虹ヶ咲短編集 日常の切れっ端   作:キルメド

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突如として関東を襲った台風の北上と停滞により、しずくは家に帰れなくなってしまう。次にどう動こうかを思考していると、小さな少女に誘われる。
そこで彼女が見せる新たな表情にしずくは翻弄されてしまう。

しずくにしか見せない一面、しかしそれもまた彼女からすればなんて事ない日常の切れっ端


「物語に夢中」ってその顔が見たくて

「どうしよう……どうすればいいんだろう?」

 学園の下駄箱でしずくは1人立ち往生していた。季節は夏真っ盛り。今日はそれを象徴する日と言えるだろう。日本の夏は湿気が多く、ジメジメしており汗をかきやすい。

「暴風域内で関東のほとんどで暴風警報」

 そして日本の夏といえば台風である。初夏から秋口にかけて気まぐれにこの国にぶつかり強烈な雨風をもたらす。

「まさかこんなに速度で北上して停滞するなんて〜」

 今日の台風は極めて性格が悪い。朝にはちゃんと天気予報を見ていたが予報よりも遥かに速く上陸した台風を相手に公共の交通機関の殆どが停止する。

「どうしよう。お父さんとお母さんに連絡しようかな。でもこんな中を車で来てもらうのも難しいし」

 下駄箱から傘を差して出ることも叶わないほどの暴風雨。午後になってからは今日一日の電車が停止するという情報が届いたがもう遅い。

「しずくちゃん、どうしたの?」

「あ、璃奈さん。少しだけ考え事をしてたんだ」

 背後から声をかけられた。その声の主である小さな同級生に事情を説明する。電車通学をしているしずくにとってこの台風は致命的な事を璃奈は知る。

「それじゃ今日は帰れないの?お泊まりの予定とかは?」

「一応学生寮の方に、それが無理でもこの近くには歩夢さんや先輩が住んでいますし」

「学生寮はやめといた方がいいよ。主に果林さんが嫌がるから」

 エマから時折聞かされる寮の自室内での果林のだらしない話、おそらくそれを見られたくないのだろう。何事にもパーソナルな事は必要だと璃奈は納得している。

「じゃあやっぱり歩夢さんか先輩の家かな。この下駄箱で出待ちしておけば」

「その二人、一緒に帰ってるの見たよ」

「あぁ、そうなんですか。なんか声掛けにくいなぁ」

 スクスタと歩夢は幼馴染で付き合いが長い。二人の家も近く一緒に帰っているところは度々見かける。

「なんで?」

「なんでだろ?でも2人で帰っちゃったって思うとね」

 璃奈が持つボードが困惑の表情に変わるが、その複雑な乙女の心理を断片的にだが理解する。そうなると璃奈に残された手は一つだった。

「じゃあウチに来る?」

「え?璃奈さんの家に?いいの?」

「うん。ここで会ったのも何かの縁だし、家族とも話したらいけると思う」

 思わぬ助け舟にしずくが喜んでいる事が目に見えてわかる。中々自分の方から泊まらせてくれと切り出すというのは難しいものだろう。璃奈にはそれがよく分かる。

「じゃあ行くよ。案内するね」

 上履きから外靴に履き替えた璃奈が横に立つ。しかしその手にあるのは通学カバンだけ、本来なら持っているはずのものがない。

「あの〜璃奈さん?傘持ってないの?」

「持ってるけど折りたたみ。それにほら傘差した2人が横に並んで歩くのは危ないし」

「一列になればいいんじゃ?」

「でも一列に並ぶとしたら私が案内するから前に出るでしょ?そしたら後ろにいるしずくちゃんが私の傘から跳ねた雨で濡れちゃうし」

 そういった理由があって璃奈はしずくの隣から離れなかった。

「だからしずくちゃんの中に入れてもらうのがいいかなって」

「確かにそうかも。じゃあ私ので、よいしょ」

 しずくの黒い傘がパサリと音を立てて開くと璃奈がピタリと引っ付く。これで濡れることはないだろう。

「それじゃあ出発進行!」

「はい!出発進行!」

 意気揚々と璃奈ちゃんボードがにっこりんと笑い揺れると、2人は同時に一歩目を踏み出した。

 

「あそこを道渡って右ね。そこを進んだら見えてくるから」

 しずくにくっ付きながらナビゲーションを続ける璃奈。家まではあと数百mになった。

「しずくちゃん、あそこ!」

「あ、あそこですね。後はこの道を渡れば」

 いよいよ天王寺の表札が見えた。少し大きめの道路だが周辺に横断歩道はない。車が通らない隙を見計らって渡るしかないようだ。

「右見て」

「左見て」

 左右の確認を分担して行い、少し早足に道を渡る。歩幅の違いはここにたどり着くまでの間にある程度の感覚は掴んでいる。

「はい、到着」

 何事もなく道を渡って璃奈が門に手をかけた。少し腕を捻り門を押し開こうとしたその時だった。

「璃奈さん危ない!」

 咄嗟にしずくが璃奈を持ち上げる。そのまま開いた門の内側に入り込む。背後で大きな水しぶきの音が聞こえた。

「車通ってたんだ!」

 おそらくコンクリートの僅かな凹みでできた水たまりの雨水が跳ねたのだろう。それに気付いたしずくが璃奈を持ち上げて水たまりから離れたのだろう。

「しずくちゃん大丈夫?」

「うん。けどスカートがちょっと濡れちゃったかも」

 開けっ放しになった門を閉め、玄関のドアの前で傘を閉じた。雨足は少しも弱まることはなく降り注いでいる。

「あー、確かに。ちょっとお尻にくっ付いたりとかして」

「うわあ!!そんなになってるんだったら見ないでよ!」

 背後に璃奈が回ったのを感じて彼女の視線の先を手で遮った。そして180度回転して少しだけ恥ずかしそうな顔を真正面に合わせた。

「ごめんごめん。さ、上がって」

「璃奈さんって私に対してそういうところあるよね」

 璃奈が前にいるにもかかわらずしずくの手はお尻から離れない。ドアを閉める時も後ろ姿を見えないように意識した。

「ふぅ、私も少しだけ濡れちゃった。お風呂の準備するから、これで足と頭拭いておいてね」

「はい……お風呂かぁ」

 思わず璃奈と一緒に入っているところを想起してしまった。同級生と入ることが新鮮でもあり、憧れにも近いものがあったことを自覚する。

 しずくも年頃の女子高生、家族と一緒に入浴するという経験がほとんど無くなった。あるとしても飼い犬のオフィーリアを洗う時くらいだろう。

 濡れた靴下を脱いで足を拭き、璃奈が置いた来客用のスリッパを履き上がりこむ。

「お邪魔しまーす」

 すぐに戻ってきた璃奈が真っ直ぐに自室の方へと案内する。2人きりの時の璃奈はとても積極的だ。

「あれ?お風呂は見てなくていいの?」

「今の時代は自動で特定量まで入れてくれるんだよ」

「へぇ〜。最先端なんだね」

 璃奈の部屋には璃奈ちゃんボード用のスケッチブックや大きなパソコンという"いかにも"といった感じの物から赤本や舞台女優が書いた演技指導本など少し以外な物もあった。本棚には多くの小説や漫画、設定資料集が並んでいる。

「この本私も知ってる。璃奈さんも演技指導本読むんだね」

「参考になるから。表情だってもっと柔らかくしたいし」

 璃奈のコンプレックスにも近い感情を表に出せない表情。この本は少しでも克服しようとする璃奈の小さな一歩そのものである。

「あ、お風呂沸いたね」

「はやい!」

 壁の向こうからピピピと音がなって準備が完了したことを教えてくれる。璃奈の家は最新鋭のハイテクシステムが取り付けられている。

 しずくはそんな驚愕を胸の内にしまって立ち上がる。

「じゃあ一緒に入ろっか」

「え?しずくちゃん一緒に入っていいの?」

「へ?」

 さっきまでは積極的だった璃奈だが、ここに来てブレーキをかけた。勢い余ったしずくが前のめりに吹っ飛ぶイメージが脳裏に浮かぶ。

「璃奈さんはそのつもりなんだろうなぁと思ってたんだけど……えっと、何か違ったかな?」

「んーん、全然問題ないけどしずくちゃんから誘ってくるとは思わなくって。果林さんが言ってた裸のお付き合いってやつ?」

「ちょっと!別にそんなつもりじゃ」

 こちらが合わせようとしても引っ張ろうとしても絶妙に躱され、結局璃奈のペースに飲まれてしまう。

「はいはい、じゃあ一緒に入ろうねぇ」

「はいはいってなんなのその扱い!」

 表情こそ変わらないがその仕草や喋り方はまるで子供のワガママに付き合う母親のようだった。

 しずくは自分が末っ子扱いされるのは苦手で、いつもはかすみの方が自分より妹らしいと言い張り逃げる。そこで璃奈の名前を言わないのはこの大人びた対応と彼女のペースを奪えないせいだろう。

 

「ふぅ〜。そんなに大きな湯船じゃないけど、私小さいから2人で入れるよ」

 先に体を流して湯船に浸かる璃奈。目を細め少しだけ気持ちよさそうにしている。少ない表情変化を敏感に読み取りながらしずくはかけ湯をする。

「いやぁ、私は先に体洗うよ。それから璃奈さんと交代で」

「ふーん。じゃあ私も体洗う。背中の流し合いってやつやりたかったし」

 湯船から出た璃奈がしずくの後ろについた。一見するとまたしても気まぐれな璃奈に振り回されるかと思われたが、しずくはこの行動を予測していた。

(よし、乗ってきた。このまま体を洗い合う時になんとかやり返す。璃奈さんの体をちゃんと洗って、璃奈さんに好き勝手させないように)

「仕方ないなぁ。じゃあ先にお願いね」

 自ら璃奈に背中を預けた。まずは璃奈に洗わせる。そして不意を突くようにやり返す。

(絶対にやり返す。もう子供扱いなんてさせない。私だってちゃんとそういうことできるもん)

「じゃあ遠慮なく……この石鹸いい匂いでしょ。背中から隅々まで洗ってあげるね」

 わざと肩に顎を乗せて耳元で囁く。こういったからかう行為は果林がよくやっているが、璃奈の場合果林よりも物理的に距離が近い。体に触れ合う彼女の手が自然と意識をそちらに向かせる。

 泡だてられたスポンジが肩から背中、脇腹を擦る。そこから腰回りに移り体の前の方も洗う。そして手先足先まで届いた。

(くすぐったいけど我慢……別に普通のことだしね。そして私の番になったら)

 しずくの体を洗う璃奈の手つきは特にいやらしいことはない。ただ目一杯腕を伸ばしているためか自然と体の凸の部分が背中に当たる。

「じゃあ流すよ」

 シャワーからお湯が出て体についた泡と汚れを一緒に流す。適当な温度が体を包み込み僅かに湯気が立つ。

(よし!)

「じゃあ次は私の番だね」

「まだだよ。今度は髪〜」

 交代しようと腰を上げたしずくの肩をやんわりと抑えて結い上げていたしずくの髪を解く。濡れた背中にしずくの長い髪がくっつき、その上からまたシャワー浴びせられる。

「しずくちゃんの髪、綺麗だよね〜」

 そのまましずくの髪を洗い出した。思わず止めようとしたしずくだったが、妙に慣れた手つきで璃奈は髪の手入れを始めた。

(う、上手い。璃奈さんって髪短いから私みたいな長い髪の扱いは難しいかと思ったけど)

 実際はその逆。理容室にでもいるかのような心地よい感覚が長髪と頭皮を的確に刺激する。

「いつか誰かとお泊まりした時に洗ってあげれるようにしてたんだ」

 表情こそ見えないが、見えたとしてもあまり変化は見られないが、嬉しそうに語る小さな同級生の声を聞くと自分が考えていたことが馬鹿らしく思えてきた。

(璃奈さん、とても楽しそう……そうだね。友達と一緒のお風呂、私も楽しみだったし)

 髪洗い用のブラシをかけながら先ほどよりも少し温いシャワーがしずくの髪を洗い流す。それと同時に心の中にある少し汚れた部分も流されていったのかもしれない。

「終わったよ。次はしずくちゃんの番ね」

「はい!璃奈さんのこと、すっごく綺麗にしてあげるね」

 位置を入れ替えてその小さな体を前にする。まずは璃奈がやったように体を洗う。璃奈の体は小さく、しずくの腕が長いこともあって体を密着させずとも全身を洗うことができる。

「よいしょ」

 全員くまなく、指の間も足のつま先も、背中も肩甲骨の隆起も泡を擦り付けて汚れを肌から浮かせる。そしてシャワーで洗い流す。勢いを少し強めにしたお湯が吹き出して泡を落とす。

「しずくちゃん、もうちょい温度上げて」

「あ、そっか」

 先ほどしずくの髪を洗った時に少し温度を下げていたのを思い出す。温度調節用のハンドルを回して少し温かくする。

「どうかな?」

「うんうん。いい感じ〜」

 背後からなので璃奈の表情は見えないが程よい温かさなのが声色でわかる。全身を擦りながら泡と汚れを落とすといよいよ頭を洗う事になる。

 しずくより短いが決して長くもない璃奈の髪。しかししずくにはできるという確信があった。

(この長さ、質感は違うけどオフィーリアと同じくらい)

 犬と人間の髪は全くの別物だが、その長さはしずくの愛犬オフィーリアに近いものだった。

(絶対上手くやってみせる!璃奈さんはあんなに上手くやってたんだもん!私だって!)

 璃奈から子供扱いされることが最近多くなった。このお風呂場はやり返す場所と思っていただけに、璃奈以上に髪を洗わなければならない。

(もっと、泡立たせすぎずに頭皮にも、そして丁寧に髪の付け根から先まで)

 そんな使命感にも近いものを胸に秘めたしずくはここ一番の集中力で璃奈の髪を洗う。思考能力をフル回転させて手の動きに細心の注意を払う。

「んん〜、あぁ」

 僅かに湧き出る璃奈の声も聞き逃さない。そしてもう充分だと判断したらシャワーの方へと手を伸ばす。

(確かさっき熱くしたから、ここで少し温度を落として)

 璃奈がそうしたようにシャワーから出る水温を少し落とす。そして一気に泡と汚れを洗い落とす。

「おぉ〜ぉ」

 頭皮を刺激される感覚に気持ち良さそうな璃奈の声を聞いて満足げに頷いた。達成感にも近いそれが体中に漲る。

「ど、どう?綺麗になったよ」

「うん!すごく気持ちよかった。上手にできたねしずくちゃん」

「えへへ」

 振り向いて笑う璃奈を見ているとしずくも笑顔になった。そして彼女の新たな一面を見た気もした。

「よしよし、よくできました」

「えへへ……って子供扱いしないでくださいよぉ〜」

「いやぁかわいかったもんだからつい」

 喜びのあまり受け入れていたが、ハッとなって璃奈の手を払う。体の洗い合いをする前に何を考えていたのかを思い出した。

「じゃあ大人扱いしてみる?しずくちゃんいいスタイルしてるしね〜」

 璃奈の視線がいきなり下を向いた。そのまま視線の先にあるものに手が伸びる。

「ちょっ、いきなり」

「いや〜いい柔らかさ。お腹とか腰のラインもすっごく綺麗だし」

「うわぁ!り、璃奈さんくすぐったいぃ」

「ほらほら裸のお付き合い〜」

 結局しずくの思うようにはいかず、璃奈のペースに飲まれてしまった。同じ湯船に浸かっている間もしずくは璃奈の手玉に取られていたのだった。

 

「いやぁ、良い湯だった」

 ドライヤーで髪を乾かす璃奈が満足そうに呟く。風呂上がりということもあってか、それとも何か別の要因があるのか、肌艶が良いように見える。

(結局璃奈さんにいいようにされてしまった。せっかく上手く洗うことができたのに見直してもらうどころか頑張ったって褒めてもらっちゃった)

 褒められたことに関しては嬉しいのだが、同い年の璃奈に子供扱いされるのはやはりいい気分ではなかった。

(まぁかすみさんだったら私より上手くできないだろうし、これで私のお姉さん度も少し上がったかな)

 今現在ではあまり良いことではないが、先のことをトータルするとプラスになるだろうと自分の中で落とし所を付けた。

「しずくちゃん。パジャマどうしようか?私のやつだと結構サイズ小さいけど、前が開くやつとかなら大丈夫かな?」

「え?いや私は制服を着直すから……ちょっと濡れちゃってるけど」

「ダメだよ!せっかく体を綺麗にしたんだから、ほらほらこれ着て」

「ええぇ……」

 自分のものよりワンサイズ大きいパジャマを璃奈が取り出した。表情には出ていないが、その内面には期待があるのがうかがえる。

「それに制服は洗濯しちゃったから。あ、大丈夫。うちは部屋干しでも明日の朝までには乾くよ」

(完全に着せる気だなぁ。しかも私がギリギリ許せそうなサイズだし、仕方ないかぁ)

 それ以外に選択肢はなかった。璃奈から受け取ったパジャマを着る。ズボンの方は足首までしかなく俗に言う「つんつるてん」状態に。そしてパジャマは肩幅こそ問題ないが、前のボタン全てを閉めることは叶わなかった。

「うん、良いよ、似合ってるよ」

 いやが応にも体の凸の部分が強調されてしまい、それを璃奈は無表情で見つめる。

「璃奈さんって果林さんよりもこういうの好きそうだよね。他のみんなには隠してるけど」

「こんな事するのしずくちゃんにくらいだよ」

「私が怒らないから?」

「怒ってもするよ?」

「やめてね」

 同好会の部室では決して見せる事のない、二人でいる時だけにしか見せない彼女の姿。ある意味で別の表情とも言えるかもしれない。

「さて、今日はどんな夜にしようか?せっかく泊まるんだし、好きな本の話とかする?」

「あ、それやってみたかった。璃奈さんは漫画とか電子書籍とかをよく読んでる印象あるし、私もそういう話がしてみたかったんだ」

 せつ菜の様に熱狂的なところを曝け出しているわけではないが、璃奈もその方面には強い。しずくも小説やドラマをよく見ており、演技の参考にする以上の趣味にもなっている。

 そしてそれ以上に璃奈と一つの趣味を共有すること。実現しそうでできていなかったことがやっとできると思うと胸が高鳴った。

「じゃあお互いにオススメの作品を読み合うのはどう?私もしずくちゃんのオススメ読んでみたいし」

「オススメの本かぁ。ちょうどバッグの中に私のお気に入りがあるんだ」

 部屋の隅に置かれたしずくの通学カバンから一冊の小説が取り出される。ハードカバーを捲ると『Why the sky is blue?』という本のタイトルが現れた。

「えっと、なぜ空は青いのか?」

「うん。このタイトルを頭の片隅に入れながら読み進めると面白いよ」

「へぇ〜。凄い世界観、楽しみだよ。私のオススメはそこの本棚の下から二段目の『臨界点』ってシリーズ」

「あ、これ知ってる!ずっと続きを読みたかった。『満ちるまで』は読んだけど、続編まだ買えてなくって」

 璃奈が勧めたシリーズはしずくも読んでおり、四冊の本からなるものだ。しずくが以前読んでいた『満ちるまで』はその一冊目であり、璃奈の本棚にはその後の作品『達するまで』『堕ちるまで』『蘇るまで』全てが揃っている。

「これは読破しなくっちゃ!」

 飛びつく様に本棚に近付き、飛びのく様に本を取り出して元の位置に戻る。小説に隠れた璃奈の口元がその様子を見て僅かに笑っていることにしずくは気付かない。

「それじゃ私はしずくちゃんが読み終わるまで適当にしずくちゃんの本でも」

「はい!バッグの中に五冊あるから好きにどうぞ」

 目を輝かせながら読み始めるしずくはもはや目の前の事しか頭にない。一瞬何かいたずらをしようかと考えたが純粋に物語を楽しんでいるその表情を見ているとそんな気も失せてくる。

(私もあんな風にできればなぁ。やっぱり表情って大切だなぁ)

 小説を読みふけるしずくの表情についつい見惚れてしまう。もちろんしずくから勧められた小説が面白くないわけでもない。話は頭に入ってくるのだが、その合間にまるでマラソンランナーが給水するかの様に、格闘技のラウンド毎にインターバルやブレイクタイムがあるかの様に、しずくを見つめてしまう。

(ふふふ……いい表情。いつまでも見ていられるなぁ)

 人の表情はもれなく璃奈ちゃんボードを描く上で参考になる。それを抜きにしてもしずくの表情は魅力的だ。

 

 こうしてしずくと璃奈の夜は更けてゆく。しずくが三冊の臨界点シリーズを読み終える頃に、璃奈はようやくしずくの小説を読み終えるところだった。

「一気に読んじゃった。すごく面白かったよ〜!あのラストの伏線回収!もう一回最初から読み直したい!」

「うんうん、そうだろうね。しずくちゃんが楽しんでくれただけで私も嬉しいよ」

 今日何度もそうしている様にしずくの事を無意識に子供の様に扱う。それはしずくの内面の可愛らしさが璃奈には強く見えているからだろう。

 もっとも、今のしずくは子供扱いされても気にならないだろう。本の話題をする前に気にしていたパジャマのサイズにも意識は向いていない。それだけの興奮が彼女を支配している。

「なので璃奈さん!もう一周してもいい?この興奮ならすぐに読み終えると思うから」

「いいよ。さぁもう一度『臨界点』の世界へ」

「ありがとうございます!!」

 璃奈が許可するとリプレイの様に本に飛びつき一冊本を取り出して飛びのく様に元の場所に戻る。そしてまた読み耽り始めた。

(あ〜、またそんな顔しちゃって。私が本読めなくなっちゃうよ)

 璃奈は本を取りに行くふりをしてメモ帳を取り出した。本の陰に隠しながらしずくの表情をシャーペンで模写する。

(ふふふ。慌てたり恥ずかしがったりする顔もいいけど、やっぱしずくちゃんはこの顔だね)

 部室で本を読んでいる時とはまた違う。新発売の小説を見せびらかして読んでいる時にも決してならない。それはいくつかの条件の下で見ることのできるオリジナルのしずくだろう。

(しずくちゃんは本当にかわいいなぁ〜)

 もう璃奈は小説を読んでいない。自分といる時にしか決して見ることはない彼女の表情を堪能している。

 もし作られたとしても最適なタイミングで使えるとは限らないが、それでも彼女との思い出を描き残したい。自分しか知らない彼女の最高の表情を。

(璃奈ちゃんボード『友達と一緒に楽しみを共有する』かな。うーん、違うなぁ。もう『しずくちゃん』でいいかな)

「ふふっ」

 僅かに漏れた笑い声にも気付かず目の前の文字列に集中するしずくを見て笑みがこぼれた。




璃奈の対応は良くも悪くも塩っぽくて凄く人付き合いに臆病なきらいが節々に見えます。それが感情豊かなかすみや人の感動に敏感なしずくに比べて大人っぽく映る要因なのかなとも思ってます。
なので今回は思いっきりしずくにセクハラするアダルトなキャラにしてみました。気が置けない相手にだけ見せる特別な彼女のもう一つの顔、璃奈ちゃんボードにいつか描かれるといいなぁ。
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