「これでよし……」
レアとの話し合いの翌朝。アドルは約二日間世話になったベッドの傍らで出発の準備を済ませていく。用途の関係で留め具が多い冒険着も手早く着込んでいく様は、旅の過程で手慣れていったことを容易に窺わせた。少なくとも、村を出てすぐの頃と比べればその違いは一目瞭然だ。丈夫な作りのロングブーツとグローブもあっという間に装着して、一分と少しという短い時間で身支度を終えた。
「おはようアドル君。調子はどうかの?」
「おはようございます」
そのタイミングを見計らったように、準備が完了したアドルがいる部屋にブルドーが入ってくる。加齢によって皺枯れてしまった声にアドルが振り返ると、そこには彼にとって非常に見覚えのある荷物を抱えているブルドーの姿を見ることができた。思わぬ物を目撃して、アドルは驚き固まってしまう。
「ブルドーさん、これは?」
「昨日までの間にスラフたちが回収してくれた物じゃよ」
間違いなく自分の物に見える荷物を視線で示しながら、アドルは目を白黒させてブルドーに問う。そうして返ってくるのは、バルバドの自警団がアドルの荷物を回収してくれたという事実。アドルもスラフとの世間話で聞いていたことではあるが、彼らは嵐の度に漂着物を探しに町外れの浜辺まで捜索隊を出しているのだ。アドルがエステリアに流されてすぐに発見された理由もこれに尽きる。
嵐の結界で孤立を余儀なくされている今、流れ着く難破した船の荷物がエステリアの生命線だ。ミネア、もといエステリアは貿易によって成り立っている国である。その手段が断たれて物資の補給も追いつかない以上、火事場泥棒のような行いに胸を痛めつつも、エステリアの人々は生きるためにはそうする他ない。何にせよ、そういった慣習によってアドルは色々と救われたのであった。
「一応中身を確認しておいた方がいいじゃろう」
「ありがとうございます」
あれだけの荒波に揉まれた以上、流石に総てが無事とは言えないだろう。しかし、一と零とではまるで前提が違うのもまた事実。旅は如何に事前準備がものを言うかを身を以て理解しているアドルは、笑顔と共にお礼を述べてブルドーから荷物を受け取った。
持ち歩く性質上そう多くはない荷物──乾いてはいるがほんのり磯の香りが漂っている──をアドルが確認すると、主要な物は無事だったようだ。冒険手帳や道中で稼いできた路銀が入った革袋の存在を見て、アドルは一先ずホッと安堵の息を吐いた。
「それと、これはスラフからじゃな」
アドルの歳相応な笑顔を見て微笑むブルドーは、思い出したかのように手にしていた鞘に収まっているロングソードを彼に手渡す。アドルも同じ武器を好んで使う機会が多い。しかし、それはアドルが此処へ流れ着く前に帯剣していた物とは大きく意匠が異なっていた。
「いいんですか?」
「エステリアのために立ち上がってくれた若者への選別じゃと。お礼は息子に言っておいてくれ」
ブルドーの言う通り、これは自警団からアドルへの贈り物だ。紛失したアドルの長剣の代わりを務めるそれは、本来関係ないにもかかわらず、異変解決のために命を賭けてくれるアドルへの感謝の気持ちでもある。ずしりとした剣の重さに、アドルは彼らの期待を感じ取ったような気がした。
「旅の無事を祈っているよ、アドル君」
「はい、行ってきます」
その重さをしっかりと噛みしめてから、アドルは腰にその剣を装着する。それから、向けられる身を案ずる言葉に真っ直ぐ向き合って、彼はエステリア南端の街を発つのであった。
「近くで見てみると余計に大きく感じるなぁ……」
場所は変わってミネアの南門。近付くに連れて視界の上が外れていく、人の高さは優に超える10メライ級の壁を前にして、アドルは思わず感嘆の声を上げる。首が痛くなるほどに見上げなければ端が見えない巨大な壁は、果たして何から街を守っているのか。そんな思考を浮かべながら、アドルは開いたままの門へと向けて歩みを再開した。
「アドル君、傷の方は大丈夫?」
「レアさん」
特に問題も起きずにミネア入りを果たしたアドルに、気安い雰囲気で話しかける影が一つ。アドルが声の方へ視線を向けると、そこには昨日より身軽な衣装に身を包むレアの姿があった。微笑みを浮かべながら近づいてくる彼女に、アドルも笑みを返して距離を詰めていく。
「一日休んだからもう大丈夫」
「それは頼もしい。若いっていいわね」
「レアさんも十分若いと思うけど」
「ふふ、そうかしら?」
予定通りの合流を経て、二人はレアの先導で何処かへ移動を開始した。談笑を行いながらも淀みなく複雑なルートを歩く姿は、既に明確な目的地が定まっているようにも見える。そうして建物の影で薄暗い道を進んでいくと、何やら他の石造りの住居とは趣が異なる建物が見えてきた。一階造りのそう広くはない、分厚いカーテンを用いて外界と遮断しているような雰囲気のそれに、アドルは何となくそこがレアの案内する場所であると直感する。その勘は当たっていたようで、レアはノックをすることもなくその不思議な様相の建物の扉を徐に開け放った。
「サラ、例の赤毛の剣士君を連れて来たわよ」
先程の路地よりも更に暗い室内。外の光を断っているにもかかわらず明かりもついていないその部屋に、レアの明朗な声が木霊する。その誰かを呼ぶような声色は、明らかに狭い家の中で発するには適していない大きさに思えた。ひょっとして、サラと呼ばれた暫定家主は寝ているのだろうかとアドルは疑問符を浮かべるが、その新鮮な疑問はすぐに解消されることとなる。
「わっ、床下が……もしかして隠し部屋?」
「そうよ、面白いでしょ?」
入口の目の前に鎮座する、色の深いクロスが敷かれたテーブルとその上に置かれた──アドルは初めて見る──占いに用いるような大きな水晶玉。その辺りからゴトリと底に響くような音が鳴る。アドルが音の発生源に目を遣れば、そこには何者かの手によって木製の床板が取り外される光景が映っていた。その男心を擽る仕掛けに、アドルは目を輝かせてレアと床との間に視線を行き来させ、レアはそんなアドルに悪戯が成功したような笑顔を浮かべる。そうしている内に現れたのは、長い流れるような茶髪をたなびかせる妙齢の女性であった。
「レア様、お手数をおかけしました」
「いいのよ。たまには動かないと責任者の名が廃っちゃうもの」
いきなり床下から現れた女性の恭しい礼。そして、それに何ともないように応対するレア。予想していなかった遣り取りに、アドルはレアの方へと疑問を孕んだ視線を向ける。あくまで詩人としか聞かされていないアドルにとって、責任者という言葉はあまりに藪から棒だ。
「えっと……?」
「レア様、ひょっとしてまだご説明は……?」
「えぇ、詳しい話は皆も交えてすることにしてたから」
戸惑うアドルを見て、茶髪の女性──サラは思い当たった推測をレアへと投げかける。その少々不安そうな視線に対して、レアはあっけらかんとした態度でサラへと答えを投げ返した。アドルが思いの外即決したために、説明を後回しにしたことはサラに届かなかったようだ。尤も、届いたところで特に何かあるわけでもないが。
「では改めて」
楽しそうに笑うレアが一転して、再びアドルへと顔を向ける。相変わらず状況に追い付けていないアドルであったが、何かを説明してくれそうな気配を感じ、ほんの少し曲がっていた背筋をピンと伸ばして彼女へと向き直った。
「私はレア。ミネアのレジスタンスのリーダーをやっているわ」
以後よろしくね、と語尾に人懐っこさを付与させて、レアは自分が隠していた身分を明らかにする。果たしてエステリアに来て何度目の驚きか。アドルはその自己紹介に目を剥くのであった。
「申し訳ありません、見ての通り茶目っ気の多い方で……」
「あぁ、えっと、うん。大丈夫、気にしてないから」
種明かしも終えてすぐのこと。三人は揃ってサラの仕事場の地下にある隠し部屋へと降りる途中だ。明かりを持って先導するサラの謝意が込められた言葉に、アドルは気にしていないと返す。若干返しに戸惑った辺り、それがストレートな言葉ではないことは結構明白であったが。
「私はサラ=トバ。普段は占い師をやっていますが、今はこうしてレジスタンスの皆様の手伝いをやらせていただいています」
この隠し部屋もその手伝いの一つであると言いながら、サラは自分たちの説明をアドルに重ねていく。曰く、街の北にある鉱山──今は廃坑と化している──から現れた狂暴な魔物の群れに対抗して、ミネアの鉱夫たちを中心に組織されたのがレジスタンスなのだという。最終目的は魔物の討滅、ひいてはエステリアの解放だ。
「サラさん、魔物って言うのは?」
「邪悪な力に支配されて狂暴化した獣や、邪悪な力そのもので肉体を形成する生物のことよ」
聞き慣れない言葉にアドルが問いを投げると、二人の会話に差し込むようにレアが答えを述べる。聞けば、完全に理性を失くし、見境なく人や野生動物を襲う危険な存在が魔物というものらしい。それが何の前触れもなく廃坑の奥から湧き出てきて、エステリアの人々を脅かすようになったとのことだ。言うなれば、決して自然発生し得ないこの世ならざる生物。知らなければ想像することもできないような怪物の存在に、アドルもごくりと息を呑んだ。これから自分が相手しなければならないのはそういうものであると理解して。
「……正直な所、アドルさんにこうも積極的に協力していただけるとは思っていませんでした」
「そういうことは占いでは見れなかった?」
アドルが密やかに覚悟を固めることで話が途切れ、暫し沈黙が生まれる。ブーツが石造りの床を叩く音だけが閉鎖空間に反響する中、徐にサラは重々しく口を開いた。エステリアの一件に関して悲観的な視点を持つ──それでも決して諦めているということではない──彼女が語るのは、自分が見据えていたものとは現状が異なっているということだ。対するアドルは、自分が五体満足で漂着することも占いで見えていたサラが、同じ手段を用いて未来を知ることはできなかったのかという問いを返す。自分の未来を言い当てられた彼からすれば至極当然である問いに、サラは即座に首を振ることでそれを否定した。そこに込められていたのは、彼女の苦々しい思いでもある。
「普段のことであれば容易に見えていたと思います。しかし、此度の騒動に関しては私の見通す力では上手く見ることができないようで……」
俯くサラが言うには、今回の一件は誰かのちょっとした行動によって変わる未来が幾重もの可能性を見せているらしい。あまりに多すぎる不確定な未来の中から確定した一を見抜くには、彼女が持つ神がかりとも言える
ちなみに彼女は語っていないが、アドルがエステリアに辿り着くことだけは、その中でもやけにハッキリと見えていたらしい。冒険馬鹿の一途な心を舐めてはいけないようだ。
「私たちはアドルさんにエステリアの未来を見ています。でも、それと同時に不安でもあるのです」
「不安?」
「はい」
先導していたサラが見えてきた扉の前で立ち止まり、アドルの方へと向き直る。その
「既に皆さんにも話していますが、アドルさんはようやく見えた平和への道の先導者。慣れない戦いで疲弊してしまった私たちにとって希望そのものです」
「サラの占いはよく当たるし、そのことは街の誰もが知ってる。だから、そのサラの占いでアドル君が災厄を退けると出た以上、街の人たちは否が応にもあなたに期待してしまうの」
「その重圧が……アドルさんに無駄な責任を負わせてしまうような気がして……」
追いついたレアもサラの隣に並び立ち、四つの蒼がアドルに集中する。はち切れそうなほどに緊張の糸が張り詰める空間で、最後の問答が始まった。引き返すのであれば、此処が最後であると言わんばかりに。
彼女たちの名誉のために記しておくが、二人も初めはアドルの占いのことを広めるつもりはなかったのだ。寧ろ、事の重さを予見して二人だけが知る内容に留めようとしていたのだが、居合わせていたレジスタンスの誰かが二人も気付かぬ内に話を聞いてしまい、それを仲間に話してしまった。降って湧いた希望は瞬く間にミネア中に広がって、二人がそのことに気がついた頃にはもう収拾不可能な状況に陥っていた。故に、当初の予定は廃してアドルをレジスタンスに手厚く迎え入れる方向へとシフトしたのだが、いざそれを目の前にして二人は尻込みしている。本当にこれが正しいことだったのかと。まだ子供らしさを残す少年に背負わせてもいい運命であるのかと。
不安を見せないように敢えて振る舞っていた明るさも、此処に来て完全に沈黙してしまった。レアが同意を得ていたとはいえ説明を怠っていたのも、言えばアドルが逃げてしまうのではないかという不安があってのことだ。誤魔化すための茶目っ気は、罪悪感を隠すための卑怯な演技である。その事実も、二人の罪悪感に拍車をかけていた。
「二人とも顔を上げて」
そんな二人にアドルは優しく声をかける。知らず知らずの内に俯いてしまっていた女性を元気付けるように。
「僕は逃げないよ。僕が頑張ることで良くなる未来があるなら、なおさらね」
火のついた冒険心は満たされるまで止まることはない。立ちはだかる高い壁も乗り越えるものと認識して生きてきた。山は高ければ高いほど、挑む困難は難しければ難しいほど燃え上がるのがアドルである。だがそれ以上に、アドルは目の前で困っている人を見捨てることができないのだ。長い間狭い集落の中でお互いに助け合って生きてきた彼は、
「それに、夢にまで見た冒険が目の前にあるんだ。これを逃す手はないよ」
「ぷふっ」
最後は仕返しとばかりに茶目っ気たっぷりに、アドルはしたこともないウィンクをしながら言葉を締める。ぎこちないそれを見て、まずはレアが堪え切れずに笑い出した。
「そうね、昨日あんなに熱く語っていたものね」
「そういうこと」
励ましの意を込めてあったのも事実ではあるが、あまりに純粋なアドルの姿を見て、レアはいつもの調子を取り戻す。立ち込めていた心の暗雲もすっかり取り払われて浮かべる笑顔は、誤魔化すことで生まれる固さは見受けられなかった。それを見たアドルは腰に手を当ててもう一度にっこりと笑う。
「……ありがとうございます、アドルさん」
笑う二人に釣られて微笑むサラは口から零れかけた謝罪を飲み下して、代わりにお礼の言葉を口にする。未だ不透明な未来に不安はあれど、斯様に真っすぐなアドルならきっと何かを変えてくれると信じて。まだ見ぬ剣の腕はともかく、彼の心の強さは疑いようもないのだから。
「それでは、一度皆さんと顔合わせしましょうか」
「ようこそ、レジスタンスへ」
そう言いながら、二人は両開きの重厚な扉を開く。その腹に響く重たい音は、アドルを運命へと招き入れる福音となるか。複雑に因果が絡み合う未来は、まだ誰にも見通せない。
本編で絡みがなかった人たち。参入タイミングが入れ違いだったからね。