月には病気が蔓延していた。しかし、誰も気付かない。穢れなき星とされてきた月に住む民も、地球を眺めている。

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人の毒

 あれが地球。青く光っている。

 

「メディスン」

 久しぶりに名前を呼ばれた。

 本当は新しい名前を貰う予定だったが、まだ私が彼女たちのペットになるか悩んでいたがために貰い損ねたのだ。月まで来て気が乗らない私は意地悪をされて、その日から名前を呼ばれていなかった。

 だって──次期ご主人様の一人、豊姫が微笑んでいる──だって、ペットって何よ、ペットって。

「何よ」

 胡散臭い。

 そこまで言い切った私は不貞腐れるのも疲れていたはずだけど、完璧なまでに不貞腐れた声で、驚いた。

 同時に幻想郷で子供だと散々言われてきた日々を思い出す。

「……何、豊姫」

 今度は子供染みた声を出さないようにしたけれど、恥ずかしく、妙に意識した声そのものが子供染みていると気付いたときには遅かった。よりいっそう顔を赤くして、晒したくもない顔を豊姫に向ける。

 宇宙は暗いから。きっと大丈夫。

「何見てたの?」

 豊姫のうっすら浮かべた笑顔は柔らかで親しみやすいのに、なんだか不気味だなと思った。

「地球を、見てたの」

「そう」

 本当は分かってた癖に。

「どう、月から見た地球は」

 顔に陰が落ちる。こういう時に、そういえば、月は地球の周りを回っていたんだっけと思う。実際には分かるはずもないんだけど。

 地上にいた頃──と言っても、ほんの数日前のこと──永琳に竹林のお姫様は月人だと聞いたことがある。随分俗っぽいお姫様だと思ったけど、本物の月人を前にするとあのお姫様もやっぱり穢れを嫌う“元”月人なのだと思う。

 勿論、それは豊姫たちがそれ以上に穢れを嫌っている、ということなのだけど。

「本当に青いのね」

「それに光ってる」

 ああ、そういえばそうだわ。

 ふと気がついて私は辺りを見回した。

「そういえば……地上から見た月はあんなに光っていたのに今は光らないの?」

「月は自分で光ってる訳じゃないですから」

 どういう原理で成っているんだろう。

 自分で光らないのなら、どうやって?地上で見た月は、あんなに光っていたのに……。地球だって、地に足を着けていた頃は光ってなんかいなかった。

「地球も?」

 豊姫から空気の漏れる音がした。

「そうねえ」

 地球のことは本当に興味がないみたいだった。何かを言おうとしてたのに。もしくは、何か知っていても私には教えないつもり。そういうことね。

「そんなことより家へ帰りましょ」

 帰りを促しながら、彼女は桃の木に手を伸ばした。

「豊姫、桃の食べ過ぎは依姫に怒られちゃうわ」

 桃の木から果実をもぎ始めた豊姫に注意すると、彼女は舌を出してくすくす笑った。それから私にもひとつ投げる。「これで共犯ね」

 豊姫が楽しそうに笑う。私はまだ食べ頃に達していない桃を見つめ、洋服で軽く拭くと勢いよく齧った。

「ん、すっぱ」

 想像していたよりずっと苦い。

 酸っぱさが後から辿り着いて、舌にしみる前に吐き出した。唾を飲み込んではっとする。

 苦。

「ねぇこれ、不味い」

 桃に齧りついた豊姫がベッと舌を出す。

 後味の悪い口の中が、豊姫にもそのまま乗り移ったようで気まずくて私たちはしばらく目を逸らした。

 不味い。

 こんなに不味いってこと、あるの。

 豊姫は顔をしかめて手に持ったたくさんの桃を恨めしそうに見つめた。桃に映る影を見て、私はあれ、と思った。豊姫もじっと桃を見つめて──少しずつ目が大きくなっていく。

「そう、そうよ」

 豊姫が私を置いて突然、喋り始める。

 もぎ取った桃が地面に転がっていく。口の中の苦味が駆け巡った。

「こんなことをしてる場合じゃないのよ」

 何がこんなことよ。

 文句を言うのは依姫の仕事だから何も言わない。豊姫が心の中を読めなくて良かった。私が桃拾いに付き合わされて、ご主人様はその桃を蹴散らしていく。馬鹿みたい。

 本当に馬鹿らしくて、拾い集めた桃をもう一度腕から一個ずつ落としていった。

 あれ、と思った。

 

「日食が始まる」

 

 桃が一気に落ちた。

 私は豊姫の声に顔を上げ、彼女の後方に見えた宇宙に釘付けになったまま動かない。はぁ、とため息のようなものが出た。

 豊姫が桃を一つ拾うと、そこに灯りが点った。月のいつでも暗い場所。ここはそうだと思っていたけど、それよりずっと暗く。ここは完全な闇ではなかったと、今さら気づいた。その炎の明るさに、私はようやく辺りが暗くなっていっているのに気づいた。いつからだろう。

 呆気にとられ、つい桃に手を伸ばすために身を屈めてしまってからまた気づく。

 桃、どこ。

「早く帰らないと。月が闇を落とす前に」

「前というか、もう後だわ」

「平気よ、私たちにはまだ桃があります」

 小さな灯火が揺れた。

 もう完全な闇に近かった。あてもなく目を宙にやると、そこには白く光る最後の太陽が見えた。そして、限りなく暗い、地球。

 瞬間、私はハッとした。分かったのだ。

 けれど、それはすぐに腕に触れた感触によって断ち切られた。ヌッと伸びてきた白い腕に掴まれて、私たちは歩いた。グッチャグッチャと桃が潰れていく。

 希望の光が今も手元にあるというのに、それ以外は足元でこんな有り様。それでも私たちは進んだ。あの白い腕が話しかけてくる。

「せめて都の中には入るべきね」

「もうすぐに都のはずよ」

「さあ、どうだか。暗くて見えないもの」

 つい、そこにいるのは豊姫よね、と聞いた。

 心配になった。この白い腕が豊姫のものかどうか。確かに桃は燃えていたけれど……。

「……どうかしらね。そのつもりだけどね」

 私はあんまりびっくりして、立ち止まった。そうしたら、白い腕の持ち主はくつくつと笑った。

「暗いとからかいたくなるわ」

「暗くなくてもからかう癖に」

 ガツン、と爪先に何かが当たった。

 前のめりになっていく私を白い腕が引っ張り上げる。思わずついた手がざらざらする石の上に触れ、都のメインストリートにも石畳が敷き詰められていたのを思い出す。それで、私たちはもうとっくに帰ってきたのだと理解した。

「さあ、からかうのはもう止すわ」

 白い腕がクスクス笑う。

「あんた、うざい」

「普段はそんなこと言わないでしょうに」

 白い腕が頭を撫でようとするみたいに顔をぺたぺたと触ってくる。

 暗いとどきどきする。

 あんた、うざい。言うの、少し、どきどきした。心の中の言葉が、口に出てい

「く、みたいで」

「え?」

「な、何でもない。変なの、変なのよ」

「メディスン、あなたはいつも変よ」

「……豊姫だって変よ。というか、変じゃない?思ったことが全部口に出ていくわ!」

「いつもそうじゃない」

「違う……めんどくさいわ、豊姫と話すと。それより、皆どうして騒がしいのかしら。そうこうしてるうちに太陽が全部隠れてしまったし、それに……ああ、そうだ思い出した」

「ごちゃごちゃ言って、何を思い出したって言うの?」

「月が薄暗いのは地球が光ってるからって話、言わなかったっけ?」

「さあ……それにしても騒がしい」

「本当、うるさい」

「……」

 

「あ」

 

 地球が真っ白な光とともにやってきた。

 白い点のようなものが見えたと思えば、半円に両側から線が描かれる。円になる、と思ったとき、真っ暗な月面が照らされた。

 眩しい。地球はほとんど見えなくて、そこはぽっかりと穴が空いているようにしか見えなかった。眩しい。眩しくて、なんにも見えない。

 いつの間にか辺りは静かになっていた。周りではうさぎ達が間抜けな顔をして、皆が皆宇宙を見上げていた。

「馬鹿、うさぎ……」

 ぽつり、そう言った。

 けれど私もその馬鹿うさぎ達の中に紛れて、馬鹿になっている。

「綺麗ねえ」

「……綺麗、なの?あれって」

 隣では豊姫が微笑んでいる。

「綺麗」

 そう、なの。

 眩しすぎると思うけど。

「ねえ豊姫、私は地球の方が綺麗に見えてしまうけど」

「あなたにそう見えるのならそうなんでしょう」

 豊姫は今地球が真っ黒な闇であることについては何も言わなかった。ただ、眩しすぎて形も見えない太陽を綺麗だと言った。

 それを見ながら私は、地球が真っ黒な闇になる直前──月が真っ暗な闇になる直前、月のいつでも暗いところが、確かに暗く照らされていたことを思い出した。だから宇宙は暗い、などと言う。

 それを照らしていたのは、地球だった。

 

 そして、暗い鈴蘭畑に想いを馳せる。

 月を見上げ、暗いな、と思う。

 

「思い出したわ。月は綺麗な星だった」

「だった?」

「そう。幻想郷から見た月のことよ」

 私はやっぱり、スーさんのところで見る月が一番綺麗だと思った。

「そうなの」

 私は笑った。

 返事にしては変で妙なアクセントをしていた豊姫の言葉を。周りのうさぎ達は眩しすぎる光に歓声を上げ、手を振った。だんだんと静かになっていく。私はハッとして周りを見た。

 長い光のあと、誰も声を上げない。

 誰も目を離そうとしない。

 長い時間がかかっても、うさぎ達も隣の豊姫もぴくりとも動かず、私はついに時間が止まってしまったのだと思った。時間の止まった星で私だけが動いて、誰よりも近くで地球を見ようと思った。誰よりも近く。

 一歩、二歩、三歩……。

 けれど、うさぎ達の息を飲む音に足を止めた。

 私は宇宙を見上げる。

 遠い星を見つめる。誰より近くで。

 

「きれい」

 

 あれが月。黄色く光っている。

 

 ……。

 

 

 どうやら毒が回ったようだった。

 私は鈴蘭畑から体を起こし、まだぼんやりする頭でそうだ、豊姫への返事はどうしようかと考えた。

 衣食住の心配なし。

 何もすることはないし、ただ不名誉な“ペット”という称号が与えられるだけ。いや、その前にペットってなによ。私は誰かのものなんかじゃない。

 ふわりと甘い香りがして、隣でスーさんが笑った。薄暗い月明かりに照らされて、白い彼女はどこか夜色に見える。

 ふと、気がついた。

 空を見上げると、今日は満月が少し欠けている。

 道理で明るいはずだ。

「きれいねぇ」

 何が綺麗かって、勿論鈴蘭畑──スーさんに決まっている。月明かりのある夜は辺りがよく見えて白さが引き立つ。

 鈴蘭の毒が効かない私はいつまでもこの景色を独り占めできる。なんて幸せだろう──ここまで考えて、さっきの話に結論が出た。

「やっぱりペットなんてやめとこ」

 月がどんなところなのか知らないけど、永遠亭のお姫様と豊姫には底なしの明るさが垣間見える。きっと月のうさぎも底なしに明るくて毎日月の光を浴びているのだから、大層な病気に違いない。

 私は立ち振り返り、月を仰ぎ見た。

 そうして、突然心の中で歓声が上がる。鈴蘭畑の真ん中で一人、ああ……と声を上げそうになった。けれど私は何も言えない。

 ぴくりとも動かず、間抜けな顔をするだけなのだ。

 月で見た地球のことを思いながら。

 

 


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