「うぅ……ここは……」
黒に反転していた意識が、やけに近くから聞こえる潮騒でゆっくりと引き戻される。記憶も曖昧で今何が起きているのか。アドルがそれを把握したのは、遠くから人の声が聞こえてくるの同時だった。
「おい、君! 大丈夫か!?」
借りた小舟が嵐に巻き込まれ、それから程なくして難破したことを何とか思い出すと、立ち上がろうと身体を引き摺るアドルを名も知らぬ青年が支える。低体温で唇が紫色に染まり虚ろな目で全身を震わせるアドルを見て、青年は酷く焦った様子だ。呼びかけられる声にアドルは何か言葉を返そうとするが、上手く動かない口では掠れた音が漏れるだけだった。
「君! しっかりしろ!」
一度浮上した意識が再び沈み始める。絶体絶命な状況ではあったが、人の温もりに安堵したアドルはそのまま意識を手放してしまった。
「ぅ、あ……っ?」
痛みに喘ぐ自分の呻き声でアドルは目を覚ます。続け様に気絶してしまった影響か、その意識は非常に不安定だ。鈍器で殴りつけられるように痛む頭のせいで思考もままならない。一先ず、気を失う前に見た人影を頼りに、アドルは渇きすぎて呼吸するだけでも痛む喉で誰かを呼ぼうとした。
「あら、もう目が覚めたの?」
声を出そうとしたその時、床に臥せるアドルに声をかける影が一つ。今まで眠っていたアドルが起きていることに気が付いた青髪の女性は、人を安心させる明るい声と共にアドルの側へと歩み寄った。
「あー、まだ起き上がらなくて大丈夫。まずは水を飲みましょうね」
上手く言葉を発せず起き上がろうとするアドルを、清潔な衣服で身を包んだ女性が慌てて制する。嵐に巻き込まれて漂着したアドルは、言うまでもなく満身創痍だ。まだ動けないことを知る彼女は、医者の助手として彼の無茶を見過ごすことはしない。代わりに、飲み込んだ海水で荒れるアドルの喉を潤すため、小さな水差しから横になっている彼の口へゆっくりと水を注ぎ込んだ。
「はぁ……ありがとう、ございます」
「いえいえ。それじゃあ私は先生にあなたが目覚めたことを知らせて来るから」
ようやく吐けた一息に、アドルは看護師にお礼の言葉を紡ぐ。まだ違和感は残るようだが、軽く話す程度なら支障はなさそうだ。大人しくしているように、という視線を置き土産に部屋を出ていく女性を見送って、アドルはもう一度ベッドに深く身体を預けた。
「ふぅ……」
全身が痛みを訴えてくる以上、流石のアドルも大人しくする他ない。疼く身体を大きな溜め息で誤魔化して、アドルは一先ず何が起きたのかを思い返すことにした。
長い旅路を経てプロマロックに辿り着いたアドルは、あれから即座に港へと向かうことになる。すぐに定期船が立ち寄る区画に到着した彼はエステリア行きの船を探すが、事前情報通りそんな物は存在するはずもない。
「嵐の、結界……」
当然、その程度の障害でアドルが諦めるわけがなく、彼は根気よく広い港で情報収集を続けていった。そこで口々に聞かされたのは、"嵐の結界"と呼ばれる未曾有の災害がエステリアへの渡航を不可能にしているという事実。それはアドルも遭遇した、彼が荒波に飲み込まれてしまった原因そのものだ。
あまりに話を聞く人たちに無理だと否定されて、ムキになって買い取った小舟で飛び出した自分の無謀さを、アドルは遅ればせながら苦笑する。無茶をしたなと思う程度で済む辺りは、流石
「聞いておけばよかったな」
一通り思い出したところで、アドルは呟く言葉と共に再び部屋の出入口へと顔を向ける。難破した末に辿り着いたここが何処であるのか。暇を持て余すアドルは先程やってきた女性に、それを尋ね損ねたことを今更ながら後悔した。
今までエステリア渡航を試みた貿易船や、嵐の結界で沈没した船の乗組員を助けに行った救助船。その他含む多くの船が嵐の結界を突破しようと奮戦し、そのどれもが目標叶わず散っていった。つまり、アドルが生きているということは、先人たちが不可能だったことを達成した可能性もあるのだ。冒険に生きると誓って村を出てきたアドルが、これに喜びを覚えなければ嘘だろう。
「とりあえず、今は寝よう……」
しかし、安静にしておけと言われた以上、その道のプロの言うことに反抗するつもりはアドルにない。久しぶりに味わう柔らかなベッドに身を預けて、彼は一眠り就くことに決めたようだ。興奮で落ち着かない頭とは裏腹に、疲労を強く訴える身体はすぐにその闇に飲み込まれていった。
「ふむ、経過も良好。アドル君は頑丈なんじゃなぁ」
翌朝、ぐっすりと眠ることが出来たアドルは怪我の具合の把握のために診察を受けることとなる。アドルが保護されたバルバドの港町。そこにある唯一の診療所の医師である歳を召した男──ブルドーは、荒波の中漂着した翌朝にはもう問題なく動けるようになっているアドルを見て感嘆の声を上げた。漂流物に幾度となくぶつかってできたであろう痣は見受けられど、自分の脚でしっかりと動き回るアドルの回復力は確かに驚異的かもしれない。尤も、怪我が残っている以上痛みも当然残っているのではあるが。
一方ブルドーの言葉に、アドルは子供の頃に村で遊んでいた時も同じようなことを言われたことを思い出していた。山の中を友達と駆けずり回ったり父との鍛錬に精を出したりしたことは、確実にアドルの血肉となっていたようだ。
「今日一日は安静にしていれば、明日には退院できるじゃろ。随分無茶をしたようじゃが、大人しくしとくんじゃぞ?」
「はい、分かりました」
そうやんちゃなアドルに釘を刺して、ブルドーは部屋を後にしていく。流石のアドルも青痣と包帯だらけの身体のまま冒険に出かけるような真似はしない。アドルを担当していた看護師──アイラに
病院着と乾かしてもらった身軽な冒険着を見比べてから、アドルは一度大きく溜め息を吐いた。
「アドル君、具合は大丈夫かい?」
「スラフさん。うん、おかげで動けるぐらいには回復したよ」
「それは良かった」
手持無沙汰でもう一度ベッドに戻ろうとしたアドルであったが、そんな彼に話しかける人間が一人。勝手知ったる診療所を歩いて病人室に入ってきたのは、漂着していたアドルを見つけて此処まで運んでくれた茶髪の青年だった。名をスラフといい、バルバドの自警団のリーダーをしているブルドーの血族である男だ。彼は人好きする快活な笑顔を浮かべて、開口一番にアドルの身体を心配する言葉を紡ぐ。診療所に運ばれてきた当初の容態を知るスラフとしては当然の心配でもある。アドルもその言葉に笑ってお礼を言いながら対応した。
「親父から聞いたよ。明日には退院するんだって?」
「怪我の具合を見てから考えるけど……うん、多分そうすると思う」
ベッドに腰掛けるアドルと視線の高さを合わせるように、スラフは近くにあった簡易な作りの椅子に腰を下ろす。そうして繰り広げられるのは先も明らかになった事実の確認だ。冒険に来たアドルにとって、必要以上に診療所に留まる理由はない。
「そっか。外での話も聞いてみたかったんだけど……引き留めるのも悪いか」
「ごめん」
エステリアから出たことのないスラフにとって、本土での話は非常に興味を惹くものだろう。それでも、アドルがエステリアに冒険のために訪れたことを知る彼は、アドルを引き留めるような真似はしない。
「ここを出たらミネアに?」
「そうだね。一先ずはそこに行くことになるかな」
二人で窓の外に映る遠くの市壁を見遣りながら、アドルの旅路について話していく。城塞都市ミネア。エステリア最大の都市であるそこであるならば、情報収集には適しているだろう。アドルとしても当面はミネアを活動拠点にするつもりだ。
「そうだアドル君。君に会って欲しい人がいるんだった」
「会って欲しい人?」
そんな折、何かを思い出したスラフはアドルに向き直って言葉を綴る。予想していなかった彼の言葉に、アドルは鸚鵡返ししながら疑問の声を上げた。初めて訪れる土地に知り合いがいるはずもない。そんなことを考えながら、彼は答えに皆目見当もつかずにぐるぐると頭を悩ませるのであった。
「ミネアではそれなりに有名人なんだ。まぁ、期待して待っていてくれ」
「はぁ……分かった」
続く勿体ぶったスラフの発言に、アドルは切れの悪い返事をする。それと同時に、有名人と言われてもピンとこない以上、考えても答えは出ないという結論に達したようだ。にこにこと笑うスラフにアドルは苦笑を返した。
「お昼頃に診療所に顔を出すって言ってたから、失礼のないようにね」
「あー……うん、気を付けるよ」
あくまで正体を明かすつもりはないらしい。スラフの僅かな悪戯じみた気配を感じ取って、アドルはとりあえず言われたことに気を付けることにした。
日が昇り切るまであと数刻。運命の邂逅はすぐそこに迫っていた。
折角なので、今回は過程で色々遊んでみようかなと思います。