ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
わずか30日で全人口の約4割が減少したという事態は国家の存亡にも関わる重大事だ。
このような悲劇は有史以降初めてのことだということだが、それ以前に感染症という病気自体が
もちろんまったくないということはなく過去いくつかの国で大きな被害を出しているものもあるのだが、原則として病原体が存在しない
病原体には細菌、ウイルス、真菌、寄生虫などがあるが、それはあらゆるものがトリオンによって成立している
治療法は現在でも見付かっていないものの原因が判明してワクチン接種で予防できることによって被害を極力抑えることができるようになっている。
また一度罹ってしまうと免疫を得ることになり、日本に限ってなら死亡率は0.1から0.2パーセントと非常に低い。
ところが
どのケースも国単位で流行して大きな被害を出すのだが、被害はそこで収まるのが普通だ。
各国の交流が少ないために他国へ広まらないうちに収束してしまうからである。
ただし収束の仕方は自然に感染が収まるというだけでなく、その国が滅びてしまうという最悪の事態にまで及んだことも1回や2回ではないそうだ。
そして原因突き止めることができないでいて、忘れ去られた頃にまた大流行するという。
たとえば毎年流行するインフルエンザに対してはワクチン接種を行い、外出先から帰ったら手洗いやうがいなどを欠かさないなど自己防衛するのが普通だ。
しかし
リコフォスでも大量のトリガーを作って兵士に持たせて戦うことはできたが、国民の間に広まった感染症を止める手立ては持っていなかった。
その結果、リコフォスは全人口が20万人弱という最盛期の20分の1にまで激減してしまった。
それでもまだ荒戸という医療の知識がある
他にも手洗い、うがい、マスクの着用、換気などできる限りの対策をしたから、トリオン体に換装できなくても予防はできたことでそれ以上の感染拡大を防ぐことができたのだ。
現在はトリオン体に換装できる者は外出する際には必ず換装してもらい、それができない者は定められたエリアから出ることはできないことになっている。
そうしていれば自然に流行が収まるだろうという消極的な方法を選ばざるをえない状況であったが、それでも被害の拡大は抑えられた。
新規の感染者は5日ほど前から出ていないそうなので、このままでいれば間もなく流行の収束宣言が出せることだろうとのこと。
この状況でサルシドはツグミたちに助けを求めたのである。
「芳しい…とは言えない状況ですね。今さら言っても遅いですが、感染症に対する知識のなさが文字通り致命的であったために被害が広まってしまった。ひとまず小康状態のようですから油断をせずに予防を続けましょう。それに感染して回復した人なら身体の中に抗体ができますから絶対とは断言できませんがもう罹ることはありません。…ですが気になるのはどうして突然
ツグミがそう言うとサルシドの表情が険しくなった。
「そのウィルス…というものがどのようなものか良くわかりませんが、病気の原因を人為的に我が国に広めた者がいるということですか?」
「可能性はあります。
「……」
「この国の人間は他国との交流は滅多にないということで、最初の感染者が庶民の少女ということですからこの国の人間が持ち帰ったというのではなく、他の国の人間が持ち込んだと考えるのが妥当です。そしてその理由はふたつ考えられます。ひとつ目は生物兵器の実験場に選ばれた。ふたつ目は…想像したくありませんがこの国を滅ぼすためではないかと考えられるのです」
「国を滅ぼすだって!? 誰がそんなことを!?」
サルシドは驚いてツグミに詰め寄る。
「可能性があるということで実際にそうだと言っているのではありません。生物兵器の実験場にされた可能性の方が高いです」
「生物兵器とは何ですか?」
ツグミは
その話を黙って聞いていたサルシドの顔は青ざめてしまう。
「トリオン体で戦う
「……」
「ただしこれはわたしの仮説ですのであまり気にすることはありません。それに適切な予防をすれば被害を出さずに済むものですから、その予防に関しては
「わかりました」
「それではそちらの兵士を10人ほどお貸しください。艇の荷物を下ろす作業を手伝ってもらいます。それと民間人に対しての物資の支給と教育が必要ですから、代表者となる人…集落の責任者でいいので集めてください。彼らに伝えることで大勢の人に周知させることができるでしょうし、物資も個人に配布するよりも短時間で済むはずです。それから多少なりとも医学の心得のある人がいればその人を呼び集めてください」
「ただちにそのように手配をします。ひとまず準備が整うまであなた方にはお部屋で休んでいただきましょう」
「はい。でも艇の荷物を下ろす作業の際にはわたしたちが指示をしますので、先に艇に戻って待っています。その方が効率が良いですから」
「そうですか。ではそれでお願いします」
それからツグミと迅は一旦遠征艇に戻って待機することになった。
◆◆◆
「これまでとは違った意味で厄介な事に巻き込まれちまったな」
迅があからさまに面倒だと言わんばかりの顔で言う。
ふたりがいるのは遠征艇のミーティングルームで、リコフォスの兵士たちが到着するのを待っているのだ。
「仕方がないじゃありませんか。リコフォスで
「そしてこちらにとってはこの状況を利用できる、か?」
「ええ。言い方は悪いですがここで恩を売っておくことで拉致被害者市民の帰国交渉はやりやすくなります。…でもどうして
「それなのになんらかの方法でこの国に
「わたしもガロプラの人のために使用しましたけど、それは致死性の低いウェルシュ菌で、使用した時には阿鼻叫喚の地獄絵図だったでしょうが適切な処置をしたことで被害者はゼロだったと聞いています。やり方は好ましいものではなかったですけど、最小の被害で最大の結果を出したことにちがいはありません」
以前にボーダー本部を襲撃したガロプラのガトリンはアフトクラトルに内緒でボーダーと手を組み、ハイレインを騙したことがあった。
それをきっかけとしてガトリンたちの「ガロプラの
ツグミ自身は不在であったがこのような状況を予測して準備をしてあり、三門市にやって来たガトリンたちに「ウェルシュ菌」の入ったアンプルを渡して
ツグミの考えた作戦はガロプラに駐屯して
そして苦しんでいるアフトクラトルの兵士たちを放ってはおかず、ガロプラの人間が適切な処置をしたことで被害を最低限に食い止めながらも作戦は大成功であった。
しかし
着陸した艇や
過去に
ところがこのリコフォスのケースは明らかに違う。
サルシドの話ではここ数ヶ月は政府が把握している公式な他国との交流は一切ないので、
それが過失なのか故意なのかはわからないが、
よって悪意のある人物によってリコフォスに
「とりあえず原因究明は後回しにして、今は苦しんでいる患者の手当てをしてリコフォスに日常を取り戻すことを考えましょう。そうしないとサルシド閣下が安心してこちらの交渉に応じてくれないでしょうから。それに
「計画の変更を強いられるわけだが、無理するなよ。おまえのことだから節度を持って行動しているつもりだろうが、俺や他の連中から見ると無理をしているように思えるんだぞ。いくら時間がないからといっても一番大事なのはおまえの身体だ。俺はおまえのことをずっと見続けてきたが、たしかに病気になることは滅多にないし身体も丈夫だとは思う。しかしだからといって無理をしては倒れてしまうぞ。夫として妻のことを心配するのは当然だろ?」
迅の「妻」という言葉を聞いてツグミは胸がキュンとした。
正式にはまだ籍は入れていないし普段は周囲の目もあるために夫婦らしいことはできないが、ふたりきりになった時の会話や接し方で恋人だった時とは違う
それがツグミには嬉しくて、迅の言葉にはときめいて素直に従ってしまうのだ。
「ええ、わかっています。計画の変更についてはゆっくりと様子を見ながらやります。今夜は久しぶりに広いベッドで眠れるようですから、何も考えずに寝ることにします。そして他の人にもできることなら代わりにやってもらい、どうしてもわたしでなきゃダメなものについてだけやることにします。だからどんな時でもわたしのそばにいてください、悠一さん」
「ああ、もちろんだ」
迅はそう答えると周囲を見回してからツグミを抱きしめてキスをした。
誰もいないとわかっていても確認してしまうのは癖になってしまっているようだ。
◆◆◆
遠征艇の倉庫から医薬品、保存用食料など患者たちに提供できる物資を運び出し、患者を隔離している軍の官舎へと搬送した。
リコフォスでは馬型のトリオン兵に荷台を引っ張らせて荷物を運ばせる「馬車」を用いていて、作業開始から1時間弱で患者に薬とや水分補給のための経口補水液の投与が行われた。
荒戸がリーダーとなってテキパキと指示を出し、それに兵士が従うというものだから、まるで戦場の野戦病院のようにも見えるがここは王都の感染症病棟だ。
手当てをする者はすべてトリオン体なので感染の心配はいらないが、患者は生身であり身体も弱っているので消毒や部屋の換気には厳重注意をする。
普段から薬に頼らない生活をしているためか、解熱剤を投与すると効き目はすぐに出て高熱で苦しんでいた患者もだいぶ楽になったらしく呼吸も静かになって安らかな寝顔を見せるようになった。
約80人いた患者のうちその1割弱が重症であったため助かるかどうかはまだわからないが、このタイミングでボーダーの遠征部隊が来なければ間違いなく失われたいた命である。
そしてひと通り手当てが済むと、荒戸が「後は自分に任せてください」と言うのでツグミと迅は病棟を出て迎賓館の自室へと戻って行った。
戻ると夕食の準備ができており、他のメンバーと一緒にささやかな歓迎会に出席することになる。
貧しい国ではないのだが緊急事態ということで派手な晩餐会というわけにはいかない。
しかしすべてがひと段落してツグミたちが帰国する際には豪勢な送別会を開くとサルシドは豪語していた。
こうしてリコフォスにおける第1日目は終了したのだが、それはツグミたちにとって想像もしていないものであった。
以前なら迅の
いや、それだけでなく確定・未確定に限らずあらゆる未来のことが彼には視えなくなっていた。
これが
ツグミは「迅に苦しんだり哀しんだり胸を痛める未来を見せたくない」と言っていたが、ようやく彼の能力が消えつつあり彼女の願いが叶おうとしている。
そしてこれでやっと迅に心の平穏が訪れるのであり、幼い頃から苦しんできた「悪夢」から解放されることになるのだ。