ツグミと迅を見送った城戸は風間の黒トリガーを金庫に戻した。
そして再びソファに腰掛けると背もたれに身を委ねて目を瞑る。
大仕事のひとつを終えた感があり、城戸は肩の荷を少しだが下せたような気分になった。
(これでまたツグミに救われてしまったな…。織羽よ、私はおまえの娘が無事に成人するまでそばで見守ってやりたいと親代わりを努めてきたつもりでいた。だが私の知らぬところで多くを学び、成長していたようだ。あの子は周囲の大人たちから教えを乞うのではなく、私たちの日頃の行動を観察してその中で自分の成長の糧になるものを貪欲に吸収していく。そうしてどんどん育っていった。いつまでも子供だと思っていたのに、今では守られる側ではなく守る側…いや、私たちを導く人間になっておまえと共にボーダーを立ち上げたあの頃の夢を叶えようとしてくれている。強くなったものだな…。アリステラ遠征に連れて行ってもらえなかった悔しさをバネにして目覚ましい成長を遂げたのはおまえも空の上から見ていたと思う。…だが少し強くなり過ぎたのかもしれない。守られるだけの娘であったなら、エウクラートンの女王になるなんて決心はしなかっただろうからな)
ツグミの意思は尊重するものの、城戸個人としては納得できないでいる。
エウクラートンの女王の健康状態に問題があり、現在のところ女王の後継者となれるのがツグミしかいないという現実。
このまま彼女がNOという答えを出したなら、エウクラートンはいつ女王のいない国 ── 母トリガーを操作できる者がおらず、母トリガーから抽出するトリオンを調整できない状態となる ── になってしまうかわからない不安を抱えた不安定な国になってしまう。
そうなると無辜の民が無用な心配をし、最悪の場合は国の存続が困難となるわけで、それをツグミは憂いたのだ。
仮にエウクラートンで生まれ育ったのであれば当然のこととして次期女王となる覚悟を決めて成長してきたのだろうが、現実には王族の血を引くオリバの娘であって母トリガー操作に適性があったというだけで、生まれも育ちも玄界の彼女がエウクラートン国民に対する全責任を負う必要などない。
それでも引き受けることにしたのは彼女に流れるエウクラートンの王族の血がそうさせるのかもしれない。
しかし彼女は流されるままに承諾したのではなく自分が「そうするべき」と思ったことであり、それが自身の願いである「自分と手の届く範囲の家族や友人の幸せを掴む」ための遠回りにはならないと判断したからである。
(あの子の視ている未来はどんなものなのだろうか…? 先祖が同じであり異なる環境で独自の文明を築いてきたふたつの人類。その世界を隔てる門は開かれてしまった。再び閉じることが現実的ではない以上、これから先も互いの行き来は続くだろう。もしあの子がいなければボーダーはこれまで以上に戦力増強し、不毛な戦いを続けていくことになったかもしれない。こちらが近界へ進出して近界民と戦う意思はなくともヤツラはこちら側の世界へとやって来て人をさらう。延々と攻め込んで来る近界民と戦い続けるとなれば多くの若者たちが戦場へ駆り立てられ傷付いてしまうことだろう。東や蒼也のようにトリガー使いとして戦い、現役を離れても今度は子供たちを戦場へ送り出す立場になる。それは私や最上のようにボーダーを創設した人間であればどんな責任も自分たちにあると自らを奮い立たせることはできるが、同じことを彼らに押し付けることはあまりに理不尽だ。それがツグミのおかげで戦いの連鎖を断ち切ることができる希望が見えてきた。あの子ひとりの功績ではないが、あの子が動かなければ今の私がこのような穏やかな気持ちでいれらなかったはずだ)
城戸は4年前に起きたゼノンたちによるツグミの拉致事件を頭に思い浮かべた。
(あの子は近界民に拉致されたというのに冷静に状況を判断して作戦を立て、それを私たちに正確に伝えることができたおかげで大事にならすに済んだ。しかし普通なら自分をさらった敵を許せるはずもないというのに捕虜となった彼らを客人として自ら世話をした。近界民と必要以上に関わることは危険だと考えていた私は反対したが、林藤が玉狛支部で預かり何かあれば自分が責任を持つと言うので許可をした。それが結果的にボーダーにとって大きな収穫になるなど私はこれっぽっちも想像できなかった。まさかキオンまで行ってスカルキ総統を味方につけて帰って来るなど誰も考えることはできない。あの時も私は反対だった。しかしあの子を見ていると織羽の姿とダブってしまい、もしかしたらと期待をして送り出した。霧科ツグミという人間は不可能を可能にするのではなく、私のような凡人が頭から不可能だと思い込んでいる常識を覆しているだけなのだ。私たちが諦めてしまった近界民との共存の道をあの子は切り拓いてくれた。織羽が視た未来と同じものなのかはわからないが、それでも愛娘の働きには満足しているのだろ?)
今は亡き朋友へ良い報告ができることを心から喜んでいる城戸。
彼の脳裏には様々な思い出が去来する。
(今から思うとすべてはおまえと有吾がこちら側の世界へとやって来た時に始まっていたのだ。若い時には無知や未熟であるために山ほどの夢や希望を抱え、世間の厳しさの中で己の無力を知ってそれをひとつひとつ落としたり捨てたりして一般に常識と呼ばれるものに縛られた大人になっていく。しかしおまえは近界民ゆえに玄界の常識に縛られない生き方を私たちに見せてくれたな。そんな私たちにとっては非常識に思えるおまえの行動によって感化された私たちはボーダーを立ち上げた。その時におまえが玄界の常識に囚われてしまっていたらボーダーがタダの戦闘集団になり果ててしまっていたことだろう)
織羽と有吾が三門市に現れた二十数年前、市内で10代の少年少女の行方不明事件が多発していた。
誘拐とも家出ともわからず「神隠し」のような失踪が近界民によるものだと知ったのも有吾がその当事者であり無事に帰還した唯一の例であったからだ。
近界民によるトリオン能力者の拉致だということで織羽、有吾、最上、城戸の4人で自警団を結成した。
これがボーダーの元になるグループで、表立った行動はできないため彼らは自分の身を囮にして捕獲用トリオン兵の撃退に専念した。
おかげで年間約30件近くもあった青少年行方不明事件の発生件数は翌年には半分以下となり、忍田と林藤が仲間に加わるとさらに年間10件以下となる。
この自警団が玄界の人間だけで構成されていたならばボーダーは対近界民防衛組織になっていたのだろうが、近界民である織羽が仲間であったために近界民と玄界の人間は友人になれるるという希望を持つことができた。
近界と玄界の友好の架け橋になる組織を作ろうという「夢」を抱き、それが険しい道のりであると知りつつも共に歩んでいったのは彼らがまだ青かったからであった。
しかし「世界」は彼らの理想をあざ笑うかのように試練を与え、織羽と美琴がキオンの諜報員によって殺害されたことによって彼らの目指すものが現実には存在しない幻ではないかと考えるようになっていく。
さらに追い打ちをかけるように近界民による拉致事件は増えていき、この頃にレスキュー隊員だったレイジの父親は子供を守ろうとして殉職していた。
織羽が他界し、有吾は近界から戻らなくなったことで新たな仲間を集めるしかなくなった城戸と最上は身近な子供をボーダーに加入させた。
まずは近界民に拉致されそうになっていた時に林藤に助けられた小南。
彼女は近界民に拉致されかけたことについては覚えていないが林藤が自分の恩人だということは認識していたから自ら進んで入隊した。
拉致未遂事件の際に彼女の両親はその場にいたことで愛娘が近界民と戦う組織に加わることに大反対であったが、戦う手段を持つことで身を守ることができると説得されて小南の入隊を許可したという経緯がある。
次は迅であった。
彼は物心つかないうちに父親を亡くし女手ひとつで育てられてきたのだが、父親の親友であった最上の援助があったことでささやかな幸せに恵まれた少年時代を過ごしていた。
そんな彼が最上にスカウトされて断るはずもなく、過酷な戦いの中に身を投じる。
そしてツグミもまたボーダーに入るのだと言い出した。
彼女もそのトリオン能力ゆえにトリオン兵に狙われることがあり、忍田が個人的に守り抜くには限界があったことで入隊をさせた。
忍田にしてみれば近界民と関わりを持つことさえ避けたいところだったが、本人が入隊を希望する上に城戸や最上は賛成であったから仕方がなかったと諦めた。
続いてレイジが入隊したのだが、きっかけは彼の父親の事件が近界民絡みであると警察側の協力者である緒方から知らされたことであった。
城戸と最上が遺族へのフォローが必要だと考えてレイジと母親に真実を告げて、レイジが自分もボーダーに入ると言い出したのだ。
それまではレスキュー隊員になるのだと決めていたが父親が近界民に殺されたのだと知ってボーダーに志願した。
ただしそれは近界民への復讐ではなく、自分にしかできないことならやりたいという純粋な気持ちであった。
だからこそレスキュー隊員になりたいという気持ちも捨てることなく、ボーダーでやるべきことはすべてやったという手応えを感じたから初志貫徹する決心をしたのだろう。
それからしばらくして風間進や梅咲鉄弥といった若者や子供たちが次々と入隊していくわけだが、結果ではあるが迅たち最初期の子供たちがすべて生き残ったのは奇跡だと言えよう。
アリステラ遠征がボーダーの歴史の中で非常に重要な出来事のひとつであることは明らかで、この直後からそれぞれの想いが異なるために歩む道も別のものになっていった。
城戸は近界民の排除、林藤は協調、忍田はその中間で三門市防衛に専念するという三者三様のスタンスであって表向きには対立しているように見せていたが、実際のところは組織を拡大するために対外的に「ボーダーは近界民から三門市民を守る正義の味方である」と思わせる必要があったのだ。
おかげで近界民に恨みがあったり親しい人を守りたいという強い思いを持った若者が集まり、ボーダーは市民から支持される組織となった。
林藤の「近界民と仲良くしよう」という思想の派閥がいたことでボーダー創設時の理念も失われずに済んでいた。
しかし不思議なものである。
玉狛支部に集う者たちのほとんどがアリステラ遠征の悲劇に関わっていて、本来なら最も近界民を憎んでいてもおかしくはないメンバーであった。
そんな彼らが近界民と最も親しく付き合っていけたのは城戸が遠征の記憶を封印したおかげである。
今さら本人に事情を明かして忘れていた哀しい現実を突きつけることはないと思うが、ツグミや迅のように思い出したことが本人のためになったということもある。
城戸もツグミの言い分に納得し、自分のボーダーにおける最後の仕事にしようと考えていた。
(これはボーダーをつくった人間の、そして最後に残った私の責任だ。元はといえば私や最上たちが近界と玄界の友好の架け橋になる組織を作りたいなどと言わなければボーダーは生まれなかった。近界民から三門市民を守ることも警察や自衛隊に任せてしまうという道もあったが、それをしなかったのは織羽…私たちが初めて出会った近界民がいいヤツだったからだ。たったそれだけのことだが、それがとても重要なことだったのだ。これからのボーダーは近界民との平和的な交流と目指す組織になるだろう。ようやく創設理念を高らかに掲げることができる。もちろん敵性近界民はゼロにならない以上は界境防衛の役目も残すことになるが、それでも織羽、有吾、最上の3人に恥じることなく胸を張って会いに行くことができるはずだ。こんなことをツグミに言えば縁起でもないとかふざけたことを言うなと叱られそうだが、これが私の本心だ。長い間背負っていた荷物を下してもいいのだと許しを得て、ほんの少しだがその重荷を下ろした今の気分は誰にもわかるまい)
城戸は立ち上がって窓辺まで歩いて行き、その窓から見える三門市の様子を見つめる。
そこにあるのは彼が仲間とボーダーを立ち上げた頃のものではなく、また第一次近界民侵攻直後の荒れ果てた光景でもない。
市民が近界民の存在を知り、それを恐れるのではなく隣人として受け入れてもいいという気持ちを抱くようになった希望の溢れる街だ。
これもボーダーが市民の期待を一身に背負い、それを裏切らなかったおかげである。
今のボーダーは城戸だけでも、忍田だけでも、林藤だけでもつくることはできなかった。
3人がそれぞれ自分の意思をしっかりと持ち続けてブレなかったからであり、さらに彼らを慕い、信じ続けた若者たちがいたからこそである。
その中でも城戸にとってはツグミに対して強い思い入れがあり、彼女の存在が城戸を支え続けてきたといって過言ではないだろう。
まさに彼女は城戸にとって大切な「家族」なのだ。
(間もなくあの子は旅立っていく。二度と会えないという旅に出るのではなく必ず帰って来ると言うのだからそれを信じて待っていればいい。迅も未来視のせいで子供の時からずっと苦労してきたが、そばで支えてくれる人間がいてくれたから今がある。私と同じだ。しかし私と違うのはツグミと共に人生という旅をする役目があること。私にはもう何もしてやれることはないが、おまえならあの子の苦労を半分背負ってやれるはずだ)
雲の切れ間から西日が差し込み、城戸は眩しさに目を閉じた。
そして名残惜し気に窓に背を向けて執務机のある場所まで戻ると椅子に腰掛ける。
引き出しに入れておいた旧ボーダーの集合写真を机の上に飾り、その隣には真新しい写真立てを並べて置いた。
その写真立てにはツグミと迅の結婚式の写真が入っており、ふたりを囲むようにして城戸、忍田、林藤が笑顔で立っている。
どちらの城戸も笑顔だが、新しい写真の彼の表情はまさに家族の門出を祝う父親のものであった。
喜びの中に旅立つ娘と息子に対する少しの寂しさが見える。
さまざまな事情で集まった血のつながらない家族であっても彼にとってツグミたちは本物の家族以上の存在なのだ。
ピー、ピー、ピー
携帯電話にセットしてあったアラームが鳴る。
時間は午後4時50分で、城戸は午後5時に来賓用玄関で唐沢と待ち合わせをしていた。
有力なスポンサー候補の企業の代表との会食がセッティングされているのだ。
(やれやれ、こうした仕事も総司令である私の役目なのだから仕方がないのだが、誰か代わりにやってくれる人物はいないものだろうか…? できれば酒に強い人間がいい。唐沢くんは弱いし運転手を引き受けてくれるから会食の席では絶対に飲まない。その分私が先方から飲まされる。最近ではだいぶ弱くなってきた気がする。…私の後継ともなればいろいろな面で優れていて旧ボーダー時代の事情を知っている蒼也がいいと思うのだが、あいつも酒に弱かったな。…と、そんなことを考えている時間はない。早く出かける支度をしなければ!)
これから先のボーダーは近界民と戦う界境防衛の役割よりも近界と玄界の交流の窓口としての役目が大きくなる。
そうなるとこれまで以上に行政や財界の主要人物との戦いが多くなるわけで、総司令官としての仕事も違った意味で重要なものとなるのだ。
しかし自分の後継者に最も相応しいと考えていたツグミがいなくなるため、他に探さなければならないがこれが難しい。
もうしばらくは引退できそうにない城戸であった。