ワールドトリガー ~ I will fight for you ~ 作:ルーチェ
「ピクニック」の翌日、玉狛支部の空気は朝からピリピリと張り詰めていた。
「今夜は
迅はツグミにそう言い残して玉狛支部を出て行った。
「全員」というのは文字通り全員であり、ツグミ以外の玉狛支部の隊員がすべて出払ってしまうという意味を持つ。
B級ランク戦・Round5夜の部で試合のある玉狛第2だけでなく、玉狛支部で待機任務のはずのレイジたち玉狛第1までもが本部詰めになっているのだから。
現在、玉狛支部に残っているのは戦闘員ではない陽太郎と捕虜のヒュース、そして現役を退いた林藤とツグミの4人だけ。
この非常事態が
そしてその戦いに自分の失態で参戦できないというのだから、彼女の落ち込みようは尋常ではなかった。
誰も彼女のことを責めはしないが、だからこそ責任感の強い彼女は自分で自分を責めてしまうのだ。
「ツグミ、みんながいなくてもおれとヒュースがいる。だからそんなかおをするな」
陽太郎がツグミの横にいて、俯いている彼女の顔を見ながら言う。
「ありがとう、ヨータロー。お子さまにそんな気遣いさせちゃダメね。…さて、今日は寒いから夜食には温かいものを作ろうかな。ヨータローは何が食べたい?」
「おれはみんなでなべをたべたいぞ。もちろんヒュースもいっしょにだ」
「お鍋か…。うん、いいんじゃない。でもそうなると足りない材料があって買い物に行かなきゃならないんだけど、わたしひとりじゃ持ち切れないし、ジンさんから絶対にひとりで外へ出るなって言われてるのよね…」
「それならおれがいっしょにいってやろう。…そうだ、ヒュースもつれていくか?」
「さすがにそれはダメでしょ。いちおうヒュースは捕虜ってことになってるんだから、本部の許可なく外出させたことがバレたら大問題になっちゃう」
「じゃあ、俺が一緒に行ってやろうか?」
「え? …あ、
ツグミと陽太郎の会話に割って入ったのは林藤であった。
「俺が車の運転係で、おまえたちが買い物係だ」
「それはありがたいですけど、ヨータローまで連れて行ったらヒュースひとりだけになっちゃいます。それはさすがにマズイんじゃ…」
「じゃ、陽太郎の代わりにヒュースを連れて行こう。何かあっても俺が責任を取る。それならいいだろ?」
「まあ、
ということで、少々ご機嫌斜めの陽太郎と雷神丸に留守番をしてもらい、ツグミたちは京介のバイト先のスーパーマーケットへと買い出しに出かけた。
◆
林藤の運転する車の後部座席に並んで座っているツグミとヒュース。
ヒュースは不機嫌な顔ではあるが、街の景色に興味があるのかずっと黙って車窓を見ている。
ツグミは反対側の車窓を眺めていたのだが、突然大きな声を出した。
「
「な、何なんだ!?」
林藤は車を歩道側に寄せて停車させた。
するとツグミはドアを開けて外へ飛び出し、歩道を歩いていた老婦人のもとへ駆け出した。
「武井さん!」
老婦人に呼びかけると、彼女はツグミの方を振り返った。
「あら、ツグミちゃん。こんにちは」
「こんにちは。…それからブルーノもこんにちは」
ツグミはしゃがんで武井の連れていたコーギー犬にも挨拶をした。
ブルーノはツグミに会えたことが嬉しいのか、仰向けになって脚をバタバタさせる。
「う~ん、ブルーノはいつもモフモフだよねー。よーしよし、撫でてやるぞー」
そう言ってブルーノの腹を思う存分モフり始めた。
「ツグミちゃんはこのコのことが大好きよね。このコもあなたのことが大好きだけど」
武井はツグミと飼い犬が嬉しそうに触れ合っている光景を微笑ましいといった顔で見守っている。
「ええ、わたしはブルーノのこと大好きです。だって可愛いんだもの~。…ああっ!」
ツグミは何かを思い出したかのように立ち上がり、林藤たちの乗っている車に向かって手を振りながら呼びかけた。
「ヒュース、ちょっとこっちに来なさーい! あなたの大好きなワンコがいるわよー!」
すると林藤は十数メートル車をバックさせてツグミのいる場所まで来ると、ヒュースが窓から顔だけ出した。
「ほら、可愛いでしょ?」
ブルーノの前足を抱えて、ヒュースの顔の前にブルーノの腹を突きつけるツグミ。
「あ、ああ…」
ヒュースも犬好きの血が騒いだらしく、手を伸ばしてブルーノの腹を撫でる。
「フカフカ…だ」
ブルーノの感触が気に入ったらしいヒュースをツグミが外へ出るよう促す。
「ブルーノは人見知りをしないコだから、外に出てモフってみなさいよ。…武井さん、いいですよね?」
「もちろんよ。彼はあなたのお友達? 外人さんみたいね」
「はい。彼は留学生で、近所に住んでいるんです」
口からでまかせを言うツグミ。
「遠くから来ていて大変ねえ。日本での生活には慣れた? …さあ、あなたもこのコを抱っこしてあげてちょうだい」
武井にも促され、ヒュースは車から降りるとツグミの抱いているブルーノを受け取った。
「…可愛い」
これまで車窓の景色を冷めた目で見ていたヒュースの瞳に生気のようなものが宿り、ブルーノを抱きしめて頬ずりをする。
「あらあら、あなたもワンちゃんが好きなのね」
「はい。…あ、おい、やめろ!」
ブルーノに顔をペロペロ舐められ、ヒュースは慌てた。
パーカーのフードが外れそうになってしまったからだ。
フードを取れば角が見えてしまい大騒ぎになってしまう。
ヒュースはブルーノをツグミに渡し、フードを被り直した。
そしてツグミはブルーノを地面に置いてリードを武井に返す。
「ありがとうございました」
「いいえ、このコもいろんな人に遊んでもらうのが好きだから。いつでも私の家にいらっしゃい。そこのお友達と一緒に」
「はい、ぜひお伺いさせていただきます。…じゃ、バイバイ、ブルーノ」
「ワン!」
ブルーノに手を振って、ツグミは車に戻る。
ヒュースも名残惜しげに手を振るとツグミの隣に腰掛けた。
「武井さんはこの近くに住んでいて、この冬の時期は暖かいお昼過ぎの今頃にブルーノを連れてお散歩しているの。しばらく前に旦那さんを亡くしてひとり暮らしだったんだけど、2年前に知り合いの人から仔犬だったブルーノを譲ってもらって、今は
「ふ~ん…」
「ワンコには興味があっても、その飼い主や環境には興味なさそうね?」
「当然だ。
「そんなことはないわよ。ブルーノはウェルシュ・コーギー・ペンブロークという種類の犬で、元は牧畜犬だったんだけど見た目がものすごく可愛いからこの国では愛玩犬として飼われているの。本来は警戒心が強い犬らしいんだけど、あのコはフレンドリー過ぎて番犬にならないって武井さんが苦笑していたわ。ちなみにブルーノというのはこちら側の世界にあるイタリアって国の言葉で『茶色』という意味よ。見たまんまね」
「そうなのか…」
ヒュースはブルーノの抱き心地を反芻するかのように手を動かしながらツグミの話を聞いている。
「玉狛支部の周りには犬を飼っている家がけっこうあって、朝とか夕方には河川敷を散歩している飼い主とワンコがいるの。あなたは知らないだろうけど。耳と尻尾がピーンと立ってる凛々しいコもいれば、綿毛の塊みたいなフワフワのちっちゃいコもいる。ここら辺のワンコはみんなモフらせてくれるのよー。ワンコって主人に忠実だけど、他所の人でも信頼できるってわかれば案外懐いてくれる。ここにいる角の生えたワンコはどうかなー?」
ツグミはそう言って、ヒュースの頭をフード越しに撫でる。
「ふん」
ヒュースはそう言ってそっぽを向いた。
(以前なら『オレに触れるな!』って怒って、『オレを犬扱いするな!』とか『オレは主にしか忠誠を誓わない』とか言っただろうけど、ずいぶんとわたしたちに懐いてくれたわよね…)
ツグミはそう感じていたが、そのことを言うと本人が機嫌を損ねるだろうと思って何も言わないでおいた。
◆
「…!?」
生まれて初めてスーパーマーケットの店内を見たヒュースは言葉を失った。
なにしろ入った瞬間、目の前には色鮮やかな野菜が山と積まれていたのだから。
さらに新鮮な魚介類や長期保存の利く加工食品などのアフトクラトルでは存在しない食品を目にし、彼はカルチャーショックを受けているようだ。
その様子が面白くてツグミは彼をいろいろな売り場に連れて行く。
中でも一番衝撃を受けたのがペットコーナーで、ヒュースはカラフルなドックフードの袋をまじまじと見比べながら言った。
「
「ワンコって一口で言ってもいろいろな種類がいるし、年齢や好みで食べるものも違ってくるからね」
「ドライフード、ソフトドライフード、セミモイストフード、ウェットフード…水分の含有量だけで4種。さらに総合栄養食、おやつ、栄養補助食品。幼犬から成犬、高齢犬といった年齢によって栄養バランスの整った餌を与えるという。
「ワンコは飼い主にとって家族同様だもの。いつまでも健康でいてほしいから、犬種に応じた適切な餌を与えるのよ。たとえばブルーノのようなコーギー犬は牧畜犬として牛や羊を追いかけ回していた犬だから活発で運動好きだという特徴があるんだけど、胴長短足だから腰回りと足の骨や関節が弱い犬種なの。さらにコーギーは食べ物に対する執着が強くて食欲が旺盛だから太りやすい。そういうことで毎日の運動が欠かせない犬種であり、ドッグフードも種類や与える量に注意が必要なのよ。そこで『太りにくく、骨や関節を丈夫にする』餌を与えるようにする。肥満は寿命を縮めることに繋がるから、武井さんは雨の日でもブルーノの散歩は欠かさないわ。家族を失う辛さや哀しみはあなたにもわかるでしょ?」
「ああ…」
「でもね、ドックフードの種類で驚いてちゃダメよ。ニャンコの方がもっと多くて充実してるんだから」
その言葉にヒュースが大きく反応した。
「何だと!? 猫ごときが犬よりも手厚く扱われているというのか!?」
「はあ? 猫ごとき、とは何よ! わたしはモフモフしているものは何でも好きだけど、ニャンコが一番好きなの。それにこちら側の人間はニャンコ好きが多いんだから。次にニャンコを愚弄するような発言をしたら痛い目に遭うから覚えておきなさい」
ボーダー隊員で猫好きは多いが、その中でもツグミの猫好きは群を抜いている。
そんな彼女の前で猫を貶したり否定すればタダでは済まないのは当然で、今回ヒュースが
もちろん「次に同じ事をすれば何らかの措置をとる」わけで、ヒュースも彼女のただならぬ雰囲気を感じたらしく、リードを付けられた犬のようにおとなしくなった。
「さあ、社会科見学はこれでおしまい。次はヨータローに頼まれたお菓子を探しにお菓子コーナーに行くから。あなたも食べたいものがあったらカゴに入れてもいいから、わたしの代わりにカートを押してちょうだい」
「オレに命令するな」
ヒュースはそう言うものの、ショッピングカートを押しながらツグミの後を付いて行く。
「あ、欲しいものがたくさんあってもひとつだけよ。一日一個まで。ヨータローともそういう約束になってるから」
そんなふたりの様子をそばで見ていた林藤はずっと笑いを堪えていたが、ツグミとヒュースが商品棚の角を曲がったところでとうとう失笑してしまった。
「クククッ…ヒュースの奴、陽太郎にはしっかり仕込まれ、ツグミには餌付されてすっかり飼い馴らされてるってカンジだな。案外、玉狛のヤツラと上手くやってけそうなんだが、こればかりは本人の意思に任せるしかねぇ。俺としては…もう少しこの愉快な連中との日々を過ごしてもらいたいもんだがな」
林藤の願いが叶うかどうかが決まるのは数時間後なのだが、結果は迅ですらまだわからずにいた。
彼の