桜が、舞っているのである。
八分咲きの満開であった。薄桃色の花びらが、枝にみっしりと咲き誇る。桜の醸し出す不思議な香りと雰囲気が、庭から縁側に向かい届いている。
ひら、
ひら、
ひら、
風もなく枝より離れた花びらが、午後の柔らかい日差しの中に躍った。
春の初め――
長い冬が終わり、暖かい気候がやって来ていた。穏やかな日差しが降り注ぎ、天がこの時期を言祝いでいるように思えてしまう。
土御門大路、晴明の屋敷。その庭は、常と変わらずまるで春の野山をそのまま持ってきたかのよう。
桜、菊、躑躅、水仙、鈴蘭――そして花々と戯れるかのように、蝶がひとつ、ふたつ、みっつ……
それらをよく見れる縁側にて、安部晴明と源博雅は、季節の山菜を肴に酒を酌み交わしているのであった。
「それにしても、桜とは不思議なものだなぁ」
博雅が言った。桜の気配ごと杯の酒を飲み干し、酒精に酔う。
いや、この男はきっと、散りゆく満開の桜の姿を見て、吸って、酔っているのだろう。
「何がだ、博雅?」
晴明が問う。
白の狩衣姿で、柱に背を預け、杯を指に引っかけるように持っている。その赤い唇には、あるかないか程度の微かな笑みが浮かんでいるようにも見えた。
「昨年、一昨年、そのまた昔――桜はいつも変わらずそこにあるし、数え切れぬほどに眺めてきた。だというのに、どうして桜はいつもおれの心を乱れさせるのだろうかと思うてな」
「ほう」
「毎年この光景を見て、その美しさを忘れぬよう心に留め置いている。なのにこの季節になるといつだって、まるで初めて桜を見たかのような面持ちになってしまうのだよ」
「なるほど」
「人の心に、飽きるという感情があるのは承知している。なのにどうしてか、おれの心には桜を飽きるという事そのものが存在していないかの様なのだよ……」
「それもまた、一つの呪だな」
「なに!?」
「そうだ。桜とは、人の心を汲み取る因果の花よ――」
「いや待て、晴明よ。呪の話を持ち出されてはかなわん。この心地よい気分までどこかに行ってしまいそうだ」
博雅が止めた。酒を飲む手が止まっている。
けれど晴明は、気にせず話を続ける。
「この天地を巡る気には、因果が存在する。理由なく生まれ出でるものはなく、何某かの行いの後で現れぬ結果もない。桜もまた同じだ」
「分からぬ。それとおれが桜を飽きないことになんの意味があるというのだ」
「花が咲くまでの因果は、季節を通して複雑に絡み合い、結ばれ、続くものだ。例え関係のない物事だろうと、実はどこかで繋がっているのさ。ほんの少しの風が、数日もすれば嵐を運ぶかもしれないようにな」
「それはつまり――」
「つまり?」
博雅がわずかに言いよどんだ。
「毎年桜を見るおれの心もまた、同じはずがないというあたりまえのことではないか」
「その通りだ、よくわかっているではないか。存外、そのあたりまえを認識できない人間は多いものさ」
「そういうものなのか」
「そういうものさ」
「ふぅん。おまえに化かされたような気持ちはあるが、此度はなんだか、普段よりもおまえの話が理解できたような気がするよ」
呟いて、博雅はもう一度酒を乾した。空になった器に、無言で酌をしていた式神の蜜虫が瓶子から酒を注ぐ。
晴明は、庭を眺めていた。その赤い唇には、心なしか先ほどよりも深い笑みが浮かんでいるように見えた。
桜の花びらが散り、舞い、落ちていく。春らしい強い風が吹けば、途端に風にあおられ鮮やかな蒼穹に吹かれていく。それと共に、桜が発するなんともいえない香りが鼻に届く。
儚い無常を感じさせるその光景を、晴明と博雅はしばし無言で眺め合う。
「桜と言えば博雅よ、お主は桜法師なる人の事を知っているか?」
杯を静かに置いた晴明が、不意にそのような事を口にした。
「おう、桜陰陽師殿か。知っているとも、ここ二年程の間に名を高めた陰陽師の事であろう。なんでも朱雀大路の桜の下で女童と共にいて、占いや、祓いなどの仕事を請け負っている方とか」
この時代、本来ならば都の陰陽寮に属する正式な陰陽師以外は、律令でその活動を禁止されている。
だが現状ではその律令も形骸化しており、いわゆる民間陰陽師として、かつて晴明を試し返り討ちにされた智徳法師や、かの
「そうだ、その方だ。さすがに女が関わるとなれば、博雅の耳にも届くいておったか」
「こら、馬鹿にするでないぞ晴明。それではおれが女好きのようではないか」
「そう聞こえたか」
「聞こえた」
口を尖らせ、不平を露わにする博雅。
無骨な男であるはずなのに、この男がするとどうにも愛嬌を感じさせる仕草である。
「そう拗ねるな博雅。それで、おまえはどこまでその人の事を知っているのだ? おれも噂は耳にしているのだが、直接会ったことはないのだ。どのような方なのか、おまえの口からも聞いてみたい」
そう言われ、博雅も静かに杯を置いた。
「おれが知っていることはだな――」
そうして博雅が語りだしたのは、次の様な事であった。
件の桜法師、あるいは人によって桜陰陽師とも呼ぶその老人が最初に現れたのは、かれこれ二年程も前であった。
この桜法師、名を
さて、この枝垂なる人物、まず朝になると、必ず朱雀大路の大きな桜の下に居る。それだけではなんとも味気ない話だが、懐から取り出した椅子と机、そして几帳の形に切り取られた紙に何やら呪を唱える。
すると、たちどころにこれらが本物の木組みとして現れ、簡素な相談所として成り立つのだ。
これだけで、人々にとっては大変な法術である。
そのうえ、枝垂には常に一人と二体の従者が居るのだ。これらがまた奇怪な者どもであり、衆目を集めた。
その内訳は、大鷲、六尺にも及ぶ大
この者達は常に枝垂の傍に控えており、人が近寄っても襲わない。よっぽどの害意が無ければ、触られても怒らない。
次第に人々が朱雀大路を通い出し、付近に人が集まって来ると、その日の枝垂の生業が始まる。
例えば、やって来た誰それが家の中での失せ物について訊ねてみれば、
「では占ってみましょうか。わしの手にあなた様の手を重ね、失せ物を強く思い浮かべてください」
取り出した大きめの鏡の上に、まず枝垂が手を置き、その上に誰それが手を重ねる。そうして枝垂が二言三言呪を唱えてから手を離してみれば、鏡には失せ物のある場所が映っているのであった。
「ここに映った場所を探して御覧なさい。もし見つからなければ、お代は返金いたします」
その言葉に従い、鏡に映りたる場所を探してみれば、果たしてそこには失せ物がある。
枝垂の法術は、確かに効果を発揮していた。
その的中率、百のうち九十九は当たると言われる。仮に運悪く見つからなくとも、申告すれば代金は返却された。
また、狡い者が、失せ物を見つけたのに見つからなかったと、嘘を申告しても、
「ならば試してしんぜましょう。我が
そう告げられてしまえば、どうしようもなかった。誰でも、炯々と光る猛禽の瞳と、立派な体躯を見せつけられれば怖気づく。そこで引かなかった人物も、実際に風丸と呼ばれた大鷲が翼を広げれば、それだけで突風が巻き上がり恐ろしい。そうなればもう、欲目を出すこともできない。
或いは、怪異に悩まされるのであれば、話をうかがい直接妖怪やなにがしかの退治、解決を行うこともある。そういう時は、夕方ごろまで占いを行っている枝垂ではなく、蝮を連れた女童が依頼者に着いてくる。
この女童、名を
薄い藤色の簡素な着物を着た、白い肌の少女である。黒い艶やかな髪には
この女が、主に怪異の解決に参上するのである。
「ははあ、つまりはこれこれこういう事でございますな。安心ください、即座に解決できるものでござります」
大抵の場合、問題の場所に赴き周囲を調べ、依頼者から詳しい事情を聞けば桔梗からはこのような返答が帰って来る。
顔には笑みが浮かんでおり、こう言った時は宣言通り、間違いなく解決する。
しかしその解決方法が、また面白い。
使うのは、連れて来ている蝮と、懐から取り出した
この篳篥の腕がまた絶妙のものらしく、するすると天へと昇る音色が、光や闇と戯れているかのように感じられるらしい。
桔梗が唱える呪も奏する曲も時によって違うが、とにかく篳篥より零れる音に従い、長い体をくねらせて蝮がどこかへ消えて行く。そうして篳篥が止む頃には、蝮もまたどこからか戻って来る。
この時にはもう蝮の咥えていた呪符も消えていて、それ以降は依頼者のところに怪異は起こらないという話なのである。
また、奇妙なことに、この桜法師を二人見たという話もある。
正確には、夕刻、ある者の依頼で仕事終わりの後に、桜法師自身が怪異の解決に赴いた時の事である。
その時は京の最も東、東京極大路のさる屋敷に赴いていたという。
なのだが、この後四半刻もしない内に、誰それが正反対の西京極大路でその姿を見たというのである。
当然、本来ならばありえない。時間的に、人がそれだけの間に京を東西に横断することは、不可能であるからだ。だが、前者は確かに頼まれた怪異の解決を果たしており、後者は例の従者たちを連れている。となれば、本人以外にあり得ないはず。
困惑し、興味を持った者は、この事実の真偽を当人の枝垂に訊ねてみたのだが――
「さぁて、どうでございましょうか。案外と、この枝垂めが本当に二人いるやもしれませぬぞ」
にぃっと笑い、明確な答えを返さない。だが否定もしないのである。
そう言う訳で、人々はこの者ならばこういう事もあるかと得心してしまい、また名前の枝垂と常に桜の下に居ることから、いつの間にか桜法師やら桜陰陽師やら呼ばれている次第なのであった。
「と、これがおれの知っていることだ。この京には、なんと不思議な人の多い事よ」
「そうだな」
「おまえもだぞ、晴明よ」
話し終えた博雅が、杯に注がれていた酒を乾した。唇を舐めて、その残り香まで味わい尽くす。
そこに再び蜜虫が笑いながら注ぎ足し、さらに博雅は飲み干した。
晴明もまた杯の酒を乾して、肴の山菜を軽くつまんだ。それから、博雅を見やった。
「やはり、おれの聞いた噂ともそう違わぬな」
「ほう、おまえも桜陰陽師――枝垂殿のことに興味があったのか?」
「まあ、同業者として、多少の興味が無いと言えば嘘になるが――それよりも仕事の方さ」
その言葉に、博雅がつまらなそうな顔をした。
「なんだ、いよいよおまえにも面白い話ができると思うたのだが」
「そういうおまえはどうなのだ。やけに詳しく知っていたではないか。まさか桔梗という女子に懸想でもしたのでは――」
「違う、からかうでないぞ晴明。実はな、しばらく前の昼に、おれも枝垂殿のところへ足を向けたことがあるのさ」
「それはまた何故だ?」
「笛さ。枝垂殿の連れている式神、桔梗殿の
「ほう、おまえにも、その従者の正体が分かったか」
「当たり前だ。これでも、いつもおまえの式神を見ているのだぞ」
そう言って、博雅は隣で酌をしている蜜虫に目線をやった。唐衣をまとい、藤の香りを漂わせている彼女は、晴明がよく用いている藤の精の式神である。
ともかく、博雅はその桜法師の連れている式神、桔梗の吹く篳篥の音を聞きに朱雀大路に行ったらしい。
それも、徒歩で従者も付けずにのようだ。この男、殿上人でありやんごとない血筋に連なる者でもあるはずだが、そういうことを平気でやれる気負わなさがある。
「だが、結局は聴けなかった……何故だか分かるか、晴明よ?」
「さてな。なにかお主がつれないことでも無自覚に言ってしまったか――」
「そうではない。どうやら桔梗殿、おれの事を耳にしていたらしくてな。これをおれが言うのは恥ずかしいのだが――」
博雅は正面に座る晴明をみた。その瞳はまるで、「笑うなよ、晴明」と念を押しているようだ。
その晴明は特に唇に浮かべた微笑を崩すことなく、博雅の話の続きを待っている。
そして、その時のことを思い出したのか、気落ちした様子の博雅は、微妙に声音を変えると、告げられたことを復唱した。
「『天下の笛の名手である源博雅様の前では、我が篳篥もとんだ恥さらしでございましょう。申し訳ありませぬが、とてもお聞かせ出来たものではございませぬ』――などと言われてしまったのだよ」
「それは残念だったな。しかし事実ではないか、そう謙遜することもあるまい」
無骨で、風流で、そしてどことない可愛げのあるこの男が、笛を筆頭に楽の音に愛された者であるというのは、京に生きる貴族や、耳ざとい者であれば当然知っていることであった。
晴明は、それを言っているのである。
「笑うな、晴明」
「笑ってないさ。それでは、おまえは篳篥を聴かずに帰ったということか」
「無理強いをするのも申し訳なくてな。枝垂殿も口添えしてくれたのだが、どうしても応じてはもらえなんだ」
「なるほどな。やはりそういう事であったか」
晴明が得心したような声をあげた。
「なんだ、何がそういうことなのだ」
「まあ待て、そう焦るな。先ほど言ったろう、仕事の話であると」
「言っていたな。その枝垂殿について何か依頼を受けたという事か?」
「そう言う訳さ」
「どういったものか、聞かせてはくれぬのか?」
「知りたいならば話すぞ。口止めはされたが、おまえならば問題もあるまい」
「なら、聞きたい」
ずいと博雅が身を乗り出した。常にはない好奇心が、純真な瞳に輝いている。
どうやら、よほど篳篥を聴けなかったのが堪えているらしい。
「よし」
頷いた晴明は、一口酒を飲むと、ゆるりと事の次第を話しだすのであった。
この男、大層な女好きで有名な男であった。陽も暮れて早々に屋敷を抜け出し女の下に通ったと思えば、月の昇った時には別の女を訪れ、さらに明け方にはまた別の女と寝ているという。諸正もこれを肯定したことはないものの、積極的に否定したこともない。
確信犯である。平安の世において複数人と関係を持つ貴族は決して少なくはないが、それにしても度を越している。だが家人たちがそれを咎められるはずもなく、また当人が周囲の視線も意に介さないとなれば、歯止めが利くはずもない。
そんな諸正の屋敷に異変が起こったのは、十日も前の話だ。
朝、主人である諸正が中々寝床から出てこない。部屋の外から声をかけても起きる気配はなく、よくよく耳を澄ませばおかしな呻き声が聞こえてくる始末。
不信に感じた家人が入ってみれば、なんと諸正の顔に黒い何かがへばりついているではないか。まるで生きているかのように蠢き、彼の呼吸を封じているのだ。
異様な光景である。
「あなや!」
叫び、思わず腰を抜かしかけた家人であったが、主人の危機に身体が動いた。黒いそれを手掴みして引き剥がし、陽の当たる庭の方へと投げ捨てたのである。
落ち着いてよく見れば、庭に捨てられたのは黒い長髪だった。今も生きているかのように地面を這い、諸正の方へと来るではないか。
これにはついに、勇敢だった家人も腰を抜かした。
「だ、誰ぞ此処へ──」
震える声で他の者をどうにか呼び出し、持ってこさせた松明で髪を焼いたのである。炎の中で踊る黒髪は例えようもなく不気味で、執念深く諸正を害そうとしているように見えるから堪らない。
煙に漂う異臭で目が覚めた諸正は、ことの次第をきいてさすがに蒼褪めた。燃え残った黒髪を一筋手に取り、いよいよ震えだしてしまう程に。
「もしやこの髪は、蒼の……」
それが諸正がかつて通っていた女の名前であると分からぬ者は、この場にいなかった。
すぐにくだんの女の屋敷へと使いをやれば、しばらく前に諸正とえんを切られ、以来艶やかだった髪を切ってしまい寝込んでいるという。特に今朝は頭を振り乱し、
「熱や……熱や……」
と魘されていたというではないか。
いよいよただ事ではない事態だった。
だが怪異はこれだけで終わらなかった。その日の昼には諸正の屋敷の至るところで蛇が発生し、夜には諸正自身が高熱を出して倒れたのだ。まさか女の沙汰で呪われるなど人様にいえるはずがない、などと強がった諸正もこれには参った。
「誰ぞ、怪しのことに詳しい者を連れて参れ」
この言葉を皮切りにして、家人たちはすぐに動いた。
そこで呼び出されたのが例の桜法師こと、枝垂であったのだ。
桜の木の下で話をきいた老法師は、いつものように、蝮を連れた女童の桔梗を屋敷へと寄越した。
桔梗は諸正の屋敷の前に立つなり、小さく呟いた。
「これはまた、凄まじい情念の塊ですね」
屋敷の敷居を跨ぐ前に一瞥した彼女は、にぃと笑った。懐から呪符と鏡を取り出しながら家人の後へと続き、なにごとか呟きながら門を通り抜けた。家人にはもちろん意味など分からない。
「いったいなにを?」
「呪詛避けの呪いでござります。この呪詛、生易しいものではありませぬ故、この屋敷の外よりやって来る女にも害意を向けてしまっているのです」
「なんと……」
桔梗の返答に家人は恐れおののくばかりだった。
ともあれ、すぐにも病床に伏せた諸正の前へと通されたという。ほんの一晩の間に骨と皮ばかりのようにやつれた諸正は、縋る様に桔梗を見るより他にない。
その様子を見て、いよいよ桔梗は得心したように頷いた。手に持った鏡を諸正へと向け、これを覗き込むように言う。
素直に従った諸正は、すぐに驚いたように身を引いた。
「そ、それは……!?」
「見えますか、諸正様? この鏡に映った、あなた様を取り巻く黒い靄こそ、あなた様を呪い殺さんとする者たちの情念なのです」
「あな恐ろしや……これが、全て……」
「そう、全ては、あなた様と関係を結んだ女性たちからの怨念でござりますれば。よほど恨みを買ったのでしょう、これだけの念が凝り固まることなど早々ありませぬ」
「な、なんとかならぬのか!」
「一時的に矛先を逸らすことは可能でしょうが……もって数日でしょう。その間に、あなた様の手で関係を一度綺麗にしてくる必要があるかと」
「ぬぅ……かくなるうえは、仕方あるまいか」
大層な女好きで知られる諸正にとって、桔梗の提案は身を切るようなものである。
だが背に腹は代えられない。このまま呪い殺されるよりはまだ良いだろう。仕方なしに桔梗の提案に頷き、ひとまずその場しのぎの厄払いを執り行ったのである。
「そうして諸正殿は次の日には復調し、その足で関係を結んだ女性たちへ話を付けにいったそうだ。これすら三日かかったと聞いたが、その後はなんの
「それはまた……うむ、凄まじい話だな。かつて七晩かけて帝の下へ向かった彼女といい、三度生まれ変わってなお男を追った彼女といい、女性の執念とはなんとも
かつて出会った怪異を思い出したのか、難しい顔で博雅が頷き、酒を口に含んだ。
「しかしだ、晴明よ。ならば諸正殿の話はすべて解決したのではないか? どうしておまえの力が必要にされるのだ」
「実はな、この話にはまだ続きがあるのだ。事態が一段落したは良いが、諸正殿、どうにも自らの欲を抑えきれなかったようでな──」
「まさかとは思うが」
「おう、そのまさかよ。その後の経過を伺いに来た桔梗殿を相手に、どうも歯止めが利かなくなってしまったらしい。強引に寝屋へと連れ込んだ挙句、連れて来ていた蝮の威嚇に怯んだところを逃げられたとか。さらに翌日からは収まったはずの怪異が、またも発生するようになったとなれば困ったことにもなろう」
「まさか桜法師の仕業か!?」
「分からぬ。だがそう考えるのが自然だろうし、諸正殿も同様らしい」
「なるほど、それで口止めをされたという訳か」
「さしもの諸正殿も自らの浅慮さを恥じたのだろうさ。女好きが高じて起こった怪異の解決直後に、またも過ちを繰り返してしまったのだからな。だから事を荒立てない内に解決してくれと、今朝おれのところに来たわけだ」
話によれば屋敷中に巨大な毒蛇が這いまわり、雲も動かぬ月夜に風が吹き荒れ物が飛ぶのだという。諸正自身も皮膚がまるで岩のように硬くなり、日常生活すらままならぬようになってしまったらしい。
かといって桜法師の下に人をやってみても、まるで図ったかのように誰もいない。この二年の間にいつもの場所にいなかったことなぞ、滅多にないのにだ。
途方にくれた諸正は、ついに土御門の晴明を頼ったという訳だった。
「で、おまえは行くと答えた訳か」
「『今日は源博雅様と飲む予定ゆえ、その後になりますがよろしいですか?』と問うたが、それでも構わぬと言うたのでな。この後にでも向かう予定だったが、どうだ、おまえも来るか?」
「むぅ……このまま帰るのも味気ないが、しかしな」
「まだ酒が飲み足らぬか。案ずるな、戻ってきたらまた一杯やる予定だ」
「そういう訳ではない。ただおれが共に行っても良いかと悩んだだけだ」
「構わぬさ。向こうも承知だろう」
「む──」
「どうだ、ゆかぬか?」
「う、うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。