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時として、映画と現実の間にある境目は取り払われてしまう
映画の世界と現実とが、相互に流通可能な一つの連なりになってしまうのだ
ウィリアム・フリードキン
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――2007年
四月のぬるい風にまどろんでいるうちに、大学生になっていた。
新生活を始めてはや二週間。入学手続き、授業の選択、新歓コンパにサークルの勧誘攻勢。そして新居への引っ越し。はじめての一人暮らし、自炊にバイト探し、開放感に満ちた昼とたまらなく寂しい夜。色々なことが春一番とともに吹き抜けて、僕はそのつむじ風に巻かれてくるくると回転した。
電化製品は最低限のものだけ揃えて、実家からはパソコン一台だけ持ってきた。できるかぎり節約した生活を送ったつもりでも、気がつけばかなりの額が出て行ってしまった。
忙しさの渦に身を任せているうちに僕の連続性は失われ、僕はいったん全て解体されてまた組みなおされた。何もかもが一新され、新たな義務と任務が僕を規定する。
僕はちらりとカレンダーを見る。バイトの給料日を表す赤い丸まではあと3週間ほど。それまではなるべく無駄な出費を抑えたい。
そんなわけで、僕の夜の娯楽はもっぱらインターネットになっていた。画面上では、小さなスクリーンの中で懐かしのスーパーマリオが走り回っている。
動画共有サイト「ニコニコ動画」がスタートしてしばらく経つが、ユーザーの登録数は増える一方のようだ。これまでもyoutubeなどの海外サイトで動画配信は行われていたが、このニコニコ動画では動画の上にコメントを流せるという機能が受けて、爆発的な盛り上がりを見せている。ユーザー登録数は約30万人。とはいえこれは現在までに開放されたアカウントの数であり、開放待ちのユーザーは100万人以上とも言われている。
今見ているのはいわゆる「改造マリオ」
1985年に発売された「スーパーマリオブラザーズ」のデータを改造し、独自のステージを搭載したソフトのプレイ動画である。つまりはエミュレーター、不正行為なのだが、こうした公では扱われない動画が人気となるあたり、ネットの懐の深さ、あるいは闇の深さを感じずにはいられない。
「死屍累々シリーズ」と銘打たれたこの動画、その想像を絶する難易度を、プレイヤーが少しずつ成長しながらクリアしていくさまが人気を呼んでいる。一つのステージをクリアするのにマリオが30人ぐらい犠牲となり、それでもなお、ちゃんとクリアできてしまうという絶妙の難易度にいつも感心させられる。ゲームとはキャラクターが成長するのではなくプレイヤーが成長するものだ、と言ったのは誰だったろうか?
画面上のマリオがあまりにも広すぎる谷間を飛び越え、ゴールの旗にたどり着く。すると画面に「おおおお」というコメントが無数に現れ、わずかな処理落ちを誘発しながら右から左へと流れていく。処理の関係なのか、いくつかのコメントは端に到達できずに消滅する。この、まるで何十人もで同時に動画を見ているような臨場感がニコニコ動画の魅力なのだろう。もちろん僕もキーボードの「O」を長押しして、コメント入力欄に現れる「お」の行列を画面上に流し込む。これだけの盛り上がりがある動画ならば、いつかは公式でも改造マリオが作れるソフトが発売されるだろうか? そんなことをふと思う。
動画はそこで終わった。次は何を見ようかと思い、ランキング画面に切り替える。特にお気に入りのシリーズがあるわけでもないので、その日のランキングで上位に入っているものを適当に見るのが習慣だ。
「ん?」
と、声を漏らす。一位にアイドルマスターの動画が入っているようだ。「エレクトロ・ワールド」と曲名がある。右手がマウスを滑らせる。
クリックして、動画を見る。
画面から映像と音が流れ出し、瞬間、僕の瞳孔がぎゅっと狭まる。意識が頭蓋より前にせり出して画面に引きつけられる。
動画を見つめているうちに、僕は自分が解体され、再構成されるような感覚を味わった。
僕の見ようとしている以上のものが僕の目に流れ込んできて、衝撃が電気のように僕の背骨を突っ走って、頭の頂点から四肢の先へと充実していく。僕の指先がカタカタと震え、コメント機能すら忘れて、あるいは画面のコメントすら読めないほどに映像そのものに没頭する。音楽がやさしく耳から忍び入り、僕の中枢を激しく揺さぶってくる。
「何だ……これ」
アイドルマスターとは、Xbox360のソフト「THE IDOLM@STER」のことだ。新人アイドルを育成するという趣旨のゲームであり、プレイ中には3Dモデリングされた女の子が多数登場し、プロデューサーである主人公との交流を積み、レッスンを積み、そしてステージで歌と踊りを披露する。ニコニコで流行していたのは知っていたが、僕はというとゲーム自体よく知らなかったし、そのMADといわれても興味が持てなかったのが正直なところだ。
それがどうだ、この完成度は!
この曲はニコニコで流行しているものではない。またアイドルマスターのゲーム中にかかる曲でも、あるいはキャラを演じた声優が別の場所で歌った、いわゆる「中の人繋がり」でもないらしい。
元の曲を歌ったのはPerfumeという、アイドルマスターとは何の関係もないアイドルグループだ。そのどことなく無機的な印象を与える声と、物悲しさを感じさせる退廃的な歌詞、そして2007年ではもはや懐かしい、大時代なものとなってしまったテクノサウンドが、まさに仮想世界の偶像(アイドル)である3Dグラフィックのキャラに恐ろしく調和している。しかも画面をモノトーンに加工したりと、エフェクトを飛ばしたりと演出のセンスも素晴らしい。
画面上に吹き荒れる賞賛と驚愕のコメント群。動画が終わるのももどかしく、僕はまた最初から聞きなおす。こんなとき、動画のリピート再生機能でもあればいいのに、ともどかしく思う。
何かを感じる。時代のうねりともいうべき大きな波を。
かつて映画の世界には「大列車強盗」「月世界旅行」「カビリア」「イントレランス」などの偉大なる作品があった。それは娯楽として優れているだけでなく、存在そのものが革命であり、世界に齎された新たな元素だった。それらは映像の編集という概念を、特殊効果を、カメラを移動させながらの撮影を、単なる劇場型の芝居にとどまらない壮大なテーマを秘めた物語を生み出し、そのたびに映画の世界は深く広く発展した。
ああ、僕はもしや、何か途轍もない怪物が生まれる瞬間に立ち会ったのだろうか。
画面上ではデータの海を血潮とする歌姫たちが、何かを呼び覚まそうとするかのように歌い、踊り、見るものを夢幻の彼方へと連れ去っていく。
そして果てしなく夜が更ける。
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次の日、僕は電車を乗り継いで秋葉原へと向かった。
メッセサンオーにてXbox360を、そして「THE IDOLM@STER」のソフトを購入する。荷物は背中のザックに突っ込み、今度は雑居ビルの中へ。
節約? そんな言葉はこの世から消した。
訪れたのは地上四階、パソコンソフト専門店。
僕は適当に売り場をうろつき、動画編集ソフトを探す。最初はフリーソフトを使うつもりだが、一応市販のものもチェックしておいて損はないだろう。
そう、僕はアイマスMADを作ろうと思っていた。
動画編集にも、アイマスにも全くド素人の僕が挑戦するなんて、我ながら無謀なことだと思う。それがどのぐらい無茶なことなのか自分でも本当はわかっているのだが、理性の静止に逆らって動いてる今の僕は、不思議な興奮に包まれていた。絶対に飛び移れないと思える広さのガケに、勇敢に身を躍らせるマリオはこんな心境なのだろうかと馬鹿なことを考える。それはヒモ無しバンジージャンプの昂揚、全速力で突っ込むヘアピンカーブの快感。
MADという言葉はなにかの略称ではなく、「気が狂った」「バカげている」という意味だという。大昔に流行った、メチャクチャな編集を施したり、耳が痛くなるような狂乱の音楽を封じ込めたカセットテープを「MADテープ」と呼んだらしく、そこから言葉だけが脈々と受け継がれている。つまりは既存の素材を編集し、加工し、新たなおかしみを引き出す音楽作品、現在であれば映像作品をMADと呼ぶわけだ。こんなものの作成に手を染める人間は、やはりMADだということか。僕は自嘲の笑みを漏らす。
それにしても、動画編集ソフトと一口にいってもいろいろあるものだ。果たして他のMAD製作者は何を使っているのだろうか。動画作成について教授してくれる動画もあるが、まだ数が少なく、内容も専門的で良く分からなかった。いずれはニコニコ動画に最適化された動画作成ソフト、あるいはレンダリングソフトなどが開発される日も来るだろうか。
左右にそれぞれパッケージを持ち、両者を見比べていたとき、後方から突然怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから、あのPCは不良品どころじゃない! 詐欺まがいの粗悪品だって言ってるでしょう!」
「は、はあ……」
女性の声である。かなりの剣幕で怒鳴っているようだ。
その声の方向を見たとき、一条の閃光が僕の目を射抜いた。ショップの明るすぎる照明に反射する、その前頭部。ヘアバンドで髪の毛を全部後ろに撫で付けているせいか、おでこの部分が異様に広く見える。
「ハードディスクから異音がするのよ! あのカタカタって音は部品の結合不良よ! 内部を見たら冷却流路はメチャクチャ! カタログ通りの部品がついてない! 別の廃棄品からメモリーを取り出して流用してる! とんだジャンク品だわ! ストレステストで性能の8割も出ないってどんな疲れ果てたGPU拾ってきたのよ!!」
「で、ですから、現品とレシートとの引き換えで購入代金はお返し致しますから……」
「そういう問題じゃないわ! 誰がお金なんて欲しがってるもんですか!」
怒鳴っているのは女の子だった。上等そうなワンピースと洒落たブランドバッグ。ばっちりとアイラインを引いているところから見て大学生かと思われるが、その小柄な体型と、ハンドベルをぶん回すようなキンキン声が未成熟な印象を与える。目がとても大きく、おでこはそれよりも大きかった、いやそれは当たり前か。
店員は気弱そうなやせぎすの男で、女の子のあまりの剣幕に押される一方である。どうやら不良品のPCをつかまされた女の子が、店員に食って掛かっているらしい。
女の子の声はどんどん大きくなり、そして言ってることはだんだん混乱していく。購入したPCのことだけに留まらず、店内のPCがジャンクばかり並んでるとか、もう一度この店に出直すことになった手間がどうだとか、最初の電話での対応がどうだとか、滝のように、いや、ビルの発破解体のように一気にまくしたてる。可愛そうな店員さん。こういうときどう対処していいのか分からないのだろう。最初から、謝ってくれとだけ言っているのに。
その時、僕の視覚野の上端あたりで、何かが揺れ動くのが見えた。
パソコンのモニターである。28インチはありそうだ、ブラウン管タイプなら重量もかなりのものだろう。
怒鳴り散らしている女の子のすぐそばにキャビネットのようなものがある。その上に置いてあるモニターが、ゆらゆらと揺れている。
なぜ、あのモニターはあんなにギリギリのところに置いてあるんだろう?
ありえない揺れ方をしている。
嘘だろ、おい。
手に持っていたパッケージを落とす。僕の眼は大きく見開かれていただろう。一瞬の躊躇、手を伸ばすべきはモニターか。それとも。
僕は女の子の背中を突き飛ばした。モニターが僕の顔の横を掠める。全身が総毛立つ、がんっ、中身の詰まった重量物が落ちる音。ワンテンポ遅れている店員の悲鳴。
「な、何なの……?」
よろめいたまま数メートル移動し、その場に膝をついて倒れる女の子が無事なのを見て、僕はほっと安堵をつく。そして店員を睨みつける。僕が怒鳴る前に、女の子の天を引き裂くような声がとどろいた。
「棚の! 上ぐらい! ちゃんと整理しなさい!!! なんてお店なの!!!!!」
素晴らしい金切り声。今の叫びで店内のガラスが全部割れたとしても僕は驚かない。店員はというと強風に吹かれたタンポポみたいにのけぞり、両手で顔を隠して小さな悲鳴を漏らす。
僕が何か言う必要もないかなと思い、ちらりと店内を一瞥したあと店を出て、階段を下りる。
「ちょっと、待ちなさいよっ!」
呼び止められる。振り向いて階段の上を見上げると、腕を胸の高さで組んで堂々と立ち尽くす姿。階段室の薄暗い照明の中でも輝きを失わないその前頭部。
「お礼ぐらいするわよ!」
※
秋葉原UDXの中にあるお好み焼き屋AKIBA-ICHI。
目の前で焼かれているのは、豚・エビ・タコ・イカその他もろもろ、実にカラフルなお好み焼きである。その名もアキバ焼きというらしい。
秋葉原のようにいろいろ入っているからアキバ焼きだそうな、フランクなネーミングセンスに好感が持てる。ミックス焼きという名前のことはしばらく忘れよう。
僕の前に座る人物の名前は、釘宮伊織というらしい。なぜお好み焼き屋なのかというと、この店のアキバ焼きのことを噂で聞いて、一度食べてみたいと思っていたそうだ。
一人では入りづらい店に付き合わされただけのような気もする。まあいいか。
「……あ、おいしい!」
一口食べてそう感想を漏らす。伊織の大きな瞳はくるくると動き、若々しい感情のゆらめきを表現していた。
「こんなにおいしいとは思わなかったわ! ねえ?」
「そ、そですか……」
確かにまずくはない。が、しかし、取り立てて特別な味でもない。つまりこれはお好み焼きとして当然備えているぐらいの美味さだ。
意外と普段の食生活がつつましいのだろうかと思っていると、とんでもない呟きが聞こえてくる。
「本当においしい……今度サトウさんに作っていただこうかしら」
ん?
よし、ちょっと待った、了解。
整理させてくれ。
作っていただこう、というからにはそのサトウさんは彼女の食事を日常的にまかなう人物なのだろう。友人? 親? あるいは……そう、家政婦さん。もしかするとシェフと呼ばれる人物かもしれない。
そして、普通のお好み焼きの範囲を大きく脱しているとは言えないアキバ焼きへの感動。
目の前の、「こんなにおいしいとは思わなかった」という言葉は、アキバ焼きにではなくお好み焼きにかかるのだ。
8文字で要約しよう。
この子はお嬢様だ。
「それにしても」
ナプキンで口をぬぐって、伊織が話し出す。背筋が伸びていて姿勢が良い、箸の扱いもきちんとしつけを受けている者のそれである。さっきの激昂しているときとはだいぶ違い、今はいかにも育ちのいいお嬢様の雰囲気が漂っている。お好み焼きの匂いと一緒に漂っている。
「秋葉原もだいぶ変わったわね。昔は食事ができるところは少なかったし、ショップの店員は無愛想だったけど、不良品をつかませるようなことはなかったわ」
そうなんですか……と僕は相槌を打つ。東京で一人暮らしを始めるまで秋葉原には1・2度しか来たことが無かったが、たしかにこの街はどんどん変化している。超大型の家電量販店が次々できたり、メイドさんが街にあふれたり、外国人や修学旅行生の観光ルートになったりと、時折耳にするニュースだけでもこの街の激動を知るには十分だった。今いるUDXビルもまた、秋葉原の変化を予兆させるものの一つらしい。
「秋葉原へはよく来るの?」
「ええ、ソフマップが中央通りにできた年から来てるから……長いお付き合いね」
ソフマップがいつごろ中央通りにできたのか知らない。伊織はどう見ても十代だし、4~5年前ってところだろうか。
「その翌年のWindows95騒ぎのときは大変だったわ。3.1の時はニュースになんてならなかったのに、あの騒ぎはいまだに良く分かんない」
……ちょっと待て。
Windows95? その発売日は…1995年だよな、もちろん。今は2007年だから、ええと。
「12・3年前から秋葉原に来てるの?」
「そうよ、当時は幼稚園児だったから、家のものに付き添ってもらってたけど」
ディープな幼稚園児もいたものだ。
その後はパソコンについての他愛の無い話を交わした。二言、三言喋っただけでも、伊織が機械関係に並々ならぬ知識を持っていることがすぐに分かる。ド素人の僕ですら分かるのだから相当なものだ。そういえば「釘宮」という名前は、釘を鍛えることを生業とする鍛冶師の家系であり、つまりは技術者の血筋であると想像できる。もちろんただの想像だが。
そして食事も終わり、僕たちは並んで店を出て、秋葉原駅の前で別れた。
改札をくぐるときにちらりと後方を振り返ると伊織はもうこちらを見てはおらず、そしてどこから現れたのか、漆塗りのようなエルダー・ブラックのロールスロイスが滑り出でて、伊織の隣でぴたりと止まった。
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