ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
5者会談が無事終了したことで、ツグミの次なる役目は
迅たちによって牛は全身を綺麗に洗われていて、家畜独特のにおいも弱くなっている。
その牛を
実験を計画したのが彼女であるから当然なのだが、神殿に足を踏み入れることができるのはその国の国王や巫女などの王族の許しが得られた人間だけなのだから彼女しかいない。
航海中ずっとツグミがブラッシングや餌やりなどを積極的にやっていたから牛は彼女の言うことに素直に従い、ケージから出して神殿の入口までおとなしく歩いていた。
しかし神殿の中の空気に何かを感じたのか、広間の入口付近で牛は立ち止まってしまう。
「ずっと騙していてゴメンね。でもこうすることが大勢の人間にとって役に立つことなの。そんなこと自分には関係のないっておまえは言いたいだろうけど勘弁してちょうだい。でも約束する。おまえの命を絶対に無駄にしないって。それに
ツグミが牛に語りかけると牛は哀しそうな目をしながら「モー」とひと声だけ鳴いてゆっくりと
彼女の言葉を理解したとは思えないが、自分の世話をしてくれた人間が頼むのだから聞き届けてやろうという気になったのかもしれない。
そして一辺が20センチほどの立方体となった
するとその様子を見つめていたシーラが立ち上がり、ツグミたちのそばに近付いて来た。
「ご苦労であった、ツグミ。この牛が我がエクトスの『神』となってくれるのか?」
「はい。ではシーラ様、あとはお願いいたします」
「わかった」
シーラが操作パネルに手をかざすと
光が収まるとシーラは
「
「キューブの状態はいかがなものでしょうか?」
「…やはり人間の時とは少々違うように感じるが、それが何か影響を与えるのかどうかはまだわからぬ。お主は結果を確認するためにしばらく滞在すると言っておるようだな?」
「はい。現在は問題がないようですが、これから先何が起きるかわかりません。そこで1ヶ月から2ヶ月くらい滞在して経過を観察したいと思っています。それくらいの時間をかければこの疲弊している国土の状態も解消して豊かな実りを生み出す大地へと変貌することでしょう。ただ寿命がどれくらいなのかは未知数です。あとは
「ああ、承知した。…それで『箱』と『鍵』の件はどうなった?」
「はい。そのうちにヌンツィオ陛下がご報告にいらっしゃると思いますが、全員一致でわたしに任せてくれるということになりました。わたしがどのような手段で処分をするのかは誰にも教えず、わたしだけの秘密にするつもりです。『5人の王』にとってこの結果が望ましいものなのかそうではないのかわかりませんが、わたしは過去の人間の気持ちよりも未来に生きる人たちのために最善だと思うことをしたい。ヌンツィオ陛下をはじめとした4人の王家の代表の方々がわたしに一任してくれたのですから、たぶんこれで正しいのだと思います」
「お主は
シーラがツグミに問う。
するとツグミは穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「いいえ、それはありえません。争いのない世界とは究極の理想であり、現実には叶わない『夢』そのものですから」
「夢?」
「はい。例えばふたりの人間がいれば考え方はふたつあり、それが相反するものであれば言い争いに発展することはありえます。そこで和解しなければ自分の味方になる人間を探してきて数の上で優位を得ようとし、そうなるともう一方も同様に味方をしてくれる人を連れて来ます。そんなことをやっていればそのうちに規模が拡大して、それが国家間のレベルに達すると戦争となります。この場合武力を持ち出すことは明らかですから、人が傷付いたり死んだりするのです。トリオン体で戦うなら余程のことがない限り怪我さえしないということになっていますが、そんなことは幻想です。現に8年前にエクトスが
「……」
「人間には欲というものがあります。食欲とか睡眠欲といった一時的欲求と呼ぶ人間が生きていく上で欠かせない欲求は人の力でコントロールすることはできませんが、金銭欲とか支配欲などは個人の意思で抑えることができるものです。誰だって美味しいものをたくさん食べたいからお金が欲しいと思うし、大きな権力を持つことで自分が他人よりも強いのだと思い込みたい。まあ、それについては個人差があってすべての人間がそうだとは言いません。でも多かれ少なかれ誰でも持っているもので、それを欲望のままに追い求める者もいれば節度を持って行動をする者もいます。要は自分さえ良ければいいと人を傷つけてでも手に入れるという手段に出てしまう短絡的な考え方が間違っているんです。人が100人いれば100通りの考え方ややり方がありますから争いは生まれるでしょう。ですがその争いを避けるために行動できる人が増えればゼロにできないまでも極力減らすことは可能です。今のわたしはボーダーの人間ですから
「……」
「
「……」
「3年前までは
「お主には心強い仲間がいるのだな?」
「はい。だって人は誰でも戦場で戦うよりも家族や親しい友人たちと一緒に笑いながらご飯を食べる方が好きなんですから。優しい時間が流れる穏やかな日々。いくら仲が良くてもたまには諍いや口喧嘩をすることもあるでしょう。でも心が通い合った仲なら必ず和解できます。わたしがそうでしたから。お互いの信念から生まれた些細な出来事が2年以上も相手のことを信じられなくなってしまいました。でもこれも些細なきっかけで互いの想いを伝えて和解できたんです。それにわたしの護衛をしてくれているゼノン隊長、リヌスさん、テオくんの3人はわたしを誘拐して
「そんなお主の気持ちを理解できる人間がいてくれるから、お主は彼らに支えられてやりたいことをやれるのか…。たぶん彼らもお主と同じように優しくて困難に立ち向かう勇気のある者たちなのだろう」
「そのとおりです。拉致被害者市民救出計画も初めのうちはわたしが仕切っていましたが、今ではすべて彼らにお任せしているくらいです。理解ある上司と頼もしい後輩たち、そして住む世界は違っても同じ気持ちで結ばれている友人たちがいることはわたしにとっての最大の財産とも呼べるもの。だから彼らを傷つけようとするものがいれば、その時にはわたしもあらゆる手段を講じて彼らを守ります。そのために
ツグミの覚悟はシーラにも伝わった。
その強い想いに身震いするほどで、
(この娘はエウクラートンの女王になるために生まれてきたのではない。優しくて勇気のある大人に囲まれて育ったことで女王に相応しい人物になったのだ。
シーラの視線の先には勢いと輝きを取り戻した
(気のせいか…?
シーラは首を傾げるが、それこそが
◆◆◆
ツグミは
その旅立ちの前夜、ツグミがヌンツィオに依頼をしておいた「誓約書」が完成してそれに5つの王家の代表がそれぞれにサインをして、中身を出して空になった「箱」に納めて歴史書のコピーと共に国へ持ち帰るようにした。
「鍵」は不要となったのでその「鍵」を元にしてプレートを作り、二度と過去の愚かな過ちを繰り返さないことを誓い、5つの王家の代表が一堂に会して恒久的な平和を目指すことを約束したという証拠となるものを誓約書という形で残したのだった。
「5人の王」が同胞と共に
5ヶ国の王族の人間は絶対に忘れてはいけないことだが、それ以外の無関係な国の人間が知る必要のないことであり、災いの種になりそうなことは永久に封印してしまう方がいい。
大切なのは当事者がその事実の重さを胸に刻み、それをより良き未来のために生かすことである。
イェリンやイザイアにとって得るものの大きい旅であったらしく、国を発った時と比べて顔つきや振る舞いに成長が見られた。
「百聞は一見に如かず」のことわざは日本に限ったものではなく、
本来ならそれぞれの国まで同行して礼を述べるべきなのだが他にやることがあるため、ツグミはカロリーネとエルヴィンとライサ宛にそれぞれ丁寧なお礼の手紙を書いてイェリンとイザイアとテスタに持たせることにした。
これで「箱」と「鍵」の件は無事に終了し、
◆
テスタたちを見送ったツグミと迅はこれから最長2ヶ月間エクトスに滞在して
毎日決まった時間に様子を確認し、トリオンの量や質に変化はないのか、またシーラが操作をする際に違和感はないのかなどをチェックするのだ。
この実験が成功であれば
仮に期待していたものでなかったのならヌンツィオには急いで「神」となる人間を選出してもらわなければならないが、その結果が直ちに失敗であるとは限らない。
準備が不十分であったというのに緊急を要するために前倒しで行ったことで望む結果が得られなかったとも考えられるからだ。
ツグミは実験の発案者であり責任者でもあるため、最後まで見届けたいと考えている。
しかし場合によっては半ばで手放さなければならないかもしれない。
そう思うと今の自分にできることを精一杯やって心残りがないようにするしかないと決意を新たにするのだった。