ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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645話

 

 

ツグミたちは弓手町の寮に戻るとそれぞれ自室で待機することになった。

そして空き部屋にレグロとブランカを案内し、トイレやシャワーなどの使い方を説明してからツグミは自室に戻る。

彼女以外のメンバーは思い思いに自由時間を過ごすのだが、彼女にはまだやるべきことが残っている。

 

(エクトスでの一件の報告書は書き上げたけど、例の実験についてはまだ不完全。いっそ口頭で説明して許可をもらい、それから詳しい内容を明記した書面を作成するって順番でもいいかな? まだ十分な準備はできていないけど、成功すればひとまず時間稼ぎはできる。そうして実験体の数を増やして、条件も変えながらより確実な効果が得られるものを()()()ってことならそう難しいことじゃないんだもの引継ぎは可能ね。ただ問題は()()が目に見えてわかるものであればいいんだけど、わずかな数値の上昇程度では効果がわかりにくい。それに結果が芳しいものでなかった時には今のところ()()()()()しか他に手段がない。そうなるとエクトスでは誰かが犠牲にならなければ国が滅びてしまう。トリオン能力が高いという生まれつきの体質で理不尽な目に遭うなんてあってはならないのよ)

 

部屋の換気のために開け放たれた窓からは爽やかな風が吹き抜けていく。

カーテンを開ければ日差しは遠慮なく入って来て、部屋の照明などなくても十分に明るい。

それは大きな窓が南側にあって採光を考えて設計された部屋だからなのだが、日本の家では良く見かける普通の家の間取りだ。

しかし近界(ネイバーフッド)ではその多くの国が玄界(ミデン)における中世ヨーロッパの文化や習慣に似ており、庶民の家は石やレンガ造りの頑丈なものでも窓は必要最低限のものしかない。

それは冬の寒さ対策で、部屋の中の暖気が逃げないように窓の面積を小さくしているからであり、採光は十分とはいえない造りである。

だから昼間であっても薄暗い中で生活を強いられる。

エクトスでイリジーの実家を訪ねた時に彼の母親が明かりを灯してくれたのは客に対する「もてなし」の意味があった。

そういう経験をしているからツグミはこういった些細なことでも玄界(ミデン)の生活がとても恵まれているのだと感じられるのだ。

 

近界民(ネイバー)近界(ネイバーフッド)に必要なのは豊富なトリオンだと考えていたけど、やっぱり衣食住の整備の方が重要ね。居住環境を改善することで健康な生活を送ることができるようになって、それが人口増加にもつながるんだし。十分な食料と清潔な衣類、そして居心地の良い家があれば誰だってささやかな幸せを掴むことができる。贅沢を覚えてしまえば欲望は限りないものとなるけど、今の彼らには健康で文化的な最低限度の生活を送ることさえままならない状態。各国の政府には日本国憲法の第二十五条を教えなきゃダメね)

 

日本国憲法第二十五条とは「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有していて、国はすべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」といった内容の条文である。

もっともこれは国民主権、つまり主権者は国民であって政府は国民の負託により運営される機関であるという思想が前提となっているもので、近界(ネイバーフッド)では多くの国が君主主権である以上は浸透させるのは難しいかもしれない。

しかし主権が国王にあったとしても国民の声に耳を傾け、彼らの希望に可能な応えられる政治をすればいいだけのことで不可能ではないとツグミは考えている。

エウクラートンで女王になったら迅を宰相として国内政治を根本から変えていこうなどと()()を抱いている彼女らしい考え方だ。

 

(城戸司令からのメールだと一四〇〇時に総司令執務室へ来いってことだから、まだ時間はあるわね。ひと眠りする時間はあるけど、ひと仕事する時間もあるってこと。さて、さっさとやっちゃいますか)

 

ツグミは机の上にあるノートPCに遠征中に使っていたタブレットを繋いでデータの転送を行う。

彼女はトリオンの含まれている食材を使った食事を摂取することによってトリオン能力が上昇するのではないかという仮説を立てていて、遠征中は可能な限り現地の食材、つまりトリオンの含まれている野菜や穀物などを使った料理を食べることにしている。

エクトス遠征の期間中も同様で、毎日自分のトリオン量を測定し、食事内容などのデータを詳細に記録していた。

それをこれまでの遠征のものと合わせて変化の度合いをチェックしようというのだ。

ラグナ遠征から帰国して仮説を城戸に説明すると「実験」の許可が出て、唐沢の知り合いの農場で牛やニワトリにトリオンが含まれた近界(ネイバーフッド)産の飼料を与えて効果が出ている。

並行してツグミ自身がトリオンの含まれた食材の料理を食べることでどれくらい彼女のトリオンが増えるかどうかも調べているのだ。

彼女は19歳でもうすぐ20歳になる。

トリオン器官は心肺機能や筋肉と同様にある程度鍛えることは可能だが、年齢が若いうちしか成長しないという性質があることはこれまでの経験上で証明されている。

もちろん個体差もあるだろうが20歳が限界ということだから、ツグミが今後エウクラートンへ行くとなるとトリオンを含んだ食材()()口に入らなくなる。

そして彼女が女王になることでトリオン体に換装して武器(トリガー)を使用する機会はなくなる。

そうなるとトリオン器官を鍛えることはなくなるわけだ。

それでもトリオン能力が衰えなければそれは食事の効果ということになる。

それを証明するために1年以上毎日続けてトリオン量の変化を記録しているのだ。

城戸の指示で鬼怒田が非常に微細な変化でも計測できるトリオン計測器を作製した。

形状は手首式の血圧計のようなもので、トリオンの値は0.01の単位まで表示できる。

ツグミはアフトクラトル遠征の直前に測定した時には「18」であったが、それから約3年経った今は「21」となっていた。

正確に言うと「21.16」で、紛れもなく数値は上昇している。

これは単に食事だけでなくトリオン体に換装して訓練をすることでトリオン器官が鍛えられた分も含まれているわけだが、それでも3ポイントも増えているとなれば食事が無関係とは考えられないのだ。

なにしろボーダーの防衛隊員は訓練や防衛任務で日常的にトリオン器官を鍛えているはずなのだが、木虎のように意識してトリオン器官を鍛えても1か2くらいしかアップしていないのが現実だ。

この結果はツグミにとって好ましいもので、数値を折れ線グラフにすると緩やかな傾斜だが右肩上がりになっている。

 

(うん、これはいい傾向ね。この数値ならトリオン能力と食事の関係の研究を本格的にやろうという気を起こさせる。スマートシティに隣接した放棄地区を政府で買い上げてトリオン技術に特化した大学と研究施設を建設するという案も出ているらしいけど、現状では三門市立大学の研究室でトリオンの構造を明らかにする研究を細々と行っているというレベル。東さんにはわたしの仮説を証明してもらいたいとお願いしたけど、これで重い腰を上げてくれるかもしれない。だってちゃんと()()結果が出ているんだもの。城戸司令からも大学や研究室にもっと強く働きかけてもらおう)

 

人為的にトリオン器官を発達させる手段があれば現在の化石燃料を使用することによる環境問題を解決する道が開けるかもしれないとツグミは考えている。

トリオンという夢のようなエネルギーを生み出すことができるのは生物の持つトリオン器官であり、現在でも誰もがわずかながらトリオンを無意識に生み出している。

しかしそのほとんどが無駄に生産されて使用されないままに捨てられているような状態である。

そこで三門市は「トリオン特区」に指定されたことで市内の各所にトリオンを吸収する装置を設置し、市民から少しずつトリオンを集めている。

献血と違って提供者に負担がかかることはなく知らないうちにトリオンは集められていて、そのトリオンは三門スマートシティ内の街灯や警備システムなどに使用する電気の代わりに使用されている。

つまりスマートシティ内の電気の一部をトリオンに置き換えているのであり、その分の電気を節約できるということだ。

無意識に生み出したトリオンを本人が知らない間に抜かれているのだから誰にも迷惑や負担がかからない。

それでいて節電になっているので文句を言う者はいないし、何よりもそのシステムが本格的に実用化されたら自分たちの生活が豊かになるとわかれば大歓迎となる。

各戸にトリオンを吸収して電気の代用とするシステムを導入することで、これまでの電気代を大幅に減らすことができるだろうとのこと。

世帯の構成など条件にもよるが平均的な電気代の2割から3割、トリオン能力が高い人間がいれば5割近くの電気代を節約できるという試算が出ているらしい。

これはまだ捕らぬ狸の皮算用と言えるものではあるが、この1年間のツグミのトリオン能力の成長データは本格的な研究を進める呼び水(トリガー)となるのは明らかだ。

そしてこの情報がボーダーのスポンサーたちを動かすことになるのも目に見えている。

玄界(ミデン)の人口は推計約80億人とされているのだが、これがすべてトリオンを生み出すエネルギー製造装置ともいえる。

トリオン技術の平和的利用を目的とした研究は今後重要なものとなるのは明白で、それが莫大な利益を生むビジネスと考えるとボーダーへの支援は投資でもあるのだ。

第一次近界民(ネイバー)侵攻後にボーダーが新体制で活動を開始した時点でのスポンサーはわずか数社であった。

この時に城戸と唐沢はスポンサーとなってくれる企業を厳選している。

トリオンとトリガーの技術は使い方を間違えれば玄界(ミデン)に新たな紛争の種を蒔くことになることは明白であり、支援金額よりも絶対的に信頼のできる企業であることを条件としていた。

現在のスポンサーは数十社に増えたが、それでも情報漏洩などの心配のない信頼できる企業だけだ。

彼らにはこれまでの恩があるため、城戸はできる限り迅速にトリオンとトリガーの技術の()()()を提供したいと考えている。

ツグミの提唱している仮説が立証されて本格的な研究に大幅な人員と資金を導入することで、スポンサー企業もボーダーへの信頼が増してさらなる支援も期待できるだろう。

 

(城戸()()もこれでまた少しだけど()()されるだろうな)

 

ツグミの顔に自然と笑みがこぼれた。

彼女は城戸の姿を10年以上そばで見続けてきた。

近界(ネイバーフッド)玄界(ミデン)の友好の架け橋になる組織を作りたい」と考えて仲間たちとボーダーを立ち上げたが、その仲間が次々と死んだり抜けていったものだからひとりで苦悩しながらボーダーという組織を維持拡大する役目を背負ってきた。

その重圧は彼女の想像をはるかに上回るものだっただろう。

しかし敵性近界民(ネイバー)による三門市への攻撃はほぼゼロとなり、ボーダーの人間が積極的に近界(ネイバーフッド)へ渡航しても遠征部隊に被害が及ぶことはまったくない。

そして第一次近界民(ネイバー)侵攻で拉致された三門市民の救出も順調に進んでいて、ボーダーという組織の界境防衛の割合が減って近界民(ネイバー)との平和的交流を進める仕事に変わりつつある。

城戸が仲間たちと一緒に理想とした世界が手を伸ばせば掴めるようになったのだ、彼はその重責から解放されて自由に生きることを()()()()日もそう遠くない未来に訪れるだろう。

「ボーダーという組織が盤石なものとなり、その組織を適切に運営できる人材が育てば、安心してすべてを委ねて身を退くことができる」と心の内をツグミに打ち明けたのは第4次拉致被害者市民救出計画リコフォス遠征を終えた直後のことだった。

その話を聞いたツグミは城戸に憂いなく退任できるよう組織を盤石なものとするために頑張っているのだ。

 

 

◆◆◆

 

 

寮のミーティングルームでレグロのリクエストによるお好み焼きの昼食を済ませると、迅の運転する車でレグロとブランカとツグミは本部基地へと向かった。

これまで何人もの近界民(ネイバー)の要人を本部基地へと案内したのだが、その途中の街並みを見ると誰もが驚嘆の声を上げた。

どの国も王都となる街は大きくて人口も多いのだが、三門市がそれらの街よりもはるかに人が多く賑わっていていてもそれが日本という国の一地方都市でしかないということに驚いてしまうのだ。

全国民が30から40万人ほどしかいないという小国も多い近界(ネイバーフッド)の人間なら三門市の人口の28万人に驚くのは当然で、これが夜にでもなればその昼間のような明るさにさらに驚愕するというパターンはいつものことである。

しかし今回のレグロとブランカの感想は他の近界民(ネイバー)と違う点があった。

本部基地の周りを取り囲む警戒区域の中にある8年前の()()()から時間が止まってしまったエリアに車が入ったとたんに言葉を失ってしまった。

エクトスからの復路でブランカから第一次近界民(ネイバー)侵攻の被害について質問され、ツグミは感情を抜きにして事実のみを淡々と伝えた。

だからブランカは自分の父親が指示した侵攻によって1200人以上の犠牲者が生じたことも、400人以上の市民が拉致された上に近界(ネイバーフッド)の9ヶ国にバラバラに売られたこと、そしてその利益によって自分たちが何も知らずに安穏と暮らしていたことを初めて知ったのだった。

第一次近界民(ネイバー)侵攻は彼女とは無関係であるものの、王族の一員として何も知らなかったということ自体が罪深いと感じたのだろう。

それだけでも彼女には相当ショックだったようだが、警戒区域内の荒れ果てた光景を目にすると自らの愚かさとトリオン無くして生きていくことのできない近界民(ネイバー)の脆弱さを思い知らされたのだった。

レグロもショックは受けていたのだがブランカと違うのはトリオンなどなくとも豊かな暮らしをしている玄界(ミデン)の人間を羨ましいと感じ、王家の人間である自分の責任を果たすために玄界(ミデン)から多くを学ぼうと決心をしたという点だ。

そして彼らの知っている王城よりもはるかに巨大なボーダー本部基地の来賓客用玄関前で車を降りるとツグミに案内されて総司令執務室へと向かった。

 

 

 

 

ツグミは城戸にレグロとブランカを紹介し、彼らがお互いに握手をして挨拶をするとすぐに本題に入った。

その本題とはエクトス国王ヌンツィオ・エクトスによる公式な謝罪の手紙をブランカが代読することで、ヌンツィオ直筆の手紙をブランカが申し訳ないという心からの気持ちで読み上げた。

これで第一次近界民(ネイバー)侵攻を許すというわけにはいかないが、ひとまずエクトスとは対話によって平和的に決着をつける筋道を立てることには成功したのは間違いない。

それにブランカにこれ以上のことを要求するのは無慈悲というもので、城戸は彼女の謝罪を受け入れた。

そしてツグミは遠征艇の整備が終了したらすぐにでもレグロとブランカのふたりをリコフォスへ送り届けたいと希望を告げるとすぐに了承された。

 

「ではレグロ閣下と夫人には迅職員と共に弓手町の寮へと戻っていただきます。ホテルでの滞在をお勧めしたのですが、玄界(ミデン)の庶民の暮らしを経験したいとの希望ですので。わたしを中心とした総合外交政策局員がおふたりのお世話をさせていただくことになっています」

 

「わかった。いつもどおりでやってくれ」

 

「はい」

 

それから迅の方に向きを変えてツグミは言う。

 

「後のことはよろしくお願いします。わたしはもうしばらくここにいますが夕食の時間までには戻りますのでゼノン隊長たちと準備をして待っていてください」

 

「ああ、わかった」

 

 

◆◆◆

 

 

迅とレグロとブランカの3人が出て行き、総司令執務室にはツグミと城戸のふたりだけが残された。

ツグミはエクトスでの一連の出来事を口頭で説明し、その内容を文書としたものを城戸に手渡した。

 

「ひとまず核兵器の件は心配がなくなりましたが根本的な解決にはなっておりませんので、当初の予定どおりに4ヶ国の代表がエクトスに赴いて()()をつけよう考えています。まあ、ヌンツィオ陛下が諦めてくれたようなので後は『箱』の中身を始末するだけ。その始末の仕方を相談して答えを出すだけで終わると思います」

 

ツグミは笑顔で言うと城戸も安心したらしく表情を緩めた。

 

「それよりもエクトスの『神』問題が深刻であるため、例の実験を前倒しで進めたいと考えています」

 

「ああ、アレのことか。しかしまだ準備が不十分なのではないか?」

 

「ですがこれが成功すれば一時しのぎだとしても人ひとりの命が救われるわけで、他にも『神』問題を抱えている国もあるわけですから少しでも成功する可能性があるなら一日も早く進めたいと思うんです。松井牧場で飼育している牛とニワトリでも効果は出始めていますが十分とは言えません。そこで近々エウクラートンへ行くことになっていますので、そこで一番良さそうな動物を譲ってもらう計画です。生まれた時からずっとトリオンたっぷりの飼料で育ったんですから()()()()優秀なトリオン器官を持っているはず。ヌンツィオ陛下には許しをもらっていますから、エクトスを実験場とさせてもらいます」

 

「たしかに成功すれば近界(ネイバーフッド)のすべての国、いやすべての近界民(ネイバー)にとっての福音となる大革命だ」

 

「はい。ですからもっと時間をかけて成功確率のもっと高い状態で試してみたかったんですけど、このままではエクトス国民の中から誰かが犠牲となってしまうんです。大勢の同胞のためにたったひとりが身を捧げればいいというやり方。わたしたちは生贄を『神』という名に置き換えて正当化してきたことで成立していた世界を変えるかもしれない引き金(トリガー)に指をかけているのです。発案者のわたしはこの引き金(トリガー)を引く権利と資格と義務を負っている。でもわたしがひとりで勝手にやってしまうことができない重要な事案ですので城戸司令のお考えも伺いたいのです」

 

ツグミは城戸の目を真っ直ぐに見て言うと、城戸は少しだけ考える素振りをみせてから答えた。

 

 

 

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