マエリベリー・ハーンと賢者の石   作:ろぼと

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FILE.12:マエリベリー・ハーンと賢者の石(挿絵注意)

西暦1992年6月3日 午前

英吉利・蘇格蘭某所 『ホグワーツ魔法魔術学校』3階72号教室

 

 

 

 カリカリ、と無数の万年筆がインクを羊皮紙に刻み込む音がルネサンス様の講堂に木霊する。

 筆記用具を操る渋い顔の少年少女らは、ホグワーツ魔術魔法学校の学年末試験を受験する一年生。「昼食前の子守歌」と形容されるカスバート・ビンズ教授の“魔法史”授業の試験を甘く見ていた一同は、揃いも揃って一秒でも早くこの無意味な記入地獄から解放されたがっていた。

 

「ふぅ…」

 

 常の教科書朗読授業とは一風変わり口頭のみで語られた数少ない講義「ガスパード・シングルトン作の自動撹拌鍋」に関する出題に大苦戦する他寮生の横で、メリーは余った時間を使った三度目の確認作業を終える。初めて手に取る万年筆に戸惑ったのも遥か昔。古風な羽根ペンを座に置いた彼女はチラリと眼前の砂時計を一瞥し、小さく息を吐いた。

 

 

 あの魔の森でのハリー・ポッター襲撃事件から一週間と少し。予想されたクィレルら闇の魔法使い陣営の動きは以後音沙汰なく、ハッフルパフ生の試験対策やポッターたちの無謀な『“賢者の石”防衛活動』に忙殺されたメリーは、本命の一斉採点6月4日を控えた最後の猶予を惜しむように過ごしていた。

 

(結局、ヴォルデモートが私をどう見ているのかはわからず仕舞いね)

 

 少女の悩みの種である善悪の陣営選択問題の解決には、あの悪霊こと“闇の帝王”の復活が必要不可欠。否、厳密には「復活した帝王の寵愛の有無」と言うべきであろう。

 

 己の人間性を重視しこのままホグワーツに付くか、はたまた異能を制御する術として期待出来る禁術の権威ヴォルデモートに味方するか。双方共に選択肢として十分な魅力がある反面、結論を下すには危険な賭けに臨む岩のような慎重さが必要となる。特に後者はより本格的な面従腹背の生活を送る日々となり、果たして自分にその求められる高度な振る舞いが可能か、耐え切れる心の強さがあるかは、メリー自身にもわからなかった。

 

(もうクィレル先生が石を奪う現場にこちらから乱入して、直接相手の反応を見るしかないのかしら…)

 

 最終手段は取りたくない聡明な少女。ここ一年弱の研鑽により、メリーは既存の魔法呪文を用いることで  極めて限定的ながら  自身の“異能”を任意で使えるようになっていた。今の彼女に取れる手段は数多く、境界の狭間を利用した規格外の【遠視の呪文】でクィレルとスネイプの行動を悟られることなく監視することも出来る。渦中に飛び込むか否かは、状況を見極めてから判断するべきだろう。

 

 だが君子危うきに近寄らずとは言うものの、そのせいで後手に回らざるを得ないとあっては本末転倒である。今まで慎重になり過ぎたせいで情報収集と分析が間に合わず、土壇場の行き当たりばったりな行動しか取れないのが現状だ。

 

(魔法界とヴォルデモートのどちらかへ、私の都合で好きに恩を売れる絶好の機会ですもの。今回ばかりは出し惜しみ無しの持てる全てで見極めてやる…!)

 

 メリーは溜息を堪え、覚悟を決める。可能な限り多くの展開を想定し、マニュアルのように積みあがった脳裏の対策帳、準備した幾つかの“道具”、そして彼女だけの異能と魔法。これらが必ずかの巨悪の思惑を超える力となるはずだ。

 

 運命の分水嶺へ挑む少女の顔は、試験を終えた生徒とは思えないほど勇ましく張り詰めたものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西暦1992年6月4日 夜

???

 

 

 

 メリーがその報告をダブリンの相棒、宇佐見蓮子から受けたのは、全校生徒が寝静まる深夜23時であった。

 

   標的二番に動き在り。

 

 メリーの異能の力を付与した『秘封俱楽部』の秘密兵器、通称「異界観測の手鏡」。

 以前京都の酒場『OLD ADAM』での霊能者交流会で披露したものに魔法的補助を加えた遠視の魔法具で、少女はかねてより蓮子に拠点の隠し屋根裏部屋からスネイプとクィレルを含む幾名かの学校関係者の監視を頼んでいた。「私も何かやってみたい!」と好奇心から今回の作戦における仕事を欲した彼女であったが、6人もの対象を“異界観測の手鏡”で夜通し同時に監視し続ける高い労働意欲は称賛に値する。

 

 ダイアゴン横丁で購入した、簡易的な色彩信号を送受信する小さな水晶玉の魔法具から連絡を受け取ったメリーは、能力を使って自身の“夢の世界”へと入り込む。現在のメリーに扱える幾つかの異能的技術の一つ、「結界渡り」だ。

 

 少女が入り込んだのは、この世の裏側とも言える異界  境界の狭間。

 

 ホグワーツから直接ここを訪れるのはあの謎の転移現象が起きたハロウィーンの夜以来となる。同じ底なしの闇の世界に降り立ったメリーは、次に目の前の暗黒の空間へ触れ、そこに【遠見の呪文】を唱えた。

 

「…【Ostendo(オステンド)、(見せよ)Quirinus Quirrell(クィリナス・クィレル)】」

 

 そして、まるで寝起きの重い瞼が開くかのような独特の感覚の後、メリーの眼前に人の目のような扁桃形の隙間が現れる。その奥には見慣れたゴシック様の回廊と、一人のターバン男が佇んでいる光景が映っていた。

 

 作戦遂行に関わる重要な6人の学校関係者、標的二番  クィリナス・クィレル。

 最重要監視対象を映すメリーの異能の力が、まるで監視カメラのように一方的な視覚を実現させる。「異界の目」と当人が呼称する異能と魔法の融合による観測技術だ。

 

(流石の校長先生の防衛魔法も異界からの監視は防げないでしょう)

 

 どこか得意げに心中でそう呟くメリーの表情は明るい。実家の魔術工房での研究や、親友の提唱した魔法理論の立証実験の副産物として生まれた己の新たな力に少女は強い自信を持っていた。

 

 

 異界とは何か。

 

 それは宛ら縄に吊るされ河の清流に身を委ねる、友禅流しの染め布のようなものである。一定の間隔で整列するその無数の染め布は、互いの隙間を通る流水によって分かたれ、決して重なることはない。

 メリーの異能は、布の生地に描かれた染模様を、川水を越えて隣合う別の染め布へ移すようなものであると本人は考えていた。

 

 だが、蓮子の唱えた魔法理論の立証に挑むべく能力を意識的に使おうと励み続けた彼女は、意図せず己の異能の新な解釈を発想する。

 この力は、染め布の模様を「川水を越えて別の布に移す」などという小規模なものではなく、整列する染め布の間隔を調整し、決して重ならない布同士を重ね合わせる  つまり「境界の狭間の距離間隔を操る能力」なのではないか。そう少女自身は想到した。

 

 この閃きが彼女の異能に劇的な変化を齎し、メリーの力は新たな段階へと至った。普遍的な【遠見の呪文】が変化し、今回の「異界の目」として発動するのがその最たる例だ。

 

   自身の呪文の一部が、明らかに異能の影響が見て取れる、全く異なる現象として表れ始めたのである。

 

(【盾の呪文】や【呼び寄せ呪文】は元からおかしかったけど、“結界渡り”みたいな異能の力を使う感覚で呪文を使ったときはまるで別物のように強力な魔法になったりするのよね。本当はその逆を望んでるのに…)

 

 異能の深淵に近付くにつれ、使う呪文に現れる異能の影響は増し続けていく。果たしてこれが異能の「制御」なのか、それとも真逆の化物に近付く「深化」なのかは『秘封俱楽部』の二人にはわからなかったが、新たに目覚めた力は今回のような差し迫った状況における切り札としては実に頼りがいのあるものだった。

 

 

「…あら?」

 

 ふと、メリーは拠点の相棒から届いた新たな報告に反応し思わず声を零す。境界の狭間での行動は外界人に知覚されないとは言え、監視者としてはあまりに迂闊。口を押え、再度蓮子の手鏡の景色を別の“異界の目”で投影する。

 表れた光景は、コソコソと廊下を移動する半透明の小さな人影が三つ、クィレルの下へ近付いている場面。

 

 自慢の「透明マント」を纏ったハリー・ポッターとその友人たち、グレンジャーとウィーズリーだ。

 

 間が良いのか悪いのか、このまま進めば半刻後には先を行くクィレルと接触する可能性が高い。ポッターが今日の死喰い人たちの計画に気付けるとはとても思えないため、此度の噛み合わせもおそらく彼の生まれた稀有な星の導きなのだろう。似たような人生を送って来たメリーは、同胞の少年の苦労を察しつつ、これから実現するであろう運命的な会合を楽しげに期待する。

 

(…予想外ですけど、予想通りでもあるわね。でもこうして動いてくれた以上、今日こそ名高い「魔法界の英雄」の実力を見せてくれるのかしら?)

 

 上位者目線な思考で眼下の二つの“異界の目”を見下ろす少女。強大な異能の力を操り調子に乗っているのか、この異空間内にいるときの自分はどこか理性のタガが緩み態度が大きくなっているように思える。良くない傾向だ、とメリーは頭を振って意識を正し、元の自分を取り戻す。

 

 間もなくし、クィレルが四階の“禁じられた回廊”に設けられた一室の扉の前に立った。おそらくこれが石の保管室か。“異界の目”を操り近くへ寄ると、男は「【Alohomora(アロホモーラ)(開け)】」の詠唱と共に鍵穴へ少女も良く知る初級呪文をかけていた。

 

(…何やってるんですか先生。一年の呪文で開錠出来る金庫室なんてあるワケ  

 

 だが呆れるメリーの考えに反し、硬い鉄の扉はガチャリと開き容易く盗人を通してしまった。加え、瞠目し固まる少女を余所に状況は目まぐるしく進行する。

 

 保管室らしき部屋で待ち構えていたのは、一頭の巨大な犬。三つの頭を持つその猛獣こそハグリッドが用意した番犬、ケルベロスの“フラッフィー”だろう。

 しかしやはりと言うべきか、クィレルの手には小さな管楽器が握られていた。吹かれた笛の音と共に巨獣の鋭い眼光が暗みトロンと瞼が落ちる。これでハグリッドに接触した怪しい商人の正体がこのターバン教師で確定した。

 男は番犬の寝息を確認したのち素早く背後の扉を呪文で施錠する。そして猛獣の足下の隠し扉を開き迷わず階下へ飛び降りた。

 

 続いて現れたのは新たな番人。メリーの寮監ポモーナ・スプラウトの“薬草学”の授業で応用編として紹介された「悪魔の罠」と呼ばれる蠢く蔓状の生き物であった。当然、一年生の授業で撃退呪文を紹介されるほど扱いやすい魔法生物に苦戦するホグワーツ教師ではなく、術者に安全かつ隠密性の高い【冷たい炎の呪文】で簡単に対処される。

 グロテスクな食人植物を退けた先には、更に深層へと続く扉があった。繰り返される子供騙しに眉をひそめるメリーの目の前で、クィレルは顔色一つ変えずに奥へと進んでいく。

 

(…何なの、この全教科を纏めた学年末実技試験みたいな幼稚なセキュリティは。こんなの一年生でも頑張れば奥に辿り着け  って、え…?)

 

 三つ目の部屋の空飛ぶ鍵を【呼び寄せ呪文】で手元に召喚するクィレルから目を放し、メリーははたと頭上に浮かんだ推理の確証を得ようと後方のポッターたちの様子を窺う。そこには例のグリフィンドール三人組が手と手を取り合いながら、魔法と知恵と勇気で立ち塞がる障害を乗り越える勇者的な姿が映っていた。

 

 そう、まるで開発者に用意されたダンジョンを踏破しようと挑む携帯ゲームソフトの主人公のような。

 

(まさか、そんな……でもだとしたらこの“賢者の石”を巡る全てが、本当にスネイプ先生の言う「校長の掌の上」との言葉の通りなのかしら…?)

 

 メリーの閃きが明確な形となって脳裏に想起される。

 “賢者の石”を守るに甚だ不適切なホグワーツ一年生レベルの貧弱な防衛設備。辿り着いた最下層と思しき広間の大鏡の謎解きに足踏みする侵入者クィレル。犯人を追う英雄ポッターの顔に浮かぶ緊迫した、されどどこか誇らしげな表情。

 

 そして、少女がその推理の正否を確信した直後。

 

「…!」

 

 メリーの目に、蓮子との通信魔法具が浮かべた嫌な光色が飛び込んできた。

 

 青い光  ダンブルドア校長が外出先からホグワーツに帰還したことを指す色彩信号だ。

 

 メリーは再々度、相棒の手鏡の光景を側に写し、緊張からこくりと喉を鳴らす。

 近代最高の魔法使いと名高いホグワーツ校校長は今回の作戦における重要警戒対象の一人で、『秘封俱楽部』は老人の行動を常にメリーの異能と魔法で監視していた。ダンブルドアはここ数日野暮用で学校を離れており、ならばこそ彼の動きが状況を大きく左右すると予想していたが、どうやら現状を見る限りクィレルの侵入もポッターの雄姿も全てあの偉人の計画通りである可能性が高い。

 

 こうなると、今からポッターたちと合流するのは悪手だ。あのグリフィンドール生らと共に今夜の夜間外出を計画していたのであればともかく、この場であの三人の前に現れ仲間に参加するのはあまりにも不自然。メリーが介入することは間違いなく彼の計画上のイレギュラーで、もし愚かにも存在を晒せば以後確実に目を付けられてしまう。ダンブルドアの抜かりの無さを警戒し、少女は直接的な接触は控えることにした。

 

(さて、ではどう動くべきか…)

 

 現段階では校長率いるホグワーツ陣営が、クィレルの死喰い人陣営の遥か上を行っている。ここから挽回するのはメリーが共犯者と睨むもう一人の死喰い人候補セブルス・スネイプの働きに期待する他ないが、あちらは監視中の蓮子曰く今も目立った行動は見当たらない。

 善悪どちらの勢力も未だ切り札を残している以上、こちらから安易に仕掛けるのは難しい。

 

 だが。

 

 

  決めた。臆せば後手に回るし、ここでより高く買ってくれる相手に恩を売っておきましょう」

 

 

 動けぬのはあくまで、普通の人間であった場合の話である。

 

 そして、人の居るべき場所ではない異界の狭間の玉座に腰を下ろしたスキマの主は「人間にとっての普通」からかけ離れた、凶悪な力を有していた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西暦1992年6月4日 夜

英吉利・蘇格蘭某所 『ホグワーツ魔法魔術学校』4階

 

 

 

  頑張って、ハリー……スネイプの野望を食い止められるのは、“例のあの人”を倒した貴方だけなんだから…!』

 

『…うん、わかってる。ハーマイオニーも気を付けて。君がダンブルドアにこのことを知らせてくれたら僕たちの勝ちだ…!』

 

 

   幸運を祈ってる。

 

 その言葉を最後に、ここまで共に戦ってきた掛け替えのない親友の最後の片割れが水薬のパズルの間を去っていく。紫炎の壁の奥へと消えた彼女の後ろ姿を見つめ続ける少年  ハリー・ポッターは大きな深呼吸で勇気を汲み上げ、最後の間へと続く黒炎の中へ勇ましく飛び込んだ。

 

 辿り着いた部屋は、まるで地下神殿のような空間であった。アゴラの階段が下層へと導き、その周囲に整列する幾多の石柱が厳かな視覚的旋律を奏でている。辺りを覆う湿った冷気のせいか、それとも薄暗い墳墓の如き広間の恐ろしい雰囲気に呑まれたか。震える体を覚束ない歩みで部屋の奥へと運んだハリーの目に、信じられない人物が映り込んだ。

 

  あなたは…!」

 

「…そう、私だ。お前とここで出会えるかどうかは定かではなかったがね、ハリー・ポッター」

 

 少年は兼ねてより悪名高いスリザリン寮監、セブルス・スネイプを追ってここまでやって来た。親友のロンはもちろん、学年一二を争う天才ハーマイオニーとマエリベリーも彼が悪人で間違いないと太鼓判を押している。故にハリーは微塵の迷いなく、あの忌々しい蝙蝠人間を成敗しようと意気込んでいた。

 

 だが蓋を開けた先にあった真実は、これまで味方だと皆が思っていた全くの別人  “闇の魔術に対する防衛術”教授、クィリナス・クィレルであった。

 

「う、嘘だ! だ、だって犯人はスネイプのはずじゃ  

 

「…セブルス? ああ、奴はいかにも怪しげに見えるだろう? 欺瞞に満ち、育ち切った蝙蝠のように私の周囲を羽ばたく敬愛すべき隠れ蓑。彼の陰に隠れれば、一体誰が……こっこんな、しっ舌足らずな、くっクィレル教授を、怪しむと言うのかね?」

 

 最早無能を演じる必要もない。そう暗に口にするクィレルが見せた本性は、無垢なポッターの常識を吹き飛ばす驚天動地の真実であった。

 自分が箒から振り落とされそうになったクィディッチの試合でのスネイプの暗躍は何だったのか。クリスマス前から引き摺っていた右足は石を狙ってフラッフィーに撃退された証ではないのか。トロールの襲撃も、同夜の図書室の賊も、全てあの男が仕組んだ出来事ではなかったのか。

 困惑のまま吹き上がる疑問を捲し立てるハリー。だがそれらに返されたクィレルの冷めた言葉は、どれも彼が諸悪の根源であることを少年に突き付ける。

 

 ふと頭に浮かぶのは、己の初恋の少女の儚げな微笑み。自分のせいで先生が学校に居辛くなっていることを憂う彼女の伏せられた顔は可憐で美しく、そして胸が潰れるほどに痛ましかった。

 

「…Miss ハーンは、マエリベリーはあんなにお前が学校中から嫌われてることを心配して……お前が本当はいい人だって信じてたんだぞ…!」

 

「ふむ…」

 

「お前の書いた本はどれもマグル生まれの人にもわかりやすいものだって……『クィレル先生の魔法理論はどれもとても参考になるものばかりですのに』って、彼女はいつも悲しそうな顔でお前の味方をしようとしてたんだ!」

 

 気になる異性の動向に興味が引かれるのは人の性。ハリーはその類まれなる行動力から、寮の異なる想い人の噂に大変明るかった。当然、有名なマエリベリーとクィレルの複雑な関係についても知っている。しかし慎ましい彼女の話は自他に対し過度な謙譲尊敬の色眼鏡を通して語られるため、ハリーは全てを背負い込もうとする謙虚な少女に惹かれる一方、そんなマエリベリーに高く評価されているクィレルに小さな嫉妬と苛立ちを覚えていた。無論彼が真の盗人と明らかになった今は、真実を知った少女の涙を想像するだけで、何れの感情も度し難い純然たる憤怒と化している。

 

 そんな感情的なハリーを、奇妙にもクィレルは場違いなまでに悪意のない、憐憫の表情で見つめていた。

 

「…なるほど。恋は盲目とも言うが、ここまで瞳の曇らされた若者を見ると……最早滑稽を通り越し哀れだな」

 

「何だと!?」

 

 クィレルの失笑が地下神殿に木霊する。羞恥から今まで必死に隠してきたはずの想いを憎き裏切り者に悟られたことに加え、想いそのものを嗤われた屈辱からハリーは相手に怒声を叩き付ける。

 

 だが、まるで理解が足りない息子を諭す父親のような口調で語られたクィレルの言葉は、事実幼い少年が理解するには幾度もの反芻が必要な突拍子もないものであった。

 

「お前はあの小娘のことを根本的に誤解している。子供とは思えぬほど極めて巧妙に隠してはいるが、あれは自分が周囲からどう見られているか、どうすれば自分の本性を隠すことが出来るか、それを良く理解している狡猾な人間だ」

 

 背筋が凍えるほど不気味な微笑を浮かべる石の盗人。ハリーは男のあまりの狂言に思わず喘ぐような声を零す。

 

「こう……かつ? マエリベリーが…?」

 

「そう、お前が懸想する学年最優秀生の少女は実に狡猾な生徒なのだよ、ポッター。あれが私を庇おうとするのは決して善意でも良心の呵責からでもなく、私に利用価値があるからだ。あの美しい容姿と聖女のような振る舞い、優れた授業態度が全て擬態であったとしても私は驚かんよ」

 

 小さく零れたクィレルの「もっとも初回授業後のあの【Legilimens(開心術)】がなければ見抜けなかったやもしれんがな」の呟きは、ハリーの耳をすり抜ける。

 

「何故私があの小娘に何冊もの闇の魔導書の貸し出し許可を与えたと思っている。無論面倒なセブルスの目を私から彼女へ向けさせる意図もあったが、それでもこの私が無暗に知識をばら撒く愚を犯すはずが無かろう?」

 

「…何が言いたい、クィレル」

 

 少年にとって男が語るマエリベリーの人物評価は俄かに信じ難いものであり、実際、聞くに値しないものに思えた。何故ならクィレルが続けて述べた自論は、あの謙虚で心優しい少女を侮辱するに余りある内容だったからだ。

 

「……見込みがあったからだよ、ポッター。非常に優れた闇の魔法使いとなる素質が、代々のスリザリン生が霞むほどの、真のスリザリンである  マエリベリー・ハーンにはな」

 

「ふざけるなっ!!」

 

 ハリーはかつてないほど激高する。ロンに諭され、マルフォイに絡まれ、スネイプに虐められる獅子寮の英雄少年にとって、その単語は禁句であった。

 

「マエリベリーがスリザリンだって? 何の冗談だそれは! さっきから黙って聞いていれば彼女のことを知った風に…! 僕の好っ、とっ友達をバカにすると許さないぞ!」

 

「わかるとも、私と彼女はよく似ている。あれの本質は明らかにハッフルパフではない。組み分けの儀式が難航したのは本人がレイブンクローに入りたがったから、などと愚かな教師共は錯乱しているが、節穴にもほどがある。奴が“Hatstall(組み分け困難者)”になったのは、闇の魔術を学ぶに当たり最も怪しまれないハッフルパフを希望したからだ」

 

「黙れよ、この極悪犯罪者め! 賢者の石を奪ってヴォルデモートに捧げようとする薄汚い手下と、僕のマエリベリーの一体どこが似ているって言うんだ!」

 

 もはや男の口が紡ぐ言葉の全てが戯言にしか聞こえない。あの忌々しい寮の名が出た瞬間、ハリーはそれまでのクィレルの発言全てを頭から捨て去り、初恋の少女の名誉を守るべく杖を抜いた。

 

 

  無駄話もそこまでだ』

 

 

 突如、ハリーの耳元に背筋が凍るような謎の低い声が響いた。

 地獄の底から這いあがったかの如きその声が鼓膜を震わせた瞬間、少年の額に浮かぶ傷が強い痛みを訴えた。記憶ではなく、遥か過去の幼い自分の心に焼き付いている、恐ろしい声。魔法界の英雄ハリー・ポッターは、理性ではなく本能でその男の正体に辿り着く。

 

   ヴォルデモート。

 

 疼く傷の痛みに耐えながら、ハリーはかの死したはずの巨悪の姿を探し視線を周囲に巡らせる。その中央に立つ、神聖なる学び舎に唾棄すべき異物を招き入れた大罪人は、まるで臣下の礼を取る従僕のように虚空の前に跪いていた。

 

『…小僧を殺し……ホグワーツを脱出せよ』

 

「はっ、主よ…! 速やかに」

 

 嗄れた声が木霊し、命を賜ったクィレルは深く平伏する。そして即座に杖を抜き幾つかの聞き慣れない呪文を唱え始めた。

 次々と宙へ放たれ消えて行く謎の魔法の正体がわからず困惑と恐怖に混乱するハリー。だが先ほど例の声がクィレルに下した指示を思い出した少年は、その内容に組まれた最悪の事実に思い至る。

 

「…『脱出』って  ッま、まさか…!」

 

 ハリーの驚愕にクィレルが笑みを零す。それは、絶対にあり得てはならないことが起きている現実を突き付ける立場となった、男の優越心の現れであった。

 

「ふん、ダンブルドアも随分と老耄した。少し手間取ったが  まさか石が自ら鏡から転がり出てくるような欠陥品を金庫に選ぶとはな」

 

「そんな…!」

 

 絶望がハリーを襲う。幾つもの試練を乗り越えここまで辿り着いた英雄も、心のどこかでホグワーツの教師陣への甘えがあった。特に“みぞの鏡”や透明マントなどの件でダンブルドアには、魔法界最高の名に相応しい人物として畏怖し、同時に信頼していた。その校長が準備した防衛が破られるなど悪夢に等しい。

 

 最高の魔法使いを上回るほどの力を持つクィレルとその主。周りにヒーローの如く持ち上げられようと、「ただのハリー」に過ぎない自分はどうあがいても目の前の男を倒すことは出来ないだろう。マエリベリーが借りてくれた禁書に載る“禁じられた呪文”の一発で、無残に命を散らす未来しか彼には見えなかった。

 

  くっ、ここは通さない…っ!」

 

 だが、それでもハリーは立ち向かう。

 理屈や勝機ではない、決して悪に屈しないという固い意志こそが奇跡を起こす。敵は、何も知らなかった赤子の自分にだって勝てた相手。しかも聞けば瀕死の手負い人だと言う。ここで踏ん張らなくては、自分はいつまで経っても周りから勝手に英雄と持て囃されるだけの無力な子供のままだ。

 

 そう気丈に立ち塞がる少年を、クィレルが苛立たしげに睥睨する。

 

「勇ましいな、ポッター。…だが聞こえなかったのかね?」

 

 思えばこれほど認め難い人間も珍しい。度胸だけは一丁前の、何の力も知恵も知識も持たないクセに、たった一度の奇跡に恵まれ無数の称賛を受け続ける忌々しい小僧。

 男の顔が憎悪に歪み、手にした杖が少年の眉間に定められる。今なら、主も感嘆するであろう最高の威力で呪文を放てるはずだ。

 

 そして、男が少年に死を宣告する。

 

 

「我が主は、お前の命もご所望だ」

 

 

 直後、巨大な劫炎の獣がクィレルの杖から現れた。

 

  ッ!?」

 

「フ……フハハハ! 我が主よ如何です、私の【悪霊の炎】の力は…!」

 

 この世の全てを焼き尽くさんばかりの炎熱が地下広間に吹き荒れる。ハリーは自身の肌が焼ける刺痛に声にならない悲鳴を上げ、のた打ち回りながら煉獄の大蛇から後退った。その姿が滑稽なのかクィレルの狂ったような嗤い声は益々大きくなる。そこにはスネイプに怯える小心者の姿はなく、“闇の帝王”の配下に相応しい、紛れもない悪の魔法使いが居た。

 想像以上の大魔法。あんなものに直接触れれば骨まで燃やし尽くされるだろう。ハリーは襲い掛かる炎の塊から必死に逃げ回る。

 

「見るがいい、ポッター。これこそが正義、これこそが力だ! 最早誰も私を笑うことは許さん! 私の栄光は偉大なる帝王の復活と共に始まるのだ!」

 

「く…っアアアァァァッッ! い、痛いィッ…! 熱い…!」 

 

「そうだ泣き叫べ、偽りの英雄よ! 這い蹲って私の闇の力から逃げるがいい! 一秒でも長く、お前の母が託した命を謳歌したいのならなァッ! ハァーッハッハッハ!」

 

 己の力に酔い痴れる闇の魔法使いが、非力な子供を火刑のように燻り続ける。昂る愉悦心は炎の勢いを益々膨れ上がらせ、遂には部屋ごと少年を呑み込んだ。

 

「アアあ  あぁぁぁ……お母…さ…」

 

 途轍もない熱量がハリーを喰らう。まるで鼠を丸呑みにする蛇のように。

 衣類が燃え、肉が焼け、眼球が沸騰する生き地獄。少しでも長く苦痛を与えんとする術者の願いに沿い、少年は死ぬことを許されない。耐え難い苦痛は勇敢な英雄の心を砕き、ハリーの焼け爛れた唇は、顔も知らない最愛の女性を求める弱音を紡ぐ。

 

 

  

 

 

 その言葉が亡き魔女の耳に届いたのかは定かではない。だが薄れゆく意識の中でハリーが捉えたのは、確かに、どこかで聞き覚えのある涼音のように美しい女性の声であった。

 

 そして、突然全身を掻きむしりたくなるような痒みに襲われた直後、ハリーは火刑の激痛から解放された。

 

「ぐぅっ…! ッうおおおォォォッ!」

 

「ッ何だと?」

 

 何が起きたのか、などどうでもいい。燃えた衣類、溶けた瞳、朽ちた手足、その全てを取り戻した少年は残された活力の全てを投じ、全身全霊の力で焦げた石床を蹴る。

 目指すは敵の魔法使い。買った杖も習った呪文も一切忘れ、ただ相手を攻撃することだけを目指したハリーが放ったのは、魔法学校の生徒らしからぬ最も原始的な暴力  拳による殴打法であった。

 

 しかし、呆れるほど頼りない少年の小さな一撃は、凶悪な死喰い人の身体に信じられない効果を齎した。

 

「ぐっ  アアアァァァッッ! なっ、何だこれはァッ!?」

 

 皮膚が、否、腕が粉砕された。狂乱する男の悲鳴が、眼前の想像を絶する現象が現実である何よりの証拠。まるで乾いた土人形のように、ハリーの右手拳を受け止めたクィレルの片腕が突然ボロボロと崩壊し風化を始めたのである。

 

『何だこの力は……不味い、さっさと小僧を殺せ、この役立たずが…!』

 

「う、うでっ、うでがぁ…! わたしのうでがぁぁ! ああ、あっ、あるじよおたすけをぉぉ…」

 

『…これでは俺様まで滅びる  チッ、またしてもこのヴォルデモートの前に立ち塞がるか…!』

 

 絶叫を上げ主人へ救いを求める無様な盗人の姿は、しかしハリーの目には入らない。復活した体もその中までは癒えることなく、幼い男の子の心は消耗しきったまま。炎の地獄で精神的限界をとうに超えていた少年の意識は既になく、振るう腕も魂の執念と言うべき奇跡の力であった。

 

『…いいだろう、いずれその忌々しい護りと癒しの魔法ごと貴様を叩き潰し、愛する全てを奪う最高の絶望の舞台を用意してやる……ハリー・ポッター!』

 

 少年の意識なき瞳に、クィレルのひび割れた肉体から邪悪な黒い靄が噴出する光景が映る。恐ろしい人の顔を形取ったそれは憤怒の形相を浮かべ、床に転がる“賢者の石”を惜しげに一瞥したのち煙のように霧散した。

 

 そして、ハリーの放った最後の力、自由な左手の拳が恐怖に歪んだ男の顔へ直進し、腕に伝わった硬質な衝撃と共に若き英雄は力尽きる。

 

 

 

 役目を果たし崩れ落ちる彼の目が最後に捉えたものは、守りたかった魔法界の日常。その彼だけの象徴である、一人の美しい少女の姿であった。

 

 

 

 

 




後日にエピローグを投稿し、『賢者の石』編は閉幕です。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
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