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パイプ組みの簡易ベッドに沈み込み、体の芯に残る車酔いをゆっくりと溶かしながら、僕は雑駁とした夢を見た。
それは高校時代の一場面が次から次へとスライドのように映し出される夢だった。とても懐かしいような気もするし、あまり振り返りたくないような気もする。懐かしさに胃がしくしくと痛むような、頭痛とともに涙がこみ上げるような。懐郷の思いと悔悟の痛み。そこには雪歩がいたし、あずさ先生もいた。夢を見ながら、ああ、僕の時計はこの頃のまま止まっているのだと思い知らされる。最も楽しく、最も貪欲だったセピア色の時代。ファインダーから覗き見る雪歩と、スクリーンの中を歩く雪歩。
誰かの存在を感じて、僕は寝そべったまま眼球だけで横を見る。手足にしびれたような感覚があり、指一本動かせない。
ベッドの横にある書き物机に誰かが座っている。かりかりと手元を動かすその細い腕、とても儚げな印象のある小さな背中。横からでもわかる大きな額、髪を後ろに撫で付けているせいでより強調されてしまっている。僕はその顔を覗き込みたいと思ったが、起き上がることはできなかった。そして僕はまた夢の底へと沈む。
「…………」
目を覚まして後、軽く自己嫌悪する。
こんな時になんで雪歩の夢なんか見てるんだ僕は。しかも最後の方に出てきた伊織。あの伊織は腕にウサギのぬいぐるみをつけていた。
「無茶苦茶だろ、我ながら……」
もちろん腕のウサギは「THE IDOLMA@TER」に出てくる水瀬伊織の特徴だ。完全にゲームと現実がごっちゃになっている。
と、そこで部屋をぐるりと見渡す。何の変哲もない8畳ほどの部屋だ。机と簡易ベッドと、雑誌の入っている小さなブックラック、壁にはポスターもカレンダーもないし、唯一の窓には分厚いカーテンが下がっている。だだっ広いこのマンションの中にあって、この部屋は異様に狭く感じた。
そもそもここは居室用のスペースではないように思う。あのコンピュータが山積みになっていたホールのすぐ近くにある部屋なので、おそらくは物置としてのスペースではなかろうか。
今、ベッドはここにしかないから、との理由でサトウさんが案内してくれたのがこの部屋である。ここは伊織の部屋だったのだろうか、と僕は直感的に思う。そうでなければ、こんな小さなスペースをわざわざ寝室に改造する必要性はまったくない。おそらくは起きてすぐにコンピュータのあるホールに行けるようにということか。そこまで研究漬けの生活だったのだろうか。
カーテンの外には夕闇がせまっていた。確かここに到着したのが朝の11時ごろだから、随分たっぷりと眠ってしまった勘定である。空腹だったし、体の芯に疲れが残っていた。
部屋を出て、ホールの方へと向かう。照明は付いていたものの、サトウさんの他にはもう誰もいなかった。ただパソコンの類はその散乱ぶりに拍車をかけ、コードは生い茂るイバラのように這い回り、CPUや何かの回路の一部が、歩き回るたびに靴の底で砕ける。
「お目覚めですか?」
部屋の片隅に佇んでいたサトウさんが、僕の方を向く。あいかわらずのメイド服に、大きな丸メガネと黒の三つ編み、この荒れ果てた場所に不思議と調和している気がした。
「あの人たちは何処に?」
「皆さんもう帰られましたよ。しらみつぶしに調べていたようですが、結局ここに『AMI』は無い、伊織様が持っていったか、あるいは最初から完成していなかったという結論になったようです」
「釘宮さんはここにあるって言ってたじゃないですか」
僕はポケットの中にあるICレコーダーを意識する。
「そうなのでしょうね、伊織様は意味のない嘘をつくような人ではありませんでした。わざわざ大勢を呼んだからには、確かにここにあるのでしょう。……というより、腹を割った話をすれば、私はそれがここにあることを知っています」
では、なぜ見つけられないのか。
そもそも、なぜここにはこんなに大量のパソコンがあるんだ?
ディスプレイ、キーボード、ケース類、多くの作業を並列にこなすために、複数台のコンピュータを用意するというのは理屈としては分かる。しかし、基本的に伊織一人が作業する舞台としては多すぎる。かなり古いモデルまで捨てずに使っているし……。
と、そこまで考えて僕は想像する。これは、伊織が始めてコンピュータに触れてから、現在までの全ての過程の蓄積だ、伊織の歴史であり、パソコンの近代史だ。
そして伊織は何を研究していたか、もちろん「AMI」とかいうプログラムだ。あの小さな部屋で眠り、起きている時間のほとんどをこの作業に傾けていたのだ。ということは。
「そういうことか」
「おや」
サトウさんは意外そうに僕を見る。
「分かりましたか」
僕はうなずき、上着からICレコーダーを抜き出す。
「これが鍵ですね」
「その通りです」
でなければ、わざわざ高価なICレコーダーを複数本用意する必要もないし、そもそも適当なパソコンにメッセージの音声データだけ入れておけば良い。
サトウさんは僕からICレコーダを受け取り、適当なパソコンとUSBで接続する。すると、そのコードの伸びる端でディスプレイが青く光り、何かのプログラムを読み込んでいるとの表示。次に、すぐ隣のディスプレイが青一色に染まり、その隣、その上と、どんどん青の領域は広がっていく。
「ここにある全てのコンピュータが『MAMI』なんですね」
「ええ、その通りです」
青の光は染みのように広がっていく。
「いわゆる分散コンピューティング。クラスタ・コンピュータと言われるものですね、複数台のパソコンを連結して、高い処理速度を獲得するものです。というよりも……」
サトウさんはひとつのディスプレイの前にしゃがみこみ、その表面を人差し指でなぞる。
「伊織様の愛情でしょうか、自分の触れたコンピュータは、例えどれほど古いモデルでも『MAMI』の一部にしたかったのでしょうね。数台が欠けても全体としての動きに支障はないそうですが、どれか一台だけを調べてもこれは見出せないようになっています。なまじ知識のある方には見つけられないのですよ。専門家ですら無理なのです。あの方は天才ですからね」
僕は部屋を眺める。かなり高い天井からの照明よりも、今はディスプレイの明かりの方が光量が多い、海の底に沈んだかのように、柔らかな青い光がその場を取り囲む。
その幻想的な青い光に包まれるうち、僕はなんとも言いようのない物悲しい気分に捕らわれた。
いくつかの疑問が浮かんでは消える、なぜこれを置いていったのか、そもそも何のためにこれを作ったのか、伊織はいまどこにいるのか、それらは重要なことのようでもあり、僕が気にすべきことではないような気もする。
「サトウさんが僕に電話をかけてきたのって、今朝の午前2時ごろでしたね」
「はい」
「もしかして、そんな時間に釘宮さんはマンションを出たんですか?」
「そうです。小さな衣装ケースだけを持って……あなたを含め先ほどの方々をここに呼ぶように言い残して、一人で出てしまわれました」
「一緒に行こうとは思わなかったんですか?」
「伊織様の言いつけを守らねばなりませんでした。それに、私は日本を出られないのです。海外に行くと拘留されてしまうんですよ」
「……」
なぜだ。
他の疑問はどうでもいい、その一点だけが気にかかる。
なぜ、伊織は『一人で』出たのだ?
と、そこで、ホールの入り口の大扉が勢いよく開き、大量の光が静謐なる世界になだれ込む。続いて響く多くの足音。
「む……」
サトウさんが眉根をしかめて背後を振り向く。僕はディスプレイを見つめたまま動かない。
「千早……まだこんなにいたとは、かの国も本腰を入れているようですね」
じゃきっ、と鈍い金属音が僕の耳に届く。それが具体的に何の動作音かは分からないが、かなり大きな銃器の音だというのは直感的に分かった。
「サトウさん、やめてください」
「しかし」
「伊織の部屋を荒らさないでください」
サトウさんはしばらく迷っていたが、しばらくの後、銃をおさめた気配があった。
『AMI』のメソッドを組み込まれているという千早たちは、伊織の生み出した『MAMI』とはいわば兄弟ではないか。一度は殺されかけた相手だというのに、僕は不思議とまったく恐れを感じなかった……。