休憩スペースといっても、自販機が2台。あとは机といすが等間隔に並べられているだけのそこは、ガラス張りになっていて、開放感があることだけが唯一の取り柄だ。
身勝手な希望的観測の無茶苦茶な口説き方にもかかわらず、その人は付き合ってくれたのだ。缶コーヒーを2つ、購入して1つは目の前に座った人へ渡す。
必要な新聞の資料は、手早くコピーをしてテーブルに並べる。
不思議な偶然からの、答え合わせ。なぜ、俺が求めていた日づけの新聞ばかりを手にしていたのか。
俺が自販機で購入した缶コーヒーを前に、すらりと伸びた脚を組み直したその人は、――ジョディ、と名乗った。
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「わたし、とてもビックリしましたー!振り返ったあなた、とてもコワイ顔をしていたんですからー!でも、気持ちわかります。突然の国際交流は、身構えてしまいますねー!」
「え、ええ。驚かせてしまって本当に申し訳ないです。ジョディさん」
「こちらこそ驚かせてsorryですー!…でも、もっとビックリしたのは、あなたがとっても積極的なhandsomeだった、ってところね」
「えっ、あれ。日本語のイントネーションが…」
「ふふ、この前まで日本の高校で英語の教師をやっていたから、その時の癖が残っているの。ちゃんとした発音の日本語だって出来るわ」
特徴的な眼鏡をかけた彼女は、教師らしく知的にも見えるし、悪戯っぽく笑う姿はとても魅力的だ。自分の知っている女性達は見せない表情で、なんだか胸のあたりがざわざわしてしまった。
近頃は曇りばかりであったが、久しぶりに顔をのぞかせた太陽は、図書館に併設されたガラス張りの休憩スペースにも光が差していた。天井が高いからか、いつもひんやりとした空気が流れているここも、今日は普段よりすこしあたたかい。
「それで、クスダくんだったかしら。こんな美女つかまえて、一体どうする気なのかしら?」
流石、外国人。流れるような動作でスマートなウインクまでされてしまった。
声を掛けられたあの時、振り向いた俺はさぞおかしな顔をしていただろう。内に沈めていた怒りと、不安と、懐疑心と。天気の良い昼下がりの図書館で、声をかけてきた相手に向ける表情ではなかっただろう。
それでも、彼女、ジョディさんは嫌な顔一つせず、切羽詰まった表情の俺についてきてくれたのだ。普通は不審者として、図書館に通報されたっておかしくない状況だったのに。
なんだか遊ばれているような気もするけれど、仕方がない。初手が悪すぎたのだ。「あの、失礼ですけど、日本語わかりますか?」だなんて、あまりにも間抜けな質問だった。日本の新聞を抱えた彼女にすべき質問ではなかったのに。
間を置くために、一口。同じように購入した缶コーヒーを口に含み、彼女を真っすぐ見つめる。
「実は、とある事件を調べているんです。ジョディさんが手にしていた日付の新聞に手掛かりがあるかもしれなくて。もしかしたら、なにかご存じかもしれないと思って…」
「あら、ナンパのお誘いじゃなかったのね…。事件を調べているだなんて、一体どうして?まるで探偵ね」
「大切な人の、ちょっとした、敵討ちです」
そういいながら俺は、同日に起きたひき逃げ事件の新聞記事を指さした。
嘘の中に紛れ込ませた、ほんの少しの真実と結びつく感情は、より一層綺麗に欺いてくれる。意識的にゆっくりと瞬きをしながら、見つめるのは『ひき逃げ 20代男性死亡』という記事。真下にある『車両爆発 炎上事故』には視線は向けなかった。
こちらの手をすべて明かす必要はないのだ。不用意に教えることは、巻き込むことにだってつながる。ただ、妙な胸騒ぎがしただけで無理やり話を聞き出そうとしているのにも関わらず、親切に取り合ってくれたこの優しい女性を巻き込むことなどしたくなかった。彼女がなぜこの日付の新聞記事を抱え込んでいたのか。それさえわかれば、いいのだから。
「……そう」
返答としては、そっけないものではあったけれど、言葉だけの同情や慰めをもらうよりもずっとマシだ。なにより、伏せられた深い青色の瞳に映されたものは、悲しいものであったから。まるで、彼女も大切な人を失ってしまったかのようにも見える。そのことが、不思議と俺の言葉により感情を滲ませた。
「早とちりかもしれないんですけれど、同じように、この事件を調べているのかな、と思って。それだけで、強引に付き合わせてしまって、申し訳ないです。でも、まだ犯人も見つからなくて。どんなことでも良いので情報が欲しくて」
「…ごめんなさい。私が調べていたのは、ひき逃げ事件のことではないの」
「そ、そうですよね。こんな、都合の良い偶然が…」
「私が調べていたのは、こっち」
こんな、都合の良い偶然があるのだろうか。女性らしいほっそりと綺麗に整えられた指先は、あの来葉峠の事件の見出しの上にあったのだ。
「…わたしもね、同じ日に大切な人を失ったの。ごめんなさい。力になれなくて」
「……」
「わたしも同じよ。あの日から、なんだかおかしいの。どうしても彼の死を受け入れられなくて。今でも信じられないわ」
「わかります。あまりにも、突然すぎて。とてもじゃないけど信じられなくて・・・」
「ええ…。それに、この事件も解決していなくて。だから、見落とした事が載っているかもだなんて、こんなところまできて記事を探したの。あなたよりもずっと大人のはずなのに、まだ全然、立ち直れそうになくて……」
「ジョディさん…」
「あら、気が付いていないかもしれなけれど、あなたも相当ひどい顔をしているわ。私たち、おんなじね」
無理をして笑う姿は、涙を流している訳でもないのに、泣いているようにもみえた。大人の女性が、弱っているのだ。
キャストのおねえちゃんが、アルコールに溺れて泣いている姿を見ることもあったし、慰めたことだってある。でも、この人の、ジョディさんは本当に泣きわめいているわけでもないのに、ずっと痛々しい。大人の女性が感情を吐露して、余裕がなくなっている姿は今まで見たこともなかった。
でも、同じではない。この人と俺が同じなんてことあるわけないのだ。この来葉峠で殺されたのは、俺の兄貴なのだから。兄貴を身代わりにしたメリケン野郎は、死んでなどいないのだから。
心の片隅で、この人は無関係であればいいのに、と子供じみた真逆の感情を持ったからだろうか。罰が当たったのだろう。俺は、バカだ。でも、幸運なのだ。そう、思わなければ、ならない。ふつふつと湧き上がってきた理不尽な怒りは無理やりねじ伏せた。幸運であることに、感謝をしなければ。
せっかくの晴れた日差しも、気が付けば雲に覆われてしまったようだった。先ほどまでの日差しの温かさは消えて、いつものように冷たい空気が休憩スペースを流れる。指先もひんやりとしてきた。暖を取るために購入した缶コーヒーの中身もすっかり空で、それすらも冷ややかだ。
「力になれるかはわからないけど、一応、知り合いに警察関係者がいるから、聞いてみるわね。よかったら、これ私の連絡先。話くらいだったら、いくらでも聞くわ」
「ありがとうございます」
「いいのよ。気にしないで。私のためでもあるんだから」
「あなたに会えて本当によかった。俺ばかり話をしてしまって、すみません。…ぜひ、あなたのことも教えてください」
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ジョディ・サンテミリオン。元英語教師。
来葉峠の事故で、職場の同僚を失ったと言っていたけれど、あの様子ではただの同僚ではないだろう。元恋人あたりが妥当か。どんな仕事をしているかは教えてくれなかったけれど、同僚という言葉が真実ならは、彼女はFBIということになる。
日本のゲームが好きらしくて、今度ゲームセンターへの約束を取り付けた。デートの経験なんて、そう多くはないのだけれども、年下らしく少しずつ甘えていって、二人で傷の舐めあいのフリでもしよう。
専門として学んだわけではないが、大切な人を失った、と話す彼女は相当参っているようで、入念に化粧で隠された顔色や隈、纏う雰囲気も相まって、話せば話すほど空元気だということが分かった。
曲がりなりにも高度な技術を必要とする接客業で培った経験はこんなところでも役に立つのだから、お店には感謝をしなければ。
相手が弱っているのならば、それを利用しない手などない。雑音を立てる感情は無視すべきだ。多くを語らなかった彼女を慰めて、メリケン野郎の情報でも引き出してやろう。
こんなにも、うまくいくとは思わなかった。彼女がFBIだと気が付いた時点で、変に口の中が乾き顔色にも表れてしまったが、それについても不審がることもなかった。「大丈夫?無理に元気なふりをする必要はないわ」だなんて。
普段の彼女なんて知らないけれど、きっと、平時の彼女なら俺の嘘などすぐに見破ってしまうのだろう。言葉の端ににじみ出てた知性は俺のような付け焼刃のものではなく、プロとして培った磨かれた経験に感じた。
その道のプロを相手に、また会う約束まで取り付けたのだから、俺はつくづく幸運なのだ。
彼女と別れて数時間。
記憶をなぞりながら、一人で参考書を読む。ようやく見つけた手掛かりだ。人に与えられてばかりであった情報も、今回こそは自分で掴めそうだ。にたりと、上がりそうになる口角を分厚いハードカバーで隠している時だった。
「…こんにちは。今日も勉強熱心ですね。なにか、いいことでもあったのですか?」
「…どうも、こんにちは。やっぱりあなたって相当な暇人でしょ。しかも、もしかして、見てました?」
「なにをでしょうか?楠田君がその本を読みながら、急に思い出し笑いをして、口元を隠したことですか?」
「見ているじゃん!」
いつも身にまとっているのはタートルネック。そして、眼鏡。本人には言えないけれど、胡散臭い笑み。
「はあ…。君はいつも難しい顔をしていますからね。どんなことを考えているかは別として、笑っているのであれば、それは良いことです。折角の魅力は、もっと武器にしないと」
「わかったってば。もう。ありがとうございますって。今日もお願いします。それで、これ」
いつものように、俺の隣に座るこの人との出会いはいつだったか。
親切なんだか、暇人なんだかはわからないけれど、参考書の問題とにらめっこをしていた時にさらりと解へ導いてくれたのだ。それ以来、約束をしているわけでもないのに、丁寧に勉強をみてくれる。お人好しって感じではないのでただの暇つぶし。なにより、ここはその人が通う大学院も併設している学校施設の図書館なのだから、いつ現れたっておかしくない。
「勉強熱心なのは、なによりですね。ああ…たしかにその定理は確かに最初は躓いてしまうかもしれませんが、きちんと定義を確認すれば、君なら大丈夫ですよ。ほら、ここをこのようにして…」
はじめのうちは、うっとおしかったけれどいつの間にか慣れてしまった。無理に距離を詰めてくるわけでもなく、恩着せがましいわけでもない。むしろ、まともな学を修めてこなかった俺にとっては、曲がりなりにも日本屈指の大学院に通う人間の気まぐれは、願ってもないものだった。まあ、やっぱり胡散臭さはぬぐえないけれど。
「あっ、そっか。それだ。さすが現役東都大院生だね。――沖矢昴さん」