遺船を漕ぐ   作:雨守学

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第9話

長い夏休みが明け、久々にサークルに顔を出すと、皆肌がこんがりと焼けていた。

そう言えば、サークルメンバーで海だか山だかに行くだ何だと騒いでいたような。

 

「よう、雨野。お前、夏休み中、一回も顔を出さなかったな」

 

「缶詰だったからな。前回の作品が不評だったから、有名どころを読んで、それを参考に手直ししていたんだ」

 

「相変わらずマジメだな。どれ、読んでやるよ。持ってきているんだろう?」

 

「まあな……。でもその前に、読ませたい奴がいるんだ。――は今日、来ていないのか?」

 

俺がそう聞くと、高橋は深刻そうな表情で答えた。

 

「あぁ……雨野は知らないのか……。――ちゃん、事故にあったらしくてさ。大学辞めちゃったんだよ」

 

「え?」

 

「無事であることは確かなのだが、誰も連絡を取ることが出来ないみたいでな。何の事故なのかも分からなければ、辞めた理由も分からないままだ」

 

「そうなのか……」

 

その時は、「俺の小説を好きでいてくれた奴であったから、残念だな」という程度にしか思わなかった。

 

「――ちゃん、お前に惚の字だったんだぜ」

 

「そうなのか?」

 

「鈍感だな。ま、お前はそう言う奴だよな。小説とでも結婚してろよな」

 

「そうするかな」

 

一年弱ほどの付き合いであった為か、今では名前も曖昧だ。

顔も、声も、はっきりとは思い出せない。

ただ、何故だか、今になってはっきりと、最後に交わした言葉を思い出した。

特別な言葉ではない。

印象に残っている方が不思議なくらい、何の変哲もない、些細な言葉である。

 

「大切にしますね」

 

微かな記憶の中で、俺のサインが小さく書かれた同人誌を持って、そいつは微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

『遺船を漕ぐ』

 

 

 

 

 

 

俺の心とは裏腹に、部屋は静寂に包まれていた。

 

「霞が……魂を継承していない……? 愛美の魂を……か……?」

 

「はい……。しかし、霞殿は本当に継承していると思い込んでいるようであります……」

 

突拍子もない事に、頭が混乱する。

だが、そんな俺に考える余地を与えず、あきつ丸は淡々と続けた。

 

「深海棲艦の攻撃が初めて観測されたのはいつか、ご存知でありますか?」

 

「深海棲艦の攻撃……」

 

今度は考える時間を与える様に、あきつ丸は静かに待った。

俺の方も、一旦落ち着こうと、ただ質問に答えるように頭を切り替えた。

 

「確か……――年前の12月頃だったように記憶している。大ニュースになったから、よく覚えているよ」

 

「そう……。しかしそれは、事実ではありません。正確には、その年の8月……陸軍基地が攻撃されたのが始まりなのであります」

 

俺はとうとう、頭を抱えた。

色んな情報が、それも、初めての情報であり、不可解な情報であるから、尚更だった。

 

「大丈夫でありますか?」

 

「あぁ……すまない……。続けてくれ……」

 

あきつ丸は俺の様子を確認してから、続けた。

 

「攻撃による被害者は多数。何が起こったか、勉さんならお分かりでしょう」

 

「あぁ……。妖精が見えるようになった人間が出て来た……だろ……?」

 

「そうであります。海軍は12月の攻撃でその事実を知ったようでありますが、陸軍は8月の時点でその事に気が付いていました。相手が深海棲艦であること、そして、それに対抗する力の存在を……」

 

俺は大淀の言葉を思い出していた。

 

『陸軍のとある基地が、突然爆撃のようなものを受けたことがあるのです』

 

『陸軍が海軍よりも先に、艦娘の存在に気が付いていた可能性は否定できません。そして、そこに愛美さんが居たのだとすれば……』

 

「その攻撃を受けたのが、愛美という訳か……」

 

「……話が早くて助かります。愛美殿は……元々陸軍の人間であります……」

 

それに、俺はたいして驚かなかった。

 

「深海棲艦は海から現れます。しかし、陸軍が受けた攻撃は、山に囲まれた場所から行われたものでありました。陸軍はその拠点を特定し、艤装した愛美殿と共に、極秘で討伐に向かいました。そして勝利し、艦娘をドロップした……。そう……自分がその艦娘であります……。そして、愛美殿の艤装を継承しました」

 

その事実に思考の全てを持っていかれそうになり、俺は踏みとどまるよう、別口の疑問をぶつけた。

 

「何故……深海棲艦が山中に……」

 

「深海棲艦が海からやってくるのは知られておりますが、具体的にどの場所で、どのように現れるのかまでは、はっきりと分かっておりません。ただ、海という共通点だけをみるのなら、山も元々は海から地が盛り上がって出来たものでありますから、おかしいことは無いのかもしれません」

 

「海……」

 

「討伐後、深海棲艦の調査を続けた結果、海が拠点なのだと分かりました。海上での戦闘となると、陸軍では太刀打ちできず、海軍に力関係のすべて持っていかれる。それを恐れた陸軍は、海軍の動きを探るべく、愛美殿をスパイとして、海軍へと送り込みました」

 

驚きはしない。

元艦娘?

陸軍のスパイ?

そんな事どころか、俺は過去の愛美を一切知らずにいたのだ。

だから、驚きはしない。

 

「12月の事であります。海軍が深海棲艦からの攻撃を受けました。現場に愛美殿はいませんでしたが、海軍に居る幾人かの陸軍のスパイによって、愛美殿を被害者へでっちあげる事に成功しました――」

 

それからも、あきつ丸は愛美の事をスラスラと語った。

正直、愛美がどんな過去を背負って生きて来たかなんてものは、どうでも良かった。

いや、言い方が悪かったか。

愛美がどんな過去を背負っていようとも、俺は愛美に対しての見方を変えることはない。

愛美は愛美。

俺の知っている、愛美なのだ。

 

「――霞殿と愛美殿が出会ったのは、その時期でありました。霞殿は戦いの記憶に影響を受けやすく、情緒不安定で、自分の事を忘れることもあったそうであります」

 

あの霞にそんなことが……。

いや、そう言う場面は確かにあったように思う。

寝ている時の言動や、記憶の曖昧さ。

特に、目で見るものは、愛美の記憶とは――。

 

「そんな霞殿が唯一、情緒不安定にならずにいれたのは、愛美殿の前だけでありました。愛美殿の前では、彼女は普通の女の子と変わりなかったようでした。海軍は愛美殿に、霞殿の世話をするようにと、艤装を捨てさせ、専属で霞殿の世話をさせました。やがて霞殿は、愛美殿が傍にいなくても、戦場に立つことが出来るほどに成長しました。この頃になると、人間が艦娘をやることはなくなっておりましたから、愛美殿は機密を守るために、海軍を辞め、一般人として、新しい人生を歩むことになったのであります。陸軍との関係を断ち切ったのも、同じ理由でした。尤も、愛美殿が、というよりも、陸軍が一方的に切ったようなものでありますが……」

 

その頃だろう。

俺と愛美が出会ったのは。

 

「ここからが本題であります。戦後、霞殿は再び情緒不安定となりました。記憶も曖昧で、やはり自分の事が分からなくなるほどでした。愛美殿が必要でした。しかし……愛美殿は……もう……」

 

あきつ丸は本当に残念だというようにして、目を伏せた。

 

「……海軍は、愛美殿が海軍を去った後も、ずっと監視していました。故に、勉さんの事も知っていました。愛美殿の愛した男。海軍は、そんな男ならば、或いは霞殿を救えるのではないか、と考えたのであります。安易な考えではありますが、いずれにせよ、霞殿を早々に手放したかったのであります。勉さんに押し付けたかったのであります。海軍はまず、勉さんと霞殿の関係性を持たせるため、霞殿に愛美殿の艤装を継承しているのだと、嘘の記憶を刷り込ませることにしました。霞殿は、すぐにその事を信じました。霞殿は、愛美殿の魂が自分の中に存在しているのだと、洗脳されたのであります」

 

にわかに信じがたい。

だが、霞の記憶が曖昧なのは確かだ。

 

「…………」

 

――いや、そういう事か。

海軍は愛美と俺を監視していた。

だからこそ、愛美がどんな人間であるのか、良く分かっているはずなのだ。

仕草、記憶、思い出――全てを知っていたのだ。

それを霞は、口頭か何かで吹き込まれたのだ。

故に、風景や光景――目で見るようなものの記憶が曖昧なのだ。

 

「以上が、全ての真相であります。自分は……自分だけが……愛美殿の魂を継承しております……。ずっと、陸軍を裏切ることは出来ないと思い、言えずにいました……。しかし、察してほしくて……勉さんに近づきました……。自分の行動のすべては、この為であったのであります……」

 

そう言い終えると、あきつ丸はじっと、俺を見つめた。

その目には、うっすらと涙が溜まっている。

 

「ずっと……言いたかったのであります……。全てを打ち明けて、『私』の事を知って欲しかった……。『私』は……ここにいるのよ……って……」

 

白く、華奢な手が、俺の頬をさする。

 

「……動揺しているのね。無理もないわ……」

 

その口調、その仕草。

やはりどれを取っても、愛美そのものであった。

その吸い込まれそうな瞳ですら、もはや――。

その時、時計が鳴った。

信じられないほどの時間が過ぎていた。

 

「……そろそろ帰らないと」

 

去ろうと立ち上がるその手を、俺は思わず取ってしまった。

そして、呼んでしまった。

 

「愛美……」

 

『愛美』は悲しそうに、だが、少し嬉しそうに微笑んだ。

 

「名前、呼んでくれて嬉しいわ……。ありがとう……つーくん……」

 

するりと、手が離れる。

立ち去って行く『愛美』を、俺はただ茫然と見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

その日、昔の夢を見た。

戦争が激化した、夏の頃の夢だ。

夜中に明かりをつけていると、狙われる恐れがあるという噂が流れ、世間体の事もあり、俺は押し入れに電気を引いて、薄暗い明りの中で小説を書いていた。

 

「ふぅ……ダメだ……。暑い……」

 

原稿に汗が垂れる。

流石に無理があったかと、諦めて押し入れを出た時であった。

月明りの中で、フードを被った小柄な人影が、押し入れから這い出る俺を見つめていた。

 

「誰だ……!?」

 

泥棒かと思い身構えていると、そいつはしばらく俺を見つめた後、小走りで去って行った。

 

「何だったんだ……」

 

恐る恐る、そいつがいた窓際に近づく。

そこには、月明りに照らされて、季節外れの勿忘草が置かれていた。

 

「勿忘草……」

 

子供の頃、花言葉の本を読まされたことを思い出す。

勿忘草。

名前から、その花言葉をよく覚えていた。

 

『私を忘れないで』

 

 

 

 

 

 

翌日。

目の下に隈を作った俺を見て、霞はギョッとした。

 

「ど、どうしたってのよ……?」

 

「いや……ちょっとな……」

 

「ちょっとって……。大丈夫なの……?」

 

「あぁ、問題ない……」

 

結局、あの後色々考えて、眠ることが出来なかった。

あきつ丸の言ったことが事実であるかどうかは分からないが、もし事実だとして、どうして霞と接すればいいのか、寝ずに考えていたのだ。

 

「今日、お前の方の予定はどうなっている?」

 

「え? 何もないけれど……」

 

「そうか。だったら、少し出かけないか? ほら、この前、俺が行きたいところに行こうって、言っていただろう?」

 

「そうだけど……。そんな調子で大丈夫なの?」

 

「あぁ、徹夜には慣れている。コーヒーでも飲めば、目が覚めるさ」

 

「そう……。分かった。入れてあげるから、顔でも洗ってきたら?」

 

「悪いな」

 

今まで通り接する。

それが、考え抜いた結論であった。

当然と言えば当然の結論なのだが、愛美を忘れようとした矢先の事であったので、気持ちが揺らいでしまったのだ。

愛美の魂があきつ丸に存在している。

それも、あんなにもはっきりと。

そりゃ揺らぐだろ。

 

「はぁ……駄目だな……。よし、顔洗ってリセットだ……!」

 

色々気になることも、確かめなくてはいけない事もたくさんある。

だが、今は冷静になる時だ。

鏡に映る自分の姿にギョッとしつつ、顔を洗った。

汚れと共に、モヤモヤした気持ちも、小さな排水溝へと吸い込まれていった。

 

 

 

「それで、どこに行くのよ?」

 

「――東照宮だ」

 

「――東照宮?」

 

「紅葉で有名なところだ。そろそろだと思ってな」

 

「まだ時期的に早いように思うけれど」

 

「そこは寒い地域で、紅葉が早いんだよ」

 

「ふぅん。だから上着持たせた訳」

 

「お前が想像している数倍は寒いぜ」

 

そう言ってやると、霞は得意げに鼻で笑った。

 

「大丈夫よ。海の方が寒いし」

 

「海?」

 

何故海の話題が出たのか、一瞬分からなかった。

が、そうだよな。

艦娘なんだもんな。

当たり前の事をふと忘れてしまっていた。

 

 

 

電車を降りる頃にはお昼になっていて、俺たちは近くにあった蕎麦屋で飯を食うことになった。

 

「あんた、本当に大丈夫なわけ? 電車でがっつり寝ていたけれど……」

 

「すまない……。でも、寝たから大丈夫だ。さて、何を食うかな」

 

「蕎麦屋なんだから、蕎麦じゃないの?」

 

「別にそんなことは決まっていない。蕎麦屋のカツ丼は美味いと聞くし、なんでもありだろ」

 

「カツ丼って……蕎麦屋なんだから、蕎麦を食べなさいよ」

 

蕎麦屋なんだから、蕎麦を食え。

そういや、以前もこんなこと――。

あぁ、そうか。

愛美だ。

愛美に言われたんだ。

三回目のデートで、――に行った時、確か――。

 

「…………」

 

ふと、霞の顔を見る。

霞は、愛美の事は知っていても、愛美ではないのだ。

分かってはいた。

分かってはいたが、昨日の事を思うと、妙な喪失感があると言うか……。

 

「なに?」

 

「いや……。やっぱ、蕎麦にしようかな。鴨蕎麦」

 

「じゃあ、私もそれにするわ」

 

しかし、やはり愛美と同じなんだよな。

こういう店では、俺が頼むのを待って、同じものを食う。

偶然なのだろうけれど、どうも――。

 

 

 

「ほら、色づいている」

 

「本当だわ。綺麗ね」

 

――東照宮の紅葉は、見事な物であった。

 

「こんなにも色づくものなのね。海から紅葉を見たことはあるけれど、こんなに鮮やかではなかったわ」

 

「そうか」

 

霞の目が、キラキラと輝いていた。

愛美もこういうのが好きだったもんな。

 

「…………」

 

また愛美の事を思い出してしまった。

忘れようとして忘れられるものであったと思っていたのに……。

やはり昨日の事はあまりにもインパクトの強いものであったか……。

それにしたって、霞が継承していないと分かったのに、何故霞に愛美の影を見るのであろうか。

――いや、或いは認めたくないのかもしれない。

霞に愛美の魂が存在しなければ、先ほどの喪失感の事もそうだが、霞への愛が薄くなってしまうかもしれない恐怖があるのだ。

 

「え……あれ……!? 先生に霞ちゃん……!? え!?」

 

聞き覚えのある声。

それと同時に「カット!」の声。

 

声の方を向くと、鈴谷と最上がいた。

大きなカメラとスタッフ、そして、ギャラリーを連れて。

 

「最上さん、どうかされましたか?」

 

「ごめんなさい……。知り合いがいまして……」

 

「もがみん、そう言うのは休憩中にしないと」

 

「ごめん鈴谷……」

 

どうやら撮影をしているようで、NGになってしまったようであった。

 

「スタッフさーん、丁度いいし、ちょっち休憩入れない? 疲れてきちゃったー」

 

「そうっすね。バッテリーもそろそろだし。うし、休憩! アシ、バッテリー持って来い! 次の動きを予測して行動しろ!」

 

ドタバタするスタッフを見送り、二人はこちらへやって来た。

 

「先生、霞ちゃん、どうしたの? 偶然じゃん」

 

「あぁ、紅葉を見ようと思ってな。そっちは撮影だったか? 邪魔して悪かったな」

 

「ううん。大丈夫。こっちはロケ。紅葉が見ごろだって聞いたから。もがみんがゲストなんだー」

 

「そうなのか。出世したな、最上」

 

「そんなんじゃないよ。ただ、鈴谷の友達って枠で、今回きりだよ」

 

撮影用にメイクをしてもらったのか、二人ともいつもより綺麗に見えた。

 

「ふぅん……撮影してるのね……」

 

霞は興味ありげにスタッフの仕事を見ていた。

 

「霞ちゃんも出る?」

 

「いや……別にいいわよ……。ただ、どうやって撮影しているのか気になって……」

 

「見学していく?」

 

最上の提案に、霞は興味ないというそぶりを見せつつ「まぁ、ちょっとだけ……」と返した。

本当は興味津々なのを、俺は知っている。

霞は鈴谷の出ている番組を欠かさず見ているのだ。

鈴谷本人には言えないだろうが、番組の相当なファンであることは間違いない。

 

「じゃあ、ボクが案内するよ。鈴谷は先生と休憩しててよ」

 

そう言うと、最上は何やらウィンクをして、霞をスタッフの方へと連れて行った。

 

「ん……」

 

袖を掴まれる。

掴んだのは、鈴谷であった。

その顔は、耳まで赤くなっていた。

 

「こっち……」

 

鈴谷に連れられるまま、人の気の少ない所へ向かう。

誰もいない小さな手水舎の中で、鈴谷はギュッと抱き着いた。

 

「鈴谷……」

 

「まさか先生が来てるなんて……。鈴谷、ロケ中もずっと先生の事考えてて……だから嬉しくて……」

 

そう言うと、鈴谷はキスを求めた。

誰も見ていないのを確認して、そっと口づけを交わす。

 

「鈴谷、これくらいにしておけ。見られたらまずいだろ」

 

「う、うん……。ごめんね……。でも……えへへ、嬉しくて。先生と恋人になれたんだって……」

 

そう。

昨日、俺は鈴谷の気持ちに応えたのだ。

最上と同じような事が起きない様、何の壁も作らず、純粋な気持ちで応えたのだ。

 

「そういや、最上は知っているのか?」

 

「うん。移動中に……。だから二人っきりにしてくれたんじゃないのかな?」

 

あのウィンクはそういう事か……。

最上の事を考えると複雑な気持ちではあるが、ここでぶれては同じことをしてしまう。

鈴谷と恋仲になったのであれば、もう気持ちをブレさせてはいけない。

それこそが、あいつを苦しめてしまう要因になるのだから……。

 

「先生は日帰り?」

 

「あぁ。お前は?」

 

「旅館のレポートもあるから、お泊りだよ。明日の夕方には帰れると思うけど……」

 

そう言うと、鈴谷は俺をチラリと見た。

そして、駄目押しするように「その後は暇なんだけど……」と言った。

 

「何が言いたいんだ?」

 

そう返してやると、鈴谷はムッとした。

 

「分かってるくせに……。いじわる……」

 

「フッ、悪かった。じゃあその日の夕方、飯でも行くか?」

 

「うん! 高いところ、連れて行ってくれるんでしょ?」

 

「考えておくよ」

 

「やったー! えへへ」

 

それから俺と鈴谷は、近くにあったベンチに座り、なんでもない時間を過ごした。

恋人らしいことは一つもしなかったが、まるで付き合い始めの学生カップルのように、一緒に居る時間を楽しんだ。

 

「そういえばさ――」

「鈴谷さーん! どこっすかー?」

 

話題の変わり目を図ったかのように、鈴谷を探す声が重なった。

 

「ヤバ……そろそろ行かなきゃ……」

 

「そのようだな」

 

「あっという間だったねー。鈴谷、もっと話していたかったんだけどなー」

 

「あぁ、俺もだ」

 

「先生もそう思ってくれてんの? へー、珍しいこと言うじゃん」

 

「お前との会話は、いつだって楽しいと思っていたよ。口に出さないだけで」

 

「何それヤバ! かっこよすぎっしょ!」

 

「惚れ直したか?」

 

「ずっと惚れてるし!」

 

そう言うと、鈴谷はベーっと舌を出して見せた。

 

「っと、そろそろマジで行った方がいいんじゃないか?」

 

「うん。あ、先生、耳貸して?」

 

「ん?」

 

近づく俺に、鈴谷はキスをした。

 

「えへへ、じゃあ明日ね~!」

 

鈴谷は手を振りながら、スタッフの方へと走っていった。

何と言うか、若いよな、本当。

 

「さて……うぉ!?」

 

振り向くと、ニヤニヤした霞が立っていた。

 

「なぁんだ、あんた、ちゃんと愛美以外も愛せるんじゃない」

 

そう言うと、俺を小突いた。

今まで霞がそんなからかうようなことをしてこなかったから、俺は普通に驚いた。

――いや、大層驚いた。

それが焦っているように見えたのか、霞は楽しそうに続けた。

 

「しかしいい趣味してるわ。最上じゃなく、鈴谷ねぇ……。やっぱりあれな訳? 大きい方が好きな訳? 愛美も大きかったし」

 

からかいの内容よりも、俺は霞の態度が気になった。

悪い意味ではなく、いい意味で。

 

「って、どうしたのよ? 何か言い返したら?」

 

「いや……なんだ、畳みかけてくると言うか……。お前、そんな奴だったか?」

 

「何よ急に……。私は私よ。私以外の誰に見えるわけ? 愛美?」

 

ふと、霞の持っているバッグに、見知らぬ缶バッチがついているのに気が付く。

そこに描かれている絵を見て、俺は全てを理解した。

 

「お前、モンチョくんの缶バッチ貰ってテンション上がってんのか……」

 

モンチョくんとは、鈴谷の出ているテレビのマスコットキャラクターだ。

鈴谷の番組の途中に、そのキャラクターのショートアニメが放映されていて、霞はこっそりグッズも買うほど好きなようであった。

 

「あ、気が付いた? これ、スタッフから貰っちゃったのよ。非売品なんですって。しかも、スタッフにしか配られない奴! ほら!」

 

そう言うと、霞は缶バッチを取り外し、俺に見せた。

 

「そ、そうなのか……。良かったな……」

 

「あげないからね」

 

いらない、なんて言ったら怒るだろうから、俺は少しだけ残念な表情をして見せた。

少し露骨であったように思ったが、今の霞はご満悦そうにそれを見送った。

 

 

 

それから付近の観光名所をいくつか回ったが、モンチョくん非売品缶バッチには勝てそうになかった。

楽しんではいるようであるが、花より団子とはまさにこの事である。

 

「お前、本当に好きだなそれ」

 

「このぶっさいくなところがいいんじゃない」

 

確かに不細工ではあるが、可愛いとは……。

そういや、キモカワイイとかいう言葉が流行った時があったな。

 

「さて、次は……」

 

俺がガイドブックを眺めている間も、霞は缶バッチを見ていた。

レンチキュラーと呼ばれる、角度によって絵が変わる印刷が施されているようで、缶バッチの中でモンチョくんがわちゃわちゃ動いていた。

そんなに長いこと見て面白いもんかね。

 

「…………」

 

モンチョくんに勝てそうなのは、もう無いかもな。

 

「……帰るか」

 

「え?」

 

「ある程度回ったしな。お前もそれ貰って、もうお腹いっぱいだろ?」

 

「もう帰るの? まだ夕方にもなってないけれど……」

 

「流石にその缶バッチに勝てる場所がもう無い。それに、帰ったらちょうど日が暮れる距離だ」

 

そう言ってやると、霞は缶バッチを見つめた後、それをバッグに仕舞った。

 

「缶バッチはもういいわ。十分見たし。それより、いいじゃない。帰りが遅くなっても。まだ遊べるわ」

 

霞はガイドブックを手にすると、何処かないか探し始めた。

 

「えーっと……。ここなんかどうかしら?」

 

「寺か。寺なんか興味あんのか?」

 

「な……いけど……。あ、じゃあここは? ここなんかいいじゃない」

 

「――ミュージアムか。しかし、休館日だってよ」

 

「うぅ……じゃあ……」

 

必死に探す霞。

缶バッチを眺めていた時と打って変わり、何やら焦っているように見える。

 

「どうした急に? 花より団子、観光より缶バッチじゃなかったのか?」

 

揶揄うように言ってやると、霞は悲しそうな顔をした。

 

「確かに缶バッチは嬉しかったけれど……。その……ごめんなさい……。怒ったでしょ……?」

 

「へ?」

 

話が見えず、思わず間抜けな声が出る。

霞は続けた。

 

「私が缶バッチばかり見ているものだから……。あんたが行きたいところ、興味なさそうにしちゃったから……怒っているんでしょ……?」

 

「怒っている? 別にそんなことは……」

 

「絶対怒ってる……! だって、愛美の時もそうだったじゃない……。あんた、愛美に怒りを感じた時……いつも悟られない様に悲しい顔をして……すぐに帰りたがって……。愛美はごめんって謝るけど……あんたは「怒ってない」の一点張りで……」

 

確かにそうだったように思う。

ムッとしてしまった時、俺は愛美にぶつけるよりも、一人で抱え込み、ふさぎ込む癖がある。

 

「愛美は……そうなってしまったあんたにどうすれば良かったのか、未だに分からないって『言っていた』わ」

 

愛美は気が付いていたのか……。

だが、少し違うんだ。

俺は本当に怒っていた訳じゃない。

 

「そう見えたか?」

 

「見えた……」

 

「俺はまだ何も言っていないんだけどな」

 

「……やけに缶バッチの事言ってるから……そうなのかもって……」

 

言われてみれば、そうかもしれないな。

 

「俺は怒ってないよ」

 

「絶対怒ってる……」

 

「違う。怒っているんじゃない。ただ……」

 

「ただ……?」

 

「ただ、拗ねているだけだ」

 

「へ?」

 

今度は霞が、間抜けな声を出して、キョトンとした表情で俺を見つめた。

 

「愛美の時もそうだ。俺と居るのに、なんだって別のものばかりに目が行くんだってさ。怒っているというよりも、拗ねていただけだ」

 

「え……でも……それって怒っているのと同じなんじゃなくて……?」

 

「まあ……そう捉えることもできるだろうが……。とにかく、拗ねているだけだ。怒っていたら、謝ってくれれば許すし」

 

「そうかもしれないけれど……。じゃあ……どうしたら拗ねなくなるのよ……?」

 

霞は悲しそうな表情でそう聞いた。

俺がおかしいと思っているのは、キョトンとしたのは、何も話が見えなかったからだけではない。

霞の様子に対しても、言える事であった。

 

「どうしたんだ霞。やけにご機嫌取りじゃないか」

 

「だって……」

 

霞はそう切った後、少しの間を作ってから続けた。

 

「だって、私は……その……あんたが……っていうか……あんたに……その……」

 

ぼそぼそと話す霞。

俺によく聞こえていないのを承知しているのか、意を決したように、顔を赤くして言った。

 

「あんたに……笑っていてほしいの……。楽しんでいてほしいの……。なのに、台無しにしちゃったから……」

 

笑っていてほしい。

楽しんでいてほしい。

霞がそんなことを俺に?

 

「そりゃまた……どういう風の吹き回しなのだろうか……」

 

そう聞いてやると、霞はそっと、俺の手を取った。

 

「霞?」

 

「あ……わ……わた……私は……その……あの……」

 

赤かった顔は、真っ赤になっていた。

 

「あ……変な意味じゃないからね!? それだけは分かってよね!? 別に今から言うことは、告白とかそう言うんじゃないから! 純粋な気持ちというか……うぅ、とにかく! そう言うのだからね!?」

 

「ん!? あ、あぁ……分かった……」

 

何一つ分かっていないけれど。

 

「いい……? だからね……? 私が……あんたに笑っていてほしいとか……楽しんでほしいとか……一緒に居て欲しいとかいうのはね……?」

 

一緒に居て欲しいってのは初耳だが、まあ野暮な突っ込みはしないでおこう。

 

「あんたの事が……き……だから……」

 

「え?」

 

「だから……す……だから……?」

 

「す……なんだ?」

 

「だから! 好きっ!」

 

「へ?」

 

「あんたの事が好きなの! 愛美と同じくらい……じゃなくて……その……愛美以上に……好き……だからぁ……あああぁぁぁ……」

 

恥ずかしさが限界に達したのか、霞はその場に蹲った。

そして、小さい声で「変な意味じゃないからね……?」と念押しした。

 

「俺の事が好き……?」

 

「そう言ってるの……」

 

「そりゃまた……何と言ったらいいのか……」

 

「何も言わなくていいわよ……。ばか……」

 

好き。

霞が俺の事を、好き。

変な意味じゃない……ってのはいいとして、霞が、俺を、好き?

俺は今までの事を、霞とのことを思い出していた。

確かに、甘えてくることは多くなったように思うが、それはあくまでも愛美の代わりであったからだ。

 

「なによ……? 笑いたいなら笑いなさいよ……」

 

「いや……」

 

大げさに驚いているように見えるかもしれないが、それほどに、霞から好意を伝えられることに驚いているのだ。

霞をよく知っている。

だからこそ、驚いている。

俺の気持ちを察したのか、霞は続けた。

 

「驚くのも無理無いと思うわ……。確かに、私らしくないし……。一緒に暮らすって決めた時だって、私が自立するまでの関係だって思っていたし、それは変わらないって思ってたし……。あんたは愛美の代わりで……でも家族で……。けど、それは利益的な関係であって……深いものでなくて……」

 

霞は立ち上がると、じっと俺を見つめた。

まだほんのりと赤くなったその顔を見せながら。

 

「一方的だったのよ……。あんたは私を愛すけれど、私は愛さなかった……。それで十分だし、あんたもそれでいいと言ってくれた。でもね……最近ね……そう思えなくなってきたの……。自分でも良く分からないんだけど……気が付くと、あんたが喜びそうなことを探していたり、あんたに喜んでもらおうと、行動したりしていた……。鳳翔さんに料理を教えて貰ったのも……その一環よ……」

 

鳳翔との接点を持ちたい。

霞はそう言っていた。

だが、それは照れ隠しであったという訳か。

 

「あんたからだけじゃなく、私からもあんたを愛したいと思った……。あんたに笑っていてほしい……楽しんでいてほしいって……。その気持ちが「好き」なんだって……」

 

そう言い終えると、霞は俯き、俺の言葉を待った。

 

「霞……」

 

「…………」

 

「……まさか、お前からそんな言葉が出るなんて、お前から愛される日が来るなんて、思ってなかった。俺とお前の関係は、お前の言う通り、一方的で無条件なものであったはずだし、そうでなければいけないものだと思っていた……」

 

俺はしゃがみ込み、霞の目線を合わせて、手をとった。

 

「嬉しいよ……。本当に嬉しい。俺もお前が好きだ。もちろん、変な意味じゃなくてな」

 

そう言ってやると、霞は俺に抱き着いた。

 

「私も嬉しい……。受け入れてくれて……ありがとう……」

 

「ずっと受け入れていただろう」

 

「素直な私を……よ……」

 

そこには色んな意味が含まれていたが、それが何なのか、説明するのは野暮だろう。

 

「抱っこしてもいいか?」

 

俺の提案に、霞は少し驚いた後、恥ずかしそうに頷いた。

 

「よっと。相変わらず軽いな。もっと食った方がいいぜ」

 

「じゃあ……食べさせてよ……」

 

「よし、じゃあ、晩飯はいいもん食っていくか。それまでは時間あるし、さっき言ってた寺、行ってみるか?」

 

「寺に興味あるの?」

 

「別に寺じゃなくてもいい。お前と居れれば、どこでもいいよ」

 

「……ばっかみたい」

 

それから俺たちは、何をするでもなく、夕食まで時間を潰した。

会話は少なかったが、一緒に居ることを楽しんでいると言うように、繋がれた手が放されることはなかった。

 

 

 

結局、家に着くころにはすっかり夜中で、俺も霞もヘトヘトであった。

 

「あんた、大丈夫? 昨日も寝れなかったんでしょ?」

 

「まぁな……。でも、今日はゆっくり眠れそうだ。お前も今日はもう寝とけ」

 

「うん……」

 

そう言っても、霞は自室へと戻らなかった。

 

「どうした? もう居間の明かり消すぜ」

 

「……ねぇ、一つ……頼み事……いいかしら……」

 

「ん、なんだ?」

 

「その……あの……だから……」

 

霞は、先ほど見せた赤い顔を、再び見せた。

 

「なんだ、言ってみろよ。笑わないから」

 

「な、なんで笑えることだって前提なのよ!?」

 

「顔が赤いから、恥ずかしい事でも言うのだろうなってさ」

 

図星だったのか、霞は少し不機嫌そうな表情を見せた。

 

「それで? なんだ? 一緒に寝て欲しいとかか?」

 

「へぅ!?」

 

変な声。

動揺した瞳。

図星らしい。

 

「また急だな」

 

「……急じゃない」

 

「え?」

 

「ずっと……一緒に寝たいって……思ってた……」

 

そういや、愛美と一緒に寝ていただなんだと聞いたことがあったな。

 

「お前の素直ってのは、甘えん坊さんなところなんだな」

 

「……っ……そうよ! 悪い!? それに、今更でしょ!? 甘えん坊なところ、いっぱい見て来たじゃない!」

 

「いや、そうなんだが。案外裏表がないのかもしれないと思ってさ」

 

「どういう意味よ……」

 

「裏も表も、どっちも甘えん坊なのは変わりないんだなって事だ」

 

霞はそれに何か言おうと口を開いたが、何も言わないまま、口を噤んだ。

 

「言わないのか」

 

「自分でも分かってる事だし……」

 

「素直だな」

 

「……いいから。それで……どうなのよ……? 寝てくれるの……?」

 

「俺が駄目だって言わないのを知っていて聞くか」

 

「あんたは愛美と違って、察しが悪いから……」

 

「愛美はその辺り、気を遣える奴だったもんな。俺もお前が許可を取らなくていいよう、努力するよ」

 

「その姿勢はいいと思うけれど、別にいいわ……そのままで……。あんたはあんたなんだし……」

 

そう言うと、霞は「枕を持ってくる」と、自室へと向かっていった。

俺は俺でいい……か……。

何気ない言葉であったが、それは、俺という存在が、霞の中で「愛美の代わり」ではなくなったことを意味していた。

 

 

 

枕を持ってきた霞は、一緒に布団に入るや否や、すぐに眠ってしまった。

 

「ま、そうなるよな」

 

しかし、今日も今日とで色々あったな。

昨日も昨日だし……。

なんだか、ここに来て色んなことが押し寄せて来たと言うか……。

青葉の事、鈴谷の事、あきつ丸の事、霞の事……。

少し前まで最上の事であたふたしていたのが可愛いくらい、今は色んなことが起き過ぎている。

頭の整理が追い付かない。

 

「だがまあ……」

 

とにかく、とりあえず今考えなきゃいけない事は、明日の鈴谷とのディナーをどこで取るかということだな。

高い店がいいと言っていたが、俺自身、そんな店に世話になったことは無いしな……。

 

「いや……」

 

そう言えば、一回だけ、愛美といい店に行ったことがあったな。

「背伸びしなくても良かったのに」と、慣れないことをしてあたふたする俺を笑っていたっけか。

 

「愛美か……」

 

霞の寝顔を見つめる。

あきつ丸の話を聞き、今日一日接してみたが、やはりと言うか、霞の中に愛美の魂が無いだなんて、信じられなかった。

目で見た記憶は曖昧でも、俺との思い出だけは、ああもハッキリとしているものだから――。

 

「…………」

 

ハッキリと……。

 

『愛美は……そうなってしまったあんたにどうすれば良かったのか、未だに分からないって『言っていた』わ』

 

言っていた。

言っていた……って、なんだ?

言っていたということは、『聞いた』と言うことだ

愛美から聞いていた。

俺と愛美が出会ったのは、愛美が海軍を離れた後の事だ。

愛美から聞いた?

どういうことだ……?

 

「…………」

 

いや……『聞いた』は正しいのかもしれない。

間違っているのは『愛美から』という部分だ。

あきつ丸の言う通り、霞が愛美の魂を継承していると思い込まされ、俺と愛美との思い出を『聞かされた』のだとしたら――記憶を刷り込まされたのだとしたら……。

もしそうなのだとしたら、あきつ丸の言っていたことは……やはり……。

 

「だとしても……俺は……」

 

ふと、青葉の顔が浮かんだ。

あいつも、海軍が俺に何かを隠していると言っていた。

もしかしたら、あきつ丸の言っていたことの話であったのかもしれない。

青葉の妄想との関連は分からないけれども……。

 

「…………」

 

霞が愛美の魂を継承していようがしていまいが、どっちでもいい。

だが……やはり、はっきりさせておいた方がいいのかもしれない。

霧の中を進むよりも、俺は霞とはっきりとした未来を目指したい。

そう思った。

そう思ったからこそ、俺は全てを知っているであろう人物にメッセージを送って、その日は眠りについた。

 

 

 

翌朝。

目が覚めると、俺は霞の抱き枕になっていた。

起こしてやると、最初こそは飛び上がって驚いていたが、やがて目が覚めたのか、再び俺を抱き枕にした。

 

「普通、逆じゃないのか。目が覚めたのなら、さっさと起きてやるものだろう」

 

「甘えん坊なのよ、私は……」

 

「本当に素直になったんだな」

 

揶揄ったつもりであったが、霞は小さく頷き、しばらく離そうとはしなかった。

 

 

 

朝食を済ませると、携帯にメッセージが入った。

昨日送った相手からの返信で、昼頃に駅前のカフェで待ち合わせをすることとなった。

 

「さて……どうしたものか……」

 

というのも、霞は完全に甘えん坊モードが抜けていないようで、あれからべったりと引っ付いて離れずにいるのであった。

夕方は鈴谷とディナーだし、どうしたもんかな。

鈴谷との約束をした時は、まさかこんな事になるなんて、夢にも思わなかったしな……。

そんな事を考えていると、最上が家を訪ねて来た。

 

「おはよう先生。霞ちゃん」

 

「最上。お前、鈴谷と一緒じゃなかったのか?」

 

「ううん。旅館のレポートは鈴谷だけだから、ボクは先に帰って来たんだ」

 

「そうだったのか。それで、どうした?」

 

「どうしたっていうか……そっちこそどうしたのさ?」

 

俺にべったりしている霞を見て、最上は不思議そうにそう聞いた。

 

「そんなに甘えん坊な子だったっけ?」

 

最上がそう言っても、霞は構わないと言うようにして、さらに引っ付いて見せた。

 

「この通りだ。俺も不思議に思ってる」

 

「なんだか大変そうだね。先生、困ってるでしょ。鈴谷とのディナーがあるのに、霞ちゃんに引っ付かれてさ」

 

「知っていたのか」

 

「うん、鈴谷から聞いたんだ。先生の恋人の鈴谷からね」

 

そう言うと、最上は笑って見せた。

 

「そうか……」

 

「ちょっとなにさ、そんな顔して。ボクの事、可哀そうだと思ってる? 申し訳ないって」

 

俺が何も言えないでいると、最上は腕を組んで、怒っていると言うようにして、頬を膨らませて見せた。

そして、俺がさらに申し訳なさそうにしているのを見て、吹き出した。

 

「冗談だよ。ボクは鈴谷ほど魅力が無かった。ただそれだけさ。失恋しちゃったけど、辛くはないよ。なんてったって、ボクの好きな二人が結ばれたんだからさ」

 

「最上……」

 

「だから、そんな顔しないでよ。ボクは先生の友達であり、そして、先生の担当で、先生の弟子なんだからさ」

 

「フッ……弟子にした覚えはないがな」

 

「その意気だよ、先生」

 

最上の笑顔に、俺は救われる気持ちであった。

 

「さて、ボクがここに来た目的は、鈴谷とのディナーの予定がある先生に引っ付いている、そこのお嬢さんを連れ出すことさ」

 

「霞を?」

 

「だって、せっかくのディナーなんだし、二人っきりの方がいいでしょ? その間、霞ちゃんの面倒はボクが見ようってさ」

 

「そりゃありがたいが、やけに協力的だな」

 

そう言ってやると、最上は悪い笑い方をして見せた。

 

「言ったでしょ? ボクは先生の弟子だよ? 弟子は師匠の為に尽くすものさ」

 

それが何を意味しているのか、俺は理解した。

 

「脅しか? 卑怯だな」

 

「何も言ってないじゃないか」

 

「いや、卑怯だ。だったら、ここで俺が弟子にしないと言ったらどうするつもりだったんだ? 言ってみろよ」

 

「泣いてやるつもりだけど?」

 

「何故泣く?」

 

「何故だと思う?」

 

不毛なやり取りに、流石の霞も呆れたように俺から離れ、自室へと戻っていった。

 

「ボクは本気だよ、先生。卑怯だと言われても、ボクを恋人にしなかったことを盾にしてでも、先生に弟子入りするから」

 

最上の目は、本気であることを一切隠さなかった。

 

「……何故俺なんだ?」

 

「先生の作品が好きだからさ」

 

「全く売れない作品がか?」

 

「売れるのが全てじゃないさ」

 

それを言ったら、担当者失格な気もするがな。

 

「辛いぞ」

 

「知ってるよ。誰よりも先生を見て来たんだから」

 

「だったら分かるだろ」

 

「それでも、先生は止めなかったじゃないか」

 

「それは……」

 

俺は「お前が居たから」と言ってしまいそうになって、口を噤んだ。

 

「お願いします! ボクを弟子にしてください!」

 

そう言うと、最上は土下座して見せた。

 

「お、おい……」

 

「弟子にしてあげたら?」

 

声の方を向くと、外行きの格好をした霞が立っていた。

呆れて戻ったと思っていたが、着替えにいっていたのか。

 

「女の子がこんなに頼んでるのよ? あんた、それを突き返せる大人じゃないでしょ?」

 

そう言われ、確かにその通りだと思った。

そういや、土下座なんてもんは、初めて見たかもしれない。

 

「お願いします……」

 

……あまり気持ちのいいものではないな。

特に、最上は――。

 

「……顔を上げろ、最上」

 

最上はゆっくり顔を上げると、不安そうな目で俺を見た。

 

「もう一度言う。辛いぞ」

 

「うん……」

 

「俺よりももっといい先生は、世の中にたくさんいる」

 

「うん……」

 

「俺の元では、売れるものも売れないかもしれない」

 

「うん……」

 

「……それでも、俺の元でいいのか?」

 

返事はなかった。

だが、目が全てを物語っていた。

 

「……分かった。お前には負けたよ」

 

「じゃあ……!」

 

「あぁ。だが、弟子ってのは、やっぱり駄目だ」

 

「え……?」

 

「共に、売れる小説家を目指すパートナーとしてなら、一緒にやってやる」

 

「ど、どうして……? それだと、ボクと先生の立場が……」

 

「今までだってそうしてきたようなもんだ。お前は俺を支えてくれた。今度は俺がお前を支える番だ。師匠が弟子を支えるなんて、おかしいだろ。だから、平等だ」

 

そう笑ってやると、最上も小さく笑って見せた。

 

「優しいんだ、先生ってば……」

 

「知っていたことだろう?」

 

「ふふ、そうだったね」

 

二人して笑っていると、霞がムスッとした表情で、間に入って来た。

 

「おっと、妬いちゃったかな?」

 

「って言うか……あんたが最上を支えるなら、あんたが弟子って事になるんじゃないかしら?」

 

「あ、そうだね。じゃあ、先生が弟子って事で!」

 

「いや……まあ……それでも構わないが……」

 

困っている俺を見て、最上は嬉しそうに笑った。

 

「冗談だよ。先生ってば、そう言うところあるよね。まあ、そこが好きなんだけど。霞ちゃんもそうなんでしょ?」

 

霞はそれに返事をしなかった。

だが、否定もしなかった。

 

「でも、先生は鈴谷のものだから、そうでないボクたちはお出かけしましょうかね~」

 

そう言うと、最上は霞を連れて、外に出た。

霞が素直についてきたのは、気を遣ってくれたからなのだろう。

というか、外行きに着替えているという事は、そういう事なのだろう。

 

「じゃあね、先生。鈴谷と楽しんできて! あと、パートナーになったんだから、これからはちゃんとボクを支えてね!」

 

「あぁ、分かったよ。霞を頼む」

 

「うん! じゃあ!」

 

どこに行くのかは知らないが、二人で歩きだすと、何やら楽しそうに会話をしながら、駅の方へと向かっていった。

 

 

 

最上の気遣いもあり、少し早めにカフェに向かうと、そいつは既に座っていて、冷めたコーヒーを飲んでいた。

 

「待たせたようだな」

 

「いえ、早く着いてしまっただけです」

 

そう言うと、大淀は俺にメニューを渡した。

 

「奢りますよ」

 

「いいよ。俺が呼び出した訳だし」

 

「いえ、奢らせてください。まさか先生の方から連絡が来るなんて思ってなかったので、舞い上がっているんです。こんな私、今だけですよ?」

 

「そんなことで舞い上がるような奴だったっけかな」

 

「では、鈴谷さんと恋人になったお祝いって事でどうでしょう?」

 

「……流石、情報が早いな」

 

そう言ってやると、大淀は嬉しそうに笑って見せた。

 

 

 

しばらく雑談し、話題も尽きたところで、大淀は言った。

 

「それで、今日のご用件は何です? 直接会って話したい、だなんて。ドキドキしちゃいました」

 

「告白でもされるんじゃないかってか?」

 

「告白は私の方からするって決めているので」

 

「お前の場合、言わせるように仕向けそうなものだがな」

 

「場合によってはそうするかもしれません。もしかしたら、その術中にハマって、私を呼び出してしまったのかもしれませんよ?」

 

「だと良いがな」

 

冗談はない。

そう感じたのか、大淀は座りなおし、俺の言葉を待った。

 

「大淀」

 

「はい」

 

大淀の目が、俺を真剣に見つめた。

だが、俺の次の言葉で、その目は少しだけ、ほんの少しだけ変わったのを、俺は見逃さなかった。

 

「お前……いや……海軍は……俺に何か隠しているだろ?」

 

大淀はカップを手に取り、口に運んだ。

だがその中身は、ほんの数分前から、空であった。

 

 

 

 

 

 

大淀と会った後、鈴谷とのディナーまではまだ時間があったので自宅へと戻ってみると、家の前であきつ丸が立っていた。

 

「あ……勉さん。良かった。誰もいないから、これを置いて帰ろうと思っていたところなの」

 

そう言うと、あきつ丸は袋いっぱいの野菜を俺に持たせた。

 

「たくさんいただいちゃって……。勉さん、自分から進んで野菜食べる事、少なかったでしょう? だから、ちょうどいいかなって」

 

もはや、あきつ丸と呼んでいいのか、愛美と呼んでいいのか、今の俺には分からなかった。

それほどに、愛美がそこに立っているかのような錯覚に陥っていた。

大淀の件も、それを後押ししている。

結局、何もないとはぐらかされたが、やはりあれは――あの態度は――。

 

「……それだけ。じゃあ、行くわね……」

 

去ろうとする手を、俺は再び、昨日のように、掴んでしまった。

そして、同じく昨日のように、呼んでしまった。

 

「愛美……」

 

愛美は振り向き、俺の目をじっと見つめた。

吸い込まれそうな瞳。

今ではそれも、愛美の物にすら思えてくる。

 

「お前……本当に愛美なのか……?」

 

愛美は頷いて見せた。

だが、そっと俺の手を退けると、悲しい顔で言った。

 

「でも、勉さんが前に進むには、私が愛美でない方がいいのかもしれないわ……。愛美はもうこの世に居ない……。今の私は、立ち直ろうとしている勉さんの邪魔になってしまう存在……」

 

「そんなことは……」

 

長い沈黙が続く。

 

「……そろそろ行かないと」

 

「ま、待ってくれ……!」

 

「ごめんなさい……」

 

俺の呼びかけにも応じず、愛美は走って駅の方へと消えていった。

 

「愛美……!」

 

もはや、俺に疑う心は無かった。

 

「愛美……」

 

あきつ丸は、愛美だ。

 

――続く

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