蜜虫の先導する牛車に揺られ、諸正の屋敷へとついた時には、もう太陽は傾き夜の帳が降りようとする頃だった。
入口には既に諸正が晴明たちの到着を待っていた。牛車が止まったと同時、二人の方へと駆けよって来る。どこかぎこちない動きは、皮膚が硬くなっていることの証左だろうか。
「晴明殿、よくぞ来てくれました。博雅様も、ありがとうございまする」
「それより諸正殿、さっそく屋敷の中を拝見しても?」
「はい、どうぞご覧くだされ」
神妙に頷き、諸正の案内で晴明と博雅は屋敷の内部へ通された。
まず、風が強い。門の外と内で世界が違うかのように、強風が吹き荒れている。建物がみしみしと音を立て、風に吹かれた木の葉がつむじを巻いて空へと昇る。
加えて、家人が庭を忙しなく駆け回っていた。手元をよく見れば、火箸の先に蛇を捕まえては袋の中へと入れているではないか。破裂せんばかりに膨らんだ袋の中には、果たしてどれだけの蛇がいるというのか。
明らかに尋常な光景ではなかった。
これを見て博雅は一歩後ずさりかけたが、晴明は口元に涼し気な微笑を浮かべたままである。
「なるほど、これなら話は早いですね」
「本当なのか、晴明?」
「ええ、おそらくすぐにでも片はつくことでしょう。博雅様はどうぞ、そこでご覧くださればと」
他人の目があるとき、晴明の博雅への態度は丁寧なものになる。
晴明は真っすぐ庭の隅へと向かうと、そこにあった木の幹へと手を当てた。なにやらの呪を唱え、静かに木を叩いた。
「もう、気は済んだでしょう。主もおそらく心配しておられますよ」
低く呟いたその時だった。木の上からなにか細長いものが落ち、また頭上からはけたたましく翼を羽ばたかせる音がした。
地を見れば落ちたものは六尺にも届こうかという大蝮であり、空を見上げれば夕陽の空に大鷲が舞っているのが分かる。
どちらも、桜法師の連れている二体の従者に他ならなかった。
「晴明、これは──」
「おおかた、風の方は大鷲が引き起こし、大量の蛇はあの大蝮が呼び寄せたものだろう。どちらも相当に力の強い式神ぞ、その程度はできようさ」
「そういうことだったのか……」
「だが、最後に一仕事残っている」
既に晴明の口調は元に戻っていた。博雅はそれを気にすることはないし、諸正は怪異の原因が分かったことに気を取られてばかりだった。
その諸正の背に晴明は近づくと、そっと掌を当てた。
「せ、晴明殿?」
「動かないでくだされ。残る最後の怪異を今から解決させます故」
安心させるように声をかけ、晴明はさらに呪を紡いだ。低く、不思議な抑揚で唱えられ、十秒ほどもしてから諸正の背を叩くように手を動かした。
そこで諸正の背中から、一枚の桜の花びらが落ちたのである。ひらひらと地面に舞い落ちる花弁を晴明が手で掬い取った。
「これでもう大丈夫でしょう。お体の具合はどうですか?」
「お、おお……! なんともない、元のように動きますぞ!」
「それは良かった。無事に解決して何よりですよ」
「ありがとうございます、晴明殿……なんとお礼を申せばよいのか」
微笑んだ晴明は微笑を浮かべ、天へと向けて手のひらを掲げた。その上には先ほどの桜の花弁が置かれている。
「陽が沈むが如く、鳥が巣に帰るが如く、雨が雲となって天に帰るが如く、
目を閉じ、静かに呪が紡がれた。
するといきなり突風が巻き上がり、晴明の手のひらにあった桜の花弁は空へと舞ったのである。
夕焼けの高いところまで舞った花弁は、空で待ち構えていた先の大鷲の羽毛へと綺麗に着地した。獣の鉤爪にはこれまた大蝮がしっかりと掴まれており、残照の空へと風のように消えていったのだ。
「これですべて終わった、のか?」
「まあ、そのようなところだな。それから、諸正殿」
「はい」
「今回はこの程度で済みましたが、これから如何によってはこの晴明でも手に負えぬ呪詛になるやもしれませぬ。どうか努々、自らの行いを省みますよう忠告させていただきます」
「あ、ああ……さすがのわたしもこれには懲りました、今後はもう少し慎みを持つとします。桜法師については、何もなかったことにさせていただければと……」
「ええ、互いのためにも、それが一番よろしいでしょうね」
すっかり夜の帳も落ち、銀色に輝く月が朧な光を放つ時刻だった。
晴明と博雅は諸正の屋敷から土御門の屋敷へと、ゆるゆると帰る途中である。
「因果とは恐ろしいものだな、晴明。積もり積もった因果の山が、このような事を引き起こすとは」
「だから言っただろう、世の中は全て因果によって回っているのだと。一見関係のない出来事とて実は繋がりがあり、また当たり前のことだから人は中々気が付けない。今回の諸正殿のようにな」
「ふぅん……」
「そういうものさ」
暗闇の中、晴明が微笑んだような気配だけが伝わってくる。
と、不意に、牛車が止まった。揺れが収まり、穏やかな空気が無償していく。
何事かと晴明が簾を上げれば、先導役の蜜虫が口を開いた。
「誰ですか?」
「晴明様にお客人です」
「もしや、桜法師殿かい?」
「あい」
頷いた蜜虫の背後から、黒い衣をまとった老法師がぬっと出てきた。
かなりの巨漢だ。天を衝くような大きさはその肩に留まる大鷲と、首元に絡みつく大蝮の威容に少しも負けてはいない。
なので脇に立つ女童の小柄さが、より際立って見えるのも無理はないことだった。
「この度は、我が式神たちがとんだご迷惑をおかけしてしまったようで。大変に申し訳ございませんでした」
「私からも切にお詫びいたします。そして此度の一件を収めていただきありがとうございました」
老法師と女童が揃って頭を下げた。まるで親子のようにも思える姿だ。
牛車からふわりと降りた晴明は、そんな二人の前に立った。
「どうぞ、顔をあげてください。此度の一件は労の内にも入りませぬ。ただしいくつか聞きたいことがあるので、よろしければ私の屋敷の方でゆるりと語るのはどうでしょうか」
「それは──」
「よろしいのですか?」
戸惑う老法師を他所に、女童の方が訊ねてきた。
主従としては老法師の式神だろうに、随分と行動力がある。
「構いませぬ。このようなところではなんですからね。ああ、よければ酒なども一緒にどうでしょう」
「では、是非にでも伺わせていただきましょう」
今度は老法師の方が答え、桜法師と桔梗は
場所は戻って、晴明の屋敷だった。
庭に用意された
老法師は躊躇いがちに桔梗を見て、そちらが頷いたところでようやく座ろうとしたところだった。
「ああ、言い忘れていました。今更隠す必要はございません。どうぞ、楽になさってください」
「……なるほど、晴明様ほどの方ならとうにお見通しでしたか」
そう告げた晴明の視線は、枝垂ではなく桔梗の方へと向いていた。
桔梗はほぅ、と息を吐くと、かんねんしたように簀子の上に正座した。枝垂はあたかも従者のように脇に立っている。
大鷲と大蝮は、既に晴明の庭の好きなところに留まっていた。
「おい、晴明よ、どういうことだ?」
「見ての通りさ」
「そう言われてもな。おれには式神のはずの桔梗殿が簀子に座ったこと以外──」
言いかけたところで、博雅は口を閉じた。
枝垂と桔梗を何度か見比べ、それから近くに座している蜜虫へと視線をやり、
「あっ」
と、驚いたように目を見開いた。
「ようやくわかったか」
「つ、つまり、法師と式神は本当は逆だったという訳か。桜法師と呼ばれる枝垂殿は実は式神で、式神と考えていた桔梗殿が本物の法師だと」
「そういうことさ。ある程度の力の持ち主なら、式神に法術を使わせることも出来よう。逆に自らは普段から式神として振舞い、直接怪異を解決する際にだけは現地へと赴く。こうすれば誰も──少なくとも術を知らぬ只人には桜法師の正体が逆であることに気が付くまい」
「おい、晴明。それはおれに言っているのか」
「いいや、言うてはおらんさ」
そのやり取りを眺めていた桔梗が上品に笑った。涼やかな目が細められる。
「晴明様と博雅様、仲がよろしいのですね。お噂はかねがね聞いておりましたが、とても良きお方です」
「前にもお話しはしましたが、何故わたしの名前も知っておられるのですか?」
「当然です。この都でも随一と名高い笛の名手、源博雅様の評判もまた知っておりますれば。この前はとんだ無礼をいたしました、お許しください。あなた様ほどの方を前に、我が拙い篳篥を披露するには恥ずかしくて恥ずかしくて……」
「ああ、いや、お気になさらず。しかしなるほど、そういうことだったのか……では桜法師を二人見たというのは」
「おそらく、そこの枝垂殿は桜の精なのだろうよ。花の精である蜜虫と同じように、本体はもっと小さいはずさ。ならば後は、あの大鷲にでも運ばせれば京を横切ることも難しくはあるまい。諸正殿の身体はちょうど、硬い樹皮のようになっていたからな」
「左様でございます。枝垂は百年生きた桜の大樹の精なれば、人の形を結ぶも解くも自由自在。これを目撃されてしまったのはわたしの不徳ですが……いっそう桜法師の名声も高まり、ならば良しと利用してしまったものでして」
照れくさそうに桔梗が微笑む。
月光に濡れるその姿は、年相応の幼気さと不釣り合いな艶やかさを両立させていた。
匂い立つような桔梗の香りが、風に乗ってふわりと広がる。
「なぜ、あなたは女性の身でありながら陰陽師などを?」
「わたしは生まれこそ、この地の北にある山中なのですが、生まれて数年後より母の手で播磨へ向かう旅人に預けられました。今にして思えば生活に貧していたのでしょう、恨む気はございませぬ。そうして辿り着いた播磨の地で、きまぐれにも女のわたしめにも天地の理を説いてくださった師と出会ったのです」
この時代、女性が陰陽師になるのはあまりに難しい。
現代でいうのなら、男性が巫女になろうとするようなものだ。例え素質があろうとも、しきたりと世間の風習がそれを許さないのである。老法師の姿を取る枝垂を矢面に立たせていたのも同様の理由だろう。
だから、桔梗の語る師というのは紛れもない奇抜な人物に他ならないのである。
「そうして生きるための糧を教わり、死に瀕した師より三の式神を賜り、このように京へと戻ったのです。
「諸正殿に襲われたあなたの報復に、式神たちが勝手に行動してしまったのですね」
「はい。元よりわたしは気に留めておりませんでしたので、彼らが報復に動いたのには驚きました。しかもわたしの制御を離れ、言葉を聞こうともしない始末。自らの未熟さを呪い、途方に暮れていたところで、晴明様の手により彼らは戻ってきたのです」
「では、ここ数日姿を見せなかったのは──」
「わたしだけで桜法師を名乗ったところで、果たして誰が信じましょうか。我ら全てが揃ってこその桜法師でありますれば、一人だけでは成り立ちませぬ」
「なるほど……」
博雅が呟いた。
いつの間にか蜜虫が瓶子から注いでいた酒を干しつつ、桔梗と枝垂を見比べた。
どちらが式で、どちらが人間なのか。博雅にその判断はつかないが、しかし言われてみれば、確かに枝垂の方がどこか浮世離れした雰囲気がある。
蜜虫と放つ気配が似通っているのだ。
「こうして都にて名をあげ、自らの存在を誇示すれば、いつぞやに別れた母とも再会できると考え、早二年が経ちました。どうやら現実はそう容易くないようで……自らの浅はかさを笑うばかりです」
──我が母、
桔梗は一言、そう呟いた。
晴明と博雅は、なにも言わなかった──言えなかったのだ。
「なるほど、
本当に小さな声で、晴明が納得したように言う。桔梗には聞こえていない。
あの男──晴明がそのように呼び指す人間は、一人しかいない。
いつか、内裏へと七晩かけて参上した牛のない牛車と、それに乗りたる鬼。彼女の名と、その目的は、確か、
「もしや晴明様、なにかご存知でありますか?」
「……いえ、わたしたちはなにも。ですがあなたならいつか、
「なるほど、晴明様がそう仰るのなら。わたしからはなにも訊きませぬ」
素直に桔梗は引き下がった。疑念はあれど、敢えて晴明を信じようとしているようだ。
会話の間が、空いた。簀子の間に春の夜風が吹き、花々の香りが広がる。
月光が草木と戯れ、静かに三人を照らした。
「それでは、改めましてこの度は世話になりました。このご恩、わたしは決して忘れはしませぬ」
「そう畏まらなくとも結構です。ですが、恩があるというなら一つだけこちらから願いごとが」
「なんなりとお聞かせください」
「あなたの奏でる篳篥の音色は、素晴らしいものと評判です。そこの博雅も聞きたがるだけの代物、是非聞かせてもらえればと」
「おい、晴明、良いのか?」
「おれは構わぬ。おまえが興味を持ったという音色、おれも聞いてみたいからな」
「我が篳篥でこの恩を返せるならば安きことでございますが……本当に構わないのですか?」
「もちろんです。どうか聞いてくださりますか?」
「では……」
覚悟を決めたような面持ちで、桔梗が篳篥を取り出した。よく使いこまれた、質素ながらもよい笛だ。
楽の音の才能と、鏡を用いた呪いの素質。それらは確かに、あの二人の娘に相応しいのだろう。
桔梗が息を整えている間に、博雅が晴明へと向き直った。
「ああ、そういえば。晴明よ、なぜおまえはおれが篳篥を聞けなかった話をした時、『なるほど、それで』などと言ったのだ?」
「簡単なことさ。式神は基本、主の命に忠実であるからな。それを断った時点で何かあると考えるのは自然のことさ。とはいえ……」
「今回はわたしの未熟で、その常に当てはまらぬ事態を引き起こしてしまった訳ですが。いやはや、齢二十にもなって、これまでにない羞恥ばかり感じておりますよ」
月明かりにも分かるくらいに顔を赤らめながら、桔梗は篳篥に唇を当てた。
するすると、篳篥の音が夜空へと立ち上る。高い音が、低い音が、草木へ走り、月の下で踊り明かす。
まるで音色に色がついているかのように、耳だけでなく目でも追ってしまうような香しい楽の音だ。
「すごいな、晴明よ……」
「おう、これは中々のものぞ」
博雅は目を閉じ、うっとりと音色に聞き惚れる。
晴明は赤い唇に微笑を浮かべ、静かに言う。
蜜虫は笑みを浮かべて二人の前に酒を注ぎ、枝垂は静かに佇んでいた。大蝮と大鷲も、庭の片隅で大人しくなっている。
その間を駆け抜け、輝く月にも負けじとばかりに、桔梗の奏でる音色はいつまでも響いているのだった。
今後も気が向いたときに、二話構成で話を投稿していきたいと思います。