ワールドトリガー ~ I will fight for you ~   作:ルーチェ

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683話

 

 

ツグミは忍田とふたりで静かな大晦日の朝を迎えていた。

ダイニングテーブルに向かい合い、ツグミの作った料理を黙々と食べている。

いつもと変わらない朝に、いつもと変わらない食卓。

しかしそんな平和で幸福なふたりきりの朝はこれで最後になるだろう。

 

「ツグミ、今朝の味噌汁は少し違う感じがするが味噌を変えたのか?」

 

忍田は味噌汁を口にするといつもと違う味に気が付いた。

 

「わかりますか? 味噌はいつものものですけど、出汁を変えてみました。これまではかつお節と昆布で取った出汁でしたけど、今日は煮干しで出汁を取ったものを使っています。大根と油揚げの具が浮かんでいますが、その下に出汁に使った煮干しが沈んでいるのでそれも食べてみてください。頭と内臓をしっかりと除いていますから食べやすいはずです」

 

「そうか…」

 

忍田はそう言って箸で沈んでいる煮干しをつまんで口に入れ、汁と共に食べてみた。

 

「うん、これもなかなかいいな。いつもの味も良いが、これも味に変化があって良いと思う」

 

「気に入ってもらえて良かったです。いつもの味噌汁はダシ巻き玉子を作るために取った出汁をそのまま使っていたんですが、それでは面白くないと思って試しにやってみたんです。煮干しの出汁は味噌汁に適しているんですって」

 

「たしかにいつものよりも()()があるというか…旨味が滲み出ている感じだな」

 

「気に入ってもらえたならもっと早く作ってあげるべきでしたね。こうしてゆっくりと普通の朝食を食べることのできる朝はこれが最後になるでしょうから」

 

「……」

 

急に黙り込む忍田。

そう…あと数日でツグミはエウクラートンへ発つことになっている。

その時に城戸と忍田が同行して彼女が女王になる姿を見届けるわけだが、そうなるとあらゆるスケジュールが分刻みとなってのんびりとはしていられない。

父と娘という立場でいることのできる時間は残りわずかであった。

ボーダーはその役目上「休日」がない組織であるから本部基地は24時間365日活動している。

だから年末年始であっても誰かが交代で出勤していて、本部基地で詰めていなければならないのだ。

それでも近界民(ネイバー)の出現が一時期の0.5パーセント以下にまで減少したから待機する隊員や職員も少人数で済むのだが、それでもゼロにはできない以上は運の悪い人間が()()となる。

12月29日から1月3日の6日間、すべての隊員と職員にはこの期間に必ず1回8時間の勤務を義務付けられているのだが、幹部はその限りではない。

ただし緊急事態ともなればそんなことを言ってはいられないため、休暇中であっても三門市内で待機することとなっていた。

それはツグミと忍田も同じで、エウクラートンへ発つ4日の朝までは遠出もできずに市内で過ごす予定である。

もっとも一般人のように年末年始の休暇を利用して旅行をするという習慣もないから、出かけるとしても買い物をしたり初日の出を見に行ったり初詣で神社へお参りに行くくらいなので市内で十分だ。

そうやって一緒にいる時間を大切にしようと思っていても現実は冷酷で、別れの時が近付いていることを考えずにいようとすればするほど些細なことで意識してしまう。

ツグミはそれほどではないのだが忍田は最愛の娘との別れが身を切られるように辛いらしくそれが仕事にも多少は影響を与えていて、そんな彼の姿を哀れに思った城戸は忍田に6日間の特別休暇を与えていた。

今でもまだツグミと忍田の関係は公にされていないため、忍田の挙動不審な態度の原因は誰もわからない。

それで城戸は他の隊員や職員に配慮して忍田を休ませたという裏の事情もあった。

 

「真史叔父さん、()()()()()でガッカリするくらいなら美味しい料理を作ってくれる女性を探して結婚すればいいじゃないですか。もう()()はなくなるのだし、まだ37歳と男性としては十分魅力的な年齢なんですから。せっかく才色兼備の素敵な女性がそばにいたというのに彼女の気持ちに気付かなくて逃がしてしまったわけですから、今度こそそんなことにならないようにしてください」

 

ツグミは落ち込んでいる忍田にさらに追い打ちをかけた。

彼女の言う「才色兼備の素敵な女性」とは沢村のことで、鈍感な忍田に対して沢村はいろいろな方法でアタックをしていた。

ツグミも彼女には協力的で、好物のダシ巻き玉子の作り方を教えるとか忍田の好みの料理のレシピをどんどん教えて弁当の差し入れをさせるなどふたりの距離を近付けていたのだが効果はなかったらしい。

沢村がその好意を忍田に示しても直接的な表現ではなかったので鈍感な忍田は気付かなかったのだ。

彼女が勇気を出して告白していれば違う未来のあったのかもしれない。

しかし彼女が告白しなかったのは自分の忍田への好意が恋愛感情であっても、忍田が同様の気持ちになってくれるかどうか不安になったからであった。

忍田は沢村に対して好意はあってもそれが男女の性愛を含む愛情ではなく、共に苦労をしてきた戦友としてのものである可能性が高い。

彼女にとって最大の不幸は優秀な戦闘員であり本部長の補佐官であったことで、忍田にとって「信頼できる仲間もしくは部下」という気持ちがあまりにも強かったことで恋愛対象にならなかったのだ。

そしてタイミングも最悪で、忍田が恋愛にかまけている余裕なかった時期に出会ってしまったため、この先も自分の気持ちが報われる日が来ることはないと彼女は諦めた。

間もなく30歳という()()になるということで彼女の両親が積極的に見合い話を持ち込み、今から半年ほど前に二陵市で会社経営をしている32歳の男性と見合いをして結婚を決めてしまった。

城戸と忍田には婚約とボーダーを退職する旨の報告したのだが、事情を知らない忍田は彼女の婚約を心から喜んでしまい、彼女の「もしかしたら引き留めてくれるのではないか」という淡い期待を裏切った。

 

「…わかっている。しかし彼女にはあれで良かったんだよ。殺伐としたボーダーでの仕事を辞めて旦那さんと幸せで満ち足りた毎日を過ごしているということだから、これが彼女にとって最善の道だったんじゃないかな。私は自分がそういう点では不器用な人間だと理解していて、私には彼女を幸せにしてあげることはできなかったと今でも思っている。彼女には私のせいで遠回りをさせてしまったが、私自身は自分の人生を悔いてはいない。いつか私にもそばにいてほしいと思う女性が現れるかもしれない。その時にはその女性を全力で幸せにしてあげたいと思っている」

 

「ううん、現れるなどと待ちの姿勢ではダメです。自分から幸せを掴もうと動く積極性がないから、これまでに何度もそのチャンスを逃してしまったんです。それにはわたしにも責任の一端はあるわけですけど。ともかく自分が幸せになりたいのであれば自分から動かなかればダメだということはわたし自身が経験しています。…ジンさんが()()()に手を差し伸べてくれたから今のわたしがあるんです。その手を掴んだからわたしは今とても幸せで、もし彼がわたしに告白してくれなければわたしはいつまでも彼の妹であろうとして本当の気持ちを隠したままでいたでしょう」

 

「……」

 

「わたしは自分自身が満たされ幸せだと感じているからもっと幸せになりたいと思って、周りの人たちにも幸せになってもらいたいと働くことができました。自分が満たされずにいたらここまでできなかったと思います。『衣食足りて礼節を知る』ということわざがあります。人は生活が豊かになって初めて礼儀正しくなり節度をわきまえられるようになるという意味ですが、自分が経験した上で心に余裕がない状態ではどんなことであっても受け入れられないという意味にも思えるんです。自分が不幸だと思っている人が他人を幸福にはできない。自分が幸福であることを実感しているから他人の幸福にも気を配ることができるのだと。わたしは自分が幸せだと実感していますが、世界で一番大好きな真史叔父さんが満たされていないとなればわたしは満足できずにこれ以上の幸せは望めません。人によって幸せには違いがあると思いますが、少なくともこうして一緒に食事のできる相手がいて、その料理が美味しいものであれば幸せだと感じるはずです。だからわたしはあなたに結婚しろとは言いませんが、一緒に食事をすることのできる人が見付かってほしい。ボーダーの本部長という仕事にも余裕が出てきたんですから、忙しいことを理由に現実から目を背けることはしてはいけません。わたしを育てて幸せにしてくれたあなたにはわたし以上に幸せになってもらいたい。わたしの今の一番の願いはそれだけです」

 

忍田がツグミを養女に迎えたのは彼女が7歳の時だった。

彼自身がまだ24歳と若く独身であったために姉夫婦の娘をどう育ててよいのかまったくわからずにいて、ボーダーという組織も素人の自警団に毛が生えただけのものだったから「子育て」などほぼ不可能に近かった。

幸いなことに忍田の母、つまりツグミの母方の祖母が健在であったために世話の多くは彼女に任せてしまうことができた。

しかし姉夫婦の愛娘を預かると決めたのだから父親らしいことをしようと、忍田は彼なりに努力はしていた。

昔は城戸から「やんちゃ小僧」と称された彼もそのやんちゃぶりを封印して真面目な青年になり、ボーダーの任務や訓練などを済ませてしまうと実家にすぐ帰っておとなしく本を読んだり絵を描いているツグミの元へ駆けつけた。

何をすれば喜ぶのか、また何を望んでいるのかなどわからなかったが、一緒にいるだけでツグミが笑顔になるのでその一緒にいる時間を可能な限り作ろうとしていた。

当時のツグミは忍田に具体的に何かを求めることはなかった。

欲しいもの、やりたいことなどあるはずなのだが特に要求はしない。

だから忍田もどうしてやればいいのかわからなかったのだが、ツグミも遠慮をして何も言わなかったのではなく、自分のための時間を作って一緒にいてくれることが何よりも幸せに感じていたのだ。

それに自分がボーダーに入りたいという()()()()を言っても許してくれて、剣の稽古の時にも厳しいながら愛情を持って指導してくれるものだからそれ以上求めるものはなかったというのが事実である。

幼いながらにもツグミは「欲望とは限りないもので、今ある幸せを失わない程度に満足しておくべきだ」と考えていた。

両親が健在でふたりに惜しみなく愛情を注がれていた彼女にはその幸せが突然奪われたことが信じられずにいて心を閉ざしてしまった時期があった。

その時にずっとそばにいてくれたのが忍田で、父織羽の雰囲気を持ち、母美琴の面影のある彼を絶対的なものだと思うようになったのは幼い少女であれば無理もない。

自分だけを頼りにしてくれるツグミに対して忍田は織羽と美琴の忘れ形見だと思うとより一層愛おしくなり、真実を知る城戸や林藤が呆れるほどの親バカになってしまった。

そうなると忍田が周りの女性に目を向ける時間も必要性もなくなり、それが今に至ってしまったというわけだ。

ツグミは忍田が結婚を考えなかったのは自分のせいだと考えている部分もある。

もし彼女が()()の存在を望めば忍田も考えたかもしれない。

父親にはなれても母親にはなれないのは事実で、女の子のツグミが母親を欲しいと言えば忍田も自分の妻ではなくツグミの母親役の女性を探したかもしれないのだ。

しかしツグミは母親役の女性よりも父親である忍田さえいればいいと思っていた。

むしろ他の女性に忍田をとられたくないと考えていて、自分にできることは全部自分でやる、忍田に負担をかけないというポリシーで生きてきた。

その姿は周囲の人間から見ると「聞き分けが良く養父に面倒をかけない()()()子供」だったようだが、ツグミにしてみれば赤の他人が「忍田に子育ては無理だから然るべき人物に預けよう」と勝手に決めて離れ離れになりたくなかったというのが真実である。

そしてツグミは忍田の手によって現在のような人間に成長したわけだが、他人がどう思っていようがふたりにとって「最も幸福で充実した13年間」であったことは間違いない。

ツグミと忍田の関係は姪と叔父であり、娘と父親であり、ボーダーにおいては部下と上官であり戦友でもあった。

どちらが欠けても「今のふたり」は存在しなかったはずだ。

迅とは違う意味でのツグミにとってかけがえのない存在であり、忍田の存在と注いだ愛情が今の彼女を形作っているのである。

そんなふたりの間に別れの時が迫っているのだから、忍田にとって注いだ愛情の分だけ別れが辛くなってしまう。

同時に立派に成長した姿を見届けて送り出せることを誇りに思え、感慨無量になるのは無理もない。

両親を亡くしたばかりの幼いツグミの手を握って忍田家の敷居を跨ぎ、父親になる覚悟を決めた日が遠い昔のことなのに昨日のことのようにありありと思い出されてきた。

 

(あんなに小さかったツグミがこんなに立派なことを言うようになったとはな…。美琴姉さんが病院で生まれたばかりのこの子を抱かせてくれた時、こんな未来がくるなんて想像もしていなかった。本来なら今でも美琴姉さんと織羽義兄さんのふたりがこの子の親としてそばにいただろう。今のこの状況とはまったく違った未来。しかし現実には美琴姉さんたちはいなくて、ツグミは私の娘として育っていった。私が父親であったというわりには出来の良い立派な娘になったが、それはこの子が精一杯頑張ったおかげで私の力など大したことではない。でもそんなことを言えばこの子は私の言葉を否定するだろう。そばにいてくれたことが嬉しくて、愛情たっぷりに育ててくれたから今の自分があるのだと笑って言う姿が想像できる。この子は多くを望まず、人間にとって最も大切なものの存在を認識していてそれさえあれば十分だと考えているからな。私もこの子に教えられ、人間にとって何があれば人として幸せだとか満ち足りていると思える人生を送ることができるかわかった気がする)

 

忍田はツグミの作った料理を食べながら目頭が熱くなるのを感じていた。

 

 

 

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