機動戦士ガンダムSEED C.E.81 ナイルの神 作:申業
危機に瀕(ひん)したとき、人間は1度理性を捨てる。
簡単だ。迷う程の時間がないから。
だから……そこに思った程の葛藤は生まれなかった。
《カオス》の背中から分離したポッドは1つではない。
現に、目の前に立つ《カオス》の身にそれはついていなかったのだから。
大方、俺がヴァイデフェルトの撃つか撃つまいか、
そう悩んでいる隙をついて攻撃するとか、
どうせ、そんな考えだったのだろう。
『……テメェ!』
アレハンドロの怒鳴り声が響いた。
耳を覆いたくなるようなボリュームだったが、
そんなことに手を使っているような余裕が俺にはない。
一瞬だけ、悩んだとしたらほんの一瞬だけだった。
白鯨(モビィ・ディック)の口が1度だけ上に向いた。
さながら、クジラが呼吸の際に海面に姿を現すときのような、
必要だが、やや無防備ともいえる一瞬。
そして吹き出された潮の勢いにも似た、強烈な原動力が俺を動かす。
もういいだろう?善人ぶるのは。
これ以上そんなことしてたら、別のものを失うぞ。って風に。
砲口を下ろす。
「……俺を恨め。ヴァイデフェルト」
そんな言葉を放ったときには、もう引き金は引かれていた。
青白く太い光線が2機を襲った。
『……副長?』
ヴァイデフェルトの声が、俺の罪悪感を加速させる。
ビフロンスのヤツは、俺なら撃てないと思っていたのか?
何にせよ、これ自体にはあまり意味はなく、
撃たれた瞬間に、
ビフロンスの《カオス》はヴァイデフェルトの《ジズ》を蹴飛ばした。
これにより、2機ともに攻撃を避けた形になった。
咄嗟にヴァイデフェルトを盾にしなかったのかのは、
逃げるのに必死だったからか。それとも?
……とにかく、回避した《カオス》は、
死角をつく形でポッドで俺に反撃してきて、
しかも今回は見逃していた為、被弾してしまったが、
相手も焦っていたのだろう。
命中したといっても、裏側のコクピットの上辺り、
かつ自慢の翼が盾になり、
背中を押されたかといった程度のダメージにしか感じなかった。
アレハンドロが真っ先にミサイルを撃ち込み、
これはビームサーベルで斬るも、
その隙をつく形で切りつけたダイに、
腕ごとサーベルを持っていかれた。
これにいつの間にか出撃していたシージーも加わり、砲撃を加える。
俺もビームライフルを抜き、ヤツに向けた。
動いていないのは、ヴァイデフェルトのジズだけで。
確認する程、精神的に余裕のない俺は、
容赦なく、《カオス》のコクピットに照準を合わせた。
そのとき……
妙なものを見た。妙な、しかし始めてではない光景。
俺の体はいつの間にかコクピットの中から飛び出していて、
しかもさっきまで着込んでいた宇宙服を着ておらず、
平時の軍服姿で立っている自分。
背後の世界は、撮影スタジオみたいに真っ白で、何もない世界。
いや、厳密には何もない訳じゃなくて。
まず、俺の手には拳銃が握られていた。
拳銃の種類はシグ・ザウエル製のP220。
俺も使っている拳銃だが、これ自体は俺のものじゃない。
モデルからして違う。
後で調べた限りでは、P220の中でも、
10mmエリートステンレスか、Super Matchのどちらかのモデルで、
とにかく銃身が白かった。
大袈裟かもしれないが、背景の白と合間って、
その手に拳銃が握られていること、その銃身が人に向いていること、
そういった現実を見えなくしているようだった。
この世界にあったものはもう1つだけ。
あったもの……いや、人なんだが。
その女は裸で、地面にへたりこんでいた。
浅黒いといっても、腐って変色したような血色の悪い肌、
縮(ちぢ)れ毛の、緑っぽいブロンドの髪に隠された顔、
右腕はなく、右肩の辺りからダラダラと流れ落ちる血、
左手はそれを押さえようともせず、
ただ地面にパーの形で置いているだけ。
その開かれた指にしたって、木の枝のように細く、
今にも折れてしまいそうだ。
そんな様子なのに、女は……ビフロンスは笑っている。
いや、本当のところどうかは知らないが、俺にはそう見えた。
髪の毛の下から僅かに見える口が、
その口角が上がって見えたからだ。
「何が……おかしい?」
ビフロンスは答えない。何も。
いや、それ以前に、何の変化もない。
腕から流れ落ちる血はおよそ致死量を遥かに越えているように、
というか、そもそも腕からそんなに止めどなく血が出るものかと、
そう思えてくる程にボトボトと溢れていくばかり。
静寂といっていい世界に、この血の垂れていく、
水よりはいくらか重いかといった音だけが聞こえている。
「何がしたいんだ?オマエは、一体……」
この辺りで、ようやくビフロンスの口が動き出す……