ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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609話

 

 

当然のことだが更衣室と浴室は男女別になっており、人口つまり利用者の数の関係から男性用の方が広いらしい。

男性用の浴槽は一度に30人くらい入ることができ、女性用ではその半分の大きさである。

そして銭湯というだけあって浴室の壁には海越しの富士山の絵がペンキで描かれている。

拉致被害者の中に美大生の女性がいて、銭湯を建てることになった時に彼女に依頼したのだそうだ。

銭湯といえば富士山のペンキ絵が定番だからというのもあるが、故郷の景色を見ながらゆっくり湯船に浸かることで疲れを癒すと共に遠い故郷を懐かしむためには一番相応しい。

このペンキ絵は拉致被害者だけでなくアウデーンスの人間にも好評であった。

アウデーンスに限らず近界(ネイバーフッド)の国々には海はなく、また富士山のように美しい形の山もないから未知の世界に憧れるのは当然かもしれない。

しかし公共の入浴施設などない国であったから初めのうちは受け入れてはもらえなかった。

いくら同性とはいえ他人の前で全裸になるということに男女共に抵抗感があったからだ。

家庭で行水をすれば身体の汚れは落ちるのだからそれで十分だという者もいるが、広い湯船に溢れるお湯を好きなだけ使うことができ、入浴後の湯上り処(ラウンジ)でゆっくり寛ぐという手頃な「贅沢」は庶民の娯楽として受け入れられるのにそう時間はかからなかったらしい。

今では王都の住民だけでなく郊外の村からもわざわざ入浴をするために訪れる人もいるというくらいの人気で、夕方から夜にかけての時間帯は入場制限をしなければならない日もあるほどだ。

この銭湯を建てるよう命じたオルフェオの人気はますます上昇し、王都以外にも同様の施設を建てるという計画もあるそうだ。

 

ツグミが浴室に入ると先客として数人の女性たちが湯船に浸かったり身体を洗ったりしている。

彼女たちは見慣れぬツグミの姿に関心を払うことはない。

自分がされて嫌なことはしないという基本的なマナーは弁えているのだろう。

ツグミは身体を洗ってから湯船に身を沈めた。

正面には海越しの富士山の絵があって、まさに「ザ・銭湯」という風情だ。

 

(はぁ~、気持ちいい…。まさか近界(ネイバーフッド)でこんな大きなお風呂に入ることができるなんて想像もしていなかったわ。帰ったらみんなにも教えてあげよう。自由時間に街を散策できるようトールさんにお願いすれば大丈夫だろうし。…それにしてもこれまで行った国の中でここまで庶民階級に人間に対して福利厚生が行き届いている国はなかった。ほとんどの国が貴族や一部の裕福な人間のために汗水流して働く大勢の庶民階級の人間がいるというパターンだった。でもこの国では特権階級を廃して身分による差別はなくなったし、国王自ら国民の生活の視察を行っていて、(マザー)トリガーから抽出するトリオンの配分を計画的に行っている。農作業用のトリオン兵を開発してそれを供与したことで生産性は高まり、労働者のモチベーションもアップする。そして働いた後に銭湯での入浴という衛生面だけでなく日々の疲れを癒す精神面に良い影響を与えている。働くことに喜びを感じられるようになれば国力は自然と上がっていくもの。拉致被害者の人たちの半数がこの国に残ることを選択した理由もわかる気がする。この国には玄界(ミデン)にないものがあるから。完成された世界よりも自分たちで理想の世界を創っていこうと思うならこの国…アウデーンスには可能性が満ち溢れていて離れがたいと思ってしまうのは当然よね)

 

アウデーンスはオルフェオが他人の意見に耳を貸すという為政者として正しい資質を持っているから国民は支持するのであって、この当たり前のことができていない国が多いのは明らかだ。

特にオルフェオは玄界(ミデン)の人間だから大切にするというのではなく、アウデーンス国民と分け隔てなく扱っている。

そして玄界(ミデン)の人間が新しい知識や技術を持っていてそれが役に立つとわかればどんどん採用していき、そのひとつがこの銭湯という入浴施設とシステムであった。

近界(ネイバーフッド)では玄界(ミデン)と比べてトリオンとトリガーに関する技術は上だが、それ以外のこととなると数百年前のレベルに留まっている感がある。

ならば玄界(ミデン)の文化を取り入れてトリガーの技術で再現すればいい。

双方の文化や技術を合わせてそれ以上のものを創り出すことは可能で、アウデーンスではすでにそれが現実となっているのだから近界(ネイバーフッド)の他の国でも採用することは()()()()()次第だ。

 

(この国なら玄界(ミデン)の文化を受け入れることに抵抗はなく、キオンと同様にこの国を()()()として広めていくのもアリかもしれない。ただ鎖国をしているというほどじゃないけど他国との交流は少ないしオルフェオ陛下と相談しなければ話を進めることはできない。拉致被害者市民救出計画は全面的にオサムくんたちに任せ、わたしはその後の交流についてどうするのかに専念しよう。オサムくんも信頼できる仲間がいるってことでいろいろなことに自信を持てるようになってきているし、交渉の様子を見ていてもサマになっている。これなら心配はいらないわね。これ以上わたしが関わるのは本人にも迷惑だろうからちょうど良い機会だわ。一時帰国者をアウデーンスに送り届ける時にわたしも一緒に来て時間をかけて相談できるといいな)

 

そんなことを考えながらゆっくりと入浴し、着替えて湯上り処(ラウンジ)へ行く。

そこでは水分補給のための水が自由に飲める装置が置かれている。

これも玄界(ミデン)の知識によるもので、汗をかいた後には適度な水分補給が必要だということで用意してもらったそうだ。

ソファーに腰掛けて水を飲みながら歓談する中年女性のふたり組や、リクライニングチェアに身を預けて仮眠を取っている若い女性など風呂上りの火照った身体をそれぞれが自由にクールダウンしていた。

夕方5時以降は混雑するので時間制限があるものの昼間は比較的空いているのでフリータイムになっているらしい。

しかしあまりゆっくりしていることもできず、ツグミは汗がひくと受付へと引き返した。

 

 

「いかがでしたか?」

 

ツグミの姿を見付けた玲子が受付カウンターの中から呼びかける。

 

「いいお湯加減でしたよ。とても気持ち良かったです。まさか近界(ネイバーフッド)に銭湯にあるなんて想定外でしたし、浴室のペンキ絵がレトロで良い雰囲気になってました」

 

「でしょ? 初めはわたしみたいな玄界(ミデン)の人間が故郷を懐かしむためのものだったんですけど、大きなお風呂にゆっくりと浸かるのは住む世界が違うといっても同じ人間なんですから喜ばれるに決まっています。わたしも農家で働いていた時には一日中働いて汗びっしょりになっても行水しかできなくてすごく不満だったんです。そのうちに田上さんが宰相に任じられ、彼がこの銭湯を建ててくれました。乗用トリオン兵を使っても片道20分もかかりましたが、それでもお風呂に入るために毎日通いました。そのうちにこの受付の職を得て、王都内に住むことになりました。受付だけではなく館内の掃除や経理もわたしの仕事なので忙しいですけど毎日が充実しています。だからこのままこの国で暮らしたいという気持ちもあるんですけど、なかなか決められなくて困ってます」

 

玲子は現在23歳で独身。

三門市に両親がいるということで18人の帰国希望者のリストに名前が載っている。

しかし今の仕事にもやりがいを感じていて残りたいという気持ちもあるらしく、一時帰国の際に両親が認めてくれたならアウデーンスに戻るかもしれないということになっていた。

 

「この国に永住するってことはいずれこの国の男性と結婚をして家族をつくることにもなるわけですが、それについてはまだ覚悟ができてはいません。だから一度里帰りをして気持ちの整理をしたいというところなんです」

 

「何か困ったこととか悩みごとがあったらいつでも相談してください。わたしみたいな人生経験のない小娘ではあまり役には立たないかもしれませんけど」

 

「ええ。その時はお願いね」

 

そんな会話をしているうちに修と遊真がロビーへとやって来た。

 

「遅くなってすみません、霧科先輩。空閑が銭湯初めてってことではしゃいでしまって…」

 

修が申し訳なさそうな顔で言う。

 

「生まれて初めて泳げるほど大きな風呂に入ったんだから仕方がないとは思うんですけど、他に客がいなくてぼくたちの貸し切り状態だったものでぼくもつい羽を伸ばして…」

 

「他の人に迷惑がかかっていないならかまわないわよ。でも後でユーマくんには公共浴場でのマナーを教えておいてね」

 

「わかりました」

 

「じゃあ、迎賓館へ戻りましょうか。こんなに素敵な場所があるんだからみんなにも教えてあげましょ。わたしがトールさんにお願いしておくから、オサムくんの方は交代で来られるように各人の仕事の配分を上手く調整しておいてね」

 

「はい」

 

ツグミと修と遊真は玲子に挨拶をしてから銭湯を出た。

夕方の風が火照った顔に涼しく、王城までの道を散歩しながら帰って行った。

 

 

◆◆◆

 

 

翌日の第2回交渉会議はお互いの事情を打ち明けその上で条件を出し合うことによって順調に進んでいった。

ボーダーとアウデーンス双方にとって最適解となるものを導き出すためのものであるからお互いの理解と協力は必要で、ツグミとオルフェオが個人的に親しくなることによってすべてがスムーズに進んでいる。

本来なら拉致被害者市民を帰すとなれば国王ひとりだけの判断で進めることは不可能で、議会の承認がなければ国家としての正式な回答にはならないはず。

それが議会の開催もなしに進んでいるのはオルフェオ個人の人徳と、議会が介入せずとも答えは同じなのだから事後承認で問題ないという宰相のトールが判断したからである。

議員の中には彼が玄界(ミデン)の人間で拉致被害の当事者であるからと言う者もいるのだが、彼の人柄を良く知っている者の方が多いために反対陣営を抑えることができているからなのだ。

そして最終的にボーダー側が約1年をかけて全体の4分の1の量の物資を3ヶ月に1回ずつ納入することになり、それ以降はその時の状況に応じて必要な物資が生じた場合に送り込むということになった。

また同盟加入を前提に付き合いたいということで、そのため友好の証をしてアウデーンスで使用しているペテスタイ等トリオン兵の設計図を譲るという。

同盟加入に関しては代価は不要だとツグミはオルフェオに言ったのだが、彼が「気持ちは形にならないから、せめてこういう形のあるもので自分の誠意を伝えたい」ということでツグミは受け取ることにしたのだった。

 

 

 

 

そして会議が終了してオルフェオがツグミに声をかけた。

 

「ツグミ、昨日はトールと一緒に街でランチを楽しんだらしいな?」

 

「はい。素敵なお店に連れて行ってもらい、その後は銭湯にも寄ってきました。近界(ネイバーフッド)で銭湯に入ることができるなんて想像もしていなかったので感激してしまいました」

 

ツグミが銭湯に行ったと知ると、オルフェオは様子が少し変わった。

 

「銭湯ということはレイコに会ったのか?」

 

「はい。受付係の玲子さんとは話もしました。彼女は18人の帰国者リストに載っていますが、本人はこの国に残りたい気持ちもあるみたいなんです。ただ両親が玄界(ミデン)で健在ですから自分ひとりでは決められなくて、相談をしてから最終判断をしたいということでした。この国の将来性に期待をして、そのために彼女も協力したいというトールさんと同じ気持ちなんだと思います」

 

「彼女がアウデーンスに残りたいという気持ちもあるのか…」

 

「ええ。彼女自身はこの国で家族を作って最終的には骨を埋めることができるのか不安なんでしょうね。いくら住みやすい場所であっても、故郷を捨てることにはならないとわかっていても、やっぱり将来に不安はあるのが当然ですから」

 

「レイコに不安を抱かせてしまうのはアウデーンス国王である私の不手際だ。私に王としての力量が足りないために ──」

 

「そんなことはありません! 陛下は全力でこの国と国民のために働いています。もし陛下のことを認めていないのであれば選択肢は帰国一択で迷うはずがありません。迷うのはこの国に魅力があるからで、玄界(ミデン)に扶養すべき両親がいるからそのことを考えると迷ってしまうだけだと思います。陛下はわたしがこれまでに出会った為政者の中でも特に優れた王でいらっしゃいます。自信を持ってください」

 

ツグミはオルフェオを励まそうとすると、オルフェオは真剣な眼差しで言った。

 

「悪いが少し時間をもらえないか? 個人的なことで相談をしたい。それも非常にデリケートなものなので、きみにだけ話したいんだ」

 

「…わかりました。30分ほどでしたら時間が取れると思います」

 

「それは良かった。では私の執務室の外にある庭園で話をしよう。そこなら部屋にふたりきりということにはならないから、きみの護衛…ジンも心配はないはずだ」

 

ツグミはオルフェオに連れられて彼の執務室へと向かった。

 

 

◆◆◆

 

 

庭の中ほどにある東屋に招かれたツグミはオルフェオの向かい側に腰掛けた。

 

「時間があまりないから単刀直入に言う。以前に私は結婚したい女性がいるという話をしたと思うのだが覚えているかい?」

 

「はい。その女性は自分の立場や家族のことを考えて良い返事を聞かせてはくれない。彼女が陛下に好意を抱いているのは間違いないのだけれど陛下の正体を彼女は知らないとのことでしたね」

 

「そうだ。その女性というのがレイコなんだ」

 

「なんですって!?」

 

意外なことであったためにツグミは素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「失礼しました。…ですが陛下の意中の女性が彼女だったなんて驚きです。でも自分の正体を明かして告白するおつもりだったんですよね? だったら ──」

 

「しかし彼女は玄界(ミデン)に帰ってしまう。彼女は私を自分と同じ庶民の男だと思っている。出会ったのは城下の市場で、彼女が採れた野菜を運んで来た時だった。その時の私はお忍びだったということで変装をしていたから王だとは気付かなかったはず。それから何度か市場で会うようになり、一緒に食事をすることもあった。その時に農作業が大変だということを聞き、新しく建てた銭湯の受付の仕事を任せた後も私は時々変装して彼女に会うために銭湯へ行くことにした。そんなことをしているうちに私は彼女に恋をし、生涯を共にしたいと願うようになっていたのだ」

 

オルフェオは玲子との想い出をひとつひとつ大事そうに話すのだが、その表情は幸せというよりも切なくて哀しいというものであった。

 

「それである時私は彼女に結婚観を訊いてみた。すると彼女は自分が玄界(ミデン)の人間であって故郷に両親がいるから結婚したくてもできないと言っていた。きみたちのおかでげ帰国する目処が付いたが、この状況で私が自分の正体を明かして結婚してほしいなどと言えば彼女は困るだけだ。それに王だと明かしてからの告白では彼女が断りたくても断れない状況を作ることになる。今の状況は私にとって非常に不利なのだよ」

 

そう言って大きくため息をつくオルフェオ。

その姿は初めての恋に心を揺らす青年のもので、一国の王という威厳などこれっぽっちもない。

そう…人は恋をするとどんな立場にあっても心細くて人生に迷うひとりの人間になり果ててしまうのだ。

 

「陛下、わたしには人に恋の道を語る資格などありませんが、何もせずに後悔することはお勧めできません。陛下が本気で玲子さんを伴侶にしたいと思うのであれば、その気持ちを彼女に伝えるべきです。国王だと明かしてから告白するのが嫌なのであれば身分を隠したままで告白して彼女の答えを受け止めればいい。陛下のことを国王だと知らずにいて承諾したとして、その後に正体を知ったからといって断るのであればそれは彼女が本気で陛下のことを好きではなかったのだということ。陛下のすべてを受け入れるのであれば国王である陛下のことも受け入れられるはずです。自分が王妃に相応しくないという理由であったとしても、それは自分に対しての言い訳にすぎないと思います」

 

そして続ける。

 

「とある男性は自分が世界で一番好きだと断言する恋人が某国の次期女王だと知ってもその立場ごとすべて受け入れました。その男性はいずれ故郷を離れて女性の国へ行き、王配として堅苦しい人生を送ることになります。自分には似つかわしくない身分になるが、それでも愛する女性のそばにいることができるならどんなことでもすると言っています。これまでの人生を捨てても愛する女性と生涯を共にする覚悟でいる彼はすごく強い人だと思います。わたしはその男性を尊敬できますし、そんな男性が愛する女性はとても幸せな女性だと思います」

 

自分と迅のことを例えにして話すツグミ。

最後に言う。

 

「庶民であれ国王であれ自分の人生は自分のもの。自分が幸せになりたいと思うのであれば運命を他人任せにせず自分で掴み取らなければなりません。だって上手くいかなかった時に他人のせいにするのは情けないではありませんか? 全責任は自分で負う。恋愛に限らず自分で考えて行動して、その結果が満足いくものでなかったとしても気持ちに整理はできるでしょう。それに一度失恋したからといっても次の出会いに期待すればいい。2度目の恋なら前回の失敗を踏まえて次こそ上手く立ち回れるはずですから」

 

ツグミのアドバイスにオルフェオは力づけられたようで、その表情にわずかだが笑みが浮かんでいた。

 

「ありがとう、ツグミ。私は断られることを前提で怯えていたんだ。そんな臆病な自分を正当化するためにいろいろ理由をつけて告白をためらっていた。でも勇気が湧いてきたよ。もし願いが叶わなくても彼女が幸せになれるよう応援してやるのも愛情だ。玄界(ミデン)へ帰ってしまって一生会えないとしても、彼女と過ごした時間はなくならない。そして彼女がいなくなっても私がこの国の王である以上はその責務を果たさなければならず、いつまでもウジウジはしていられないんだ。…よし、これからレイコに会いに行こう。そして決着をつけるぞ」

 

いきなりやる気モードになったオルフェオにツグミは言う。

 

「それは良いと思いますが、急いてはことを仕損じるというもの。ここはしっかりと攻略方法を考えてから戦場へ向かうべきです。これは陛下の人生をかけた戦いであり、その結果はこのアウデーンスという国の未来にも少なからず影響するものなんですから」

 

「そうか…それもそうだ」

 

「陛下のお気持ちはきっと玲子さんに届きます。わたしはそう思います」

 

特に根拠はないのだが、ツグミにはそんな気がしたのだった。

 

 

 

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