機動戦士ガンダムSEED C.E.81 ナイルの神 作:申業
市街地を横切る、明るい緑色のライトレール。
それが高層ビルの麓(ふもと)を通り過ぎたとき、
当のビルの上階、ベランダにて、その男は座っていた。
アラベスク風の幾何学模様に彩られた白い石柵(せっさく)を背に、
ゆりかごのように前へ後ろへ揺れる黒いバーバーチェアに腰かけた、
ヤン・クールカは今、後ろに立つ一人の青年によって、
髪を梳(と)かされていた。
ネコ科の肉食獣がそうであるように、
青年の手は、うっすら焼けて赤っぽく、指は短く、たなごころは広い。
そんな手が握る白い櫛(くし)が、
クールカの暗い褐色の髪を、その癖っ毛に絡まり、留められながらも、
徐々に、しかし確実に、下へ下へと降りていく。
クールカとしても、多少の痛みはある筈であるが、
目の上のサングラスすら、揺れる様子はない。
「……いつもすまないな。ジン」
「いえ」
青年──ドルゴン・ジンは、そう返答しつつも、
作業が忙しいとみえて、顔はクールカの方には向いていない。
そんな中、クールカの正面にあった引き戸のドアがガラガラと。
戸のガラス部分に写った、金色の頭。
クールカの左手がむっくりと起き上がり、
サングラスに触れたとき、
その頭の持ち主たるカトリーナ・スティーヴィンズの足が、
ベランダの石のタイルを踏んでいた。
「……チッ」
舌打ちするカトリーナに、
「タバコでも吸いに来たのか?カトリーナ」
そうクールカが答えたとき、
うっすら緑を帯びたレンズは右側に、彼の瞳が見えた。
しかし、カトリーナ本人は気にも止めないという様子で、
踵(きびす)を返そうとした。
「ジンくん……君、タバコは?」
「吸いませんが、気にもしません」
「……ならよかった」
止まるカトリーナの足。傾けられたクールカの首。
「……チッ」
カトリーナはまた舌打ちしながらも、
クールカの脇を通り、ジンの背後に回り、
その間、胸ポケットに仕込まれていた箱よりタバコが抜き出され、
唇の奥へと押し入れ、火が灯された。
風は彼女の右側へと流れていた。
ポンパドールの下、一束ばかり垂れた前髪が揺れ、
タバコの煙も右に流れていく。
彼らのいる部屋は角で、右には隣のビルがあるのみで、
またそこまでの距離も、煙が届かぬほど遠い。
「……カーン・カーァとは、私は話したことがなくてな。
どんな男だったんだね?長い付き合いだったんだろう?」
「別に……話すようなことはねぇよ」
ドルゴンの髪結(かみゆ)いは、
もう編み込む段階に入っていた。
2本に束ねられた髪が、クロスした形で捻(ねじ)られていく。
「……君の気持ちが、分からないとは言わないが」
「わかっちゃいねぇよ」
口から落ちるタバコの吸殻(すいがら)。
柵の指一本分しかない隙間に、これが丁度挟まる形で落ちると、
カトリーナの足先が、灰を踏み潰す。
「何にせよ……これから、私に従ってもらわねば」
そう言っているうちに、ドルゴンの手が止まる。
彼は小声でクールカにこう伝えた。
「終わりましたよ」
と。クールカがゆっくり首を前に出すと、
その三つ編みが地を這う蛇のように背もたれを通り過ぎ、
毛先が背中の真ん中辺りに触れた。
やがてクールカの腰が上がり、その手に白杖が握られる。
タイルとタイルの隙間を、杖が進むカツンカツンという高い音。
ドルゴンの手がクールカの腰に添えられる中、
クールカの顔自体はカトリーナの方に向いていた。
ゆっくりとした足取りで、カトリーナへと歩み寄る。
左手がなおも、サングラスに添えられていた。
風は吹いている。その所作は落ちないように、であろう。
クールカの顔は下を向いていた。
それは、その顔が、振り返ったカトリーナの左肩へと近付くまで。
杖をつっかえ棒代わりにして、その身を押し上げるクールカ。
そうなると、クールカの口はカトリーナの耳の位置にあった。
「……乗りかかった船という言葉もある。
最良の条件で、常に挑めるとは限らないものだ。
カーン・カーァ氏のことは不幸ではあったが、仕方のないことだ。
今は……今のベストを尽くすべきだろう」
「……知るかよ!」
雑にクールカの胸を押して払いのけ、カトリーナはドアへと消えていく。
倒れた彼の両肩をドルゴンが抱き止める。
「……大丈夫ですか?」
「ああ」
杖に乗るクールカの両手。
「酷い女でしたね」
「いや、いい。いいんだ、ジン。
何……上手くいかないのは、今に始まったことではないからな」