「着きました。ここです。」
「早く入ろ!」
ココアは待ちきれない足取りで勢いよく扉を開いた。鈴の音が軽やかに鳴り、そのまま店内へ飛び込んでいく。相変わらず行動が早い。
苦笑しながら俺たちも続いて店の中へ足を踏み入れた————その瞬間、思わず息を呑んだ。
天井からは無数のランプが吊るされ、そこから発せられている白く澄んだ灯りが店内を包んでいた。壁際には木棚やガラスケースが並び、その中には小さな置き時計、色とりどりの花瓶、繊細な食器、そして俺たちの目的であるカップ、様々な雑貨が整然と並べられている。
「わぁ………すごい……!」
ココアは瞳を輝かせ、店内を見渡しながら子供のようにはしゃいだ声を漏らした。その姿に少しだけ納得した。何故なら俺も心を奪われるように魅入ってしまったからだ。
「どうですか?たまにしか来られないんですが、私のお気に入りの店なんです!」
そう言って、少しだけ胸を張るようにシャロは微笑んだ。
「見て見てこのカップ可愛い!あ、こっちはウサギ柄だよ!猫柄もある!」
ココアは棚から棚へと移動しながら、目に入ったカップを指差して大興奮だ。
それを見たチノは小さく溜息をつき、
「まったく、子供ですか。」
と、呆れたように呟いた。
「まあ、楽しみにしてたみたいだし、大目に見てやろう。私もこういう店に来るのは初めてだから、ちょっと楽しみにしてたし。」
隣でリゼが少し照れ隠しをするように呟いた。俺もどこか少しだけ緊張していた。昔は父さんと一緒に量販店でカップを買ったことはあるが、こんな高級感が漂う店は初めてだ。
「ねえねえ、これ見て!このカップ、持ち手がハートになってるよ!」
ココアは棚の前でぴょんぴょん跳ねるようにしながら、次々とカップを手に取ろうとしている。
「ちょ、ココア!勝手に触ったらダメよ!」
シャロが慌てて駆け寄り、その手を軽く押さえた。
「え?でも持たないとちゃんと見れないからわからないよ?」
「それはわかるけど!だったらまずはお店の人に聞いてから………って、もういいから一旦置きなさい!」
………完全に振り回されてるな。見ていて他人事じゃない気がする。
「すみません、ここのカップって触っても大丈夫ですか?」
シャロが少し背筋を伸ばしながら、近くにいた店員に声をかけた。奥から現れたのは柔らかな雰囲気を纏った女性店員だった。落ち着いた笑みを浮かべながら、こちらへ歩み寄ってくる。
「ええ、大丈夫ですよ。割れ物ですので、気を付けてご覧くださいね。」
「ありがとうございます。ほらココア、いいって。」
「やったー!」
ココアはぱぁっと表情が明るくなり、今にも跳ねだしそうな勢いで棚へ駆け戻った。
「どれが良いかな?綺麗な柄もいいけど………チノちゃんとお揃いにするならやっぱり可愛いのがいいかな?あえてカッコいいのもいいかも………あ、でもチノちゃんは可愛いからやっぱり可愛い柄の方が………。」
などと独り言を呟きながら棚に並べられたカップを次々と手に取っては眺めている。
………あれはもう完全に自分の世界に入ってるな。あのモードに入ったら止まらないからそっとしておこう。
「俺たちも見て回るか。」
「そうだな。」
「はい。………あの、リョーマさん。私、ココアさんとお揃いのカップを買うことになってるんですか?」
「………嫌だったら断っていいからな?」
チノは少し考えた後、小さく頷いた。
「そうですね。もし買うことになったら、代金はココアさんに払わせます。」
………意外と容赦ないな、チノは。
こうして俺たちは一旦別れ、
ふと目を向けると、ティーポット、アロマキャンドル、様々なガラス細工が並べられていた。
パッと見ただけでは気付かなかったが、改めて見て回ると、店の雰囲気の理由が少しわかった気がした。
一つひとつが丁寧に並べられていて、ただ置かれているだけじゃない。
まるでそれぞれに意味があるみたいだ。
同じ物でも形や模様が少しずつ違っていて、見ていて飽きない。
天井から灯りを受けてガラス細工が白くきらりと輝いている。
カップを買いに来たはずなのに、気付けば色んなものに目移りしてしまっている。
……ココアがあれだけはしゃぐのも、無理はないか。
「ええ!?」
そう思いながら視線を巡らせていると、突然ココアの驚愕の声が響き渡った。俺は思わず足を速め、ココアのもとへ向かった。気付けばチノたちもその場に集まっていた。
「どうした?」
「お兄ちゃん……あれ……」
と言いながらココアが一つのカップを指差した。視線の先にあったのは————他のものとは明らかに違う存在感を放つカップだった。
そこだけ他に何も並べられておらず、ガラスケースに収められ、まるでそれだけが主役であるかのように、丁寧に飾られていた。
持ち手と縁には繊細な金彩が施されており、カップの側面には花畑が、そしてその中心に一羽のウサギが描かれている。その繊細さから、長い時間をかけて作られたことが一目で分かる。
思わず
そう思いながら視線を落とすと、すぐそばに金のプレートがあった。見ると、そのカップの作品名が書かれており、その下には値段が記されていた。
数字は——『5』が一つと『0』が四つ。合計五桁の数字だ。
………ん?……金額が五桁?
………じゃあ、これは———
「ご、五万円!?」
「……た、高すぎます………!」
思わず声を上げた俺に続くように、チノも目を見開いた。
「職人さんが作ったものなら、それくらいしますよ。」
対してシャロは、さも当然かのように言ってきた。
……そういうものなのか?
俺が今まで見てきたカップはせいぜい二、三千円、高くても一万円しないくらいだった。
いくら職人が作ったものとはいえ……五万円もするものなのか?
……いや、俺の知識がないだけかもしれないが。
「………ん?これって………」
そう考えていると、リゼが一歩前に出て、膝に手をつき、身を
「どうした?」
「いや……これ、どこかで………」
リゼは何かを思い出すように
「……あ!思い出した!」
その表情が、ぱっと明るくなった。
「これ昔、的にして撃ち抜いたやつと同じだ!」
「「「「はぁ!?」」」」
撃ち抜いた!?
周りも同じだったらしく、一斉に驚愕の声が上がった。
「リ、リゼ……いくらなんでも職人が丁寧に作った物を
「そ、そうだよ!職人さんが頑張って作ったのに酷いよ!」
俺の言葉に続くように、ココアはリゼを咎めるように言った。
「ご、誤解するな!完全に割れて使い物にならなくなってた物だったから問題ないはずだ!」
リゼは顔を真っ赤にしながら必死に弁明していた。
「………それでも……普通は的に使ったりは……」
「別におかしくないだろ!?お前らだって使わなくなったり、壊れたものがあったら捨てるだろ!?私はその前に的に使っただけだぞ!?」
「……まあそうだけど、俺だったら的には……使わないな。」
俺がそう言うと、みんなは何も言わず、静かに頷いていた。
「……な、何だよ……私が、おかしいのかよ………」
まずい!リゼが涙目になってきた!
「ご、ごめん!別に責めてる訳じゃないぞ!?」
「そうだよリゼちゃん!ただちょっと……ワイルドだなって思っただけ!」
「……ワイルドって何だよ……」
俺とココアで励ましてみたが、リゼはまだ少し不満げに、小さく呟いた。
「いや、褒めてるんだよ。普通は思いつかないだろ、そういうの。なんだかリゼらしいっていうか。」
「私、らしい?」
俺がそう言うと、リゼは一瞬きょとんとした後、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「うん!だって普通じゃないところがリゼちゃんの良いところだもん!」
「それフォローのつもりなのか!?」
……フォローになってないぞ、それ。
即座にツッコむリゼだったが、その声はさっきまでの沈んだ声ではなかった。
「でもでも!的にするくらい狙うの上手ってことだよね!?すごいよ!」
「……まあ、そうだな。」
ココアが目を輝かせながら言うと、リゼは少しだけ得意げに胸を張り、ほんの少しだけ口元を緩めた。
相変わらずココアのフォローは極端だ。うまくいくか、変な方向に転ぶかのどっちかだ。見てるこっちは毎回ヒヤヒヤする。
「でも、リゼちゃんの家に高級カップがあったなんて、なんだかお嬢様みたいだね!」
ココアがそう言うと、リゼは少し気まずそうに視線を逸らした。
「あれ?知らなかったの?」
シャロがきょとんとした顔で俺たちを見る。
「リゼ先輩、本物のお嬢様よ?」
「「「えぇ!?」」」
俺たちの驚愕の声が店内に響いた。
「ちょ、ちょっと待てシャロ!別にわざわざ言う必要ないだろ!?」
「え?でも有名な話なんじゃ………」
「私の中では有名じゃなくていいんだ!」
顔を赤くしながら抗議するリゼに、ココアは目を輝かせながら詰め寄った。
「すごい!じゃあリゼちゃんのお家って、おっきなお屋敷だったりするの!?」
「そ、そんな大したものじゃない!」
絶対大したものだろ、それ。
それにしてもリゼがお嬢様だったとは………。
気になったんだけどお嬢様ってことはボディーガードとかいたりするのか?漫画とかでよく見る黒いスーツに黒いサングラスを着けたような。
………俺、不本意とはいえ強盗と間違えてしまったり、下着姿を見たりしてしまったけど、
「………リョーマ?大丈夫か?顔が青ざめてるぞ?」
「え!?いや、大丈夫、です!……えっと………リゼ、お嬢様?」
「その呼び方やめろ!今まで通りリゼでいい!」
リゼはムッとしたように頬を膨らませながら、俺を睨んできた。
だがその表情は怒っているというより、変に気を遣われることへの居心地の悪さが混じっているように見えた。
………でも仕方ないだろ。
今まで『軍人気質な女の子』っていう認識だったのに、急に『本物のお嬢様』っていう新情報が追加されたんだぞ?
脳が追い付かない。
「わかった!わかったから!今まで通りにするから!」
俺が宥めるように言うと、「ふん……」と言ってそっぽ向いてしまった。
「俺たちがこの街に来るより前からラビットハウスで働いてたのに、チノは知らなかったのか?」
「はい。高校生というのは聞いてましたけど、どこの高校なのかはあまり言いたそうじゃ無かったので。」
やっぱり気を遣われるのが嫌だったんだな。なら俺も早く慣れないとな。
「あの、リゼ先輩ごめんなさい。余計なこと言ってしまって………」
「………いや、シャロは悪くないよ。あらかじめ言ってなかった私が悪いし。」
そう言ってリゼはシャロを安心させるように、小さく笑った。
「じゃあリゼちゃんが通ってる高校ってお嬢様たちがいっぱいいる学校なの?」
「ま、まあな。」
「すごい!じゃあ毎日紅茶とか飲みながら授業するの?」
「どんな学校だそれ!?授業中に飲むわけないだろ!」
「あとあと!廊下とかですれ違ったら『ごきげんよう』って言いながら優雅に歩いたりするの?」
「それは………まあ、そうだな。私は………言ったことないけど。」
「ええ!?本当に言うんだ!?」
ココアは目を丸くしながら驚きの声を上げた。
「お嬢様学校って本当に実在するんだな。」
俺が思わず呟くと、リゼは不満そうに眉を寄せた。
「だ、だから大した学校じゃないって。」
「いえ、充分大した学校だと思います。」
チノが真顔で言い切った。
「あれ?そう言えばシャロちゃんってリゼちゃんと同じ学校なんだよね?」
「え、ええ。そうよ?」
突然ココアに話を振られたシャロは、一瞬肩を跳ねさせながら答えた。
「シャロちゃんもお嬢様なんだ!」
「ええ!?あ、えっと………」
何故かびっくりして言い淀んでいる。
「じゃあシャロちゃんは学校で『ごきげんよう』って言うの!?」
「ええ……まあ、そうね。」
「確かにシャロはいつも言ってるよな。私よりお嬢様だよ。」
「そ、そそそそんなことないです!リゼ先輩の方が私なんかよりずっとお嬢様です!私は本当に普通ですから!」
「じゃあシャロちゃんのお家もお屋敷なの?」
「え……べ、別に普通よ普通!い、一般的な広さよ!」
顔を真っ赤にして、まるで誤魔化すように『普通』繰り返すシャロ。
……そんなに否定しなくてもいいのに。
「お嬢様って普段どんな物食べてるの?キャビアとかトリュフとか食べてるの?」
「えっと………そ、そういうのはリゼ先輩に聞きなさいよ。リゼ先輩の方が詳しいと思うから。」
どこかぎこちなく視線を逸らしながら、シャロはそう言って話題をリゼに移した。
「食べたことはあるけど、普段はそういうのは食べないな。私が良く食べるのはジャンクフードだな。あとレーションとか。キャンプの時に食べるとすごく美味いんだぞ!」
「れーしょん……?って何?」
「保存食みたいなものだ。種類によっては結構美味いぞ!ココアも食べてみればわかるはずだ!手軽に食べられるものってすごくいいよな!」
……お嬢様が勧める食べ物じゃない気がする。
俺のイメージだと、庭で紅茶を飲みながら優雅にティータイムを楽しんだり、登下校は高級車で送迎されるものなんだけど。
今の時代は違うのか?漫画の中だけの話なのか?
「シャロもそんな感じなのか?」
俺は横にいたシャロに聞いてみると、
「い、いえ!私は本当に普通ですよ………。ご、ごく普通です!」
……妙に『普通』って言葉を強調してるな。
もしかしてシャロも、リゼみたいに変に気を遣われるのが嫌なのか?
お嬢様って聞くと、つい特別扱いしそうになるけど、本人たちからしたらそれが面倒だったりするのかもしれない。
リゼみたいに「気にするな」っていうタイプとはまた違うけど、あまり家の話を広げたくない感じがする。
……もしかすると、リゼ以上の名家なのかも。五万円のカップを見ても特に驚かなかったし。
だからこそ変に目立ちたくなくて、必死に隠してるとか。
そう考えると、あの歯切れの悪さにも妙に納得がいった。
お嬢様にはお嬢様なりの苦労があるのかもしれない。
シャロも、リゼと同じように生まれながらのお嬢様なんだ。
俺には想像もつかない世界だけど、本人が触れてほしくないのなら今まで通りに接するのが一番だろう。
「ねぇねぇ!みんなこれ見て!」
そう考えていると、少し離れた所からココアの弾んだ声が聞こえた。
振り向くと、いつの間にかココアが棚の前でカップを持ちながら、こちらへぶんぶんと手を振っている。
「今度は何を見つけたんだ?」
俺たちが近づくと、ココアは嬉しそうにマグカップを見せた。
見てみると、白を基調としたシンプルなカップに両腕を広げたウサギのイラストが描かれただけのカップだった。
……可愛いとは思うけど、ココアが大騒ぎするほどか?
「………普通のマグカップだな。」
俺が率直な感想を言うと、
「えぇー!?お兄ちゃんわかってない!」
ココアはむっと頬を膨らませると、同じカップをもう一つ手に取り、
「これ見て!」
と言って、同じ二つのカップをくっつけて見せてきた。単体で見たときは、ただ両腕を広げてるだけにしか見えなかったが、こうして並べてみると印象が変わる。二羽のウサギが手を繋いでいるように見えた。
「ね!?可愛いでしょ!」
ココアは満面の笑みでカップを掲げた。
棚を見てみると、同じカップがいくつも並べられている。
そのそばには小さな看板が置かれており、そこには
『家族やお友達、大切な人との繋がりを作りましょう!』
と書かれていた。
「みんなでこれ買ってお揃いにしよ!」
ココアが目を輝かせながらそう言ってきた。
「へぇ、いいなこれ!」
「はい!シンプルで可愛いですね!」
リゼとシャロも同じカップを手に取り、触り心地や絵柄を確かめるように眺め始めた。
「私はお姉ちゃんだから、チノちゃんの分は私が払うね!」
「……………。」
チノは何とも言えない表情でココアを見ていた。
さっき、『もし買うことになったら、代金はココアさんに払わせます。』と言っていたが、本当に払わせればココアが姉としての立場を全力で主張してくるだろう。
………どうやらチノの中でジレンマが発生しているらしい。
そんな様子を横目に、俺も同じカップを手に取った。
手に馴染む大きさで、思ったより軽い。触り心地は滑らかで丁寧に作られているのがわかる。
ふと棚に目を戻すと、そばに置かれていた小さな看板の横に価格が記された札が目に入った。
見てみると『2000円』と書かれていた。学生の俺でも十分手が届く金額だ。正直、さっきの五万円のカップを見た後だから安く感じてしまう。
———だが目を引いたのはその金額だけじゃなかった。
その下には、さらに別の価格が並んでいた。
『二個購入 3800円』
『三個購入 5400円』
『四個購入 7000円』
『五個購入 8500円』
『六個購入 10000円』
「………なるほどな。」
思わず苦笑する。
デザインだけじゃない。小さな看板にも書かれていた『繋がり』という言葉も、値段設定も全部同じ意味を持っている。
どうやらこのカップは、一人で使うより、誰かと一緒に使うことを前提に作られているものらしい。
「それじゃ、みんなでこれを買うか?まとめて買った方がお得みたいだし。」
「え?そうなの?」
ココアが慌てて値札に顔を近づけた。
「………ほんとだ!」
………見てなかったのかよ。絶対デザインしか見てなかっただろ。もし十万円のカップだったらどうしてたんだ。
「俺、ココア、チノ、リゼ、シャロで五人か。」
そこまで数えたところで、もう一人の顔が浮かんだ。
「六個まとめて買うとカップ一個分はタダになるみたいだし、チヤの分も入れて六個買うか?」
「賛成ー!チヤちゃんも友達だもんね!きっと喜ぶよ!」
ココアは迷いの欠片も無い笑顔でそう言った。
「いや、まだチヤさん本人は欲しいと言ってませんけど。」
チノが冷静にツッコむ。
「絶対に喜ぶよ!」
「その自信はどこから来るんですか?」
「チヤちゃんだから!」
即答だった。
あまりにも迷いがなさすぎて、一瞬本当に説得力があるような気がしてしまった。
「答えになってませんよ………。」
チノが呆れたようにため息をついた。
「というか、そもそもチヤってマグカップを使うのか?」
俺が少し悩みながらそう言うと、
「使いますよ。なんならティーカップも使います。昨日だってチヤと一緒に紅茶を飲みましたから。」
と、シャロが当然のように答えた。
和菓子屋の娘だから、てっきり和菓子に合う飲み物ばかり飲んでるのかと思ってたけど、それなら大丈夫そうだな。
「じゃあチヤの分は問題なさそうだな。」
「はい、私も賛成です。」
「私も異論はない。」
シャロとリゼも賛成してくれた。となると、残るのは一人だけだ。
「チノちゃんもお揃いにしよ?」
「………本当に買うんですか?」
「うん!みんなでお揃いのカップでコーヒーを飲んだら絶対美味しいよ!」
「………今使ってるカップがありますし、別に必要ありません。」
やっぱり簡単に首を縦に振ってくれない。
最初は『見るだけ』という話でこの店に来たんだ。急に買う流れになれば戸惑うのも無理はない。
「確かに、今使ってるカップがあるなら無理に買う必要は無いかもしれない。」
俺がそう言うと、チノは小さく頷いた。
「でもこのカップって、必要だから買うためのものじゃないんじゃないか?」
「………?」
「ほら、あそこに書いてあっただろ?」
俺はカップのそばに置かれていた看板に指差した。
『家族やお友達、大切な人との繋がりを作りましょう!』
「このカップは一人で使うためのものじゃなくて、大切な人と一緒に使うため、思い出の為にあるんだと思う。」
「思い出……ですか?」
チノは看板とカップを交互に見ている。
「そう。きっと大事なのはカップそのものじゃなくて、みんなで選んだってことなんだ。今は必要ないって思ってても、何年か経ってこのカップを見たら、『みんなでこれを選んだことがあったな』って思い出せる。そういうのが一つくらいあっても良いんじゃないか?」
「そうそう!あとで見たら『みんなで買ったね』って思い出せるよ!」
「形に残る物だからな。」
「このカップを使うたびに思い出しそうですしね。」
ココアたちもそれぞれの言葉でチノの背中を押してくれている。
だが、答えを急かせる必要はない。決めるのはチノ自身だから。
みんなも同じことを思ってるのか、それ以上は誰も何も言わなかった。
しばらくの沈黙が流れる。
そんな中、最初に口を開いたのはココアだった。
「もちろん、無理して使わなくてもいいよ。」
そう言うと、チノは「……え?」と少し意外そうに目を瞬かせた。続けてココアは、
「でも、持っててくれると嬉しい!」
にこりと微笑んだ。
チノは何も言わなかった。ただ、ココアの笑顔を見つめ、それから持っているカップに視線を落とす。しばらくカップを見つめた後、やがて小さく息を吐いた。
「……ココアさんはずるいです。」
「え?」
「そんな風に言われたら……断れません。」
チノは少し照れくさそうに目を伏せた。
「……一つだけですよ?」
「ほ、本当!?」
「……今回だけです。」
「やったー!ありがとうチノちゃん!」
ココアは飛び跳ねるように喜び、飛びつくようにチノをぎゅっと抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、ココアさん!」
「えへへ、お揃いだね!」
「……もう。」
呆れたように言いながらも、チノの口元は小さな笑みが浮かんでいた。
結局、俺たちは六人分のカップを購入した。会計を済ませると、店員さんが一つひとつ丁寧に包装してくれ、その間ココアは「早く使いたいね!」とはしゃいでいた。
紙袋を受け取り、店を後にする。紙袋の重さはそれほどでもない。それでも、みんなで選んだという思い出が詰まっているからか、不思議と手にした紙袋は少しだけ重く感じた。
夕食後、俺とココア、チノは今日買ったカップにコーヒーを注ぎ、ココアの部屋に集まり一息ついていた。
「やっぱり新しいカップっていいね!」
「……いつものコーヒーなんですけど。」
「でも気分が違うよ!」
ココアは両手でカップを包み込むように持ち、嬉しそうに笑っていた。よほど今日の買い物が気に入ったらしい。そんなに嬉しそうな顔をされると、みんなで買って正解だったと思えてくる。
そんな穏やかな時間が流れていた、その時だった。
トントン……
「………ん?」
裏口の方から何か物音が聞こえた。
「お兄ちゃんどうしたの?」
「いや、何か今、裏口の方から聞こえなかったか?」
「私は聞こえなかったけど……チノちゃんは?」
「いえ………」
そう言って二人とも首を横に振っていた。
気のせいか?
そう思い、カップを口に近づけたその時。
トントン!
「……っ!?」
「今何か聞こえた。」
「私もです。」
さっきよりも大きめの音がまた裏口から聞こえた。どうやら今度は二人の耳にも入ったらしく、不思議そうに首を傾げている。
「ちょっと見てくる。」
そう言って立ち上がり、裏口へ向かった。
扉の前まで来ると………気のせいじゃなかった。トントン、と控えめにドアを叩く音が今もはっきりと聞こえる。
だが、一つだけ妙だった。裏口のドアは木製だ。本来ならコンコン、と硬い音をするはずなのに、聞こえてくるのはどこか柔らかい音だ。まるで布か何かで叩いているような、不思議な音だった。
そう思いながら、鍵を開け、恐る恐るドアを開けると………
「………?」
誰もいなかった。思わず外へ顔を出して左右を見回すが、人影はどこにもいない。
「いたずらか………?」
そう呟いてドアを閉めようとした、その時。
もふっ。
「………ん?」
突然足元に何か柔らかい感触が伝わった。
視線を落とすと、見覚えのある黒い毛並みのウサギがちょこんと座り、じっと俺を見つめていた。
「え、あんこ!?」
思わず片膝をついてしゃがみ込んだ。
すると、あんこは嬉しそうにぴょんと俺の肩に飛び乗り、甘えるように頬にすり寄ってきた。
「お前、もしかして追いかけてきたのか?」
そう尋ねると、あんこはそれに答えるように、俺の頬へもう一度すり寄ってきた。
どうやら返事は肯定らしい。
その様子を見ていると、背後から足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「何かあったんですか?」
振り返ると、ココアとチノが裏口までやって来ていた。
「ああ、あんこが。」
そう言って俺は、肩に乗っていたあんこを抱き上げ、二人に見せると、
「あ!あんこだぁ!」
「どうしてここに……?」
「あんこ!もふもふさせてー!」
目を輝かせたココアは、両手を広げながら近づいてきた。そしてココアが、あんこの頭を撫でようと手を近づけた瞬間———
ぱしっ!
「きゃっ!」
あんこは前足でココアの手を払いのけた。
……甘兎庵の時もそうだったから薄々予感はしていたが、やっぱりこうなってしまったか。
「もう!なんでお兄ちゃんにだけ懐くの!?ずるいよ!」
「俺に言われても………。」
こればかりは仕方ない。言葉が通じないんじゃどうしようもないし。
「それより、チヤの所に送り返してくるよ。今頃探してるだろうから。」
「むぅ~。ふん、もういいもん!懐かれない私たちは部屋でコーヒー飲んでるから!行こ、チノちゃん!」
「そうですね。どうせ私たちじゃ懐いてくれませんから、リョーマさんにお願いした方が良いですね。それではリョーマさん、気を付けて送り返してきてください。」
二人はどこか拗ねた様子のまま、部屋に戻ってしまった。完全に不可抗力だと言ってやりたいが、今はあんこを送り返すのが先だ。チヤが心配しているだろうからな。
俺はあんこを肩に乗せると、裏口から外に出た。
夜の街は昼間の賑わいが嘘のように静かで、街灯の灯りだけが、淡く石畳を照らしている。肩の上のあんこは落ち着いた様子で俺を見つめており、時折頬に擦り寄ってくる。
「なんで俺にだけそんなに懐くんだ?」
そう言いながら俺は、頭を軽く撫でてあげると、あんこは気持ちよさそうに目を細めた。
懐いてくれるのは嬉しいけど、飼い主を心配させるようなことは控えてほしいな。きっと今頃、チヤが探し回っているだろうから。
少しだけ足を速めながら石畳を歩いていく。昼間は賑やかだった通りも、今は静けさに包まれ、俺の足音だけが小さく響いていた。
そうして数分歩くと、見慣れた甘兎庵が見えてきた。
入口のそばまで来ると、チヤが両手を口元に添え、
「あんこ~?あんこや~い?」
と、何度も名前を呼んでいた。
「チヤ!」
「あれ?リョーマ君、どうしたの?何か忘れ物………ってあんこ!?」
肩の上のあんこが視界に入った途端、チヤはホッとしたように表情を緩め、俺のもとへ駆け寄ってきた。
「もう、どこ行ってたの?」
そう言ってチヤはあんこを抱こうと手を伸ばした。だが、あんこは俺の服を前足でぎゅっと掴んで離れようとしない。
「こらあんこ、リョーマ君から離れて。」
そう言われたあんこだが、頑として俺の服を離そうとしない。さらに引っ張ると服まで一緒に引っ張られていく。
……ウサギってこんなに力強かったっけ?服が伸びる、伸びる!
「ほらあんこ、あまりチヤを困らせるな。またここに来るから。」
そう言って優しく撫でると、あんこは名残惜しそうに俺を見つめ、それからやがて前足の力を緩め、俺の服からそっと手を放してくれた。
そしてチヤは苦笑しながらあんこを抱き上げた。今度は抵抗することもなく、大人しくチヤの腕の中に収まった。
「ごめんね。迷惑かけちゃって。」
「いや、気にするな。」
そう答えると、チヤは腕の中のあんこの頭を優しく撫でた。
「お店が終わった後、少し目を離した隙にいなくなっちゃって………。探しても見つからないから心配してたの。リョーマ君を追いかけてたのかしら?」
「多分な。まさかラビットハウスまで来るとは思わなかったよ。」
「リョーマ君のこと、よっぽど気に入っちゃったみたいね。」
そう言われると少し照れくさいな。
「俺もまさかここまで懐かれるとは思わなかったよ。」
「でも、無事で良かった。ありがとう。」
チヤは安心したように微笑んだ。これにて一件落着だな。
「それじゃ、俺はそろそろ帰るよ。………ココアたちの機嫌も直さないといけないし。」
「ふふっ、頑張ってね。」
チヤは何かを察したかのように、クスッと笑った。
「じゃあ、またな。」
「ええ。またね。」
チヤは軽く手を振り、店の中へ戻っていった。
俺はそれを見届け、ラビットハウスへ戻ろうと踵を返した。
その時だった。
ガチャッ!
「いけない!夕飯の食材買い忘れた!値引き品まだ残ってるかしら!」
突然、甘兎庵の隣にある物置の扉が開き、中から女の子が飛び出してきた。
「………え?」
一瞬、誰かわからなかった。
だが、その金色で癖のある髪を見た瞬間、俺は目を見開いた。
短パンにTシャツというラフな格好で飛び出してきたその姿は、昼間見た服装とは印象が違っていたからだ。
「………シャロ?」
「………せ、せん……ぱい?」
俺たちはしばらく無言のまま見つめ合った。
シャロはドアノブを握ったまま固まり、みるみる顔を真っ赤にしていく。
対する俺も、突然の出来事で頭が追いつかず、その場で立ち尽くしていた。
「………。」
「………。」
夜の静かな通りに、妙な沈黙だけが流れた。
「………ち、違うんです!これは、その………!」
先に我に返ったのはシャロだった。慌てて何かを言おうとするが、うまく言葉が出てこないらしい。
「………えっと、ここって物置だよな?チヤの手伝いでもしてたのか?でも、その恰好………。」
するとシャロはビクッと肩を震わせ、
「そ、それは………。」
そのまま言い淀んでしまった。
………何かが変だ。仮に手伝いをしてたのなら、こんなに
それにさっき『値引き品を買い忘れた』と言っていた。お金持ちのお嬢様が値引き品のことを気にするだろうか?どちらかというと一般家庭の人の方が気にするような気が……。
………ん?シャロはお嬢様。値引き品を気にする。でもそれは一般家庭の人がすること。でもお嬢様であるシャロが気にしている。
………てことは、じゃあ………。
「シャロ、もしかして……お嬢様じゃ……。」
「……っ!?」
ガシッ!
「うわっ!」
突然手首を掴まれ、抵抗する間もなく物置の中へ引きずり込まれてしまった。
そして中へ入るや否や、シャロは慌ててドアに鍵をかけた。
鍵をかけ終えると、シャロは何度か深呼吸を繰り返した。落ち着こうとしているのだろうが、肩は小刻みに震えたままだ。
「シャ、シャロ……?」
混乱したまま当たりを見渡し、俺は思わず息を呑んだ。
外観はただの物置だったはずなのに、中にはベッドや小さなテーブル、少し高級そうな食器や調理器具が置かれ、生活に必要なものが一通り揃っている。中でもオシャレなティーカップやポットが豊富だ。
狭いながらも綺麗に片付けられていて、とても物置とは思えない空間だった。
「ここって………もしかして。」
「お、お願いです!誰にも言わないでください!」
そう言ってシャロは深々と頭を下げてきた。
「ちょっと待ってくれ。話が見えてこない。」
「お願いします!学校のみんなには私がお嬢様だと思われてるんです!」
必死な声だった。
肩を震わせたまま、頭を下げ続けている。
「……顔を上げてくれ。」
ゆっくりと顔を上げたシャロは、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「まず、落ち着いてくれ。俺はまだ何がどうなってるのか全然わからないんだ。」
「……え?」
「だから、ゆっくりでいい、順番に話してくれ。」
しばらく沈黙が流れた。
シャロは唇を噛み締め、何度も深呼吸を繰り返している。
「………。」
「話したくないなら、無理には聞かない。でも、さっきの様子を見る限り、何か事情があるんだろ?」
「………はい。」
シャロは肩を震わせながら、小さく頷いた。
「実は………私。」
そこでまた言葉が止まる。
何度も口を開こうとしては閉じる。
それだけ、この話をするのが怖いんだろう。
「私は………お嬢様じゃありません。」
その言葉は、今にも消えてしまいそうなくらい小さな声だった。
「最初は違うって何度も言おうとしたんです。でも………気付いたら、もう言い出せなくなっていて………。」
「………。」
何も言い出せなかった。その沈黙をシャロは悪い方向へ捉えてしまったようで、
「……やっぱり、呆れましたよね。黙っていて、ごめんなさい。……でも、お嬢様じゃないことがみんなにバレて、幻滅されるのは嫌、なんです………。だから、お願いします……みんなには、言わないでください。」
涙声になったシャロは、もう一度深々と頭を下げた。
「……シャロ、俺は———」
「お願い、します。お願い……します………。」
その声は、最後にはほとんど
ぽた……ぽた……。
頭を下げたままのシャロの頬から、二粒の涙が床へ落ちた。
シャロはここまで悩んでいたのか。
思い返してみれば、シャロの口から自分がお嬢様だなんて一度も聞いていない。ただお嬢様学校に通っているという話を聞いただけだ。
勝手に『シャロもお嬢様なんだ』と思い込んだのは、俺たちの方だった。
シャロはそのたびに『普通です』と言い続けていた。それなのに俺は、その言葉を『特別扱いされたくないだけなんだ』と都合よく解釈してしまった。
あの時の歯切れの悪さも、何度も『普通』だと繰り返していた理由も、ようやく全部繋がった。
「シャロ、顔を上げてくれ。」
「………。」
シャロは恐る恐る顔を上げた。
その瞳には、まだ涙がたまっている。
「俺は、呆れてなんかない。」
「………え?」
シャロは目を見開いた。
目尻に溜まっていた涙が、静かに頬を伝って流れ落ちる。
「俺は、シャロがお嬢様だから、仲良くしたわけじゃないんだ。だから、お嬢様じゃなかったからって、今更何も変わらないだろ?シャロはシャロだ。そんなことで幻滅なんかしない。俺が知ってるのは、この街に来たばかりで道に迷った俺を助けてくれた、優しいシャロだ。俺と同じように、幼馴染に振り回されながらも毎日頑張ってるシャロだ。」
「………。」
シャロは何も言わなかった。
ただ、目を見開いたまま俺を見つめている。
張り詰めていた表情がわずかに緩み、また一筋、涙が頬を伝って零れ落ちた。
「………本当に、ですか?」
震える声だった。
その一言には、不安と期待が混じっていた。
「ああ、本当だ。このことはみんなには内緒にしておく。約束するよ。」
その言葉を聞いた瞬間、シャロの肩から力が抜けた。
「………っ、うぅ……。」
堪えていたものが決壊したように大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。手の甲で拭っても、次から次へとあふれて止まらない。
「……ありがとう、ございます……。」
絞り出すように感謝を述べたシャロは、その場へ力なく座り込んだ。
しばらくの間、物置の中にはシャロが静かに泣く声だけが響いていた。
俺は何もできなかった。
ただ、シャロが泣きやむまでそばにいることしか出来なかった。
今必要なのは、きっと慰めの言葉なんかじゃない。
安心して泣ける時間なんだと思った。
やがて
俺はシャロを近くにあった小さなテーブルの所まで連れて行き、テーブルを挟むように向かい合って床に座った。
「落ち着いたか?」
「はい。……その、すみませんでした。」
「謝らなくていい。」
シャロの謝罪には、色んな意味が込められているんだろう。
隠し事をしていたこと、泣いてしまったこと、俺を困らせてしまったと思っていること。
だが、俺が感じていたのは迷惑なんかじゃない。
少なくとも、シャロはもうこの秘密を一人で抱え込む必要はない。
そんな安堵だけだった。
「……少し、聞いてもいいか?」
「……はい。」
「どうしてお嬢様じゃないのに、お嬢様学校に通ってるんだ?」
シャロは少し視線を落とし、口を開いた。
「私が通ってる学校は、特待生で入学できると、学費が免除されるんです。」
「それで、そこの学校を受験したのか?」
「はい、勉強は得意だったので。あと、家計の負担を少しでも減らせたらと思って……。」
「そういえば、さっき値引き品がどうのって言ってたけど、それも、家計のためだったのか?」
「………えっと、それは……半分そうで半分違うと言いますか……。」
「……どういうこと?」
「……その…私の両親は陶器職人なんです。その影響を受けたからなのか、おしゃれな食器とか、ティーカップとかには目がないんです。それで、ダメだとわかってても衝動で買ってしまって………。それですぐ金欠になってしまって、値引き品を買うようにして節約してるんです。」
そう言うとシャロは、恥ずかしそうに顔を赤くして俯いた。
この部屋にやたらとおしゃれな物が多かったのはそういうことだったのか。
「陶器のことになると、つい夢中で話してしまうんです。それが原因なのか、学校では陶磁器に詳しいお嬢様って思われるようになってしまって……。最初は違うって何度も言ってたんです。でも、『またまた、ご謙遜を。』って言われて信じてもらえなくて。気付いたら、もう完全にお嬢様だと思われてしまって。」
そうだったのか。ようやく全部理解できた。
シャロがオシャレな雑貨店を知っていた理由。
五万円のカップを見ても驚かなかった理由。
この部屋におしゃれなティーカップや雑貨が数多く置かれていた理由。
どれも『お嬢様だから』ではなかった。
ただ純粋に、陶器や食器が好きだったから。
それだけのことだったんだ。
けれど、その知識の豊富さや立ち振る舞いが、周りには『育ちの良いお嬢様』に映ってしまったんだろう。
本人は何度も違うと言っていた。それでも信じてもらえなかった。
否定すればするほど『謙遜している』と受け止められ、気付けば引き返せなくなっていた。
シャロは嘘をついていた訳じゃない。
誤解を訂正する機会を、失ってしまっただけなんだ。
「大変だったんだな………。」
「はい……。」
シャロは小さく頷いた。
「最初は、すぐに誤解が溶けると思ってたんです。でも一日経っても、二日経っても、謙遜してると思われてしまって。今更違うって言えなくなってしまって………。それでもう『普通です』って言うことしかできなくて………。今日だって本当は何度も言おうと思ったんです。でも……私のことをお嬢様だと思って話してるのを聞いていたら、怖くなってしまって。」
「誰かに相談はしなかったのか?ご両親とか……まだ帰ってきてないみたいだけど。」
「両親は陶器作りで、出稼ぎに行ってるので帰ってきません。それにお仕事を頑張ってるのに邪魔したくないんです。チヤは……一応知ってますけど相談はしないようにしてます。心配、かけたくないので……。」
「チヤは知ってたのか?」
「……はい。幼馴染ですから。この物置小屋もチヤが『遠慮せずに使って』って貸してくれたんです。チヤは何度も『一人で抱え込まないでね』って言ってくれました。それでも私は『大丈夫だから』って……。」
シャロは小さく笑った。でもその笑顔は、寂し気でどこか無理をしているように見えた。
「優しいんだな……いや、優しすぎるんだな。」
「え……そう、なんでしょうか?」
「少なくとも俺にはそう見える。自分が苦しいのに、それより先に周りが困ることを考えてる。」
「………。」
「それに、チヤもシャロが一人で抱え込んでることには気付いてたんじゃないか?だから何度も『一人で抱え込むな』って言ってくれたんだろ。」
「………そう、かもしれません。」
シャロは俯いたまま、小さく頷いた。
「でも………相談したら、きっとチヤは自分のことみたいに悩んでしまうから。」
「だったら、なおさら一人で抱え込む方が、チヤは悲しむと思う。」
「え………?」
シャロは顔を上げると、何故そうなるのか理解できないような顔で俺を見つめた。
「もし俺がチヤの立場だったら、そう思う。」
「………。」
「大切な幼馴染が、一人で悩んでいた。それを後から知ったら『どうして話してくれなかったんだ』って思う。」
「でも………。」
「相談されたら、きっと心配はする。でも、それはシャロが大事だからだ。一番辛いのは、何も知らないまま、シャロだけが苦しんでたことを知ることなんじゃないかな。」
「………そんなこと、考えたことありませんでした。」
シャロは俯いたまま、小さく呟いた。
まるで今まで当たり前だと思っていた考え方が、少しだけ揺らいだように見えた。
「だからもっと頼っていいと思うぞ。もちろん、俺も相談に乗るから。」
「………。」
沈黙が流れる。
けれど、その沈黙はさっきまでの重苦しいものとは違っていた。
張り詰めていた空気は少しずつほどけ、肩の力が抜けていくのがわかった。
シャロは自分の膝の上でぎゅっと握っていた手を見つめ、それからゆっくりと力を緩めた。
やがてシャロはゆっくりと顔を上げ、小さく息を吐くと、
「私の秘密を知られたのが、先輩で良かったです。」
そう言って、少しだけ微笑んだ。
さっきまで涙で濡れていたその笑顔は、どこか肩の荷が落ちたように穏やかだった。
「そう言ってもらえてよかった。」
「ふふっ……はい。」
その柔らかな笑顔を見て、俺もようやく肩の力を抜くことができた。
——ボーン。ボーン。
その時、不意に壁掛け時計が時刻を告げる。甘兎庵にあった時計と同じものだ。
気付けば、思ったより長居してしまったらしい。
「もうこんな時間か。」
「そうですね。」
シャロも時計を見上げ、小さく目を丸くする。
「そろそろ帰るよ。」
「はい。先輩、本当に……ありがとうございました。」
シャロは立ち上がると、玄関まで見送ってくれた。最後にシャロの顔を軽く見ると、
「それじゃ、またな。」
「はい。お気をつけて。」
そう言って頭を下げるシャロに手を振り、俺は家を後にした。
すっかり暗くなった夜の街をしばらく歩く。
さっきまで胸に張り付いていた重苦しさが嘘みたいに軽かった。
根本的な解決には至っていないが、シャロはもう一人じゃない。
そう思えただけで、俺には十分だ。
———その時だった。
「ああぁぁぁぁ!!!」
突然背後から聞き覚えのある叫び声が響いた。
「なんだ!?」
振り返ると、さっき別れたばかりのシャロが、顔を真っ青にしながら家から飛び出し、スーパーへ向かって全力で駆けていた。
「値引き品忘れてたああぁぁ!!」
必死な声を上げながら走る姿は、さっきまで泣いていた人物とは思えないほど慌ただしい。
「……ははっ。」
その背中を見送りながら、思わず笑みがこぼれた。
肩の荷が下りたからだろう。その足取りは、どこか軽く見えた。
俺は小さく笑い、そのまま家路についた。
………帰ったらココアたちの機嫌を直さないといけないんだよな。逆に俺は肩の荷が重く感じるよ。
To be continued