ドアノブに手をかけて、いっそ開かないで欲しいと思いながら、力を籠める。
するりと開く軽い扉。
分かっていても尚、苛立ちを隠せない。
部屋は暗かった。
窓の外から僅かに入る光しか見えない部屋だった。
幾つかの薬品が入った戸棚と、分厚い本が並べられた本棚。
そして、簡素なベッドが一つだけ。
ゆっくりと扉を閉じて、ベッドの方へ歩き出す。
ひたり、と。
靴越しに感じる床の感触が、酷く痛かった。
一歩を踏みしめるのがこんなにも怖いと感じるのは初めてだった。
でも、進む。進み続ける。
何故なら、最も苦しいのは私では無いから。
そんな苦しみは不意に終わった。
ゆっくりと、足を止めた。
足の裏をなめとる不快感が、咽喉にまで込み上げる。
ベッドの前に辿り着く。
最後の猶予が、終わりを告げた。
視線のすぐ下。
ベッドの上に居る彼女を見つめる。
穂村原の制服を身にまとう彼女は、服越しにも分かる豊満な胸を軽く上下させていた。
その姿に、
あぁ、生きているのだ、と安心して。
「こんばんは、間桐さん。体調は如何かしら?」
「こんばんは。お待ちしていました、遠坂先輩。」
今から彼女を殺すのだと、
その運命を心から呪った。
「思ったより顔色がいいのね、どう?辛くない?何か必要なものがあれば持ってくるけど。」
「お気遣いいただきありがとうございます。でも、大丈夫です。」
「そう。」
会話はそこで途切れる。
元より話すことなど無いからだ。
私は遠坂の当主として彼女を殺すためにここに来て、彼女はそれを受け入れるためにここで待っていた。
それだけの話だ。
だから、躊躇ってはいけない。
憐れんではいけない、怒ってもいけない。
淡々と、粛々としていなければならない。
今から、その尊厳を踏みにじるのだ。
せめて彼女の誇りだけは傷つけまいと、気丈にしていなければならない。
こんな気持ち、欠片でも見せてはいけない。
やるべき事を、やらなければ。
しかし、
「綺礼に、何もされなかった?」
「はい。神父さん、とても優しかった、と、思います。ずっと眠っていたから、分からないけど。」
「何かされたらすぐ言いなさいよ、ぼっこぼこにして磔にしてやるから。」
「……………はい、ありがとうございます。」
無意味な問いは続く。
そこから先に踏み込むのを、少しでも遅らせたいとしてしまう。
綺礼が何かするわけ無いし、されたから何だというのだ。
もう消える命に、何を心配することがある。
「…………………………」
大きく息を吸って、吐き出した。
心を、感情を、意識の底から切り離す。
言葉には何も乗せず、行動に意志を込めず、
一日の身支度を始めるように、一日の終わりを迎えるように。
当たり前を、始めるように。
「………………………それじゃ、覚悟はいいわね。」
そっと、彼女の心臓に手を置いた。
跳ね返る柔らかな感触。
しかし、その奥に確かな鼓動を感じる。
私が魔力を込めればこれは動きを止め、彼女の生命活動は停止する。
「覚悟なんて、出来てません。今でも死ぬのは怖いです。でも、」
「でも?」
「漸くあなたが助けてくれる、そう、思えるから。」
「………………っ」
「だから、先輩になら、いいです。」
「……………」
彼女に見えないように、体の後ろで握った拳を痛いくらいに握り締める。
私はなんて独りよがりなのだろう。
簡単に死ぬ覚悟を決められる人間など多くは無い。
生きとし生けるものは死を恐れる。誰であれ、何であれ。
それは万人に決まった運命であると誰もが知っているのに、それでもそれを恐れる。
自分が消えるのが怖いのだ、何も無い場所に行くのが怖いのだ。
誰かに、忘れられるのが怖いのだ。
だから彼女は、覚悟を決めたのでは無い。
覚悟を捨てたのだ。
恐怖を飲み込んで、生きたいという想いを隠して。
明日を願いながら、その光を見る事をやめた。
これが救いであると、諦めたのだ。
これが最善だからと、割り切ったのだ。
「でも、最後に一つだけ、いいですか?」
「何かしら?」
「私の一番大事な、大好きな人、衛宮士郎先輩の事、どうか、よろしくお願いします。」
「先輩は、優しいんです。とてもとても、優しいんです。だからきっと、無茶をしてしまう。自分で自分を傷つけることを厭わない。そんな人なんです。」
「えぇ、知っているわ。」
「守って、とは言いません。遠坂先輩にも事情があるのは、分かってます。でも、せめて、」
「せめて、気に掛けておいて下さい。遠くに行かないよう、私たちの事忘れないでって、言ってあげて下さい。それが、私の最後の願いです。」
ここまでずっと穏やかだった彼女の声が上擦る。
涙は、出ていない。
けれど、心が泣いていた。
「約束は出来ないわ。貴方の願いは彼の意志によって変わる。貴方はそう望んでいても、彼はそうじゃ無いかもしれない。」
「……………………それでも、お願いします。」
真っ直ぐとした瞳で、後ろめたさを隠すこちらの瞳を覗き込んでくる。
彼女のこんな強い目と、強い意志を見たのは初めてだった。
きっと彼女は、本当に、心の底から
全身全霊で、彼を、衛宮士郎を愛していたのだろう。
「分かった。出来る限り、心を尽くすわ。」
「ありがとう、ございます。」
彼女にそれ以上の言葉は無かった。
彼女はもう、これから先を見ることは出来ない。
祈る事しか出来ない。
でも、それでいい、と。
安心しきった声で、そう言った。
「じゃあ、やるわね。大丈夫。痛みも苦しみも一切与えない。貴方は、微睡みの中で死ぬように眠るだけ。」
そんな彼女の言葉を皮切りに、私は手に魔力を込める。
細心の注意を払い、丁寧に、丁寧に。
苦しい思いなんて、もう一欠片でも与えないように。
「私、本当は分かってたんです。これ以上私が生きてちゃいけないって、私が生きているだけで、周りに迷惑をかけちゃうって。」
そんな中、彼女はひっそりと、独白のように口を開いた。
徐々に朧げになっているであろう意識の底で、藻掻くように。
「でも怖くて、死ぬのが恐ろしくて、先輩と、藤村先生と、弓道部の皆と、」
「だから、悪いと分かっていても生きてしまった。怖くて怖くて怖くて、温かいところに逃げ込んで、あまつさえそこが私の居場所だ、なんて思い込んでしまった。」
「笑っちゃいますよね。こんな私が、まともな日常を望むなんて。」
「ずっと、ずっと怖かった。いっそ、朝起きたら死んでないかな、とか、通り魔でも通って、私を殺してくれないかな、とか、簡単に死ぬ事を考えてつつも、いつもそれに対して怯えてた。」
「でも私、今、全然怖くないんです。こんな気持ち、今までで初めて。……何でか分かりますか?」
「……………………」
言わないで欲しい、と考えるのは、きっと私のエゴなのだろう。
本来の彼女なら、これが私にとって呪いになると理解して、遠慮して、言いたい事を飲み込む筈だ。
でも、最期に、今際の際に。
「最後に、助けに来てくれた。私がこれ以上、罪を重ねるのを止めに来てくれた。私の声を、聞いてくれた。」
「これ以上無いくらい、幸せです。ずっとずっと考えていた。貴方が私を、救ってくれるのを。」
「そうしたら、最後に助けに来てくれた。私がこれ以上罪を重ねるのを止めに来てくれた。私の声を聞いてくれた。」
「だから、泣かないで、姉さん。貴方は、私の、ヒーロー、なんだから。」
そう言って彼女は、私の眼から今にも溢れ出ようとしていた涙をそっと拭った。
懸命に手を伸ばして、その温もりを噛み締めて。
そして、優しく笑った。
「……………姉さんは、私の分まで、幸せに、どうか、幸せに、生きて…………」
「生きて…………くだ………さい」
そう言って、彼女は瞼を落とした。
同時に、私の頬に触れていた腕も、力無く崩れ落ちた。
だらりと垂れた腕、色を失くした肌。
もう動かない、その体。
私は、初めて人を殺した。
実の妹を、たった一人の肉親を。
この世から永遠に、葬り去った。
彼女は、幸せだ、と言った。
最も恐れていたものが目の前に迫っていたのに。
彼女にとって、私は死神だった筈なのに、それが私だというだけで、彼女は報われたような顔をしていた。
私は、馬鹿だ。
もっと早く手を伸ばしていれば、取り零すことは無かったかもしれない。
知らなかった事を言い訳には出来ない。
無知こそは最大の罪だ。
彼女の幸せを願っていたくせに、それを知ろうとしなかった。
私の怠慢が彼女を殺したのだ。
悲しみに、浸りそうになる。
目の前が暗くなりそうになる。
それを堪えて、遺体に向けて詠唱を行う。
簡単な詠唱だ。
遺体の腐敗を抑え、今のままに保てるように保存する。
桜をこのままにすれば、確実に臓碩はこの死体を狙ってくる。
自分の新たな肉体とするために。
それは、それだけは防がなければならない。
そして魔術をかけ終わった後、ベッドに敷かれていたシーツで彼女を包む。
このまま家に持ち帰り、誰の目にも付かないよう保存する。
これなら臓碩も簡単には手を出せない。
これで冬木から危機は消えた。
これ以上関係の無い人間が犠牲になることは無く、聖杯戦争は滞り無く行われる。
これは正しい行いなのだ。桜も望んでいたのだ。
だから、後悔なんて、そんなものは無いはずなのだ。
「やっと、一緒に帰れるわね、桜。」
返事が無いのを知りながらそう言って、私は部屋を後にした。
遺体はアーチャーが持って帰る。
予め、そう打ち合わせしてあるからだ。
今は帰って、桜と共に帰って眠りたかった。
この現実から、逃れたかった。
出来るだけ何も考えないようにしながら、再びドアノブに手をかける。
先ほどとは対照的に、早くこの部屋から出たがっている自分に吐き気がしながら、私は部屋を後にした。
本編開始前の会話です。