ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
王城から馬車に乗って約30分走った先は王都に一番近い町だった。
町といっても周囲を城壁で囲んでいるような領主の館のある場所ではなく、庶民階級の人間が集まって集落を作っているというレベルのものだ。
周りは畑が広がっていて、収穫した豆を乾燥させるための「にお」がいくつもある。
そろそろ雪が降り始める時期なので、住民たちは冬支度を始めていた。
そのためそれぞれの家に庭とは言い難い空き地があって、そこに農機具を置く倉庫を設置してそのそばに薪となる木材を積み重ねおくのだ。
「馬車を下りて歩いてみよう」
ハイレインに促されてツグミは馬車から下り、町の中を散策することになった。
町の外れに馬車を停めてふたりだけで歩いているのだが、ツグミは少々不安になった。
そして小さな声で訊く。
「国王ともあろう方が護衛もなしに出歩くなんて不用心じゃありませんか? それに町の人に見付かったら国王の視察だということで大騒ぎになりそうですよ」
するとハイレインは「何だ、そんなことか」いう顔で答えた。
「俺がハイレイン・ベルティストンだとわかる人間はこの町にはいない。
「それはまるでわたしの国の数百年前と同じですよ。でも少し違うのは上からのお知らせは高札という立札に文書を貼って読ませるというものでした。どの集落にも文字の読める人はいて読めない人に伝えるのが普通でしたし、寺子屋という初等教育機関があったので庶民の子供でも読み書きと計算はできる場合が多かったですから」
「…ふむ、やはり教育は必要か。ディルクが
「わたしもそう思います。息子のレクスくんが
「ああ。…しかし俺はそんな家族を壊そうとしていた。ディルクを『神』にすれば夫人と息子を哀しませることになっていただけでなく優秀な忠臣を失うところだった。ボーダーにあの家族を誘拐された時には腹が立ったが、そのおかげで俺の愚かな計画を潰してくれたのだからな、今は
アフトクラトル遠征の際、ディルクがボーダーの協力者であったことを隠ぺいするために情報漏洩はすべてエネドラによるものとして全責任を彼に擦り付けた。
そしてディルクが生贄にされることを避けるために家族ごとボーダーが拉致したことにし、それすらもエネドラによるハイレインに対する復讐ということにした。
ハイレインがエネドラに感謝しているとまで言うのだから、冗談であったとしてもその黒幕がツグミだとは想像もしていないだろう。
「ただし名前くらいは聞いて知っているだろうから、人前で名は呼ばないでくれ。もちろん陛下と呼ぶのもダメだ」
「ではどうお呼びすればいいでしょうか?」
「それなら『ピロス』と呼んでくれ」
「ピロス…ですか?」
「そうだ。今では使わなくなったが古い言葉で意味は友人という」
「なるほど、それはいいですね。ではこれからピロスさんと呼ばせていただきます」
ツグミがそう答えるとハイレインは嬉しそうな顔になった。
それもそのはずで「ピロス」とは友人という意味があるのは事実だが、女性から男性に対しては「愛しい人」という意味もあるのだ。
それを知らないツグミは無邪気に彼をピロスと呼ぶ。
ハイレインは彼女から「愛しい人」と呼ばれると胸が高鳴るのだった。
◆
町の中に入ると人々の表情は明るく、大勢の人間が慌ただしく動き回っていた。
だからなのか余所者のツグミとハイレインに対して関心を持つ余裕もなく、ふたりはのんびりと視察を続ける。
そのうちに市場に到着し、そこで理由が判明した。
露店で焼き栗を売っている婦人に声をかけて、焼き栗を買うついでに訊いたのだ。
「おばさん、何だか町の中が活気があって賑やかですね?」
「あんたたちは他所から来たみたいだね。明日の収穫祭の準備でみんな忙しいんだ」
「収穫祭ですか。わたしたちは王都へ向かう途中で、休憩をしようと立ち寄ったんです。そういえばこの周辺の畑は豆を栽培しているみたいですね?」
「ああ。この辺りは大豆の産地で、新しい国王様と『神』のおかげで収穫量が毎年増えていく。それでそのお祝いもあって今年のお祭りは去年よりも盛り上げていこうということになってね、今は準備の真っ最中だってことだよ」
「それなら明日また来ればお祭りに参加させてもらえますか?」
「もちろんだとも。お祭りは人がひとりでも多い方が楽しいからねえ。特にあんたたちみたいな若い夫婦は大歓迎だよ」
露店の婦人が勘違いをしてそんなことを言うものだからツグミは顔を赤くしてしまう。
そして慌てて否定した。
「違いますよ! この方…ではなく彼は恋人でもありません。ただの友人です!」
ツグミが否定してもその様子が恥ずかしがっているように見えたのか、婦人はケラケラ笑いながら言った。
「そうかい、ただの友人かい。でもその人は角付きってことだから優秀なトリガー使いだと思うよ。将来有望な男なんだからしっかりと掴まえておきな。あんたも若くて子供をいっぱい産めそうな健康な女の子なんだから頑張るんだよ」
「…はい」
否定しても意味がないとわかるとすぐに諦めてしまったツグミ。
彼女の慌てぶりがおかしかったのか、ハイレインは声を押し殺して肩で笑っていた。
するとツグミはいたたまれない気持ちになり、無作法ではあるが挨拶もせずにひとりで立ち去ってしまう。
そしてその場に取り残された形になったハイレインは婦人に小声で言った。
「俺の
「そうかい? あたしは全然気にしてはいないけどさ、あんたがそう言うならお言葉に甘えて…」
ハイレインは焼き栗の袋を受け取ると、小銭を婦人に渡した。
「毎度あり。明日もここで店を出しているから、また買いに来ておくれ。あのフィリアって子にもよろしく」
「ああ、わかった。約束はできないが心に留めておこう」
そう言い残してハイレインはツグミの後を追った。
フィリアとは「親友」という意味なのだが、アフトクラトルではもうほとんど使われていない古い言葉なので婦人はそれが少女の名前だと勘違いしているようだ。
市場の外へ出て行こうとするツグミに追いついたハイレインはあえて隣を歩かずに数歩後ろを付いて行く。
それに気付いたツグミは足を止めて振り返った。
「へい…じゃなくて、ピロスさん、そんなところを歩いていられたら護衛の騎士みたいじゃありませんか。周囲の目が気になります。これならまだ夫婦に見られた方が目立ちませんから、隣を歩いてください」
「ああ、いいとも。…それと、これをきみに。もうひと袋くらいなら食べられるだろ?」
ハイレインはそう言ってツグミに焼き栗の小袋を手渡した。
「ええ、大好物ですから。どうもありがとうございます」
ツグミが笑顔で礼を言うと、ふたりは再び並んで歩き出した。
そしてしばらく町の中を散策していると、ハイレインの方から「本題」を持ち出した。
「さっききみは馬車の中で仮説を聞かせてくれたが、なかなか面白いと思った。たしかにその仮説は立証できれば今後のトリオン不足を補うことができるようになるだろうし、
「
「きみは俺よりも多くの国の庶民の暮らしに接しているのだから俺よりは現実を良く見ているはずで、そんな君が言うのだからそのとおりなのだと思う。きみは仮説を立証するためには多くのサンプルが必要だと言っていたな。そこでこの国でのサンプルなのだが、王都に住む人間の他にも地方の人間のデータも有用だろうということで、この町の住民にも協力をしてもらおうと考えている。ざっと見てみたが子供は多いし、年寄りも元気そうな町だ。彼らの生活を調べて王都の人間と比べるだけでも差は出てくるだろう。もちろんこの町だけでなく可能な限り多くの集落を対象としてデータを集めようと思うのだ」
「それはありがたいことです。データは多ければ多いほど正確なものに近付いていきますから。そして各国のデータの単位を統一するためにボーダーで使用しているトリオン能力の測定器を持って来ましたので、定期的に調査していただけると助かります。足りないのであれば ──」
「いや、ボーダーの測定器くらいなら
「お手数をおかけしますがよろしくお願いします」
「気にするな。これもアフト国民のためになることと思えばたいしたことではない。それにきみが喜んでくれるのなら俺はいくらでも手伝おう。今の俺にはそれだけの力がある。…この力を欲して俺は多くの犠牲を強いてきた。ならばその力を正しいことに使うのは当然だ」
「そのお言葉はとても力強く感じられます。力がなければ何もできませんが、力を持つことでその力の大きさの分だけ責任を負うことにもなります。そう思うとその力を使う時には慎重にならざるをえません。わたしも大規模侵攻であなたと出会った時はタダの防衛隊員だったというのに今では総合外交政策局長という
「収支が合わない、か…。きみは時々面白いことを言うな。それが的を射ているからいつも感心してしまう。たしかに失うものがあってもそれは手に入れたいものがあるからで、それを手にすることができなければバカバカしい。俺の欲しいものもきみとほぼ同じで、きみの気持ちは良くわかる。そしてきみに協力することは自分の欲しいものを手に入れるための近道でもあると確信している。
「わたしもです。…人間って言葉という手段で自分を相手に伝え、相手のことを知ることができる生物。言葉によってケンカすることもありますが、言葉で仲直りもできる。もしトリオン兵相手であれば永遠にわかり合うことはできませんでしたが、人間同士だったからこうして会話して問題を解決することができるんです。とても素敵なことだと思いませんか?」
「ああ、そうだな。ところできみはこの国に何を感じたか聞かせてもらえるか?」
ツグミは少し考えてから言う。
「『神』の交代があったことで人々の表情に笑顔が多くなったみたいですね。ヒュースの話では
「可能性…」
「はい。
「……」
「でも現在のアフトの国王は従属国という扱いをやめ、これまでアフトの人間が管理していた各国の
ツグミに尊敬していると言われてハイレインの表情が緩んだ。
(ツグミの言葉はいつでも俺を癒してくれる。優しい言葉はもちろんだが、厳しい言葉であってもそれが俺のためだというだけで思いやりのある優しい言葉に聞こえてしまう。胸が温かくなり、自分も誰かに優しくしてやりたいという気持ちになる。これはこの世でただひとり、ツグミからしか得られない気持ちだ…)
ハイレインにとってツグミへの気持ちは恋愛感情などという俗なものではなく、信仰の対象としての聖母のような存在になってしまっていた。
幼い頃に母親を亡くしてからは誰かに優しく抱きしめてもらえたことのなかった彼は強くなくてはいけないと考えて自ら愛するという気持ちを弱いものの象徴として封印してきた。
そして「力」によって大勢の人間を支配し、数々の戦いの末に国王の座に就いたのだった。
そんな自分のすべてをツグミは許してくれたと感じているハイレインだが、実はツグミは彼のことを許してはいない。
許していないからといって憎んだり恨むのもはなく、過去の行為はなかったことにはできないのだから許すことはできないが相手の事情を理解しようとして
しかしハイレインはそれを「許し」だと思っている。
もしそのことをツグミが知れば困惑するだろうが、それすらも相手の事情だということで理解し受け入れてしまうだろう。
「ツグミ、そろそろ城に戻ろう。あまり遅くなるとジンたちが心配するだろうし、なによりもこの時期は日の入りが早くてすぐに冷えてくる」
「はい。わたしも痛くもない腹を探られるのは嫌ですからね。それにまだ滞在期間は10日以上残っています。こうして一緒に町の視察をするのは楽しいです。さっきみたいに困ってしまうこともありますが、それはアフトの人たちが他人と良い関係を結びたいという気持ちの表れだと思うのです。生活に余裕ができたからで、もし食べることに汲々としている状態であれば余所者に対して関心を持つこともなく、場合によっては自分たちの食料を奪いに来たのではないかと警戒するでしょう。この町ではそんなことはありませんでした。みんな今の生活に満足しているようで、それもすべてハイレイン・ベルティストン王のおかげではないでしょうか。わたしはそう思っています」
「…そうだろうか? 俺のおかげだと自惚れてもかまわないのか?」
「過信はいけません。でもさっきの焼き栗屋のおばさんも笑顔で新しい国王様と『神』のおかげで収穫量が毎年増えていくと喜んでいました。その国王様があなたなのですから少しくらいはかまわないと思いますよ」
「そうか、ならば俺はこれからもそうやって笑顔の数をひとつでも増やしていくことを生涯の役目と考えていこう。俺も自分の幸せのために生きているが、その幸せは国民の幸せあってのことなのだからな」
大規模侵攻でハイレインと戦った出水や米屋、三輪たちが今の彼を見たら同一人物だとは信じられないことだろう。
それほど別人と思えるくらいに良い方へと変わっていた。
しかしこれが彼の本質であり、今の彼こそが家族との穏やかな暮らしを望み小動物を愛おしいと思う心優しい男、ハイレイン・ベルティストンの本当の姿なのだ。