ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
続いて向かった先は小学校で、レクスの在籍する5年生の算数の授業を参観する。
この日はこれまでの授業内容の総まとめの小テストで、30分のテストが終わると残り時間は担任教師が回答とその解説をするというものだ。
エルヴィンたちが参観をするということは前もって児童に知らされており、授業の開始前に彼らは元気に挨拶をした。
この学校の児童にとって外国人は珍しい存在ではなく、近くに三門スマートシティがあることから
だからエルヴィンたちが教室の後方にいても緊張することはなく、いつもどおりに授業を受ける準備はできていた。
もっともふたりとも変装をしていて正体がバレずにいるからであり、素のままであったらツグミは子供たちにサイン攻めにあったかもしれない。
なにしろ彼女は人類で初めて
だからエルヴィンと彼女はトリオン体に換装して変装し、某国の教育大臣とその案内役ということになっている。
担任教師の「始め」という声を合図に32人の児童は一斉に問題に取りかかった。
分数の足し算と引き算、三角形や四角形の面積や角度を求める図形問題のほか、割合を求める文章題が2問ある。
1問目は2種類の量の異なる菓子の値段の安い方を選ぶもので、2問目は面積の違う畑で育てたジャガイモがどちらの畑がより良く収穫できたのかを選ぶ問題だ。
児童が黙々と問題を解いている間、ツグミとエルヴィンは担任教師から問題用紙を分けてもらって挑戦をしてみる。
とりわけ難しいものではなく普通の公立小学校5年生なら解けるレベル問題で、普段から真面目に授業を受けて基本さえ押さえていれば制限時間30分内で最後まで余裕でできる内容だ。
「ツグミ、
テストの時間が終了して答案の回答と解説が始まるまでの少しの時間、エルヴィンがツグミの耳に口を寄せて小声で言った。
「誰でもとは言えませんが、ほとんどの子供ができる内容です。分数の計算は分母を揃えるという基本を守れば難しいものではありませんし、図形の面積や角度の問題も公式を覚えていれば解けます。文章題は少しだけ難しいですね。計算はできても文章の読解力がなければダメですから。でもこの問題はそう難しくはないですし、比べる基準が異なっているだけですから1問目は100グラムあたりの値段を比べ、2問目は1ヘクタール当たりどれくらいの収穫量になるのかを考えればいいんですから簡単です。さあ、答え合わせが始まりますよ」
担任教師が第1問目から回答を言うと、児童たちの間から「やった!」とか「マジかよ…」と一喜一憂する声が漏れる。
そして回答を言うだけでなくその答えに至る計算方法や間違えやすい点を指摘し、随時児童の質問を受け付けるとわかりやすく黒板に書きながら説明した。
最後に解答用紙を回収し、担任教師が採点をしてから返すということだ。
「丁寧に説明をしている…。これは1年間の総仕上げの試験だということだが、まだわからない子がいて次の学年で困らないように完全にできるようにするためのものなのだな」
「ええ。あとひと月もすれば進級して新しい学年の勉強が始まります。その時には前年度までの勉強の土台がしっかりしていないといくら丁寧に教わっても理解できません。だから今のうちにしっかりと身に付けさせるんです」
ツグミは児童たちに聞こえないような小声でエルヴィンに答えた。
事前に日本の子供は5歳になると小学校に入学し、9年間は誰でも教育を与えられて基本的なことを学ぶことができると説明してある。
商売をやっていれば計算ができないことは致命的なので親が子供に教えるということはあるらしいが、そうでなければ庶民が教わる機会などまずない。
「日本人は昔から数学が好きで400年くらい前には『和算』という算術体系が存在し、庶民階級の人たちも数学を
「ああ。子供は国の宝だ。その子供たちが健やかに育つ国にしなければいけない。それは大人の役目であり、国王としての私の責務なのだ。改めてそう感じたよ」
◆
4時間目の算数の授業が終わると誰もが楽しみにしている給食の時間だ。
この日のメニューはカレーライス、コールスローサラダ、オニオンコンソメスープ、そしてデザートには三門ミカンが出る。
班ごとに机を集めて食事をするのだがツグミたちは彼らと一緒に食べることになっていて、レクスのいる班に加えてもらうことにした。
そして児童と会話をしてどんな遊びをしているのか、また大人になったら何になりたいかなどを訊く。
すると児童は「ドッチボール」とか「鬼ごっこ」が好きで、「看護師さん」「プロサッカー選手」になりたいという児童の他に「ボーダー隊員」になりたい子が何人もいてツグミは苦笑した。
ボーダーは子供たちにとってのヒーローであり、だからこそ絶対にそのヒーロー像を壊してはならないのだ。
◆
昼休みになるとレクスの話を聞くということでツグミとエルヴィンは音楽室へと向かった。
ここなら内側から鍵をかけることができるし、なによりも防音効果は抜群で外に音が漏れることはないので秘密は守られる。
レクスには前もってエルヴィンがトロポイの国王で同盟締結の手続きの他に三門市内の視察をしているということを説明してあり、音楽室に入るまでは普通の小学生の姿であったのだが、入室するやいなや様子が豹変した。
一瞬にして無邪気で愛らしい少年が礼儀正しい立ち振る舞いをする貴族の子息に戻ったのだ。
「お初にお目にかかります。アフトクラトルのエリン家のレクスと申します」
そう言ってボウ・アンド・スクレープという貴族式の挨拶をした。
そんなレクスに対しエルヴィンは優しく手を差し出した。
「私はトロポイ国王、エルヴィン・トロポイだ。しかし私はきみの忌憚ない意見を聞きたいと思っている。だから私の肩書のことなど意識せずに親戚のおじさんだとでも思って気軽に話をしてくれないか?」
「わかりました。では何からお話ししましょう?」
それから昼休みの30分を目いっぱい使ってエルヴィンの質問に答えた。
なぜひとりで
以前はサイドエフェクトで他人の気持ちがわかってしまうことから周囲の大人の顔色を窺って人の前に出るのを嫌がっていた弱くて小さな子供だったこと。
そんな自分が
ツグミと初めて出会った時に他の大人のように否定せずに素の自分を無条件に受け入れてくれたことがきっかけで、両親共に一時的に
「医師になるためにはたくさんの勉強をして難しい試験に合格し、それから何年も現場で研修をしなければ正式に医師として患者さんたちのために働くことはできないそうです。だからぼくがアフトクラトルへ帰るまでまだ20年近くかかることでしょう。その頃には
11歳の子供とは思えないほどしっかりとした考えを持っていて、自分の願いを叶えるためにやるべきことをやっているレクスにエルヴィンは感銘を受けた。
トロポイの次期国王となるエルヴィンの孫のイザイアは15歳で、年齢差が4歳もあるふたりを比べることは単純にできないことなのだが、少なくとも精神面ではレクスの方がはるかに大人であると感じて自分の孫に対する教育が不十分であることを思い知らされた。
王族の人間は尊い身分であってかけがえのない存在なので不慮の事故や病気で死んでしまうことはあってはならないと、原則として王宮や神殿の中だけで暮らしていて、国王になっても王都の外にはなかなか出ることはない。
女性は女王もしくは巫女になる可能性があるということで、限られた使用人の女性以外との接触さえできないというほど外界から隔離されてしまっている。
だから子供のうちは外の世界を知る手段は使用人や家臣からの伝聞でしかなく、世界の広さを知らずに大人になってしまう。
トロポイに限らず
それが
そしてエルヴィンは60歳を過ぎてやっと「外の世界」を見るチャンスを得て
彼は人生の終わりに近付いてようやく自分のなすべきであったことに気が付いた。
トロポイという国と国民を守るためという理由は真っ当なものだし、かつて戦争に投入していたトリオンと技術を国民の生活のために転用する道を選んだことは正しい判断だ。
しかしその技術の外部流出を許さず、国内だけでその恩恵を享受していた。
そのために鎖国を行い、他国との交流を避けて隠れるように生きてきた。
戦争をなくしたいという同じ願いを持つ国々と手を結ぶという考えには至らず、自分たちさえ安全ならそれでいいというエゴでしかなかった。
ツグミと出会ったことでエルヴィンはトロポイ国王としては間違っていないが人としてどうであったかを考えて迷いが生じてしまったのだ。
(
エルヴィンとレクスの会話は続いていた。
トロポイとアフトクラトルの人間はどちらも白人系の面立ちをしているので雰囲気が良く似ている。
容姿がそっくりということはないが年齢的に祖父と孫が楽しそうに話をしている光景にツグミは見えた。
(レクスくんのサイドエフェクトの能力は衰えていない。ということは自分に向ける感情を読み取ることができるわけで、最近はその力のことで悩んだり辛い思いをすることは
自分と違う人間 ── 他人には自分と同じ考えや価値観を持つ者もいればそれを否定する人間もいる。
すべての人間が同じではない以上意見が対立することは当たり前で、揉め事があった場合に双方が歩み寄ってお互いに妥協点を見付けることが大事だということはツグミたちの仕事を見ていれば聡明なレクスには理解できる。
自分の価値観こそが絶対でありそれ以外を認めないというのであれば永遠に平行線となって話し合いがつくはずはないし、暴力によって解決しようとする短絡的な輩は一定数いるのが事実。
それが争いの原因となり、お互いに不幸になるのは目に見えている。
レクスも自分の女装姿を他人が奇異の目を向けたのは彼らが「男が女の恰好をするのはおかしい」という価値観を持つからで、そんな連中に理解をしてもらう必要などないと考えた。
女装してもそれを認めてくれる人間もいるのだから気にすることはないのだと考えることで気持ちが楽になった。
ところが
同時に自分の姿形でしか判断しない人間がいる以上は見た目で誤解されないように
ただ女装が嫌いになったのではないので、玉狛支部では栞やゆりが自分の子供の頃の服を持って来て着せ替え人形として楽しんでいるという。
3年弱の間に彼は自分の価値観を認めてくれる人間の存在、他人は他人で彼らに迎合しなくてもいいのだということ、他人の価値観を認めることはできなくても理解しようとする努力は必要だということを経験から学んでいった。
これはアフトクラトルの貴族として生きていたら得られなかったことだろう。
そしてあと5分で昼休みが終わるという時点で名残惜しいとは思いながらもレクスは5時間目の準備のために自分の教室へと戻って行った。
ツグミとエルヴィンも続いて音楽室を出て廊下を歩きながら会話をする。
「レクスくんは見た目はどこにでもいる少年ですけど胸の中には確固たる信念を持って生きているんです。わたしがエリン夫妻から責任を持って預かると約束したんですが、わたしが総合外交政策局長なんて立場なものですから
そして目を伏せてエルヴィンに懺悔をするように言う。
「以前にわたしはその家族から不要とされてしまったら行く当てがないと怯えていた時期がありました。実際にはそんなはずがないというのに、心が弱っていた時にキオンのトリオン兵によって心の隙につけ込まれて不安が疑念を生んでしまったんです。自分の心の弱さが生んだ愚かな妄想で、家族や仲間を信じ切れなかったことが原因です。でも今となってはそれすら良い経験をしたんだなと言えます。他人の理想とする完璧な人間になろうとしたって無駄…というか不可能なんです。人間はいくつもの立場や役割を持っていて、わたしならボーダー総合外交政策局長、忍田真史の娘、エウクラートンの次期女王、迅悠一の妻…といろいろあり、そのどれも完璧にやり遂げることはできません。今はボーダー総合外交政策局長の仕事に力を入れていますので、忍田真史の娘や迅悠一の妻の役目は果たせているとは言えません。それにいずれエウクラートンの次期女王の次期の部分が外れて女王となる日が来ます。そうしたらボーダー総合外交政策局長ではいられませんし、忍田真史の娘でもいられなくなります。迅悠一の妻であることは変わりませんが、女王の役目に重きを置かなければなりませんから彼には不自由をかけることになるでしょう。だからわたしはこう考えたんです。今できることを精一杯やって、その結果は甘んじて受け入れる。後悔しない人生を送ることができればそれでわたしは幸せなんだ、と。そうしたら気持ちがとても軽くなって、ありのままの自分でいられるようになりました」
「…!」
エルヴィンはツグミの言葉を聞いてハッとした。
(そうか…レクスはツグミの
エルヴィンは遠い祖国の神殿の奥でひっそり暮らしているイザイアの顔を思い浮かべた。
世の中の汚いところや人の醜さなどまったく知らず、清らかな魂を持ちながら気高い王として生きることを強いられていた歴代の国王たち。
自分のそのひとりでありながら孫にも同じ思いをさせようとしていたことをエルヴィンは深く反省した。