機動戦士ガンダムSEED C.E.81 ナイルの神 作:申業
『落ち着いてください。イレーナさん』
そう相手から嗜(たしな)められる程に。
「……ヤン・クールカは確かにそう言いました。
脱走兵が『近々』何かの行動に出ると」
『それは、また……曖昧(あいまい)なお話ですが』
相手も女性らしい。苦々しく笑う様が目に浮かぶような、
そんな言い方で答えていた。
「説得にも応じる様子はありませんでした。
決意は固いものと思われます。
……『ブレイク・ザ・ワールド』の被害を考えると、
脱走兵にそう、大きな行動を取らせるのは危険ではないのですか?」
自然、声が大きくなる。
『……はぁ』
イレーナの顔はいつの間にか、後ろを向いていた。
ソファーの上では、誰ぞ毛布を頭から被り眠っている様子。
横たわる彼女の顔は、そのままではイレーナから見えなかった。
「ヤン・クールカの娘を人質に取っています。いざとなれば……」
寝返りを打った拍子に、毛布がはだけ、その顔が顕になる。
それはプラウダ。ヤン・クールカの娘である。
眠れる彼女の表情は、『人質』という説明とは裏腹に、
極めて幸せそうであり、これにはイレーナも顔を歪め、目を逸らした。
言葉に詰まったイレーナに、相手の女性は少しの間を置いて、
『了解しました……
ご協力に感謝します。また、何かありましたら、ご連絡ください。
それでは』
電話はそこで切れた。
受話器を戻し、恐る恐るプラウダの側に歩み寄るイレーナ。
毛布をかけ直し、その乱れた髪を撫でた。
そうしてふと、プラウダの顔を見てみれば、唇が、
「お父さん」
と動いたのが見えた……
──少し前の話になる。
開いた窓より、音を伴って風が車内へと流れていく。
そこは3本の線が等間隔で点在する道幅の広いフリーウェイで、
右も左も背の高い街灯が見下ろし、
その奥には雲を突くような高層ビルが立ち並ぶ。
英語表記の青く大きな看板がデカデカと掲(かか)げられた下、
燦々(さんさん)と輝く太陽を反射して、シャランは走っていた。
ヤン・クールカがふと助手席を向けば、娘プラウダは夢の中。
その微笑ましさから、ヤンの顔に笑みが溢れた。
しかし、数秒と経たず、その表情は硬直したものに変わる。
それはプラウダが寝返りを打ったときだった。
少しばかり首が斜めを向き、
乱れた髪が彼女の鼻から上の部分を隠してしまう。
そんな娘の顔に、ヤンはフラッシュバックする。
現実は太陽に照らされた明るい車内。
しかしヤンに見えたのは、暗い室内。
それも、部屋の中央で娘と同じ髪の色をした妻が横たわる様子。
その部屋は窓が閉じられ、ガラス戸から射し込む月明かりだけが、
辛うじて部屋を照らしているばかり。
そんな中だ。ヤンは踏みつけてしまう。
ベットリとした感触と音。恐る恐る足をゆっくり上げれば、
丁度月明かりがより奥まで入ってきて、
足についた赤黒い液体が目に飛び込んでくる。
そんな足を下ろして、改めて下を確認すれば、
そこに横たわる妻が胸から血を流していることを知った。
血の水溜まりを前に、濡れるも厭(いと)わず、膝をつき、
妻の体を抱き起こして、揺さぶった。
震える口が何度も彼女の名を呼んだ。
男の涙が何度も女の頬に垂れた。
けれども、妻は何ら反応することなく、
起き上げられた拍子に重い頭がダランと後方に垂れるだけ。
掠(かす)れそうな声で叫ぶヤン。
しかし、部屋には彼へ答える声はなく、
ただヤンの嘆きだけが、ゾッとする程空しく響いた。
──もっとも、そんな悪夢も瞬(まばた)きと共に、
目蓋の奥へと消えていった。
そのうちに起き上がったプラウダの寝惚(ねぼ)けた顔が、
バックミラーに写り込んだ。
ヤンは笑い、肩に手を回し、愛娘を少しだけ引き寄せた。
父親の腕が触れる感触に、少女は静かに目を覚ました。
怪訝(けげん)そうな顔をして、顔を近付けるプラウダ。
さて、車は道路を右方向に曲がり、狭い道を少し進んだ後、
一戸の小さな家の前で停車した。
「イレーナ伯母さんのこと……お姉さんて呼ぶんだぞ?」
笑いかけるヤンに、やはりプラウダはまた不思議そうな表情のまま、
しかし静かに頷(うなづ)いた。