ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
5月1日の早朝、「第6次拉致被害者市民救出計画ベニニタス遠征」の遠征部隊は三門市を発った。
今回は拉致被害者市民救出計画において初めてツグミのいない遠征であり、リーダーは総合外交政策局拉致被害者市民救出計画班主任の修で、ベニニタス政府との交渉もすべて彼が行うことになっている。
ベニニタスには33人の拉致被害者市民がおり、彼らを待つ家族はその3倍を超える130人もいる。
アフトクラトルによる大規模侵攻後の記者会見に乱入して以来、修は何度もマスコミに注目されるようになった。
そして拉致被害者市民救出計画の責任者としてベニニタスへ行くということも報道されているので市民の期待は大いに高まっている。
そんな彼らの遠征部隊の旅立ちをツグミは見送る側となり、遠征艇が
「そんな穏やかな顔でメガネくんたちを見送ることができるようになったんだな。昔は見送るのも見送られるのも嫌だって言ってたくせに」
迅がそう言うと、ツグミは表情を変えずに答える。
「だって必ず無事に帰って来るという確信があるんですもの。二度と会えなくなるなんて不安がないから笑顔で見送ることができるんですよ。予定どおりなら40日後には帰国するんですから、わたしたちはオサムくんたちを信じて待っていればいいだけ。それよりもわたしたちは例の件を解決しなければなりません。そっちの方が不安要素たっぷりですよ。でもやると決めたからには全力投球で悔いのないよう行動しますからきっと大丈夫です」
「逞しくなったな、おまえ。昔からくじけないヤツではあったが、ここ数年でずいぶんと変わった」
「だって小さい時からずっと好きだったお兄ちゃんみたいな存在の男性が恋人になってくれて、今ではわたしの伴侶として常にそばにいてくれる。これほど心強くて安心できることって他にないと思うんです。それがわたしの心を強くして、自分に自信が持てるようになったからそれが逞しく見えるんですよ」
ツグミがそう言って微笑むものだから、迅は顔から火が出そうなほど熱くなった。
「ば、バカ! そんな恥ずかしいことを面と向かって言うなよ」
「だって本当のことだもの。あなたにはそういう人はいないんですか?」
「もちろんいるさ」
「それってどんな人?」
「…俺には大好きなのに妹を可愛がるようにしか接することができない女の子がいて、その子を守ることが俺の役目だと信じて戦ってきた。だけど俺はそれじゃ不満で、兄貴じゃなくてひとりの男として見てもらいたいという欲が出てきた。そんな自分のことしか考えていなかった俺は彼女の本心を知ってショックを受けたんだ。彼女は俺なんかに守ってもらおうだなんてちっとも考えていなかった。彼女は俺が考えていたような弱い少女ではなく、俺よりもはるかに強い心を持っていたんだ。俺が
ツグミは迅の正直な心の内を聞いて嬉しかったがそれ以上に恥ずかしくなってしまった。
「なんか、顔が赤いぞ。熱でも出たか?」
「べ、別になんでもありません! わたしたちも今週末にはわたしたちもエクトスへ発つんです。たぶんこれがわたしにとってボーダーにおける最後の戦いになるという気がします。だからというわけではないんですが、これまでわたしがボーダーで学んで経験したことの集大成となる仕事にしたいと思っているんです。そのためにも準備万端で挑まなければなりません」
「それで俺にできることは? 車の運転に荷物運び、雑用全般なんでもお任せってね」
「いいえ、わたしのそばにいてくれるだけで十分です。もちろんいろいろなお手伝いをお願いすることもありますが、今はただ手を伸ばした時に触れることのできる場所にいてくれたらそれでわたしは頑張れます。そして時々ぎゅっと抱きしめてくれたらすごく嬉しい。わたしにとって悠一さんは魂の片割れ。離れ離れではお互いに生きていけない存在なんだってわたしは思っています」
「……」
ツグミが少し紅潮した顔をして上目遣いでいうものだから、迅は我慢しきれなくなって黙って彼女を抱きしめた。
「悠一さん…?」
「おまえのことが好きで好きでたまらない気持ちが抑えきれないんだ。俺はおまえのその唇から『悠一』という名を呼ばれるたびに身体が震え、おまえに名前を呼ばれた数だけ幸せな気持ちになれる」
「……」
「あの時…最上さんが俺を助けようとして
「……」
「そして
「バカなことを言わないでください。そんなことにならないよう、わたしは今よりも強くなりますから」
「フッ…大丈夫だ。以前はそんなことを考えたこともあったが、今ではそんなことこれっぽっちも思わない。俺に限らずどんなヤツであっても
ツグミを抱きしめている腕に力を入れる迅。
そうするとより一層彼女の身体の柔らかさと温もりを感じ、髪に顔を寄せてその香りを嗅ぐ。
「俺は最上さんに救ってもらったこの命の使い方について悩んだ時がある。あの人が守ろうとしたものを守るだけじゃダメで、生かされたからにはもっとたくさんの人を守らなければいけないんだと自分で自分を追い詰めていた。でもおまえの姿を見ていて大事なことに気付かされたよ。俺は勘違いしていたんだ」
「勘違い?」
「そう。俺にできるのはこの手の届く範囲の仲間を守るくらいだというのに、それが
「……」
「結果的におまえは連れ去られることはなく、メガネくんも重傷を負ったが命は取り留めた。でもそれは運が良かったというだけで、もしかしたらおまえが連れ去られてメガネくんが死んでいた可能性もあったんだ。しかしあの後、慰霊碑の前でおまえが言ってくれた言葉に俺はずっと支えられてきた」
「えっと…けっこう厳しいことを言った記憶があるんですけど、何か心の琴線に触れるものがあったんでしょうか?」
「ああ。『自己侮蔑という男子の病気には、賢い女に愛されるのがもっとも確実な療法である』というニーチェの言葉を引用して諭してくれただろ? 俺のすぐそばにはその賢い女が常にいてくれて、迷いがあればいつでもシンプルで正解だと思える答えを教えてくれた。大を救うためには小を切り捨ててもいいものなのか、小を助けるために大を犠牲にすることがあってもいいのかと問うと、おまえは正しいか正しくないかの二択とは限らないとも言ったっけな」
「いわゆるトロッコ問題ですね。昔からこの誰にも正解を出すことのできない
「ん? それって逆じゃないのか? むしろ他人事だったら ──」
「違うんです。もし家族や友人が線路の先にいたのであれば迷うことなく答えが出ます。ひとりの方であろうとも5人の方であろうとも一番大切な人がいる方を助けようとするでしょう。わたしなら悠一さんが5人のグループの中にいたら線路のポイントを切り替えますし、ひとりの方だったら何もしません。あなたを死なせるわけにはいきませんから」
「それなら俺と逆の線路の先に忍田さんがいたらどうするんだ?」
「それでも悠一さんが死なない結果を選びます。その場合真史叔父さんを死なせてしまうことになりますが、わたしはその死を乗り越えることができると思うんです。でもあなたを死なせてしまったらわたしは生きていくことができません。魂の片割れを失ってしまえば残った半分は壊れてしまいます。そうしてわたしが死んでしまったら、真史叔父さんは嘆き悲しんでしまう。自分を助けるためにあなたを死なせてしまい、そのせいでわたしが死んでしまったとあの人なら絶対に自分を責めることになりますから」
「……」
「真史叔父さんへの愛情がなくなったのではありません。今でも世界で一番好きな人であることは間違いありませんが、死んでしまったとしてもあなたの支えがあれば生きていける。でもその逆はありえない。わたしにとって絶対に失ってはならないものは迅悠一という人間なんです。…そしてあなたがわたしと同じ気持ちでいてくれたならとても嬉しいです」
ツグミがそう言うと、迅は彼女の頭をそっと撫でて答えた。
「俺にとって命を懸けてでも守りたいと思う人間はおまえだけだ。おまえがいつも自分の手の届く範囲にいる家族や友人たちの幸せを願っていろんな敵と戦っていることは知っている。俺も同じなんだけどおまえよりも腕が短いからおまえしか守って戦うことしかできない。でもおまえさえ守ればおまえが忍田さんや城戸さん、それにメガネくんや遊真たちを守ることになる。そしておまえが守った連中がまた自分の手の届く範囲の人間を守ればそれはいずれすべての人間の幸せにつながっていく。どんな人間だって必ず誰かにとっての大切な人なんだろうから。だろ?」
「ええ。でも今のわたしはあなたを抱きしめることで精一杯です」
ツグミは迅に抱きつくと彼の胸に顔を埋める。
「こうしているととても幸せです。そしてこの幸せを絶対に失いたくない。そのためにもわたしは
「…!」
ツグミの言葉に迅はハッとした。
ツグミが総合外交政策局長に就任した時、迅も同時に同局員となった。
現在でも
旧ボーダー時代から
だから戦闘を避けて対話による交渉を進めるツグミのやり方では活躍の場がないため、自分の存在意義を失いかけていた。
ところがツグミが自分の悩みを察してくれて、ここでも欲しいと思っている答えを出してくれたのだから、迅にとっては
自分のことを最も理解してくれる人間が最愛の女性であるという幸福で迅は満たされていた。
(ああ…俺はこの温もりだけで生きていける。ここに俺の欲しいものがすべてあるんだ。そして今俺はその愛おしいものを抱きしめている。初めて出会った時からずっと大事に慈しんできた大切な存在。これまでの人生の半分以上はこいつと一緒に
迅の腕の中でツグミが小さく呻いた。
「悠一さん、ちょっと痛いです」
「あっ、すまない」
迅は感極まって腕に力を入れ過ぎてしまったようだ。
腕の力を抜き、ヒヨコやハムスターと接するように優しく触れるだけにする。
「フフッ、ここでこうしていても
「ああ、もちろん。…しかしおまえにとって長い8年だったよな。これでおまえの魂が救われるんだと思うと俺も気持ちが楽になる」
「過去を変えることができない以上これはわたしの自己満足でしかないんですけど、本人もずっと帰りたいと願っていたと思うんです。わたしが彼の立場だったらそうしてほしいから」
「俺もそう思う。どんな人間だって故郷の大地が一番安心できるはずだ」
そう言って微笑む迅の顔を見て、ツグミはそれ以上の笑顔で応えるのだった。
◆◆◆
それからの5日間は目が回るような忙しさであった。
行き先が
そうなると遠征メンバーを少数精鋭であるのは当然のこと、リーダーであるツグミにとって信頼の厚い人物で固めるのは自然な流れだ。
そしてツグミの他は迅、ゼノン、リヌス、テオの4人が参加することに決まり、出発の前夜には城戸が心ばかりの宴席を設けてくれた。
城戸はこの期に及んでもまだツグミをエクトスへ行かせたくはなかったのだが、彼女の強い意思を変えることはできなかったのだ。
ならばせめて無事に帰って来てほしいとの願いを込めて送別会を行ってくれたというわけだ。
この「布陣」は理に適っているもので、交渉のプロと呼んでも過言ではないレベルのツグミ、そのツグミが世界で一番信頼しているトリガー使いの迅、
特にゼノン隊のメンバーのトリオン量ならば遠征艇のタンクを満タンにしておけば寄港してのトリオン補給をせず、航行しながらの補給でも十分だということで一気に目的地まで行くことができる。
さらに万が一の場合 ──
もちろん
ツグミの本意ではないことになっても彼女の安全は4人の男たちによって保証されるのであれば城戸も認めるしかないため、彼女の立てた計画のままで決行となったのだった。
出発当日の朝、抜けるような青空の下に黒々とした
その様子を城戸と忍田は複雑な想いを胸に秘めて見送った。
そしてお互いに口にはしなかったが、間もなく自分たちの時代が終わることを確信していた。
それは彼らが心から望んだことではあるが、一抹の寂しさを抱かせるものでもあった。