ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
ツグミがラグナに出発した頃はまだ小さく固い蕾の状態だったソメイヨシノも今ではその花びらを風に散らしていて、国際港の片隅に生えているヤマザクラだけは彼女を待っていたのか満開の花で彼女の帰国を歓迎していた。
彼女がラグナに出発したのは2月28日であったから約40日間も三門市を留守にしていたわけで、彼女がいない間に季節は大きく変わっていた。
いや、季節だけでなく他にも変わったことはたくさんあった。
新年度が始まるこの季節、三門市民だけでなく三門市に住むことになった帰国者とその家族にとっても新生活が始まる。
ヒエムスやレプトからやって来た5歳から14歳までの子供たちはそれぞれスマートシティに最も近い三門市立第二小学校と同第二中学校が受け入れることになっていて、新年度から学校に通えるようにと彼らは読み書きなど基本的なことを学ぶフリースクールへと通っていた。
8日から始まる新学期から
一緒にとはいっても学力の面で問題のある子供もいるため、しばらくの間は国語や社会科などの学習は
もちろん給食も一緒に食べることになり、放課後は学童保育施設で同じ時間を過ごすことになる。
子供たちが親しくすることによって大人たちも自然に交流することになり、この新学期の開始は三門市民と
三門市に永住することになった
これは彼らが祖国に帰国することなく
三門市民の感情への配慮と
残りの半数はスマートシティ内の建設現場で働いており、その働きぶりは誰もが認めるもので、現在は契約社員だがいずれは正社員として採用するという話だ。
城戸がアフトクラトルを同盟に加入させる旨を発表してからボーダーの市民窓口と三門市役所では市民の意見を募集している。
賛成派が大多数ではあるが、やはり少数でも反対派がいる以上は民主主義の原則に従って話し合いと投票によって決めなければならない。
そこで4月20日まで意見を募集し、それを元にして市議会にかけられて審議をすることに決まった。
順調に進めばゴールデンウィーク明けには加入の可否が決定するだろう。
ツグミが関わらないところでも
それは当然のことなのだが、すべては彼女が蒔いた種が芽を出して花を咲かせているのである。
彼女が家族同然の仲間を奪い去った
メノエイデスでウェルスを捕虜として三門市へ連れて来てしまったら、ボーダーとメノエイデスの関係は今のように良好なものではなかっただろう。
ウェルスが鳩原の弟の智史を保護して連れて来てくれたのは脱走を手助けしてくれたツグミに対する恩返しでもあった。
キオンの3人組に拉致された一件でも彼女がゼノンたちを敵として接していたらキオンと同盟を結ぶまでの関係に至ることはなかったはずだ。
さらにキオンの協力がなければアフトクラトル遠征が成功したかどうかも怪しい。
ゼノン隊が提供してくれた情報は遠征部隊のメンバーとC級隊員全員を無事に帰国させるために必要なものであったし、なによりもアフトクラトル遠征以降の
ツグミの父親が
自分の出自を知らないうちから彼女は
彼女が敵だとみなすのは自分の進む先を遮る者と、大切な家族と仲間に危害を加える者だけ。
ゼノンやハイレインのように一度は敵として戦ったとしても二度と敵対しないという確信を得て、さらに
そんな彼女だからこそ「今」がある。
城戸はそう考えており、帰国したばかりのツグミたちに特別休暇を与えることに決めていた。
◆
国際港に到着したツグミたちは本部基地と玉狛支部にそれぞれ連絡をして迎えに来てもらうことにした。
ちょうど非番で玉狛支部にいたレイジが修と千佳を乗せて去って行く姿を見送り、ツグミと迅、ゼノンとリヌス、そして唐沢は本部基地からの迎えの車を待っていた。
麟児が迎えに来てくれるということで、話題は自然に彼のことになった。
「麟児さんが無事に日本国籍を取得できて良かったですね。まあ、彼が第一次侵攻の張本人であるエクトスの人間だということを知られたらこうスムーズに事は進まなかったでしょうけど。やっぱり唐沢部長の手腕は見事です」
ツグミが感心した口ぶりで言うと、唐沢はさも当然だという顔で答えた。
「大したことじゃないさ。彼のことはエウクラートンの人間だということにしておいたから、同盟国の人間なら帰化申請はそう難しいことじゃない。ただ雨取家の戸籍に入れることはできなかったから雨取麟児を名乗っても法律的には千佳くんとは兄妹とはいえないのだが、それでも彼がこちら側の世界で生きていくには不自由はないだろう。運転免許も取れたのだから総合外交政策局も仕事がやりやすくなり、おかげでこうして彼が迎えに来てくれることになった。免許を持っているのが迅くんだけだと行動範囲が限られるからちょうど良かっただろ」
「はい。この採掘場跡地は艇を停めておくだけでなく
「いやいや、アレは小笠原社長に知り合いの中古車販売店を紹介されて、その販売店の店長がきみのファンだったものだから一番コンディションの良いものをタダ同然で譲ってもらったんだから、きみの普段の働きが認められたということになる。ボーダーの活動は防衛任務を含めて市民の目にはあまり届かないものだが、拉致被害者の帰国記者会見や
「はあ…。それはともかくできるだけ近いうちに須坂会長と面会できるよう時間を作らなければいけませんね。わたしが責任を持って必ず家族と再会させると約束していて、その最後の段階で他の人にお任せしちゃったんですから。さっそく電話を ──」
ツグミがそう言うと、彼女と唐沢との会話を聞いていた迅が彼女に呼び掛けた。
「ツグミ、須坂会長には俺が連絡しておいたぞ」
「え?」
「今さっき三門市に帰って来たことを須坂会長の携帯電話にメールしたんだが、すぐに返事が来て今夜の夕食におまえと俺を招待するってことになったみたいだ。勝手に連絡してしまったがこれはあの人から帰国したらすぐに教えてほしいって頼まれていたことで、いつ帰って来てもいいように準備もしていたみたいだな。あの人の自宅で向こうの家族4人と俺とおまえの6人での会食になる。ほら、これだ」
迅はメールの画面をツグミに見せた。
「わかりました。その件はジンさんにお任せします。…あ、麟児さんが来たみたいですよ」
ツグミの視線の先には白いワゴン車があり、真っ直ぐに彼女たちのいる広場へと向かって来ている。
そしてボーダーのエンブレムの描かれた車体がすぐそばに停まると運転席から麟児が出て来た。
「みなさん、お疲れさまでした。ツグミ、城戸司令が総司令執務室できみを待っている」
麟児の言い方が気になったツグミは訊いた。
「もしかしてわたし、だけですか?」
「そうだ。他のメンバーは特に呼ばれていないので、弓手町の寮を経由して唐沢部長を自宅で下し、そして最後に本部基地へと向かうルートになっている」
「そうですよね…みんな長旅で疲れているんですから、責任者であるわたし以外の人は早くゆっくり休めるよう家に送り届けるのが当然です。では、よろしくお願いします」
ツグミたちは私物のスーツケースを積み込み、続いて自分たちもワゴン車に乗り込むと国際港を後にした。
◆◆◆
「ご苦労だった、ツグミ。疲れているところを済まないが、ラグナでの報告を聞かせてもらおう。おまえほど上手くはないが、私の淹れた茶もまんざらではないぞ」
城戸はわざわざ自らツグミのためにお茶を淹れてくれたのだが、これは彼にとって部下に対する最上級のもてなしである。
それだけ彼がツグミの仕事ぶりを評価しているという意味なのだ。
「はい、いただきます。…はぁ~美味しい。
ツグミは本心から美味しいという表情をしながらお茶を飲む。
その様子を見ている城戸の姿は上司というよりも娘を愛おしむ父親のそれであった。
しかしすぐに現実の「部下と上司」の関係に戻り、ツグミはブリーフケースから報告書を取り出して城戸に手渡した。
「これが今回のラグナにおける任務の顛末です。前半はすでにお手元に届いているはずですので、付箋のついている18ページ目から最後までを読めば全体がわかるようになっています。でもそんな形式的なものよりもわたしの口から直接聞きたいんですよね?」
「そうだ。だからおまえがラグナに到着してからの話をしてくれ」
「はい、わかりました」
ツグミはラグナで自分が見聞きして感じたすべてを正直に話した。
その中には城戸にとって必要のない情報も多く含まれていたがそれでも彼は興味深げに聞いていて、報告を聞きたいというのはボーダー総司令官としての彼ではなく城戸正宗個人の好奇心によるものだったようだ。
ダフネという同世代の少女が突然女王に祀り上げられたものの国民のことを一番に考えるという方針によって政を行ってきた。
その中で人口を増やしたいという気持ちでエクトスから拉致被害者市民を購入し、彼らのことも国民として大事に扱ってきたからこそ全員が健康で特段問題なく元の生活に戻ることができた。
帰国したいという希望があった女性たちもダフネのことを信じてラグナに残ることを決心したことなど、ツグミはダフネ個人の人間性や政治に対する姿勢などに好感が持てたことを中心に話したのだった。
「そうか、おまえがそう感じたのならそうなのだろう。それにその話しぶりだとラグナでの滞在はとても楽しいものになったようだ」
「はい。いろいろな経験をさせてもらいました。その中でひとつの仮説を立ててみたんですけど、それに関しては明日にでも書面で提出させていただきます」
ツグミがそう答えると、城戸はそれを制止した。
「いや、それはまだいい。おまえには先にやってもらいたいことがあるんだ」
「急いでやらなければならないことですか? わたしの留守中に何かトラブルでも?」
「そうではない。おまえを含め総合外交政策局員全員に明日から3日間の特別休暇を与える。だからその間は仕事のことを一切考えずに身体を休めるといい」
城戸がツグミたちの功績に報いる方法は休暇と恩賞しかない。
「手間をかけさせるが局員たちにはおまえから伝えてくれ。ああ、休暇なのだから本部基地及び玉狛支部を含むボーダー施設への立ち入りは禁止だ」
「はい。でも玉狛支部で暮らしている元玉狛第2のメンバーはどうすればいいんですか?」
「実家に帰ればいい。彼らにも家があり、そこで家族が待っているのだから当然だ。おまえも忍田家に帰って親孝行をしろ。その時には迅も連れて行ってやれ。ゼノン局員とリヌス局員に関しては寮にいてもつまらないというのなら、ボーダーの保養所に行って寛いでもらってもいい。旅費はこちらで出す」
「…わかりました。わたしも休暇が明けましたら報告書を書くことにしますので、提出は…11日の月曜日を予定していてください」
「了解した。これで私の用件は終了だ。おまえも寮に戻って寛ぐといい」
「そうしたいところなんですが、今夜は須坂会長のお宅に招待されていますので、それまでにやってしまわなければならないことを片付けてしまいます」
須坂の名を出したところで城戸も理由がわかったようだ。
「そうか。あの人にはずいぶんと世話になっているからな、私がよろしくと言っていたことを伝えてくれ」
「はい。では、失礼いたします」
◆
総司令執務室を出たツグミはさっそく総合外交政策局員全員に一斉メールを送信した。
内容は城戸の命令によって3日間の特別休暇を与えられたことと、その期間のボーダー本部及び支部への立ち入りを禁止する旨である。
もちろんそれだけでは「城戸の意図」が酌めないだろうからと、まず修の携帯電話に連絡をした。
「オサムくん、メールは読んでくれた?」
「はい。ですがこれはどういうことでしょうか?」
「城戸司令の
「はい、ちょうど3人で話をしていたところでした」
「それ好都合だわ。あなたたちは3日間玉狛支部に入ることもできない状態だから、オサムくんは実家に帰りなさい。仕事が忙しくてしばらく家に帰っていないんでしょ? わたしも含めてだけどそういう状況だってことを知っているからこそ城戸司令も実家に帰らざるをえない命令を下したのよ。それでユーマくんを三雲家に招待してあげてはどう? 香澄さんなら歓迎してくれるはずだから」
「そう…ですね。空閑に訊いています」
「それからチカちゃんは麟児さんと一緒に雨取家に帰るよう伝えてちょうだい。麟児さんにはわたしから直接説明をして、玉狛支部へチカちゃんを迎えに行くように言っておくから」
「はい、わかりました」
「城戸司令は総合外交政策局の仕事とその結果に満足してくれている。そしてその仕事がどれだけ大変なものかも理解してくれているからこその特別休暇なのよ。だからゆっくりと休んでちょうだい。そして親孝行してあげてね」
そう伝えてツグミは電話を切った。
次は麟児にこの件を伝えるのだが、幸いなことに彼は仕事があって総合外交政策局の執務室にいてくれたので直接会って話ができたのだった。
「俺は雨取家の敷居を跨ぐことはできない。あの家族に対して俺は…」
「酷いことをしてしまった、ですか? たしかにチカちゃんたちを騙して家族になりすましたことは許されざる行為ですけど、あの人たちに対して危害を加えたわけではないでしょ? それに記憶を操作して家に入り込んだ後は全部あなたが雨取家の家族の一員であった本物の記憶ですもの、だからこそ彼らは困惑しているんですよ。それが幸せなものだったからこそあなたが赤の他人であったことが哀しいし騙されたという気持ちがあって『可愛さ余って憎さ百倍』となるわけです。あなたがボーダーに入隊して三門市民のために働いていることは彼らも良く知っているはず。チカちゃんは真実を知ってもあなたのことをお兄さんだと慕っているくらいです」
「だが…」
「あなたが
「……」
「といっても不安はあるでしょう。でも少なくともあなたがチカちゃんを家に送り届けることになるんですから、雨取家の玄関先までは行かなければなりません。そこまで行けば後は何とかなるはずですよ。わたしが保証します」
ツグミが自信満々で言うものだから、麟児は仕方がないとばかりに答えた。
「わかったよ。きみがそこまで言うのならもう一度やり直してみるよ。あの人たちが俺を許してくれるかわからないが、会うのが怖くて避けていたのは事実だ。勇気を出して謝罪し、許されたならもう一度家族の一員に加えてもらおうと思う」
「ええ、その一歩を踏み出す勇気があれば大丈夫。チカちゃんだって味方なんですし、最悪の場合であってもあなたは失うものはもうないんですから怖くないでしょ?」
「失うものはない…か。たしかにそうだ。じゃあ、これから俺は玉狛支部へ行って千佳を雨取の家へ連れて行く。夕飯を食った後のふたりとも在宅している時間に行くことにするよ」
「頑張ってください。それでひとつお願いがあるんですけど、玉狛支部へ行くついでにわたしをレジデンス弓手町で下してもらえませんか?」
「もちろん、いいとも。さあ、行こうか」
そう言った麟児の表情は明るく、普段でも細目の彼はさらにその目を細めて微笑んだ。