ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
修と千佳は自分の部屋へ戻り、ツグミの部屋には迅だけが残った。
ラグナ滞在中は彼もこの部屋で寝泊まりするのだから当然で、ずっとツグミたちの話を黙って聞いていたがふたりきりになるとようやく口を開いた。
「メガネくんと千佳ちゃん、ちょっと見ないうちにずいぶんとたくましくなっただろ?」
「ええ。彼らには防衛隊員よりもこっちの仕事の方が向いていたってことです。そもそも
「そうだな。俺もメガネくんがボーダー隊員に相応しいとは思っていなかったが、あいつが入隊することでボーダーにとって大きな利益になる未来が視えたから城戸さんを口説いて入隊させた。あいつが苦労する未来も視えていたが、遊真と千佳ちゃんというキーパーソンを引っ張り込むために必要だったからな。まあ、苦労はしたが良い仲間を得ることはできたし、人間として大きく成長したことは間違いない。これからは俺も見守るだけでよさそうだ」
迅がそう言うと、ツグミはやれやれという顔で答えた。
「悠一さんはそれでおしまいでしょうけど、わたしにはこれからまだやらなければならないことがあるんです。総合外交政策局長としては局員の福利厚生について城戸司令に掛け合う必要が生まれます。今は総務や経理などの職員の給与や勤務条件と防衛隊員のそれの中間的なもので
ツグミは自分のブリーフケースの中から愛用のノートPCを取り出して起動すると文書ファイルを開いた。
「これはわたしが以前から考えていた給与と福利厚生についての案です。総合外交政策局の職員は今のところ悠一さん、オサムくん、ユーマくん、チカちゃん、麟児さん、ゼノン隊長、リヌスさん、テオくん、そしてわたしという9人です。今後規模を拡大することになるでしょうが、とりあえずこの9人の勤務環境の向上を目指して上申書を提出しようとタイミングを見計らっていたんです。ラグナへ発つ前にゼノン隊の3人とユーマくんと麟児さんに関しては確認を取ってあり、今後も総合外交政策局で働いてくれるそうです。ゼノン隊はスカルキ総統直々にボーダーに協力するよう命令されていますし、テオくんなんて三門市に残りたいからと家族まで連れて来ちゃったくらいですから腰を落ち着けてくれることでしょう。ユーマくんはオサムくんと一緒にいたいだろうし、もうトリガー使いとして戦うことができない以上は
「ふむ…」
「そうなると今度はわたしが総合外交政策局長としてやるべきことをやる番です。勤続年数、職種、その他特殊技能や資格を持っているかどうかなどで給与は決まるようですから、それらを考慮して設定してみました。福利厚生についてはボーダーが他の企業とは違う組織なので問題点が問題となっていなかったところがマズいですね。隊員・職員の半数以上が学生ですから年一回の健康診断は学校任せになっていて、それ以外の成人に関しては三門市が行う集団検診でお願いしています。ですが住民票のない
迅がPCのモニターを覗き込むとそこには大手から中小の民間企業や国家・地方公務員の情報が羅列されていて、それを参考にして現在の総合外交政策局員の特殊な事情を鑑みた条件が提示されていた。
さらに今後防衛隊員から総合外交政策局に異動をした場合や、新規に一般から採用した場合などについても書かれている。
「へえ~、良く調べて書いてあるんだな。ま、
「第3回の拉致被害者市民救出計画がラグナに決定するまで少し時間があったでしょ? もっと前からきちんとした
したり顔で言うツグミに迅は苦笑する。
(簡単に言うけどこれだけのことを調べ上げて、その上で金額や就業条件などを書き連ねているんだから相当な仕事量だったはず。いったいいつ寝ているんだよ…って、ちゃんと11時には寝て5時には起きているんだよな。こいつが忍田さんとの約束を破るはずがない。…ってことは起きている18時間を効率良く使って仕事をしているってことか。高校を退学したからその分は時間が増えたが、俺には絶対真似できねぇな)
「俺には詳しいことはわからないが、城戸さんに見せても文句のつけようがなくて承認されるんだろうな、これは」
「ええ、もちろんですよ。内容がダメダメで突っ返されたらやり直さなければならないでしょ? それは時間の無駄です。やるからには一発で合格するものでなきゃ。それにこの中には総合外交政策局に入局する人たちにとっても目安となるものです。職員採用においても
「先のことも考えているんだな」
「当然ですよ。わたしがボーダーを辞めたとしてもボーダーという組織が存続する以上は
エウクラートンでは現女王のエレナが高齢のため、その役目を果たせなくなる前に新たな女王が即位しなければならないが、現在その王位継承順位の一位がツグミである。
彼女には王家の血筋であるとはいっても人生をエウクラートンに捧げる義理はないのだが、
ひとまず彼女が20歳になるまでは彼女は自由にしても良いという許しを得ており、20歳になったとたんに女王就任というわけでもなく、その時点で彼女が女王の座に就くとなればボーダーを辞めることになる。
またリベラートとイレーネの間に娘が生まれてその子が女王としての資質を持っていれば彼女が王位継承第一位となるのだから、ツグミが女王を続けずに済むという道も存在するのだ。
しかし来るべき時のために準備をしておくことは必要で、ボーダーを去った時のためにいろいろ手はずを整えておくことは彼女にとって憂いをなくすため、つまり自分のためにやっておくことなのである。
自分の去った後の準備をしておいてそれが不要となることを彼女は望んでおり、今はその真っ最中なのだ。
「さあ、明日からはラグナ政府との交渉の続きです。この国に残るか三門市に移住するかは本人たち次第。今頃は女性たちから三門市でのことを聞きながら家族会議をしていることでしょう。正午までに彼女たちから『回答』を受け付け、交渉会議は午後からということですのであなたも同席してください。午前中はとても素敵な場所にご案内しますので楽しみにしていてくださいね」
それからツグミと迅はおやすみのキスをしてからそれぞれの寝室へと入って行った。
◆◆◆
翌朝、朝食を終えたツグミは迅と一緒にダフネ湖の湖畔を散歩していた。
これはデートというべきなのだろうが、会話の内容が湖のできたきっかけであるからしんみりとしてしまう。
「トリオン研究施設で何らかの実験をしていて、その最中に事故が発生して王都を一瞬にして消滅させてしまうほどの大爆発が起きたらしいんだですけど、当事者はすべて死んでしまったからそれ以上のことはわからない…と公式にはそうなっています。でもどうやらその実験というのが新兵器の開発だったらしいんです。ラグナは元々優秀な
ツグミはラグナ滞在中に調べたことについて迅に説明する。
そしてボーダーでもこのような事故が発生するかもしれないという可能性を秘めていると言いたいのだ。
「ボーダーの本部基地地下にある
一方
そうなると無茶な使い方をしないとも限らないわけで、ツグミはそれを心配していたのだった。
すると迅がツグミの頭を抱えて彼女の額を自分の胸に押し当てる。
「心配するな。城戸さんたちはそんなにバカじゃない。ただこういう可能性が存在することを知らないでいたらどうなるかわからないが、知れば
「…はい」
「これでもう憂いはないだろうから、そろそろおまえのいう素敵な場所へ連れて行ってくれよ。ここがその場所ってことはないんだろ?」
「ええ。この先に樹齢が200年を超える大きな木があるんです。つまりこの湖ができる前から生えていて、辛うじて爆発から逃れることができた運の良い木なんですよ。それでこの木に触れて願い事をするとそれが叶うって言われているんです。恋人同士がふたりでこの木に触れて愛を確かめ合うと永遠に結ばれるということで、いわゆるパワースポットになっている場所です」
ツグミは迅と腕を組んで歩き出した。
初夏の眩しい日差しを浴びながら、ふたりだけの静かな時間が過ぎていく。
目的の大きな木に着くと、ふたりは手を握り合い、もう片方の手をそれぞれ木に触れて祈った。
そんなことをせずともふたりの愛は真実であり永遠のものだが、特殊な環境にいるツグミたちだって縁結びのご利益があると聞けば普通の恋人同士のようにやってみたいと思うものだ。
そして改めて確信する。
自分たちの願いを叶えるには神に頼むだけではなく自分たちの行動が重要であるのだと。
◆◆◆
三門市から戻って来た24人の女性たちは
女性たちの多くは自分の故郷である三門市で暮らしたいと思っているが、彼女たちの夫はラグナの人間だし子供たちは
しかし彼女たちから聞かされた
残りの半数の家族も今はまだ決めかねているという感じで、新しい環境での暮らしに不安があるとか住み慣れた場所を離れる勇気がないだけで三門市での暮らしが嫌だというのではなさそうだ。
ラグナ政府としてはすでに20人もの人間を返し、さらに自国民まで去られてしまうのは非常に
もちろんボーダー側にその代価となるものを十分に支払う準備はあるものの、ラグナ側はボーダーから引き出せるだけ引き出そうと考えている。
当然のことながらボーダーも相手の要求を無制限に受け入れることはできず、一定の線で折り合いを付けなければならない。
そこでツグミは人質としてラグナに残るというチャンスを最大限に活かし、ダフネという人間とラグナのことを良く知るために積極的に行動した。
特に庶民と触れ合うことで国情を知ることができ、ダフネが女王としてどのような政をしているのかも彼らから
そう考えて農作業を手伝い、その中で例の「仮説」が思い付いたのだった。
そしてラグナが住みやすい場所であるからこそ、三門市が恋しいにも関わらずこのままずっと家族と共に住み続けたいと思う女性たちがいるのだ。
もしダフネが暴君や暗君であったら迷うことなく三門市に移住したいと思うだろうが、彼女は若いながらも女王として立派に責務を果たしているということになる。
ツグミは彼女のことがますます気に入った。
悲劇が起きた旧王都の跡地を美しい湖に変え、憩いの場所とすることで慰霊の気持ちを持ちながら国民に心の安らぎを与えたいという気持ちに打たれた。
さらに思いがけずに責任のある役目を押し付けられたが逃げずに立ち向かっているという自分と同じ境遇の彼女にシンパシーを感じ、彼女もまたツグミのことを「敵」ではなく「味方」と認めてくれたことで友情を育むに至った。
だからこれまでのヒエムスやレプト以上に力を入れていて、キオンやアフトクラトルのように「
キオンとアフトクラトルの軌道はそれぞれ最接近する時期には2日か3日で往復できるのだが離れていると半月もかかってしまう。
しかしラグナは
ラグナに補給基地を置くことによってこれまで以上に多くの国へ行くことが容易となり、今後の拉致被害者市民救出計画も進めやすくなる。
そのためには強い信頼関係がなければ不可能で、ツグミは24人の拉致被害者女性とその家族に対してラグナ政府だけでなくボーダーの幹部やスポンサーたちとも交渉をしなければならないと考えていたので、唐沢のラグナ来訪は天啓に思えたほどだ。
ツグミがラグナ政府とどのような交渉をしたのか証人となってくれる人物が彼なら心強い。
それに
こうして午後2時からボーダーとラグナ政府の交渉が再開した。