ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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540話

 

 

ツグミとの会見の行われた夜、ダフネは真剣にボーダーの提案した条件について考えることにした。

 

(あの子が余裕たっぷりなのは玄界(ミデン)近界(ネイバーフッド)よりも恵まれた世界で、そこで生まれ育ったからだわ。何の苦労もなく家族や友人に囲まれて幸せに生きてきたから、近界(ネイバーフッド)やわたしたち近界民(ネイバー)を下に見ているのよ、きっと。そうでなければ説明がつかないもの。豊富な物資を目の前でちらつかせて、欲しいなら悪条件でも受け入れろってことなんだわ。だってすごく魅力的なものばかりなんだもの)

 

ダフネは昼間に見たものや光景を思い出していた。

医薬品については様々な種類のものがあり、大人用の頭痛薬や胃薬、腰痛に効く湿布やシモヤケやあかぎれに効く塗り薬、さらに子供用の風邪薬には甘いシロップで飲みやすくしているものもあった。

そしてそれらは高価なものではなく、誰でも簡単に入手できて比較的安価である。

 

(薬が安く手に入るなら病気で苦しむ人は減る。この国にも薬はあるけど高いものばかりで一部の裕福な人たちしか買うことができないし、種類だってあんなにたくさんはない。薬は苦いからと子供はなかなか飲んでくれないけど、甘いシロップの薬なら飲んでくれる。そうすれば失われずに済む幼い命だってあるじゃないの。それに玄界(ミデン)では女性が妊娠中から医師に診察してもらって安全に出産できるようだし、赤ちゃんも定期的に健康診断をしてもらっているらしい。それが特別なんじゃなくて庶民でも当たり前に受けられる権利だなんて…。だから近界(ネイバーフッド)のようになかなか子供が育たないなんてことはなく、玄界(ミデン)は人口が増えていくんだわ。なにしろミカド市って町でも約28万人いて、ニホンという国は1億人以上の人間がいるなんて想像もできない)

 

国民を増やすにはその親世代が必要なのは当然だが、生まれた子供が大人になるまで育てることのできる環境を整えなければ意味はない。

それはダフネにも理解できていたがどうしたら良いのかまでは考えに至らなかった。

なにしろ医師の数が少なく、貴族や裕福な一部の商人が自分たちのために抱え込んでしまうからますます庶民を診る医師が減る。

医師を増やすことは簡単なことではなく、せめて医師に治療してもらうほどではない軽症のうちに投薬で済ませることができればいいのだが、その薬が庶民にはなかなか手が出せない価格であった。

だから風邪や食中毒など手当てをすれば助かる命でも病気の原因や治療法を知らないために手の施しようがなくて死なせてしまう。

しかし正しい知識を持ち適切な薬を使用することで人命を救うことは可能だ。

 

(ううん、薬だけじゃない。ボーダーの艇に積んであったものを見せてもらったけど、どれも喉から手が出るほど欲しいものばかり。艇にも珍しいものがいくつもあって、それがトリオンではなく電気というものを使って動いているという。その電気を作る装置もあって、太陽の光があればいいってことだけどまだ信じられない)

 

ツグミたちの使用する総合外交政策局専用の艇には太陽光発電システムを搭載しており、経由地で停泊している間に発電と充電をして艇内の照明や空調、IH調理器など電気を使用する器具のエネルギーとしている。

これは近界民(ネイバー)に対して「トリオン以外のエネルギー」の存在を知らしめるためと自然由来のエネルギーを使用することでトリオンを節約できることをPRするために鬼怒田に頼み込んで改造してもらったのだった。

ラグナでもそのデモンストレーションをし、太陽さえ出ていれば自動的にエネルギーを作るというのだからトリオン依存の近界民(ネイバー)たちには衝撃的なものとなった。

 

玄界(ミデン)には近界(ネイバーフッド)にはないものがたくさんあって、同盟国やそれに準ずる友好国には優先的に譲渡する。そうなるとボーダーを敵に回すことは得策じゃない。同じものを欲しいと思ってもボーダーから直接譲り受けるよりも高いものになりそう。…だけどだからってわたしがあの子に頭を下げるというのはありえない。こっちは玄界(ミデン)の人間を人質にしているようなもので、返してほしいならこっちの要求をのむのが当たり前なんだもの)

 

この期に及んでもまだ「勝ちたい」「負けたくない」という考え方でいるダフネ。

交渉とはどちらかが一方的に勝つとか負けるではなく、どちらにとっても得をするという「折り合い」をつけるものだ。

そもそも交渉に「勝ち負け」はなく、ツグミが常に目指している「win-win」こそがゴールであるために、ボーダー側は提供できる条件を正直に提示している。

この「正直に」という点が重要で、相手を騙そうとか損をさせようとする意思があれば交渉は決裂することになるのだ。

ツグミは誠意をもって交渉に臨んでいるのだが、ダフネは交渉というものを理解すらしていないので勝ち負けにこだわってしまう。

これではいつまで経っても平行線のままとなり、この問題を解決する方法は彼女に「心の鎧」を脱いでもらうしかない。

そこでツグミは夕食のデザートとしてカスタードプディングを作って缶詰のフルーツを盛り合わせたプリンアラモードを彼女にご馳走している。

近界(ネイバーフッド)にも缶詰は存在するがそれは軍の遠征の際の戦用糧食(コンバット・レーション)としてで、一般に普及しているものではなく、内容も調理済みの肉料理や豆などの副食が多く嗜好品的なものはない。

果物の長期保存といえばドライフルーツしかないために、生の果物をシロップ漬けにしている缶詰は衝撃的であったようだ。

ツグミお得意の「胃袋を掴む」作戦は成功し、昼間のカルチャーショックと共にダフネの心境にわずかだが変化をもたらした。

当初は拉致被害者市民が自分の手元にある以上は「勝てる」と自信を持っていた彼女だが、ツグミとの会見において玄界(ミデン)の現状を知り、午後からはボーダーの艇まで行ってツグミたちが運んで来た物資をその目で見たことにより玄界(ミデン)の文化的生活レベルの高さを思い知らされた。

 

(だけど…明日あの子にミカド市民と対面させて玄界(ミデン)に帰りたいという人がいたらどうしよう? 玄界(ミデン)の文化を知らなかったわたしが夢中になるほどだもの、何年もそれが当たり前だった人たちにとってラグナでの暮らしは大変だったと思う。帰れるってわかったら帰りたいと思うのが当然で、わたしには引き留める手段がない。ラグナで生まれた子供たちはラグナ国民として()()必要はないけど、そうなると玄界(ミデン)人の親と引き離すことになって寂しい思いをするはず。でも子供を残して親だけ玄界(ミデン)に帰るとは言わないわよね、きっと。それなら…)

 

しかしラグナで暮らす拉致被害者市民の中にはラグナに残る理由のない家族がいた。

それは両親と娘が3人一緒に拉致され、エクトスによって売却された時にも3人一緒だったためにラグナで新しい家族を作ることはなかった。

つまりラグナに足枷となる家族はおらず、むしろ三門市で暮らしているであろう本当の家族に会いたいと心から願っているはず。

そんな3人の姿を見れば里心がついて冷静ではいられなくなる。

そして最悪の「ラグナでできた新しい家族共々玄界(ミデン)へ行ってしまう」ことにもなりかねないのだ。

 

(全員を引き留めるのは無理かもしれない。だとすればあの3人だけ別扱いにすれば他の人たちには影響がなくて済むじゃないの。帰りたいと思わせるんじゃなくて、残りたいと思えるようにすればいい。うん、あの家族だけ朝一番で政庁に呼び出してボーダーの連中と面会させ、他の人たちは午後からということにしよう! そうと決まったらイシドロに手配させなきゃ)

 

ダフネは名案を思い付いたとばかりにイシドロ宛の指示書を書き、それを侍女に届けさせた。

 

(あー、これで安心して眠れるわ)

 

ダフネは少々弱気になってはいたが、負けはありえないと考えてまだ()()つもりのようである。

 

 

◆◆◆

 

 

翌朝、ツグミの元に手紙が届けられた。

それはダフネからのメッセージで、午前中に拉致被害者市民の家族1組と面会してもらいたいというものであった。

当初の予定では午後に該当する市民には政庁へと集まってもらい、そこで面会を行うものであったのだが、この家族の3人は事情があってひと足早く面会をしてもらうという。

ツグミとしては別段問題はないので「了承した」という伝言を使者に託した。

彼女にはダフネの思惑など知る由もないが、相手がどういう手段を講じようともやることは同じだと考えている。

多少の想定外のことがあってもそれは彼女にとって想定内のことで、ダフネが何か企んでいたとしても上手くかわすことができる自信があるのだ。

 

(予定に変更があったところでわたしの行動は変わらない。でもオサムくんとチカちゃんには予定が変更になったことを知らせておかないと。あのふたりにはわたしの仕事を見てもらわなきゃならないし、事務的なことは手伝いが必要だものね)

 

ツグミの表情はとても楽しそうで、それはダフネが戦いを挑んで来たと思われる行動を見せたからだ。

これまでは口では強がっていても実際に行動には移せず、どちらかと言うと()()()の部分が多かったことで()()()()()と感じていた。

どんなことを考えているのか、何を見せてくれるのかというダフネの「女王としての判断」を楽しみにしているツグミ。

本来なら宰相や外相と相談をして決めるものなのだが、ダフネが他人の意見に耳を貸さずに自分の判断こそ正しいと考える「世間知らずのワガママ娘」であるために忠臣たちも頭を悩ませていた。

そこにツグミというこの状況を打破できるかもしれない人物が現れ、彼らはツグミに頼ることにしたのだ。

一度痛い目に遭って考え方を改めさせようというのがイシドロたちの腹積もりなのである。

だから今のところ何も言わず、ダフネの好きにさせていたのだった。

彼女の行動はツグミにとってもラグナの人間にとっても良い方向へ進み始めたという兆しなのだ。

 

 

 

 

ツグミたち5人は一緒に朝食を取り、その時に一日の行動の確認をした。

午前中にツグミと修と千佳は拉致被害者市民の家族3人と面会を行い、そこで本人確認や帰国の意思の有無を聞くことになっている。

ゼノンとリヌスは艇のトリオン充填と荷物の運び出しの指示という仕事がある。

午後は残りの拉致被害者市民41人との面会で、そこでも本人確認や帰国の意思の有無を調査しなければならないために5人全員で仕事をすることになり、政庁内にある会議室を使用する。

その使用許可や三門市民の待機場所に飲み物を用意するなどの細々としたものは前日に済ませてあるので問題はない。

そして夕食の後にツグミとダフネの「直接対決」が待っていて、その結果によって帰国のタイミングが変わることになるだろう。

 

「さあ、今日が天王山です! みなさん、自分の仕事を全力でお願いします」

 

44人の拉致被害者市民の帰国の可否がかかっているというのに楽しそうなツグミの姿を見て、修と千佳は頼りがいがあると感じていた。

多少不安や悩みがあったとしてもそれを他人に悟られないテクニックと、あくまでも自然体でいて相手を自分のペースに乗せてしまうことでいくつもの難しい交渉を成功させてきた事実は何よりも雄弁に彼女の「意思と覚悟」を語っている。

それを見せることで修と千佳に選択肢を与え彼らの未来に貢献しようとしていた。

ツグミは他人の人生に大きく関わることを避ける傾向があったものの、迅にはこのふたりの存在がボーダーにとって必要だと考えて()()()()()()()という「負い目」があり、導いてやらなければいけないという義務感を負っている以上は迅の重荷を取り除く手伝いはしたい。

一度は修と千佳の先輩としての役目は終えたと考えて手を離したが、結局彼女はまた彼らの導き手となっている。

ただしレプリカと同じで「それを決めるのはわたしではない。オサムとチカ自身だ」という考えで、最終的に彼らがどんな未来に向けてどの道を進むかは本人任せというスタンスで見守るだけだ。

 

「それから昼食についてですが、わたしは女王陛下を誘ってピクニックへと行こうと思っています。ですので昼食は4人でお願いしますね」

 

ツグミがそう言うと、事情を知らない4人は彼女の顔を驚いた表情で見た。

 

「別に遠出をするわけではありません。午後2時から重要な仕事があるんですから。単に彼女を誘って湖を散歩して一緒にランチをするだけですので、午前の作業が終わったらすぐに出かけて、1時半くらいには戻る予定です。先方にはすでに確認を取ってOKということです。そういうことなので、お昼にわたしがいなくても気にしないでください」

 

ツグミの行動には必ず意味があり、ピクニックというレクリエーションであってもそれが交渉を有利に運ぶための「ツール」であることはあきらかだ。

だから誰も異論はなく、彼女のお手並み拝見ということになった。

 

 

◆◆◆

 

 

午前9時、拉致被害者市民の「第1陣」として夫婦と18歳の娘の3人が政庁の会議室へとやって来た。

ツグミは彼らの顔を見ると思わず涙が溢れてきてしまった。

彼女にとってこの家族はそれだけ特別な人間であったのだ。

親しい友人というわけではなくこれが初対面の相手であり、相手も彼女のことを知らない。

 

「須坂さんご一家ですね? わたしは界境防衛機関ボーダー総合外交政策局長の霧科ツグミです。須坂誠吾会長にはボーダーのスポンサー企業の代表として支援をしていただいているだけでなく個人的にも親しくさせていただいています」

 

ツグミは麟児から預かったエクトスがラグナを含む近界(ネイバーフッド)9ヶ国に売却した拉致被害者市民のリストに須坂家3人の名前を見付け、一日も早いラグナ訪問を願っていた。

ツグミは彼らに会ったら須坂の身体のことを伝えてすぐにでも三門市に帰ってもらおうと考えていたのだった。

それがとうとう叶うこととなり、思わず感極まってしまったということだ。

 

「あなたは父のお知り合いでしたか。僕は須坂誠司(すざかせいじ)、そして妻の春美(はるみ)と娘の美桜(みお)です」

 

誠司は自己紹介をし、続けて妻子を紹介する。

ツグミは以前にこの家族の写真を見せてもらっていたが、その写真は7年ほど前に撮影したものでまだ若々しかったし美桜は子供だった。

現在の姿と比べてみると近界(ネイバーフッド)での暮らしがそれだけ彼らに過酷なものだったかが良くわかる。

須坂夫妻はまだ40代前半のはずなのだが、慣れない場所での苦労がたたってなのか10歳以上は老けて見えた。

 

「長い間ご苦労をおかけして申し訳ございません。ようやくお迎えに来ることができました。どうかわたしたちと一緒に三門市へ帰りましょう。会長さんも首を長くしてお待ちです」

 

「ああ、もちろんだよ」

 

ひとまず3人には椅子に腰掛けてもらい、事務的な本人確認を行った。

本人には間違いないだろうが、三門市に住んでいた時の住所や誕生日などで本人であることを確認してから簡単な事情聴取と帰国の意思があるかどうかを訊く。

当然この3人はラグナに未練はないからすぐに帰国したいと申し出た。

そしてツグミは須坂が癌に侵されていて余命いくばくもないことと、トリオン体の研究の被験者として協力をしてもらっていることを話すと3人は涙を流したのだった。

彼らのラグナにおける生活は楽なものではなかったが、他の国に売られた人たちよりはだいぶマシなものだったようだ。

男性はトリガー使いとしての訓練を受けさせられたが、そこで使い物にならなかった人たちは安い価格によってラグナに売られたということで、戦場で戦わされることはなかった。

ただ農業や林業など第一次産業に従事することとなり、誠司は畑を与えられて小麦や大豆などを作る農民として家族と一緒に暮らしていた。

彼らにとって幸いだったのは家族まとめてさらわれ、売却された時も3人一緒であったことだ。

家族がいたからこそ頑張ってこられたというもので、生きていればいつか必ず帰国できると信じて過ごしてきたのだと言う。

貧しい暮らしであろうとも家族の存在は大きく、ひとりでは耐えられなかったことも家族がいたから耐えられた。

だから拉致されてそばに家族や友人がいなかった人たちは政府によって無理やり現地の人間との結婚を命じられたというが、それでも家族として認めてもらえたから生き抜いてこられた。

だから帰国したいと思っても自分を支えてくれた家族を見捨てることはできないだろう。

可能な限り本人の意思を尊重してほしいと言ってツグミに頭を下げたのだった。

須坂家の3人は帰国の意思を示し、そのことは政庁の事務官を経由してイシドロとダフネに伝えられることになっている。

ひとまず誠司たちは帰宅して身の回りの片付けをして三門市へ帰国する準備をしてもらうことになった。

数日のうちに出発することになるので連絡を待つよう伝えると、3人は幸せそうな笑顔をたたえて政庁を出て行くのだった。

 

 

ツグミと誠司たちのやりとりをそばで見学していた修と千佳は拉致被害者の苦労を想像すると胸が痛くなったが、それでも彼らのためにできることがあるとわかると精一杯手伝ってあげたいと思えた。

そして帰国させればそれでおしまいというのではなく、三門市に帰ってから元の生活に戻ることの方が大変であり援助が必要である。

武器(トリガー)を使って戦うだけがボーダーの役目ではなく、ツグミの目指している「近界(ネイバーフッド)玄界(ミデン)の友好の架け橋になる組織」を創ることも大切で、そちらの方がはるかに険しくて長い道のりになることも理解している。

そして修が千佳に言った。

 

「千佳、ぼくたちはとても恵まれているんだ。家族も友達もいて、ボーダーでも先輩や仲間に囲まれて、今はこうして霧科先輩のそばで進むべき道を模索できる環境にいる。ぼくは拉致被害者の人たちのためにできることをしてあげたいと心から思った」

 

「うん。わたしも修くんの言うとおりだと思う。たぶんわたしは高校を卒業したら()()()()()大学へ進学するつもりでいた。そして卒業したら普通に就職をすることになるだろうけど、わたしの才能といえばこのトリオン能力くらいしかない。だからこのままボーダーに残るのもいいかなって考えたこともある。でもそれって他に選択肢がないからという()()みたいに思えて嫌だった。…でも今は違う。ボーダーを続けるための()があって良かった。このままボーダーを続けたい。一日でも早く拉致被害者の人たちを三門市に帰国させたいって心から思ったの。そしてその手伝いができる総合外交政策局の仕事ってやりがいがある。修くんも同じ気持ちなんだね?」

 

「ああ。まだできることは限られているけど、先輩の仕事を見習ってぼくたちも頑張ろう」

 

おぼろげながらも自分の進む道が見えてきた修と千佳であった。

 

 

 

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