹されていて、元々そこに湖があったかのように自然に見えるのだ。
冬の間に落ちてしまった葉は春になれば緑の葉を茂らせ、秋には美しく色付いて葉を散らす。
事故の痕跡を消しても移り変わりゆく森の姿を見ていれば犠牲者のことを忘れることはできない。
湖と周囲の森そのものが慰霊碑なのだ。
これは女王の指示によって行われた事業である。
現女王は17歳の少女で、彼女自身の情報は先遣隊にも掴むことはできなかったために不明がだ、ツグミには女王の年齢が近いこともあり、なんとなくだがこの交渉が上手くいくような気がしていた。
彼女たちの乗った艇がラグナの王都郊外に現れてからの流れが順調であったのはキオンとの同盟やボーダーがアフトクラトルを倒したという誇張した噂を耳にしていたからで、特にゼノンとリヌスというふたりのキオンのトリガー使いが一行の中にいると知ると扱いが丁寧且つ慎重なものになった印象を受けた。
キオンという軍事大国の看板は効果があり、彼らがツグミのことを上司として扱うものだから彼女の価値を高めている。
そのせいなのかどうかはわからないが、その日の夜には歓迎晩餐会を開いてくれるということなので彼女たちを軽んじてはいけないと判断したのは確かだ。
勝負のRound1は晩餐会の会場となるのは間違いなく、それまでの約6時間は各人が思い思いに過ごすことにした。
◆
ツグミたちが迎賓館の客室で身体を休めていた頃、王城内は慌ただしくなっていた。
いくら公式な使節団だといっても突然の訪問であるから準備など何もしておらず、城戸の親書を読めばどういった理由での訪問なのかはすぐにわかる。
これが
したがって訪問をするにしても前もって知らせておく手段はなく、こうしていきなりということになる。
相手の都合も考えずに訪問するのだから普通に考えれば失礼極まりないのだが、
なにしろ他国へ行くという理由は交易か戦争の二択しかないようなものなのだから、軍を率いていきなり侵攻してくる輩に比べればまったく問題はないということなのだ。
ただ賓客5人分の料理を追加で用意するとなれば食材の調達や料理人の手配など必要になる。
特にこのラグナのような国では
女王のダフネは自室で城戸からの親書を読むがすぐにその親書を放り投げた。
(バッカバカしい…。高い代価を支払って買った人間をそう簡単に返すはずがないじゃないの。取引をするって言ってるけど、あの人たちを返したらこれまでの成果が水の泡よ。さ~て、あの子はどんな手を使ってくるのかしら? わたしよりもひとつ年上だってことだけど、それが意味するものは何なの? ボーダーがラグナのことを軽視していて小娘を送り込んで来たのか、それとも同じくらいの歳なら上手く取り入ることができるとでも考えたのかしら? だとしたら腹が立つわね。ま、お手並み拝見だわ)
「なにしろ向こうはお願いする立場で、こっちはどうにでもできるんだから」
ダフネはほくそ笑んでそう呟いた。