ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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581話

 

 

わずか30日で全人口の約4割が減少したという事態は国家の存亡にも関わる重大事だ。

このような悲劇は有史以降初めてのことだということだが、それ以前に感染症という病気自体が近界(ネイバーフッド)では珍しいとのこと。

もちろんまったくないということはなく過去いくつかの国で大きな被害を出しているものもあるのだが、原則として病原体が存在しない近界(ネイバーフッド)で感染症が広がるということはないのだ。

病原体には細菌、ウイルス、真菌、寄生虫などがあるが、それはあらゆるものがトリオンによって成立している近界(ネイバーフッド)において()()()存在しない。

玄界(ミデン)では麻疹(はしか)の原因となるウィルスが当たり前のように存在するため、古くから世界各地で流行していたので多くの犠牲者が出た。

治療法は現在でも見付かっていないものの原因が判明してワクチン接種で予防できることによって被害を極力抑えることができるようになっている。

また一度罹ってしまうと免疫を得ることになり、日本に限ってなら死亡率は0.1から0.2パーセントと非常に低い。

ところが近界(ネイバーフッド)には病原体がないから感染症になる近界民(ネイバー)は出ないのだが、数十年から数百年というサイクルで大流行をすることがある。

どのケースも国単位で流行して大きな被害を出すのだが、被害はそこで収まるのが普通だ。

各国の交流が少ないために他国へ広まらないうちに収束してしまうからである。

ただし収束の仕方は自然に感染が収まるというだけでなく、その国が滅びてしまうという最悪の事態にまで及んだことも1回や2回ではないそうだ。

そして原因突き止めることができないでいて、忘れ去られた頃にまた大流行するという。

玄界(ミデン)の人間…医療関係者ではなく一般人のツグミでも感染症の原因と予防方法については一定の知識はある。

たとえば毎年流行するインフルエンザに対してはワクチン接種を行い、外出先から帰ったら手洗いやうがいなどを欠かさないなど自己防衛するのが普通だ。

しかし近界民(ネイバー)たちには目に見えないほど小さい生物がいて、空気感染や経口感染などによって広まっていくという概念すらない。

玄界(ミデン)でも近世まで原因が神罰だとか瘴気によるものだと考えられてきたくらいだから仕方がないと言えるが、トリオンによってあらゆるものを構成し、玄界(ミデン)の近代兵器ですら太刀打ちできない武器(トリガー)を作ることができる民族としてはずいぶんとお粗末だ。

リコフォスでも大量のトリガーを作って兵士に持たせて戦うことはできたが、国民の間に広まった感染症を止める手立ては持っていなかった。

その結果、リコフォスは全人口が20万人弱という最盛期の20分の1にまで激減してしまった。

それでもまだ荒戸という医療の知識がある玄界(ミデン)の人間がいたから感染者をすぐに隔離し、手当てをする人間にはトリオン体に換装してもらった。

他にも手洗い、うがい、マスクの着用、換気などできる限りの対策をしたから、トリオン体に換装できなくても予防はできたことでそれ以上の感染拡大を防ぐことができたのだ。

現在はトリオン体に換装できる者は外出する際には必ず換装してもらい、それができない者は定められたエリアから出ることはできないことになっている。

そうしていれば自然に流行が収まるだろうという消極的な方法を選ばざるをえない状況であったが、それでも被害の拡大は抑えられた。

新規の感染者は5日ほど前から出ていないそうなので、このままでいれば間もなく流行の収束宣言が出せることだろうとのこと。

この状況でサルシドはツグミたちに助けを求めたのである。

 

「芳しい…とは言えない状況ですね。今さら言っても遅いですが、感染症に対する知識のなさが文字通り致命的であったために被害が広まってしまった。ひとまず小康状態のようですから油断をせずに予防を続けましょう。それに感染して回復した人なら身体の中に抗体ができますから絶対とは断言できませんがもう罹ることはありません。…ですが気になるのはどうして突然麻疹(はしか)が大流行したのかということです。これまで一度もそのようなことがなかったということは、この国には麻疹(はしか)のウィルスは存在しなかったということ。ウィルスのいる国で誰かが知らぬ間に感染してこの国に持ち込んだか、もしくは悪意ある人間によって()()()()()たかのどちらかでしょう」

 

ツグミがそう言うとサルシドの表情が険しくなった。

 

「そのウィルス…というものがどのようなものか良くわかりませんが、病気の原因を人為的に我が国に広めた者がいるということですか?」

 

「可能性はあります。玄界(ミデン)にはさまざまな病原体が存在しています。ですから常に感染症の危険に晒されていますが、そのための予防や感染した時に対処の方法は確立していますので不安はありません。ところが近界(ネイバーフッド)はトリオンによって創造された世界です。わざわざウィルスや細菌を作ることなどありません。そして近界民(ネイバー)にはこういった病気の免疫がありませんので、罹ってしまうと重症化してしまうわけです。また治療方法もなく感染力の強い病原体に感染してしまえばあっという間に広がります。この麻疹(はしか)は非常に感染力が高いだけでなく肺炎などの合併症を発症することもある恐ろしい病気です」

 

「……」

 

「この国の人間は他国との交流は滅多にないということで、最初の感染者が庶民の少女ということですからこの国の人間が持ち帰ったというのではなく、他の国の人間が持ち込んだと考えるのが妥当です。そしてその理由はふたつ考えられます。ひとつ目は生物兵器の実験場に選ばれた。ふたつ目は…想像したくありませんがこの国を滅ぼすためではないかと考えられるのです」

 

「国を滅ぼすだって!? 誰がそんなことを!?」

 

サルシドは驚いてツグミに詰め寄る。

 

「可能性があるということで実際にそうだと言っているのではありません。生物兵器の実験場にされた可能性の方が高いです」

 

「生物兵器とは何ですか?」

 

ツグミは玄界(ミデン)における戦争と生物兵器について簡単に説明した。

その話を黙って聞いていたサルシドの顔は青ざめてしまう。

 

「トリオン体で戦う近界(ネイバーフッド)の戦争では死者はほとんど出ませんし、圧倒的な兵力の差がなければ長期にわたることになりお互いに戦力を消耗しつつ結果が出ないという無意味なものになってしまいます。もしそういった膠着状態になった時、もしくはそうならないために生物兵器を用意して投入すると効果が出ます。生身の身体の時に感染してしまうと発症して苦しむでしょうし、トリオン体に換装すれば症状を抑えることはできますがいつまでも換装したままではいられません。また病原体が身体に入った状態で帰国して他の人にばら撒いてしまうことになってしまったら戦争どころではありません。玄界(ミデン)でも国際的に禁止されている兵器で、万が一近界(ネイバーフッド)で使用されたら世界は大混乱になってしまうでしょう。それほど恐ろしいものなのです。特に近界(ネイバーフッド)では医療レベルが非常に低いですから、国ひとつ滅ぼすのは簡単なことなのです」

 

「……」

 

「ただしこれはわたしの仮説ですのであまり気にすることはありません。それに適切な予防をすれば被害を出さずに済むものですから、その予防に関しては玄界(ミデン)の知識と物資を提供します。とりあえず艇に積んである医薬品の中からアセトアミノフェンやイブプロフェンの含まれている解熱剤を必要な患者には投与しましょう。水分補給も重要ですから、経口補水液を作って飲ませるといいでしょう。これは荒戸さんに依頼すれば適切な指示をしてくれるはずです。そして消毒用アルコール、薬用せっけんも持って来ていますので荒戸さんの指示で使用すれば効果は出ます。この麻疹(はしか)は空気感染しますので、くしゃみや咳で広まりますので生身の場合にはマスクは必須です。患者の家族が看病をしたいというのであればトリオン体に換装してもらいたいですが、それが不可能ならマスクと手洗いうがいを徹底させてください」

 

「わかりました」

 

「それではそちらの兵士を10人ほどお貸しください。艇の荷物を下ろす作業を手伝ってもらいます。それと民間人に対しての物資の支給と教育が必要ですから、代表者となる人…集落の責任者でいいので集めてください。彼らに伝えることで大勢の人に周知させることができるでしょうし、物資も個人に配布するよりも短時間で済むはずです。それから多少なりとも医学の心得のある人がいればその人を呼び集めてください」

 

「ただちにそのように手配をします。ひとまず準備が整うまであなた方にはお部屋で休んでいただきましょう」

 

「はい。でも艇の荷物を下ろす作業の際にはわたしたちが指示をしますので、先に艇に戻って待っています。その方が効率が良いですから」

 

「そうですか。ではそれでお願いします」

 

それからツグミと迅は一旦遠征艇に戻って待機することになった。

 

 

◆◆◆

 

 

「これまでとは違った意味で厄介な事に巻き込まれちまったな」

 

迅があからさまに面倒だと言わんばかりの顔で言う。

ふたりがいるのは遠征艇のミーティングルームで、リコフォスの兵士たちが到着するのを待っているのだ。

 

「仕方がないじゃありませんか。リコフォスで麻疹(はしか)の大流行があったなんて想定外のことですもの。それでも荒戸さんのおかげで被害はある程度食い止められたということですからまさに不幸中の幸いです」

 

「そしてこちらにとってはこの状況を利用できる、か?」

 

「ええ。言い方は悪いですがここで恩を売っておくことで拉致被害者市民の帰国交渉はやりやすくなります。…でもどうして近界(ネイバーフッド)の国で麻疹(はしか)が流行することになったんでしょう? わたしたちボーダーの遠征部隊メンバーは近界(ネイバーフッド)に病原体を持ち込まないようにと神経質なほど気を配っていて、出発の48時間以内に最終的な健康チェックをして問題のないことを確認してから艇に乗っています。だから玄界(ミデン)の人間のように免疫抗体を持っていない近界民(ネイバー)に対して病気をうつさないように極力注意を払っているわけです」

 

「それなのになんらかの方法でこの国に麻疹(はしか)のウィルスが持ち込まれ、免疫のない近界民(ネイバー)は大量にやられてしまった、と。まさに生物兵器による攻撃だな」

 

「わたしもガロプラの人のために使用しましたけど、それは致死性の低いウェルシュ菌で、使用した時には阿鼻叫喚の地獄絵図だったでしょうが適切な処置をしたことで被害者はゼロだったと聞いています。やり方は好ましいものではなかったですけど、最小の被害で最大の結果を出したことにちがいはありません」

 

以前にボーダー本部を襲撃したガロプラのガトリンはアフトクラトルに内緒でボーダーと手を組み、ハイレインを騙したことがあった。

それをきっかけとしてガトリンたちの「ガロプラの(マザー)トリガーをアフトクラトルの手から取り戻したい」という願いに応じた。

ツグミ自身は不在であったがこのような状況を予測して準備をしてあり、三門市にやって来たガトリンたちに「ウェルシュ菌」の入ったアンプルを渡して()()()使用方法を教えて帰国させた。

ツグミの考えた作戦はガロプラに駐屯して(マザー)トリガーを押さえているアフトの兵士を一時的に無力化して(マザー)トリガーを奪還するというもので、アフトクラトルの兵士たちの食事に密かにウェルシュ菌を混入して彼らが食中毒で苦しんでいる間にその隙にガロプラの兵士が(マザー)トリガーを奪還したのだった。

そして苦しんでいるアフトクラトルの兵士たちを放ってはおかず、ガロプラの人間が適切な処置をしたことで被害を最低限に食い止めながらも作戦は大成功であった。

近界(ネイバーフッド)はその世界の構造上病原体となるウィルスや細菌などは存在しない。

しかし玄界(ミデン)と接触することによってさまざまなものが近界(ネイバーフッド)へと持ち込まれたが、病原体もそれに含まれる。

着陸した艇や近界民(ネイバー)の身体に付着した土や植物の種、水、大気などが汚染されていたのならそのまま近界(ネイバーフッド)へと運ばれてそこで広まってしまうのは当然で、何の知識もない近界民(ネイバー)たちには病気の原因がわからず、したがって手当ての手段も見当が付かないということになってしまう。

過去に近界(ネイバーフッド)で感染症が広まったことは多々あるのだが、その多くは玄界(ミデン)と直接接触した近界民(ネイバー)が持ち込んでしまった「過失」によるものばかりであった。

ところがこのリコフォスのケースは明らかに違う。

サルシドの話ではここ数ヶ月は政府が把握している公式な他国との交流は一切ないので、()()()な訪問による他国の近界民(ネイバー)によって持ち込まれたと考えるのが妥当だ。

それが過失なのか故意なのかはわからないが、麻疹(はしか)に感染した人が他国を訪問して()()()()うつしてしまうということは考えにくい。

よって悪意のある人物によってリコフォスに麻疹(はしか)ウィルスが持ち込まれたのではないかとツグミは推測したのだ。

 

「とりあえず原因究明は後回しにして、今は苦しんでいる患者の手当てをしてリコフォスに日常を取り戻すことを考えましょう。そうしないとサルシド閣下が安心してこちらの交渉に応じてくれないでしょうから。それに玄界(ミデン)の医療に関する知識や技術が心から欲しいと思っているでしょうから、こちらの条件によっては快諾してくれそうです」

 

「計画の変更を強いられるわけだが、無理するなよ。おまえのことだから節度を持って行動しているつもりだろうが、俺や他の連中から見ると無理をしているように思えるんだぞ。いくら時間がないからといっても一番大事なのはおまえの身体だ。俺はおまえのことをずっと見続けてきたが、たしかに病気になることは滅多にないし身体も丈夫だとは思う。しかしだからといって無理をしては倒れてしまうぞ。夫として妻のことを心配するのは当然だろ?」

 

迅の「妻」という言葉を聞いてツグミは胸がキュンとした。

正式にはまだ籍は入れていないし普段は周囲の目もあるために夫婦らしいことはできないが、ふたりきりになった時の会話や接し方で恋人だった時とは違う()()()が滲み出てくるようになっていた。

それがツグミには嬉しくて、迅の言葉にはときめいて素直に従ってしまうのだ。

 

「ええ、わかっています。計画の変更についてはゆっくりと様子を見ながらやります。今夜は久しぶりに広いベッドで眠れるようですから、何も考えずに寝ることにします。そして他の人にもできることなら代わりにやってもらい、どうしてもわたしでなきゃダメなものについてだけやることにします。だからどんな時でもわたしのそばにいてください、悠一さん」

 

「ああ、もちろんだ」

 

迅はそう答えると周囲を見回してからツグミを抱きしめてキスをした。

誰もいないとわかっていても確認してしまうのは癖になってしまっているようだ。

 

 

◆◆◆

 

 

遠征艇の倉庫から医薬品、保存用食料など患者たちに提供できる物資を運び出し、患者を隔離している軍の官舎へと搬送した。

リコフォスでは馬型のトリオン兵に荷台を引っ張らせて荷物を運ばせる「馬車」を用いていて、作業開始から1時間弱で患者に薬とや水分補給のための経口補水液の投与が行われた。

荒戸がリーダーとなってテキパキと指示を出し、それに兵士が従うというものだから、まるで戦場の野戦病院のようにも見えるがここは王都の感染症病棟だ。

手当てをする者はすべてトリオン体なので感染の心配はいらないが、患者は生身であり身体も弱っているので消毒や部屋の換気には厳重注意をする。

普段から薬に頼らない生活をしているためか、解熱剤を投与すると効き目はすぐに出て高熱で苦しんでいた患者もだいぶ楽になったらしく呼吸も静かになって安らかな寝顔を見せるようになった。

約80人いた患者のうちその1割弱が重症であったため助かるかどうかはまだわからないが、このタイミングでボーダーの遠征部隊が来なければ間違いなく失われたいた命である。

そしてひと通り手当てが済むと、荒戸が「後は自分に任せてください」と言うのでツグミと迅は病棟を出て迎賓館の自室へと戻って行った。

戻ると夕食の準備ができており、他のメンバーと一緒にささやかな歓迎会に出席することになる。

貧しい国ではないのだが緊急事態ということで派手な晩餐会というわけにはいかない。

しかしすべてがひと段落してツグミたちが帰国する際には豪勢な送別会を開くとサルシドは豪語していた。

 

 

こうしてリコフォスにおける第1日目は終了したのだが、それはツグミたちにとって想像もしていないものであった。

以前なら迅の未来視(サイドエフェクト)で「ツグミが病人を看病している」などという未来が視えていただろうが、彼には何も視えていなかった。

いや、それだけでなく確定・未確定に限らずあらゆる未来のことが彼には視えなくなっていた。

これが近界民(ネイバー)の侵攻に怯える頃であったならボーダーは貴重な()()を失うことになったのだが、もう彼の精神的犠牲を伴う未来視(サイドエフェクト)に頼る必要はない。

ツグミは「迅に苦しんだり哀しんだり胸を痛める未来を見せたくない」と言っていたが、ようやく彼の能力が消えつつあり彼女の願いが叶おうとしている。

そしてこれでやっと迅に心の平穏が訪れるのであり、幼い頃から苦しんできた「悪夢」から解放されることになるのだ。

 

 

 

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