「楠田くん、今日の勉強はここまでにしましょうか」
思いもしなかった言葉に、顔をパ、と上げれば笑っているんだか、怒っているんだか、真顔なんだかよくわからない整った配置の糸目の眼鏡がいた。
多分、今は真剣な顔をしている沖矢昴の顔だ。
俺の勉強は順調で、そしてこの人と会った回数は両手で数えられないくらい。大学院生様はいつも気まぐれに現れては俺に勉強を教えてくれて、最近はそれ以外の会話もずいぶん楽しい。そう思っているのは、俺だけじゃないといいのだけれど、この人の感情はどうにも読み取り難いのだ。いつも浮かべている微笑は、それだけの意味を持つものではないのだろうけど。
組織での活動も増えて、お店との両立も難しくなってきた。昨日だって、夜遅くまで何のためにやっているかもわからない作業をやらされていたのだ。血を見ることも増えた。流す血が自分以外のこともあれば、自分の時だって。だけど図書館に通うというこの時間を切り捨てるのは、まだ早いと思っている。勉強だって続けたいし。それに穏やかなこの場所は、真夜中の街でうっとおしく照り輝くちかちかしたネオンも、金も、暴力からも遠いから。
だから、途中で打ち切られるような事は、今までなかったぶん余計に驚いた。
「え。俺、なんかやっちゃった?」
「はい、とても。これは大ごとですよ」
「え、すみません。ええ、なんだろう。全然わからないです。今日もいつものように勉強して、わからないとこ教えてもらって…」
大きな窓ガラスがついているため、いつものように外からのやわらかな日差しが降り注ぐ。休憩スペース…もとい、どちらかが約束したわけではないけれど、いつの間にか「いつもの場所」として利用しているそこは、時間帯もあるのだろう。天井が高いので、いつもひんやりとしており(最近知ったが、ここだけ空調が壊れているらしい。そりゃ寒いわけだ)利用者は俺と沖矢さんだけであった。多くの利用者は他の階にある、空調がしっかりとした場所を利用するのだ。
「本当に気が付いていないんですか?…最近ずっとお疲れのようでしたが、今日は特に疲れているように見えます。勉強に対する姿勢は変わらないようですが、顔色も良くない」
突然の勉強会のお開きに何か失礼をしてしまったかと聞けば、体調を気遣う返答が返ってきた。ああ、よかった。俺はまだ失敗をしていないらしい。そして、シルバーの折り畳み式の小さな手鏡まで渡されてしまった。
「あー。確かに、ちょっと白っぽい?かも…?」
「ちょっとどころではないですよ。だいぶです。不調はないですか?」
「……最近ずっと頭痛がありましたけど、いつものことですし…。あと、昨日夜更かししたから、それが原因かもしれないです。それにしても、沖矢さんって手鏡を持ち歩いているんですね」
「今日は、早く寝た方がいいですね。…僕が鏡を持ち歩いているのは、意外ですか?」
「意外、っていうか…。男の人で手鏡を持ち歩いている人は多いイメージがなかったので、ちょっとびっくりしました。そういうものなんですかね」
「楠田くんは魅力的だから必要ないかもしれませんが、やっぱり女性にはよく思われたいですからね…」
モテるために手鏡を常備していると、のたまっているけれどこの人だって大概だ。この前、ブレザーを着た可愛らしい女の子に告白されたのを偶然にも見てしまったばかりだから。まあ、エチケットとして持ち歩いているんだろう。
「熱は……」
「う、わ」
伸びてきた手に、思わずのけぞってしまった。
目線よりも高い位置に翳される腕。脳裏ではそのまま振り落とされ、俺の頬を強く叩く記憶が流れる。ああ、嫌だ。どんなに自分は変わったと思っても、根本の記憶は変えることができないのだから。
「ああ、驚かせてしまいましたか。すみません。でも、ちょっとですので我慢してくださいね」
「……」
そ、と気遣うよう額に当てられた手は、心地の良いひんやりとした温度だった。思わず目を閉じて、成り行きを任せる。
「ふむ…熱もあるかもしれない。本当に大丈夫ですか?」
「うん…」
そのまま大きな手のひらは、頬を撫でてするりと首元へ降りてきた。ああ、気持ちがいい。心配ばかりされると、なんだか本当に体調が悪くなったような気がした。
「……はじめて会った時よりも、髪が伸びましたね」
「ん……。願掛け、みたいなことしているんです。コドモっぽいでしょ」
「いいえ、そんなことはありませんよ。僕の知り合いにもいます。そいつは結局恋人に振られてしまって、バッサリ切っちゃいましたけどね」
「へえ…よっぽどショックだったんだろうね」
「ええ、ハラワタが煮えくり返るとは、こういうことを言うんだろうな、と」
「よっぽどひどい振られ方をしたんだね、その子。あーあ。俺も早く切りたいけど、まだ見通しは立っていないな…」
「……ふふ。真っ黒で…烏の濡れ羽色の黒髪ってこういうものなんですかね。
まっすぐで…艶があって、うらやましいです」
「あはは、沖矢さんだって綺麗な髪をしているじゃないですか。なんか…距離が近くないですかね」
「ええ。僕は楠田くんと仲良くしたいんです。最初から言っているでしょう?それに、」
髪をすいていた指は、いつの間にか首筋に戻っていた。
「日を追うごとに、くたびれて…やつれている友人を心配しているんですよ」
「……。沖矢さん、袖口からいい匂いしますね」
「え?」
首元に添えられた手首を軽くつかみ、袖口に顔を寄せる。
やっぱり体型ががっちりしているだけあって腕回りもしっかりしている。腕まくりなんてしている姿はみたことないけれど、青くてぷっくりした血管がのぞいていた。
沖矢昴という大学院生は、読書が趣味で勉強も得意だというインテリ院生さまらしいが、背格好はどうみてもストイックに鍛えているであろう筋肉質な厚みがあった。何度も会う中で、1度聞いてみたことがあったけど普通のこと以外は特にしていないとも。俺はどんなに鍛えようとしても身体が細るばかりで筋肉にならないので、うらやましいばかりである。
「醤油の…香ばしいにおいがします。いつも気になっていたんですけど、今日は特にいい匂いで。なんか全体的に…肉じゃがみたいな匂いがするなって、思ってたんです。煮物、よくします?」
「…まあ、楠田くんが平気ならあまり追及はしませんが、ゆっくり休んでくださいね。君は十分に努力をしているのだから、焦らなくてもしっかり結果は付いてきますよ。それで、ええ、煮物ですよね。よくしますよ」
「すごい!するんですか。ちょっと、驚きです。勝手なイメージなんですけど、あんまり食には頓着しないように見えて…」
「楠田くんこそ、自炊はあまりしなさそうですね。毎食つくるのは大変ですが、たまにキッチンへ立つことはいいことですよ。食費は安く上がりますし、良い気分転換にもなりますからね。さて、お話はここまでにして、そろそろ本当にお開きにしましょう。早く休んだ方が良い」
「あは、りょーかい、です」
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早く休んだ方がいいのはわかるけど、やらなければならないことがある。風邪でも、絶対に休めないあなたへ、なんてキャッチコピーの薬を鼻で笑ったこともあるけれど、そうもいっていられないのだ。俺の代わりはきっと掃いて捨てるほどいて、一度でも弱みを見せたらおしまいなのだから。
「あら、今日はあなたが監視、ってわけね。もうそろそろ、私の疑いも晴れてほしいものだわ…」
「……。すみません、俺の力ではなんとも」
「わかっているわ。まだ、あなたってだけマシよ」
組織の命令は唐突だ。指令は誰が出しているのかもわからない。所属するときには、ドクターから雑に渡された名刺に載っている、都内のとある場所にあるビルへ行き、電話と机と椅子しかない部屋でよくわからない書類にサインした。ちなみに、ネームド持ちになるとカッコいいデザイン名刺を支給されるらしいので、励みなよ~とのこと。
昨晩は深夜までヘロヘロになるまでバーボンから指示をされたことをやっていたというのに、朝日が昇るころに「ギン」という人物からやけに短文のメールが届いた。会ったことはないけれど、こいつはきっとろくでもないやつだ。でもギンは組織のボスにたいそう可愛がられているらしく、逆らえるものもいないらしい。いつも持ってくる仕事は、超ド級に面倒なものが多い。まるでこちらを試すかのような。性格だってねちっこそうだ。
今回ギンに指示されたのは、簡単な任務。「キール」の脚になること。
運び屋の仕事は楽なんだろうけど、好きではない。マトモな場所で運転の仕方を教えてもらったわけでもないし、所有してる免許も合法なものではない。自分の運転技術に自信がないのだ。
とくに都内の運転は慣れない。若葉マークを貼り付けて金髪で派手な女性幹部を迎えに行ったら、美しくないから外しなさい、と捨てられてしまった。
キールは大きな失態を犯したばかりらしい。だからか、回される仕事も危険なモノばかりなのだ。あてがわれる人材も、俺みたいにまだ組織の内部的にとっては、その他大勢の有象無象ばかり。
前回呼ばれたときは、俺のほかにもう1人いたけれど今回はいない。キールにそれとなく聞いてみたら、ほかの仕事で失態をして「ジン」に殺されてしまったらしい。ギンもジンも、組織にはやはりろくでもないやつばかりである。
「ずいぶんと山奥ですけど…こんなところにあるんですかね。」
「まあ、後ろめたいことをやっている製薬会社の研究棟だもの。人目をはばかるように建てているんでしょうね。ナビなんてもう役に立たないんだから消してしまいなさい」
たしかに、ざっくりと入力した住所にはもう到着している。高速道路を降り、民家なんてほとんど見ないまま、どんどん山中へ向かうのだ。太陽はずいぶん前に沈んでいて、人間よりも先に動物が現れそうな場所である。
街灯もないような鬱蒼とした山道を進んで、1時間ちょっと。舗装された道路ではないものの、あきらかに車一台分が出入りできそうな脇道があった。出来ている轍も最近のものだ。躊躇なく車を進めれば、木々ばかりであった道が開けて、真っ白な無機質の建物が現れた。窓も異様に少ない。こんな山中には不自然すぎるほどの施設。みつけた、今回の仕事場所である。
「ご苦労様。じゃあ、あなたはこれを着けて。あと、このパソコン。コードは私のものを使っていいわ」
「あの、キール。これはヘッドセットですよね」
「何も聞いていないまま、ここまで車を走らせたの?まさかだけど、私が渡したヘッドセットで、Skypeでもしなさい、なんていうと思う?ああ、最近の子だとインターネットにゲームの実況もアップロードするんだっけ。時代よね…」
そういいながら、彼女はかるいタッチでパソコンを立ち上げる。もちろんだけど、手元は見せてもらえなかった。そして、起動したデスクトップにあるアイコンの一つをクリックすれば、1つの画面を分割するようにたくさんの映像が現れた。そのうちの一つは、ここからもみえる場所にある。まるで、たった今の映像のような。
「監視映像…」
「そう。これはいま私たちがいる研究所の監視映像よ。夜間のここは研究職の人間は出払っていてほとんどいない。いるのは民間企業の雇われた警備員。それに、怪しげな団体の職員ね。今夜のシフトだと今いるのは合計して、30人ほど。はっきり言ってこの広さの研究棟には異常な人数よ。私に与えられた仕事は、ここへ忍び込んであるデータのサンプルを持ち出すこと」
「もしかして、俺って…」
「そのもしかしてよ。しっかりその監視映像を確認して、最短ルートで私を安全に道案内しなさい。それを含めての脚よ。せいぜいしっかり、正確な情報を寄越しなさい。私も、あなたも試されているのよ。組織にね」