ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
食堂内ではいくつものグループができあがってそれぞれ談笑しており、ツグミと千佳と麟児の3人も部屋の片隅で話をしていた。
「チカちゃん
ツグミが訊くと、千佳は満面の笑みを浮かべて答える。
「はい。久しぶりに
「ということは麟児さんのことも上手く解決したということかしら?」
ツグミが麟児に視線を移して訊くと、彼は穏やかな表情で頷いた。
「ああ。きみが言うように覚悟を決めて千佳を雨取家へ送って行ったんだが、俺が想像していたよりも
「あなたが一昨年の10月に帰国して約1年半、その間ずっとお互いに複雑な感情を抱いていたんですものね。どちらも
「城戸司令が俺や雨取家の家族のことを気にかけてくれていたというのか?」
「ええ、もちろんです。あの人は元々家族思いの優しい人で、ボーダーに集う若者たちの父親代わりという意識でいます。
「城戸司令が俺みたいな
「ボーダーは
「城戸司令のことをそうハッキリと好きだと言える君が羨ましい。雨取夫妻は俺のことを息子として接することができないという態度だし、俺もあの人たちに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいでいた。でも元の親子関係には戻れなくてもたまには遊びに来るようにと別れ際に言われたことがとても嬉しかった。『覆水盆に返らず』という言葉は真理だが、別に元のこぼれた水を戻すのではなく新しく注いでもいいんじゃないか。過去の確執がどのようなものであれ、俺とあの人たちの意思次第でやり直すことはできる。すぐには不可能でも時間が解決してくれるものもある。そう思うと気持ちがすごく楽になったんだ」
「それは良かったです。これでチカちゃんの一番の心配事も解決…とまではいかないまでもひと安心したんじゃないかしら?」
すると千佳は笑みながら答えた。
「はい。兄さんとは血のつながりがないと知った時にはショックでしたけど、そんなものがなくても強い絆を持つツグミさんたちを見ていたので特に気にしてはいませんでした。でも両親はそうもいかないようで、兄さんの裏切り行為については絶対に許せないという感じでした。だからもう二度とわたしたちは4人一緒に会うこともできないと考えていたんですけど、時間が経って両親の兄さんを許せないという気持ちもだいぶ和らいできたみたいでした。嘘をついて家族に紛れ込んでいたことは事実ですけど、家族として一緒に暮らした時間も本物です。どちらもなかったことにはできませんが、いつまでもそのことで胸を痛めるよりも新しくやり直す道があればそれを探したいというのが本心なんだと思います。わたし自身がそうですから」
「そうね。第一次侵攻で被害を受けた人たちの中には
「わたしもそう思います。母は夕食にわざわざ兄の好物を作ってくれたり、父は健康のことを気遣ったりとなんとなくぎこちない感じはありましたけど、昔の家族っぽい雰囲気になっていましたから」
「麟児さんが雨取家の長男だということは周知の事実で、雨取夫妻は麟児さんが息子だということを否定できないから、実家に帰って来た彼を無碍にはできないものね。仕方がないと感じながらも昔の楽しかった頃のことを思い出して自然と接し方が家族の時と同じようになるのよ」
拉致被害者市民救出計画が総合外交政策局主導によって行われていることはマスコミによって広まっている。
今や防衛隊員の市内巡回等の地味な任務よりも総合外交政策局の仕事の方が派手で市民に対するボーダーの「市民のために働いています」アピールは効果がある。
麟児を総合外交政策局に入局させたのは雨取夫妻がテレビや新聞などを通じて彼の働きを知ることができるからだ。
かつて自分の息子として慈しんできた彼が今は罪を償うために頑張っていると知れば気持ちも変化するのは自然なことだろう。
もっとも千佳はボーダー隊員として周知されていて、彼女が実家の近所の人たちに「わたしと兄さんはボーダーの総合外交政策局で働いていて、
麟児が雨取家の長男であることは近所の人間は皆知っているので、ここで千佳の言ったことを否定すれば痛くもない腹を探られることにもなる。
したがって雨取夫妻は「麟児はわたしたちの息子である」ということを無言で認めなければならない。
成人男性が実家で暮らしていなくても別に怪しまれるようなことではなくむしろ自然なことで、たまに顔を出す彼を無碍にはできないだろうから、そのうちに元のようには戻らなくても普通に接することができるようになるだろう。
この千佳の「わたしと兄さんは~」はツグミが近所の人にそう言うように促したことで、嘘ではないから千佳も話を広めることに後ろめたさはなかった。
むしろ麟児のことを本当の兄のように慕っている彼女は多少誇張して言い触らしたようだが、結果はオーライである。
「麟児さんは日本国籍を手に入れたことでわたしたちと同じ日本人となった。でも雨取家の籍に入れることはできなかったから、雨取麟児という名はそのままだけどあなたの戸籍の雨取とは無関係な存在。だったらいっそのこと家族に戻るんじゃなくて家族とは違う絆を結ぶという道もあるわよ。世間的には親子や兄妹となるけど遺伝子的には他人だもの。親子やきょうだい間など身内で起きてしまったトラブルほど血縁関係等がある分根が深いものになってしまうことがある。その点あなたたちは他人なんだから、むしろ気軽に付き合えるんじゃないかな。もちろん戸籍の上でも本当の家族になりたいというのなら、麟児さんが雨取夫妻の養子になればいい。あなたたち4人の関係は当事者の意思でどんな風にでもなるってことは忘れないで」
「はい」
「ああ。…ありがとうな、ツグミ」
礼を言う麟児。
そんな彼にツグミは首を横に振った。
「いいえ、あなたたちだけでなくわたしやオサムくんたちにも家族というものを改めて考える時間を与えてくれた城戸司令にこそお礼を言うべきです。もっとも本人に直接言ってもあの人のことだから『私は良く働いてくれた職員に休暇を与えただけでそれをどのように使い、またその時に何を考えたのかは私には関係のないことだ』とか言って無関係を装うに決まっています。そういう人ですから。だから心の中で感謝して、次の任務で結果を出すことによってその気持ちをあの人に伝えればいいと思います」
「わかった」
これでツグミがずっと気にしていた雨取家の問題も時間が解決してくれそうだ。
麟児のボーダー入隊はツグミが提案したことで、彼がプライベートでの悩みのせいで総合外交政策局の仕事に専念できないとなればそれは管理職であるツグミの管理能力が問われてしまう。
…というのは表向きの理由で、実際は大事な仲間のことが心配で仕事に支障が出ないようにという「自分のため」である。
「ツグミの世界」の中心にいるのは当然彼女であり、彼女の行動ひとつでその波紋は広がって行く。
それは彼女に近い人間ほど早く、そして強く影響を受けてしまう。
だからこそ彼女は自分の行動には重い責任があると認識していて、すべての人間は無理でも自分の手の届く範囲の仲間や友人には自分と同じくらい幸せになってもらいたいと考えているのだ。
◆
パーティーは2時間ほどでお開きとなり、全員で食堂の片付けをしてそれが終わると解散した。
レジデンス弓手町の住人たちはレイジと麟児の運転する車に分乗して帰ることになり、忍田は話があるという林藤の車で自宅まで送ってもらうことになった。
「林藤、私に話とは何だ?」
助手席に座る忍田が林藤に訊く。
「ああ、それな。別に今じゃなくてもいいんだが、いつかは何らかの答えを出さなきゃならんことなんでちょうどいい機会だと思ったもんだからさ。…で、話ってのはボーダーの今後についてだ」
「ボーダーの今後?」
「そうだ。このところ拉致被害者市民救出計画も順調に進んでいて、
「まあな。東は後輩たちからの信頼も篤いし、何よりも戦術というものを理解しているから私よりは良い司令官になってくれるはずだ」
「そして防衛隊員の育成に関してはこれまで指導者というものはなく、先輩が後輩に乞われて指導をするといったレベルだったために訓練生はなかなか
「たしかに城戸さんはいつまでも自分がボーダーのトップにいるべきではない。できるだけ早く総司令の座を誰かに譲って自分は表舞台からは身を退きたいと言っていた。第一次侵攻後に組織を拡大するためにすべての
「総司令官ってのは教育や訓練によってできるようになる
「そうだな。しかし現在進行中の拉致被害者市民救出計画を終えないうちに引退はしないはずだ。病気になったとしても身体に鞭打って立ち上がろうとするだろうし、何よりも中途半端なままで終わらせたくはないという気持ちが強いから無理をしてでも仕事をする。そうなってしまった時にはせめて安心して治療や療養できる環境を整えてやらなければいけないと思う。…まあ、とにかくボーダーも変革の時を迎えているということだな。心に留めておこう」
ツグミや迅のような若い連中がひとつ歳を取るということは、城戸や忍田たちのような人間は老いて現役を続けていくことができなくなる時が一歩一歩近付いているということを意味する。
自分自身のことだけなら良いのだが、ボーダーそいう組織の幹部である以上は三門市民の人生にも責任があるということだから真剣に考えなければならない。
林藤の言うように「別に今じゃなくてもいいんだが、いつかは何らかの答えを出さなきゃならんこと」だが、そのことを考えるには相応しい日であることは間違いない。
彼らがいつどのようなタイミングで引退するのかはまだ先のことにはなるが、その時に無様な姿は見せられないと覚悟を決めておく必要はあるということなのだ。
「俺たちは人生の半分以上をボーダーと共に生きてきた。それを後悔はしていないが、若い連中に後悔をさせるようなことだけはしたくねえな」
「ああ」
忍田がひと言そう返答すると、会話はそこでおしまいとなった。
自らの身の振り方について改めて考えることにしたようで、それから車が忍田家に到着するまで車内には沈黙が続いていたのだった。