ベルモッドは愉快そうに笑っていた。あなたがバーボンに愛をささやいているの、下手なビジネスライクだと思っていたけれど、意外と相性いいんじゃない?お似合いよ、あなたたち、と。
鏡に映る自分は滑稽だった。
種類の増えた薬を雑に口に放り込んで、水で流し込む。
もしかして、自分はあの病室で死んでいて、これは長い悪夢なのかもしれないと思うこともあったけれど、体の不調はいつも通りだったし、手の甲に爪を立てれば痛い。
どんな顔をすればよいのかはわからない。何が正解かも。そして、時間だって有限だ。
キライなことばかりを数えてきた人生だった。そして、諦めて受け入れることは自分の心をまもる必要なことだとも。
そのせいからか、好きなものはなかなか増えなかった。他人なんてどうでも良かった。だれがどうなっても、どうでも良い。大切なのは兄貴だけ。兄貴だけがいればよかった、はずだったのだけど。
::::
米花の街には幽霊がふたりいる。
一人は火傷を負った男。炎に包まれ死んだ男は、醜くただれた火傷の跡を顔面に残している。
そして、もう一人は女。
その表情をみれば、彼女のことを知る人物たちは驚くだろう。
暗く、冷たく。幽霊然としたその佇まいは、生前と同じようでいて全く異なる。死人らしい、魔の気すら纏っていた。
:::::
ほろ苦くて、ちょっぴり澄ました香りは、心をほぐして優しい気持ちにさせるものだと俺は知ってしまった。
教えてもらった通りの手順はもうすっかり身に沁みついていた。
ペーパーフィルターを丁寧に折ったら、あらかじめ温めておいた真っ白で重みのある陶器のドリッパーにセットする。
ボトルから、中細挽きされたコーヒー粉を計量スプーンで測りながら三杯。
そして、ドリッパーの真ん中に小さな円を描いて全体に行きわたるように少量のお湯を注ぐ。コーヒーの粉がポッコリと膨らんできたのを確認したら、おおよそ三十秒強蒸らすのだ。それが終わったら、いよいよコーヒーを抽出する。真ん中から外側へ円を描くように、注ぎ口がスマートなドリップポットから少しずつ、細くゆっくり、と。ドリッパー内で洪水が起こらないように。
そうして必要な量が無事に落ちたことを確認したら、早々にドリッパーをサーバーから外すのだ。紅茶と違い、コーヒーは最初の一滴こそが至高の雫で、後になればなるほど雑味や苦みが増えるのである。
黒服の仕事時代に、雑にコーヒーをドリップしていたころには知りえなかったことだった。丁寧に入れたコーヒーを飲み続ければ、いつの間にかブラックコーヒーだって得意になっていた。
「うん、楠田くんもずいぶんコーヒー淹れるの上手になったねえ。もう私よりも上手かもしれない…」
「教えてくれる先輩の指導が分かりやすいからですよ、梓さん」
「もー!楠田くん。先輩をおだてても、残り物のケーキくらいしか出てこないわよ」
「わーい!梓さんありがとうございます~!しかもこれ、俺の好きなシフォンケーキ!」
「今日のシフトは十七時までだったよね、それ食べたら上がっちゃっても大丈夫よ。お疲れ様」
榎本梓さん。ポアロの大先輩。
ピンチヒッターとして喫茶ポアロに出入りしていた俺にも、丁寧に業務を教えてくれた親切な人。夕方の時間帯に、お店前の掃き掃除をするときに夕日に当たるとその髪の毛は綺麗な焦げ茶色に見える。天然っぽい発言もあるけれど、人を傷つけるようなものはない。従業員の中で最年少の俺を年下の弟のように思っているのか、甘やかしてくれる。たぶん。
「急にアルバイトの人を増やすって聞いたときはどうなるかと思ったけど、楠田くんが入ってくれて本当に良かった」
「あはは、俺も最初はピンチヒッターのはずだったのに、いつの間にかガッツリ働くようになっててビックリしちゃいました」
「安室さん、探偵業が本業だしね…。この前も、当日の朝に欠勤の連絡が来たときはどうしようかと思ったわ!でも安室さんは欠勤したらその分絶対に駅前のデパートの焼き菓子とかケーキを持ってきてくれて、謝ってくれるから強くは怒れないのよね~」
ピンチヒッターはずだったのに、いつの間にか成り行きでシフト希望を提出するようになったのはバーボンの多すぎる欠勤が原因だった。
それでも、バーボンの人気は確実に売り上げに結び付くからクビになることはないだろうけど。今ではバーボンよりもシフトが入っているのは、ネームドの彼と下っ端の俺とでは仕方のないことだろう。一応二人とも新人扱いだからか、ちなみにバーボンとシフトが被ったことはまだない。
ふわふわしたシフォンケーキは、口の中でほどけるように上品な甘さがある。おいしいケーキに、丁寧にドリップされたコーヒー。常連さんにも名前を憶えられて、よく菓子や飴をもらうようになった。ささやかな贈り物であっても、黒服時代に身の丈に合わないようなブランド品や宝飾品を与えられるよりずっと嬉しかった。
いよいよ永嶺様に与えられていた部屋から俺は出た。
喫茶ポアロのバイトをするには、不便だったのもある。自分のお金で米花にある築十年くらいの単身者用マンションを賃貸で借りた。難しいものは作れないが、最近は料理にも挑戦してカレーだって作った。
黒服として夜な夜なお客様の無茶な要望に応えて、ママの機嫌をうかがって、先輩の愚痴を聞かされていたあのころより、ずっと健康的で人間らしい。喫茶ポアロにいるとき、図書館で勉強しているとき、欠けていた何かが満たされた気がするのだ。
麻痺しそうだった。忘れてしまいそうになった。自分は何のために生きていて、命を燃やしているのか。けれど、そんな時は決まって夢に出てくるのだ。一人、苦しみながら燃えていく。まるで、自分ではない誰かとして死んでいく兄貴の恨みが。
ポアロのバイトを済ませて、店外に出てからメールチェックをすれば組織からの仕事のメールが数件。急激に冷え込んだのは体だけではないだろう。
俺は、兄貴のために生きて、そして復讐をしなくてはならない。
::::
「それでね、結局それはジョディの早とちりだったんだ。二人して笑っちゃった。ジョディって凄く面白くて芯の強い女性なんだけど、ところどころで抜けているからそこがまた素敵なんだ」
「はは、夏子さん…ですっけ。話を聞く限りでは、楠田くんとずいぶん親密なようですが…」
「うん、仲はいいよ。でもそれだけ。夏子さんのところは年の離れた弟さんがいるから、恋人に選ぶなら年上が良いって。だから俺はハナから守備範囲外なんだって。そういえば頭のいい人が好み、って言ってたな…沖矢さんいくつだっけ?紹介してもいい?」
「実はまだ恋人に振られた傷心を引きずっていまして…今は年下の男の子と、勉強をするくらいがちょうどいいです」
「俺も優秀な教師を取られちゃったら困るからなあ。もうちょっと引きずっていてね」
「そうですね。手のかかるかわいい生徒がいれば、今は十分ですよ」
缶コーヒーが二つ。対面するのも二人。開かれている本と参考書も二冊。だけど、四つの瞳は机に落ちることなく真っすぐと正面に向いている。沖矢さんも俺も図書館の休憩スペースのいつもの席で、すっかり休憩していた。
「最近の楠田くんは、とても良い香りがしますね。少し前までは夜の悪い匂いが、移り香でよく漂っていましたけれど、今の方がずっといいです」
「夜の悪い匂い?」
「ハイブランドの香水は特徴的ですからね。君のような男の子が漂わせていると、遊び人と勘違いされてしまいますよ」
「あー、なるほど」
むしろ移り香を嗅いだだけで、どんなメーカーの香水なのかを把握してしまう沖矢さんの方がよっぽどワルだと思うのだけれども、俺がこの人に弁で勝った試しはないので聞くこともしなかった。
「少し前までは缶コーヒーのブラックを無理して飲み干していたのに、最近は顔をしかめることもなくなりましたし。よっぽどおいしい珈琲に出会えたか、珈琲そのものを好きになったのか」
「うわ、沖矢さん見ているね。ブラックコーヒーは、…ある人を真似して飲んでいただけ。ただの背伸び。そう、それでなんだけどさ。実は、喫茶店でアルバイトを始めたんだ。俺が入れた珈琲を飲みに来てよ。いつもご馳走してもらっているお礼にご馳走するからさ」
「おや、それは楽しみだ。最近は大学院の研究も教授に振り回されてしまってなかなか忙しいのですが。…今度、息抜きに立ち寄らせていただきますね」