京都の町を一人と一人で歩く。
二人で歩くのではなく、彼と私、少し離れて別々に歩いている。
最初は考えられなかったことだけれど、夜道を異性と歩く。
目の前には彼の後ろ姿。猫背でお世辞にも格好良いとはいえない姿。
彼は私の歩くペースを気にしながら、ゆっくりと歩いている。
その気遣いに、少し体が熱をもちそうになる。
────────
初めて部室で彼を見たときは、その姿勢も態度も考え方も、相容れないものだと思っていた。
変わろうとしないこと、逃げを正当化すること、そんな考えが嫌だった。
由比ヶ浜さんからの依頼。恩人にクッキーを作る手伝い。
彼のことを考えるようになった最初のこと。
上手にクッキーを作ることに固執していた私が、本質に気付かされたこと。
悔しかった。
今でも高められることは高めたほうがいいと思っている。
それでも目的と手段を履き違えることなく、考え方だけであっさりと依頼が終わったことで、私は比企谷八幡という個人にやっと目を向けたんだと思う。
……由比ヶ浜さんの料理は、依頼に関係なく高めたほうがいいと思っているのだけれど。
戸塚くんからの依頼。テニス部を盛り上げるための技術向上。
彼は意外と運動神経が良かった。
テニスコートへの乱入、そして試合。
彼へ言ったことを思い出すと顔が熱くなる。
彼が試合を決めるだなんて、なぜ言ってしまったのか。どうしてそんなことを言ったのか。
今ならわかる。うっすらと、些細ではあるけれど、彼へと信頼を寄せ始めていたことがわかる。
あんなことを、意識せずにあの場で言ってしまったことが恥ずかしい。
そ、そういえば彼には着替えを、の、覗かれていたわね。これは改めて償ってもらわないといけないんじゃないかしら。
「雪ノ下?」
「ッ!……なんでもないわ」
足を止めてしまっていた私を、振り返った彼が不思議そうに見ていた。
不思議そうに、そして、どこか心配そうに。
この視線には覚えがある。川崎さんのアルバイトに関わる依頼。
エンジェル・ラダーの店内で川崎さんに言われたことに動揺したとき、彼は少しだけこんな目をしていた。
由比ヶ浜さんは必死にかばおうとしてくれたけれど、あのときの彼の、その場からただ引き離す対応がありがたかった。
結局この依頼も、正面から話して辞めさせようとした私ではなく、彼の話しで依頼が終わった。
彼の気遣いと、問題への対処法。
異性としてではなく、人として気になり始めたのは、きっとここだった。
そうでなければ、買い物の手伝いなんて頼もうと考えなかったのだから。
千葉村でのキャンプ、鶴見さんへの視線もこんな感じだったように思う。
気怠げで、でもどこか心配そうな、そんな温かい視線。
あの夜も二人だった。
「あー、すまんが少し疲れた。飲み物買って休みたい」
自動販売機の隣にあるベンチを指差しながら、目をそらして彼が言う。
「そうね。少し休みましょう」
「悪いな」
「気にしないで…………ありがとう」
「……おう」
別に彼が疲れていないことなんてわかっている。遠回しで、わかりにくいけれど、そっと寄り添ってくれるような優しさ。
足を止めてしまった私への気遣い。
相手に気付かれなくてもいいのだと、彼自身を理由にした、くすぐったい捻くれた優しさ。
でも、それが心地良い。
鶴見さんの問題への対処方法は、それまでのグループをバラバラにしてしまうものだった。
相変わらずな手段で、でも真っ当なやり方では無理な、最低な解消の仕方。
報われるかわからない。むしろ報われることなんて考えていないやり方。
でもそれは、私のような強がりを、弱さを包んでくれる。
彼と少し離れてベンチに座る。離れているような、近いような曖昧な距離。
横目で缶コーヒーを飲んでいる彼を見る。
「なんかあったか?」
「いえ、今までのことを思い出していたの」
「今までの?」
「ええ。あなたが入部してからのこと」
「いろいろあったな」
夏休み、彼が私を入学式の事故の関係者だと知った。
二学期、彼の私を見る目が変わっていた。
言えなかった。
言い出せなかった。
何を言えばいいかわからなかった。
文化祭後の、彼とのやり取り。
彼に伝わったと思う。
「ああ、そうか…………。なあ、雪ノ下」
「なにかしら?」
「すまなかった」
唐突な謝罪に驚きながら彼を見る。
「入学式の事故だよ。巻き込んで、すまなかった」
こんな彼の表情は始めて見た。
彼が頭を下げる。
「お前が気にしていたのに、放置してすまなかった」
彼は悪くなんてない。
「俺がいろいろ余計なことを考え過ぎた」
彼の顔が見えた。
「変に気にさせたみたいで、すまなかった」
まっすぐにこちらを見てくる彼。
「これまでのことを思い出してたって聞いてな。そもそもの最初を考えたら、巻き込んだ俺が謝ってないのに気付いた」
恥ずかしそうに目をそらす彼。
「すまなかったな」
きっと、彼も私も、求めるものがある。
言葉でもなく、曖昧模糊とした何か。
それでも言葉にしてくれた。
それが全てでなくとも、伝えてくれた。
「比企谷くん」
「あん?」
こんな簡単なことで良かったんだ。
「入学式でのこと、ごめんなさい」
「ゆ、雪ノ下!?」
頭を下げる。
「あなたのことを知らなかった」
下げ続ける。
「知ったのに言えなくて、ごめんなさい」
頭を下げたまま、謝る。
「何て言えばいいかわからなくて」
きつく目を閉じる。
「せっかくの入学式だったのに、ごめんなさい」
涙が溢れそうになる。
「あなたから言わせてしまって、ごめんなさい」
彼の優しさに、精一杯の感謝を込めて。
下げた頭を戻し、彼の顔を見て伝えよう。
「言ってくれて、ありがとう」
笑顔を添えて。
彼のポカンとした表情が少し面白かった。
ベンチに座る距離は変わっていないのに、近づいたような気がする。
「言葉にしてしまえば、簡単なことだったんだよな」
「そうね」
「ごめんなさい、ありがとう。小学生でもわかることだ」
「つまり私達は小学生以下だったのかしら?」
「認めたくねえけどな。それに本来は雪ノ下が謝ることでもない。気付いた時点で率先して謝らなきゃいけなかったのは、俺だろ」
「そうなのかしら」
「さっきも言ったが、雪ノ下は車に乗っていただけで、むしろ事故に巻き込んだのが俺だしな。急ブレーキで首痛めたりしなかったか?」
「大丈夫だったわ」
「なら良かった。……さすがにさっきまで小学生以下だったのは落ち込むな。やっと気付けたけどよ」
「それでいいんだと思うわ」
「ん?」
「気付かないままより、気付いたほうがいいもの」
「確かにな」
文化祭に思いを馳せる。
彼が気付かせてくれた。
私は私のままでもいい。
彼に教えてもらったこと。
そのままでいいという肯定。
相模さんは背伸びしすぎた。承認欲求が強すぎた。
でも、これは私にも言えることだった。
自分をありのまま受け止めること、今の自分を認めること。
出来ないことを否定しない。
出来ないことを認めたうえで、磨けばいい。
もうひとつ、分かったこと。
少しずつ、ゆっくりと気付いたこと。
今までのことが走馬灯のように流れていく。
笑った彼の顔。嫌そうな顔。気怠げな顔。嬉しそうな顔。真剣な顔。心配している顔。
エプロンが似合うと言ってくれた彼。お見舞いに来てくれた彼。紅茶を飲んでいる彼。
彼が言ってくれたこと。
『お前と顔が似てるのに、笑った顔が全然違うだろ』
『……ならなくていいだろ。そのままで』
私は……私は彼が……。
この感情は…………。
「そろそろ行こうぜ」
「……」
思わず立ち上がろうとする彼の袖を掴む。
「なんだ?」
「……」
この時間を終わらせたくない。
「雪ノ下?」
「……」
「何かあったのか?」
彼がベンチに座り直して私を見る。
「……比企谷くん」
「おう」
「私は比企谷くんが好き」
絶句している彼を見つめる。
「あなたの捻くれたところも、隠れた優しさも、好きです」
驚いて目を見開く彼。
「そのままでいいと言ってくれるあなたが好き」
「お、おい」
「責任も何もかも奪ってしまうところは嫌いよ」
「……」
「でも、あなたが好きなの」
「……」
彼は何も言ってくれない。
「ねえ、比企谷くん。去年あなたに出会ったけれど、知らなかった」
「……」
「4月にあなたを知り始めた」
「……」
「今はあなたを知っている」
「……」
「あなたを、比企谷くんのことを、もっと知りたい」
「……!」
握りしめた彼の袖は離さない。
いま離してしまったら、きっと彼は何も答えてくれないと思うから。
無言で見つめ合う。
どのくらい時間が経ったのかわからない。
「俺は……」
彼が口を開き始める。
「俺は、怖い」
何かに怯えるように。
「分からないことが、知らないことが、何よりも恐ろしい」
少しづつ、口に出す。
「ずっと欲しかったものがあったんだ」
声が震えている。
「浅ましくておぞましいかもしれない。自分でも気持ち悪いと思ってしまう」
今まで聞くことのなかった、彼の本音。
「分かり合うとか、仲良くするとか、そういうのじゃない」
優しさの本質。
「安心したいんだ。……分からない事は、怖いから」
周りを怖がりながらも、分かりたいという願い。
「理解した気になって、押し付けたいんじゃない」
レッテルを貼られてきた彼だから。
「勝手に期待して、勝手に裏切られたと思ってしまう自分が嫌いなんだ」
期待し続けてきた彼だから。
「絶対に出来ないのは分かってる。だけど分かりたい、知っていたいんだ。完全に、完膚なきまでに……理解したい」
届かないものに、必死に手を伸ばし続けている彼。
「知ることだって本当は怖い。分かることで傷つくこともある。誤解してしまうかもしれない。無遠慮に踏み込むかもしれない。でもそれ以上に、知らないことが怖い」
手を伸ばし続けて傷ついた彼。
「言葉にしないと伝わらないのかもしれない。でも言葉が欲しいわけじゃない。それでも……もしも、お互いがそう思えるのなら、こんな醜い願いを許容できるのなら」
人によっては、これを怖いと感じるのかもしれない。
「俺も……俺も雪ノ下のことを、もっと知りたい」
初めて見る彼の涙は、この世のどんなものよりも純粋に見えた。
「比企谷くん」
そっと彼の手を握る。
「誤解するかもしれない。間違うかもしれない」
労るように、癒やすように。
「傷つくかもしれない。涙を流すかもしれない」
手を離し、ゆっくりと抱きしめる。
「それでも、あなたを知ろうとすることだけは、絶対に止めない」
「好きよ。一生かけてあなたを理解させて」
抱きしめたまま、彼にキスをする。
「俺も、一生をかけてでも、雪ノ下を分かりたい」
彼がそっと抱き返してくれる。
「好きだ」
そして、彼がゆっくりとキスしてくれた。
ベンチに二人。私と彼。距離を空けずに座っている。
お互い顔が真っ赤で、冷える夜のはずなのに、とても顔が熱い。
「言ったことは本当なんだが、なんだが……ひたすら恥ずかしい。叫びたい」
「私もよ」
「唐突にすごい積極的じゃありませんでしたかね?」
「今までのことを思い返していたら」
「いたら?」
「その、抑えられなくなってしまったの」
「……嬉しかった」
「……ありがとう」
体温がさらに上がる。
繋いだ手が嬉しくて、隣に座る彼の存在が幸せで、昨日までの私とは明確に違う私が喜んでいる。
「そ、そろそろ行くか。名残惜しいけどな」
「ええ、これからよろしくね」
「俺の方こそ、よろしくだ」
────────
京都の町を二人で歩く。
一人で歩くのではなく、彼と私、手を繋いで歩いている。
最初は考えられなかったことだけれど、夜道を恋人と歩く。
横には彼の姿。猫背でお世辞にも格好良いとはいえない、けれども愛おしい姿。
彼は私の歩くペースを気にしながら、ゆっくりと歩いている。
その気遣いが嬉しくて、思わず笑顔になる。
これからもずっと、私達は二人で歩く。
──────── End
…
……
………
「あー」
「どうかしたのかしら?」
─Bonus─────
「せっかくの修学旅行で、その、つ、付き合い始めただろ?依頼がなきゃもっと楽しめるのになあ、と」
「こう言ってはなんだけれど、もう依頼は終わったようなものだと思うわ。これ以上に出来ることって、告白に良さそうな場所を探すくらいじゃないかしら」
「……どうだろうな」
「気になることでもあるの?」
「戸部の後に海老名さんが来ただろ」
「良くわからない話しをしていったわね」
「妙に引っかかるというか、気になる」
「…………戻りましょう」
「ん?」
「さっきのベンチよ。時間も時間だしホテルに着いてしまったら詳しく話せないわ」
「時間は大丈夫か?」
「大丈夫よ。見咎められたら正直に答えるだけ」
「嫌な予感がするが、何て答えるんだよ」
「一世一代の告白をしてきただけです。祝福してもらえれば幸いですが、私達が規則を守らずに外出していたのは申し訳ありませんでした」
「おい」
「だめかしら?」
「はずかしくないのか?」
「比企谷くん」
「おう」
「私、虚言は吐かないもの」
きょとんとした後、彼は苦笑しながらこう言ってくれた。
「別に嘘ついてもいいぞ。俺もよくついている」
これは文化祭後のやり直し。
「今はあなたを知っている。でも、もっとあなたを知りたいから」
「……そうですか」
きっと、人生で一番の笑顔で私は彼に告げる。
「ええ。そうよ。やっぱりあなたと友達になることなんて、有り得なかったわね」
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