陽だまりの乙女 作:天照院
三つの指輪は、空の下なるエルフの王に、
七つの指輪は、岩の館のドワーフの君に、
九つは、死すべき運命の人の子に、
一つは、暗き御座の冥王のため、影横たわるモルドールの国に。
一つの指輪は、すべてを統べ、
一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕えて、
くらやみのなかにつなぎとめる。
影横たわるモルドールの国に。
1.
裂け谷。霧ふり山脈の西の麓にある深い谷間の中に、領主エルロンド卿の《最後の憩いの館》がある。
その裂け谷に訳あって住むメルリアンは、ハルリンドンにあるアンヌスールという国で、太陽が燦々と輝く時間に生まれたエルフの若き乙女である。
かの乙女はメルリアンという名以外に、カレナリエル(花冠をした太陽の娘)とも呼ばれていた。父親はアンヌスールの王、アグラディア。母親はガラドミアである。
「カレナリエル。今の貴女は集中が足りていないぞ」
エルロンド卿に仕えているノルドール・エルフの貴人。黄金の美しく長い髪をしたグロールフィンデルが、武芸の訓練中、心ここに在らずであったメルリアンに向けて言った。
「今日はもう良い。それに貴女の腕は充分に上達している。実戦はまだまだだが、王子らと相手出来るのなら、もう私が教える事も無いだろう」
グロールフィンデルは、自分の短剣をそっと鞘に収めた。"王子"とは、エルロンド卿の双子の息子、エルラダンとエルロヒアの事である。
「……ごめんなさい、グロールフィンデル殿」
背の高いグロールフィンデルを見上げて、メルリアンは落ち込んだ表情で謝った。
「貴女が私に武芸を習いたいと言った時は、全く冗談かと思ったよ。『エルロンド卿には反対されるだろうから、秘密にしてほしい』と頼まれて今日まで教えてきたが、卿はもう気付いておられる。だが、今更反対はされないだろう。貴女はいつも真面目に受けていた。先程のがおふざけではない事ぐらいわかっている。もしや──、また見たのか?」
「……ええ。昨夜、また同じ夢を」
同じ夢というのはこうだ。
世にも恐ろしい闇の中で、敵と戦う10人の者たち。靄がかかった様にそれぞれの顔はわからないが、その中にメルリアン自身がおり、オーク相手に弓や短剣を使って戦っている夢だ。
「──その夢だが、このところサウロンの力が増し、中つ国各地がどこも不穏だ。貴女のその夢も、ただの夢ではないと私は感じる。ここはエルロンド卿にもお伝えしたらどうか?」
「ええ。そういたします」
「私はいつも貴女の味方でありたい」グロールフィンデルは優しく微笑み返し、メルリアンの柔らかな御髪を撫でた。
「Hannon le」
メルリアンは、応える様に笑みを浮かべながら言った。
その日から数日。中つ国第三紀、3018年の10月20日の夜の事だ。
裂け谷のエルフ達がなにやら騒がしい。メルリアンは、慌ただしく行き交うエルフ達の流れを、自室のバルコニーから見下ろしていた。
「一体何が?」
「メルリアン様。グロールフィンデル殿が、傷を負った者を連れ戻ったのです」
メルリアンに仕えるソロンウェが現れ、状況を説明してくれた。
「傷を負った者はホビット1人、その他に3人のホビット。魔法使いとあの、ドゥナダンがおりました」
「魔法使い……ミスランディアね。それにエステルも」
魔法使いミスランディアは、灰色のガンタルフとも呼ばれる賢者だ。メルリアンは小さき頃にミスランディアと会い、色々教えを請うて以来から、ミスランディアに会うのを楽しみにしている。
そしてドゥナダンであるが、彼にはいくつもの名前がある。
ここ裂け谷では彼の事を「西方の人」という意味のドゥナダンという名で呼び、幼き日から成人までの間には、シンダール語でエステル(希望)とも呼ばれていた。まだ他にも呼び名はあるが、族長としての名、アラゴルンと呼ぶ者もいる。
ドゥナダンことアラゴルンは、北方王国アルノールの王統を継ぐ剣術に長けた野伏であり、ドゥーネダインの16代族長をしている男だ。
彼は北方のドゥーネダインの族長、アラソルン2世とギルラインとの間に生まれる。アラゴルンが2歳の時に、父のアラソルンがオークによって殺され、アラゴルンは裂け谷のエルロンド卿に保護される事となった。
アラゴルンがまだ小さな幼子の頃、裂け谷でメルリアンと出会い、その頃に呼んでいた『エステル』の記憶が頭の中で思い出された。
「今はエルロンド卿が治療を施しております」
「そう……」
メルリアンは慌ただしい様子から目を離し、だんだんと騒がしくなっていく心に何故か不安を覚えていた。
翌日メルリアンは、老魔法使いミスランディアと再会していた。
「お久しぶりです。ミスランディア」
「これはこれは、カレナリエル。随分と美しくおなりじゃ」
「ふふ。あなたは全然変わらないのね」
小さき時に出会ってからも、目尻の皺の数が少しも変わってない。それを伝えれば、ミスランディアは「ははは」と声を出して笑った。
そんな二人の元に、少し薄汚れた風貌の男が現れた。
「Le suilon」
目の前でかしこまった挨拶をしてきた相手に、メルリアンは覚えがなかった。一体誰なのだろうかと思っていると、ミスランディアは「ドゥナダンじゃ」と言った。
「エステル?」
大変驚いた様子で、目の前の薄汚れた風貌のアラゴルンを見れば、彼は「メルリアン、久しぶりに会って『エステル』はやめてくれ。私はもう幼い子供ではない」と苦笑いを浮かべた。
「あなただったのね。随分と会っていなかったから、あなただとは気付かなかったわ」
いくらアラゴルンがエルフの血が流れた寿命長き者でも、人間としてそれなりに老いはやって来る。
最後に彼を見たのは、彼が20歳を超えたくらいだっただろうか。
その頃はまだ若々しく身綺麗で、髭など生えてもいなかったのに。
「アルウェンに逢いました?」メルリアンが訊けば、アラゴルンはどこか切なげに困った顔をした。
「いいえ。まだ彼女には逢ってはいない」
「そうですか。彼女もあなたに逢えばきっと驚くわ。逞しく成長なされたあなたに」
メルリアンは微笑む。現在のアラゴルンと、幼いエステルに姉の様に接していた日々を重ねながら。
そして3人で再会を喜び合うと、話の流れは昨夜の事について移った。
ホビットのフロド・バギンズの傷はナズグールの刃によるもの。
エルロンド卿に送り出された、グロールフィンデルの助けによって
「今は治療により、部屋で眠っておるよ」
「そうでしたか。でも、ナズグールが何故あなた達を……」
メルリアンは知らない。ミスランディアとアラゴルンはお互い何やら目配せをし、メルリアンと顔を向き合わせた。
「詳しくはエルロンド卿から話をしてくれるはずじゃ。それ用の場を設けてな」
ミスランディアが答える。つまり、まだ「言えぬ」という事らしい。
それならば仕方がない。気にはなるが、エルロンド卿からの話があるまで待とうと思った。
それから2日間。一行よりも先に訪れていたビルボ・バギンズが、今はまだ目覚めないフロドの養父であると知ったり、彼らの他のホビットの、サムやピピンにメリーをミスランディアから紹介されたのだった。
彼らホビットの訪れは、ゆったりとした裂け谷を一気に慌ただしく、賑やかな空間へと変えていったのである。
2.
ナズグールの刃によって傷を負ったフロド・バギンズが、4日目にして漸く目覚めた。
目覚めを待ち望んでいた他のホビットは、大いにそれを喜んでいた。
そして、ミスランディアからフロドが良くなったと報告を受けたエルロンド卿は、ブルイネンの浅瀬での勝利祝いを急遽催そうと準備を始めたのだった。
その宴の準備最中、ドワーフがこの裂け谷にやって来た。
山の下の王、ダイン二世から遣わされたグローインとその息子ギムリら少数である。
準備中のエルロンド卿に代わり、彼らを出迎えたのは顧問長のエレストール。
ドワーフ達がエレストールによって裂け谷の館に招かれたとほぼ同時、また別にやって来た者達がいた。
緑と茶色の装いをしたエルフ達。従者らを引き連れてやって来たのは、闇の森のエルフ王の息子、レゴラスであった。
「今日はお客人の多いことよ」
裂け谷の館に招かれて行く者達を、遠く離れたメルリアンのバルコニーから眺めていたリンディアが淡々と言った。
リンディアは、グロールフィンデルやエレストールのように特別地位が高いわけではない。けれど、裂け谷の中での中間管理職のような立場にあった。
「メルリアン姫、本日の夜からはあまりお一人で部屋の外を出歩かぬ方が良いかと」
「何故です?」メルリアンもバルコニーへと出ると、リンディアが見ていた方向に目を向けて言った。
「ドワーフ達が来たのです。あの者達は……、少々品が、無い」リンディアは言葉を選びながら言う。彼は、ドワーフに対してやや否定的のようであった。
「わたくしは気になりません。あの者達はお客人ではありませんか」
「いいえ、気になっていただきたい。貴女のような方々はむやみにお姿を晒さない方がよろしいと私は思うのです。それに人前では──」
リンディアが続けようとした時だ。
「それ以上続けるとただの小言になるぞ、リンディア」
開け放たれたメルリアンの部屋の出入り口から現れたのは、グロールフィンデルだった。
「これはグロールフィンデル殿、貴方からも是非」
リンディアはグロールフィンデルに会釈をし、「それでは、私はこれで」と、メルリアンの部屋から出て行った。
「彼は彼なりに貴女の事を考えて言っているのだ」
「それは存じています」メルリアンは、隣にやって来たグロールフィンデルから離れるように、バルコニー側から居間側へと移動する。
「わたくしは貴方がた程生きてはいないし、アルウェン程おしとやかに出来ていませんもの。自分でもわかっています、わたくしが真にエルフらしくない事も」
エルダールの命を受けて長い年月を生きる者達は、人間の様に喜怒哀楽をあまり表立って出さない。
メルリアンはエルフには珍しい感情の豊かさがあった。
そのせいか周りで浮く事もしばしばあり、一国の姫ならば感情を抑えて、 エルフらしい気品ある乙女となれと言われ続けた。
「貴女はまだまだ若い。今はらしくなくても、いずれは長い年月をかけて叡智を宿す」
背を向けて立つ、メルリアンの肩に手を置いたグロールフィンデルをメルリアンは見上げる。彼は美しい眼差しで微笑んでいた。
彼はメルリアンがエルフらしく聡明である事を望んでいるのだ。そんなグロールフィンデルに沈んだ表情を見せてはいられない。
メルリアンはグロールフィンデルに向き直ると、上品な乙女らしい笑みを浮かべた。
「リンディア殿から聞きました。エルロンド卿が勝利の祝いを催すと。フロド・バギンズが目を覚ましたそうで」
リンディアがメルリアンの部屋を訪れたのは、祝いの宴を伝える為であった。
「そうだ。勿論貴女も参加してくれるだろう?」
「ええ。是非とも」
宴の時間までもう少しというところ。メルリアンは淡い青の衣装を身にまとい、額より上のところに金と銀の細やか細工が施された冠を載せて、エルロンド卿の館にて開かれる会場へと、仕いの者達を連れて向かっていた。
「宴はさぞかし賑やかになりそうですね」ソロンウェが言う。
「お席に天蓋をしつらえた椅子でなくても良かったのですか? エルロンド様が用意して下さると申されていたのに。しかもお席まで別で」
「かまいません。エステルがいるのですよ、折角だからアルウェンに目立ってほしいの」
「お二人の為だったのですね」
「ええ」
アルウェンに訊けば、まだ2人は逢っていないそうだ。
余計なお節介を焼くつもりはないが、2人の事はメルリアンなりに気にかけている。しかし、エルロンド卿の手前、大っぴらには応援出来ない。
何故ならば、2人は人間とエルフ。人間はいずれ死ぬ運命。エルフは不死身ではないが、人間のように脆くも老いて死んでいく事が無い。
人間の一生は、エルフの瞬きの間である。共に歳を重ねて生きてはいけず、仮にアルウェンが人間のアラゴルンとの道を選べば、アルウェンは限りある人の人生を歩まねばならなくなる。父親であるエルロンド卿からしてみれば、簡単に許される2人の恋ではない。
「メルリアン姫、お席はあちらに」
エルロンド卿の館の大広間に着くと、宴の会場には既に賓客方やドワーフ、裂け谷のエルフ以外のエルフ達が集まり出していた。
一段高いところにしつらえられた、長いテーブルの端にはエルロンド卿。その両隣りの一方にグロールフィンデル、もう一方にミスランディアが既に坐って待っている様子。
メルリアンは彼らに会釈をすると、隣のテーブルへ。ソロンウェに引かれた椅子に座った。すぐ後にアルウェンも現れたのだが、アラゴルンの姿はどの席を見てもおらず、入って来た様子もなかった。
──折角アルウェンが宴に参加してるのに。
結局アラゴルンがいないままに、最後に現れたホビット達が席に着くと、勝利の祝いの宴は始まった。
宴は大変に賑わい、それぞれが挨拶をして談笑を愉しみ合うと、ついに宴は終わった。
エルロンド卿とアルウェンは席を立って歩き出し、他の者達も順を追ってその後に従った。
メルリアンもソロンウェと共に行こうとする。──が、何者かからの視線を強く感じとった。誰かがメルリアンを見ているのだ。
その視線は、宴の最中でも感じていた。きょろきょろと周りを探し見るのは行儀が悪く、視線にはひたすら耐えていたが、今ならその主を探せると、メルリアンは辺りに目を向けた。
誰なの?
エルロンド卿らを追って出る者達の中に、動かずじっとメルリアンを見ている者が1人いた。
あの方は……。
かの者には一度会っていた。偶然にもこの裂け谷で。
メルリアンはあの時、とても驚いて動揺していた事を覚えている。
それはメルリアンの見る不思議な夢の、闇と戦う者達の1人と同じ顔であったからだ。初めは、メルリアンを除けて9人の顔には靄がかかっていたのだが、見るたびにその中で唯一、はっきりと顔がわかっていた。
かの者とメルリアンの間には、川の流れの様に追って出る者達。かの者は、その流れの中をすり抜けてメルリアンのもとへ来ようとしていた。
「立ち止まってどうしたのだ?」
グロールフィンデルの声で我に返ったメルリアンは、その声の方に振り向いた。
「グロールフィンデル殿、いえ……、わたくし」
メルリアンはグロールフィンデルから、こちらへと来ていた筈のかの者へと目を向けたが、かの者の姿はどこにも無かった。
「カレナリエル、共に火の広間に参ろう」
火の広間とは、彫物を施した二本の柱の間に大きな暖炉がある広間である。暖炉の中の燃える火以外に明かりらしいものはなく、祝日には皆が集まって歌や物語を披露して楽しんだりするが、大抵は人気もない広間で、ひとり静かに考え事をしたい者達がこの広間に来たりしていた。
あの方は幻だったのかしら──。
メルリアンはそう思い、グロールフィンデルと共に火の広間へと向かった。
火の広間では既に楽人らによる美しい音楽が奏でられており、端の方ではホビットのビルボやフロド達が、何やら楽しげに話しをしている様子が伺えた。メルリアンはその近くに、グロールフィンデルと共に腰を下ろした。
暫くすると、いつの間にやらアラゴルンが火の広間に現れた。アルウェンがいたというのに、一体どこにいたのやら。
訊けば、エルラダンとエルロヒアが荒野から戻り、アラゴルンが是非とも直ぐに聞きたい知らせを持って来てくれたそうだ。
「知らせを聞いたのなら」時間を割いてほしいとビルボが頼む。エルロンド卿の仰せにビルボが詩を作り、皆の前で歌うらしい。そしてエルフらの歌の間にやっと完成させ、ビルボの詩が始まる。そして終えると、聞き手達は皆拍手を返した。
「グロールフィンデル殿」
メルリアンもビルボに拍手を送った後、隣に坐るグロールフィンデルに声をかけた。
「もっと聴いていたいのだけれど、わたくしそろそろ部屋に戻ります」
「そうか、では部屋まで送ろう」
流れる音楽に包まれた火の広間から、メルリアンはグロールフィンデルと共に静かに出て行く。
外は既に陽が沈み、夜空には沢山の星々が光り輝いていた。
「何だか貴女の魂は別のところにでも行ってしまったようだな」隣を歩くグロールフィンデルが言う。
「そうですか?」
いつもなら嬉々としながら歌や詩に集中するメルリアンであったが、今までになく、心ここにあらずであったらしい。
「宴の後、何か?」
そう訊かれ、かの者が頭の中に浮かんだ。
「幻を見ただけです。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
グロールフィンデルには『幻』とだけ答えた。彼がそれだけで納得したとは思えないが、それ以上メルリアンに訊きはしなかった。
3.
部屋に到着し、グロールフィンデルと別れたメルリアンは、バルコニーから星々を見上げた。リンディアに夜はひとりで出歩くなと言われたが、メルリアンは無性に外を歩きたくなった。
だって、毎夜散歩しているのに我慢するなんて。
メルリアンはこっそりと部屋を抜け出した。
夜空に輝く満点の星は、毎夜毎夜、メルリアンの心を優しく癒してくれる。まるで、母の腕の中に包まれているようだった。
心がだんだんと安らいでくると、思い出されるのはかの者の顔だった。
「この裂け谷から見る星々は、本当に美しい」突然、メルリアンの背後から誰かが言った。
「Le suilon. また、お会いできましたね」
声のする方へ振り向けば、裂け谷に合わせた灰色の装いをした、かの者がそこにいた。
メルリアンはかの者をじっと見つめて、思わず「貴方は幻ではないの?」と問うた。
「私は幻ではありませんよ」
にっこりと微笑みながら、かの者はメルリアンの目の前まで近付いて来る。
「Goheno nin. (ごめんなさい)少し、また、驚いてしまって。大広間で貴方はいなくなってしまったから」
「ああ、あの時は貴女の横に貴人がおられた」
貴人とはグロールフィンデルの事であろう。かの者はそれで気をつかったらしい。
「本当は直ぐにでも貴女のところに向かいたかったのだけれどね。そうして正解だった。やはり、再会の時は2人だけの方が良い」
「貴女とはまた会えると思っていたんだ」かの者は星々の光を浴びて笑った。
メルリアンはあの時、かの者に『いつかお会い出来るその時に』と言った。それは自然に口から出た言葉であった。はっきりとしたものはなかったが、そんな予感がしたのかもしれない。
「Im eneth nin Legolas, man i eneth lin?(私はレゴラス、貴女の名は?)」
「Im eneth nin Melrian. (わたくしの名はメルリアン)この名前以外に、わたくしの事をカレナリエルと呼ぶ方々もおります」
メルリアンが微笑みながら答えると、2人は暫しの間見つめ合った。
「やっと名を訊けた、メルリアン。今宵は裂け谷の美しい星空の下、再び貴女に会えて本当に良かった」
「わたくしもです」
2人で静かな道を歩いていると、遠くからメルリアンを呼ぶソロンウェの声がした。きっと黙って部屋から出たせいだろう。
「貴女を探しているね。それならここでお別れを」
「はい、レゴラス殿」
名残惜しくレゴラスと別れたメルリアンは、高揚した気持ちいっぱいで自室へと戻って行った。
その夜、メルリアンは久しく見ていなかった例の夢を見たのである。
闇にまみれて戦う者達と自分自身。レゴラスらしい者の顔以外、靄がかかって不明であったのに、今回は一人一人が誰であるのか、残りの8人の顔がはっきりとわかったのだった。
メルリアンは閉じていた目を開いた。
──まさか、彼らだったとは。
メルリアンは思い立つと、陽が昇る前だというのに、エルロンド卿の館へと急ぎ向かったのである。
ソロンウェも連れず館を訪ねると、エルロンド卿の側仕えらは、初めから訪ねて来る事を知っていたかの様にメルリアンを館の中に入れてくれた。
もしかしたらエルロンド卿は予見していたのかもしれない。メルリアンはそう思いながら、側支えの案内に付いて行った。
「エルロンド卿、お連れしました」
側支えの案内でエルロンド卿の部屋に着くと、メルリアンは一呼吸置いてから話し出した。
「まだ陽も上らないこのような時にお訪ねして、申し訳ありません」
「そなたが訪ねて来る事はわかっていた。カレナリエル、そなたが見る夢の事であろう?」背中を向けていたエルロンド卿が振り返る。灰色の瞳が、メルリアンを真っ直ぐに見つめた。
「はい、エルロンド卿にはお伝えするまでも無いと思っておりました。初めはただの夢であると──」メルリアンは、エルロンド卿に夢の内容を事細かに説明した。
「わたくしの見た夢の中には、わたくしを含めて賓客のホビットであるフロドとサム、メリーにピピン。ミスランディアとレゴラス殿、ドワーフのギムリという方に、そしてドゥナダンがおりました。後1人の方は見知らぬ顔でしたが、人間の殿方であると……」
偶然にも、この裂け谷に訪れたホビットや魔法使い。それとは別のドワーフやエルフ、そして人間。ただの夢だとは思えなかった。
「エルロンド卿、わたくしのこの夢は、『ただの夢』なのでしょうか?」
エルロンド卿は黙ったまま、静かに窓の外に視線を移した。
「そなた自身は『ただの夢』とは思うてはいない。だからここへ来た」
「……はい」
「メルリアン、それに答えよう。私から言えるのは、その夢は『ただの夢』では無いという事だ。何故そう言えるのか、今はまだ話せない。その時は間もなく訪れるが、まだなのだ」
「その時を待て」と返されたメルリアンは、エルロンド卿の言葉に従うと、卿の館を後にした。
そして夜明け。秋の朝陽が裂け谷を照らし、流れる川の音や鳥達の歌声が、耳に心地良く響いていた。
「今から重要な会議を行うそうです。エルロンド様から、『出席せよ』と」
仕えのソロンウェから伝えられ、メルリアンは会議の場に急いだ。
わたくしが会議に……?
重要な会議などに呼ばれた事は一度も無く、メルリアンは不思議に思った。
円状の会議場に到着すると、ちょうどフロドとビルボがエルロンド卿の隣の席に座ろうとしていた。
「何故カレナリエルが?」グロールフィンデルがメルリアンの姿を見て言う。
隣のエレストールは知っていたのか何も答えず、その隣に坐る灰色港の船大工、キーアダンの使いであるガルドールは、メルリアンに会釈をした。
メルリアンはガルドールに会釈を返し、彼等とは反対方向のミスランディアの隣に坐った。
「友人方よ、これなるホビットは、ドロゴの息子フロドです。フロド以上に大きな危険をくぐり抜け、緊急な任務をたずさえてこの地に来た者は、いまだかつていなかったと言ってよい」
エルロンド卿は、先ずはフロドを皆に紹介し、そしてフロドが会った事の無い者達を一人一人指した。
メルリアンは宴の場にてフロドと顔を合わせており、敢えての紹介はされなかった。
最初はドワーフのグローインの息子、ギムリ。エレストールにガルドール。グロールフィンデルと同じく、会議場にいるメルリアンを不思議に思っていた、闇の森の王、スランドゥイルの使いで来たレゴラスが紹介されていく。
そして、レゴラスから離れて坐る、1人の人物をエルロンドが指す。彼は背が高く気品のある立派な顔立ちに、黒い髪と灰色の瞳をした男であった。身なりは、毛皮の裏のついたマントに編み上げ靴の騎馬旅人の姿。長旅で汚れはしているものの、その衣服は贅沢なつくりで、肩から斜めに渡した飾り帯には、銀の口のついた大きな角笛をさしていた。
男は裂け谷の景色や美しいエルフ達に少し圧倒されつつ、初めて見たのであろう、ホビットのフロドやビルボをまじまじと見つめている。
──彼だ。
メルリアンは、男からエルロンド卿に視線を送った。夢の中での、誰かわからなかったもう1人の人物の顔が、今から紹介されようとしている男であったからだ。
「こちらは──」エルロンド卿は一瞬メルリアンと目を交わし、次にミスランディアの方へと向いて続けた。
「ボロミア。南方のお人だ。まだ夜の明けきらぬ白々明けにこの地に着かれ、助言を乞われた。私はこの会議に出席するように勧めた。何故なら、この者の尋ねたい事は全てこの席で答えられるだろうからだ」
エルロンド卿は、外の世界のとりわけ南の国々、霧ふり山脈の東の広大な地域に起こっている出来事について語った。メルリアンもソロンウェやグロールフィンデルから、それらについての話を聞き及んではいた。
「我が一族の上に不安の影を落としたのは、もう何年も前の事になります」次にグローインが語りだした。
先祖の成し遂げた偉業、ドワーフの言葉では【カザド=ドゥム】と呼ばれるモリアでの話に及ぶ。
モリアは北方世界の驚異の地である。ドワーフらはあまりにも深い地を掘り、名状し難い恐怖を呼び覚ましてしまった。
ドゥリンの子孫達がそこを逃れて以来、モリアの広大な館には、長い事住む者もいなかった。だがドワーフ達は、恐怖の念を押さえ難い程にかの地に憧れもあった。そして何代もの王達の治世後、ついにバーリンがオーリとオイン、グローインの一族の多くを引き連れて、モリアへの道へと向かったのだ。
「それからもう、かれこれ三十年が経ちます」
グローインは暫くの間、上手くいっているらしいバーリンからの便りを受け取っていたのだが、突然ぷつりと音信が途絶え、今に至るまでモリアからの連絡は無いと言った。
ところが一年ばかり前、1人の使者がやって来た。モリアからではなく、モルドールからの使いであった。
その使者は夜分に馬に乗って現れ、『サウロン大王が──』と口にした。それからホビットの事を煩く尋ねたり、ホビットとはいかなる種族なのか、どこに住んでいるのかなどと訊いてきたのである。
「我らは酷く心配し、返答を与えませんでした。すると、その男は恐ろしい声を低めてこう言ったのです」
使者は、「盗人のホビットを見つけ出し、指輪を取り上げろ。それは昔、その者が盗んだ物。サウロン様がご執心なのは品物としてほんのささやかな物にすぎぬが、お前の善意の証となる。そうすれば昔ドワーフのものであった三つの指輪が戻され、モリアの国は永遠にお前達のものとなる」と言い、「拒絶すれば恐ろしい事にもなる」と脅しもかけてきた。
それに対しダインは『わしは応とも否とも申さぬ。それをとくと考えなければならぬ」と返したそうだ。
「使者は『また来る』と言い、闇に消えました。その夜以来、我らドワーフの長老達の心は重く沈み込みました」
それから二度使者は現れ、二度とも返答を貰わずに去った。今度来れば三度目である。『これが最後だ』と言った使者の約束の日は、もう間もなく訪れる。
グローインはダインから遣わされ、ビルボに敵が探している事を告げ、そして何故敵がそんなつまらない指輪を欲しがっているのかを、エルロンド卿の助言を求めて裂け谷にやって来たという。
グローインは、同じこの使者共が谷間の国のブランド王のもとにも立ち寄り、王が使者の脅しに屈しないかと不安視した。
「もし我らがここで返答を与えなければ、敵はその支配下にある人間どもを動かし、ブランド王やダインを攻めるやもしれません」
「よくぞ参られた」エルロンド卿は言う。「あなたは今日この席で、必要な事は全て耳にされるだろう」と。
ドワーフ達の悩みが実は西の世界全体の大問題の一角にすぎず、取るに足りない指輪、サウロンの指輪をどう処理すべきか。
「そして、これが本日ここに皆をお呼びした目的でもある。お呼びしたと申したが、遠隔の地より見えられた客人方よ、私はあなた方までお呼びしたわけではない。あなた方はちょうどいい時に、この地に集まったのだ。偶然とも思えるがそうではない。世界の危機にどう対処すべきか、その知恵を今見出さなければならないのは、この地に集まった我ら一同に他ならない」
エルロンド卿は続ける。「今日まで2、3の者以外には秘められていた事実も、隠す事なく話してほしい」そして全てを理解してもらうために、そもそもの始まりから現在に至るまでの指輪の歴史を、エルロンド卿は口切った。
4.
一同は耳を傾ける。サウロンや数々の力の指輪の事。それらの指輪が、遠い昔の第二紀に作られた事。エルロンド卿の話の一部は出席者のある者には既に知られていたが、全貌を知る者は1人としていなかった。
そして、彼から長い年月に渡る指輪の歴史が物語られ、話を終えるまでに日は既に高く上っていた。エルロンド卿は、次にヌメノールの栄華と没落を語り始める。
ギル=ガラドの伝令を勤めたエルロンド卿が、オロドルインの山脈で戦った最後の合戦。その戦いでギル=ガラドは死に、エレンディルは倒れ、名剣ナルシルは彼の下で二つに折れた。しかし、サウロン自身も打ち倒された。それはイシルドゥアが父の剣の柄元に残った刃の欠片で、サウロンの手から指輪を切り取り、その指輪をイシルドゥアが我がものにしたのである。
「なんと、指輪はそういう事だったのか!」客人のボロミアが口を挟んだ。
「このような話は、南の地方ではとうに忘れ去られておりました。名前を言うをはばかるかの者の大いなる指輪については、私も小耳に挟んではおりましたが」
ボロミアは少し興奮気味に言った。
「我々はこの世から消え失せたものとばかり……。イシルドゥアがそれを取ったとは!」
「イシルドゥアはそれを取った。だが、それは取ってはならないものであったのだ」エルロンド卿は、ボロミアを向いてなお続けた。
「昔指輪が作られたオロドルインの火の中に、直ちに投げ込まれるべきであったのに……。だが、イシルドゥアの仕業に目を止めた者は殆どいなかった。最後の凄絶な戦いに、父王の傍に侍していたのは彼だけだった」
イシルドゥアは、ギル=ガラドに付き従っていたキーアダンとエルロンド卿の忠告に耳を貸そうとはしなかったのである。
『予はこれを、我が父、我が弟の命の贖いの代として収める』
イシルドゥアはそれを取って我が物としたが、間もなく彼は指輪に裏切られて死んだ。それ故に、北方ではその指輪は『イシルドゥアの禍』と呼ばれるようになった。
「この事は、ただ北方世界にのみ伝えられた。それもごく少数の者が知るにすぎない。ボロミアよ、あなたが今日まで耳にされなかったのは、少しも不思議ではない。イシルドゥアの滅びの地、あやめ野から生きて戻ったのは僅か3人。彼らは長い間彷徨い歩いた末、漸く霧ふり山脈を越えて戻って来た」
そのうちの1人である従者のオホタールは、エレンディルの折れた剣を形見とし、裂け谷に身を寄せていた、まだほんの子供であるイシルドゥアの後嗣、ヴァランディルのもとに持ち来った。しかしナルシルは二つに折れ、刃の光も失せて、そして今に至るまで、この剣は鍛え直されていなかった。
「サウロンの力は小さくなった。しかし滅ぼされはしなかった。奴の指輪は行方知れずにはなったが、この世からは失われはしなかった」
暗黒の塔は壊されたが、土台は取り除かれなかった。何故ならこの土台は、指輪の力によって築かれ、指輪がこの世にある限りその土台は存在し続ける。エルフに人間達、仲間や味方達が戦いで滅んだ。アナリオンやイシルドゥアは討たれ、ギル=ガラドとエレンディルもすでにない。
「今後エルフと人間のかかる同盟は存在しないだろう。人間が増え続けるのに反し、最初に生まれたエルフ達は減る一方。今やこの二つの種族の仲は疎遠になってしまった。そしてあの時以来、ヌメノールの子孫は衰退し、彼らはの寿命も縮まった」
かの戦いとあやめ野の殲滅後、西方から来た人間達はその力を失い、イヴンディム湖の畔アンヌミナスの彼らの都も廃虚と帰し、ヴァランディルの後継者達は、北連丘の丘の上、フォルノストに居を移した。そしてそこもまた、今は無人の都となった。人々はそこを死者の丘と呼び、その地の土を踏む事を恐れた。何故ならアルノールの一党は衰退し、敵に滅ぼされ、王権は空しくなって青草の丘に緑の塚を残すだけとなったからだ。
南ではゴンドール王国が長く持ち堪え、暫くは王国の威勢は増した。人々は高い塔を建て、砦を築き、多くの船の出入りをする港を作った。人間の王達の翼ある冠は、多くの国の民から畏れられた。彼らの首都はオスギリアス。そして東の方、影の山脈の肩にミナス・イシルを建て、西の方には白の山脈の麓に、ミナス・アノールを建てた。王の宮廷には一本の白い木が生えている。
やがて中つ国の興亡迅速により、アナリオンの息子メネルディルの血筋は絶え、白の木は枯れた。ヌメノール王家の血は、卑小な並みの人間達の血と混じり合い、モルドールの城壁の見張りもされなくなると、暗い者達が密かにゴルゴロスに戻って来た。そしてある時に悪しき者達が現れ、ミナス・イシルを奪い、そこに住まい、恐怖の住処に変えた。そしてこの場所は、ミナス・モルグルと呼ばれる。
ミナス・アノールも新たにミナス・ティリスと名付けられた。この二つの城市は常に戦い交え、間に位置するオスギリアスは無人の都と化し、廃虚を歩き回るのは亡霊達だけとなった。
「イシルドゥアの時代に全てを統べるかの指輪は、誰一人行方を知る者もなく消え失せ、三つの指輪はその支配から脱する事が出来た。しかし後代に至って、この三つは再び危険に晒される事になった。何故なら、悲しむべき事に一つの指輪が見出されたからだ」
「エルロンド卿」
エルロンド卿の話が終わろうとした時、ボロミアが立ち上がった。彼は、ゴンドールの地より参った者だからだ。
「今はかの地に起こっている事を知っておかれた方がよろしいかと」ボロミアは言った。
「ゴンドールの国は既にヌメノールの血が尽き、誇りと尊厳が忘れ去られたと考え召さるな」
ボロミア達の武勇により、東の地の無法者共は今なお動きを封じられ、モルグルの恐怖もどうにか食い止められていた。しかし、万が一もある。
「我々が滅びの山と呼ぶオロドルインの火口からも、再び煙が立ち上っております。黒い国の力は強大となり、我々は取り囲まれてしまいました」
国民はイシリアンから追い出され、僅かに足がかりとなる場所を一つ残し、一戦闘部隊を駐屯させるだけとなっていた。
ところが、この年の六月の事だ。モルドール側が不意に戦いを仕掛けてきた。その為に部隊は全滅した。モルドール側は、東夷や残虐なハラド国の者達を味方に引き入れ、部隊が敗れたのは数による敗北とも思われた。──が、実際には、以前には感じられなかった力が敵側にはあった。
「その力は巨大な黒い乗手か、月下の暗い影の如く我が方では最も大胆不敵な者でさえ恐怖に襲われ、堪え切れずに逃げ去ったのです。そして僅かな生き残りだけが戻り、オスギリアスの廃虚の中に残っていた最後の橋を壊してしまいました」
今なお戦い止まないゴンドール。そのような中、ボロミアは使命を帯び、1人何百里の危険な旅を重ねてエルロンド卿のもとにやって来たのである。
「奇襲のあったその夜、我が弟の不安な眠りに訪れた夢がございました」
ボロミアがエルロンド卿に助言を求めたのは、弟がしばしば見る夢についてだった。
「一度わたしも同じ夢を見ました。その夢の中では、東の空が暗くなり、雷鳴が次第にその轟を強めるように思いました。しかし西の方には朧な光が消えず残り、そこから声が聞こえてきたのです」
折れたる剣を求めよ。
そはイムラドリスにあり。
かしこにて助言を浮くべし、
モルグルの魔呪より強き。
かしこにて兆を見るべし、
滅びの日近きにありてふ。
イシルドゥアの禍は目覚め、
小さい人ふるいたつべければ。
ボロミアと弟には理解できず、ミナス・ティリスの支配者である、父親のデネソールに訊いたところ、裂け谷とエルロンド卿である事を知り得た。ボロミアは反対する父親を押し切るように、危険な旅を買って出たのであった。
「このエルロンド殿の館で、更に多くの事を明らかにして差し上げよう」
アラゴルンは立ち上がると、エルロンド卿の前に置かれたテーブルの上に、二つに折れた剣を投げ出した。
「『折れたる剣』だ!」
野伏の痩落ちた顔と、色褪せたマントのアラゴルンに驚きの目を注ぎながら、ボロミアは「あんたは何者なんだ?」と返す。
「アラソルンの息子、アラゴルン」
イシルドゥアから幾世代も数えたその後裔だと、代わりに答えたのはエルロンド卿だった。
「じゃあ、あれはあなたのものなんだ」
フロドがびっくりして叫ぶと、「どちらのものでもない」とアラゴルンは言う。
「フロドよ、指輪を出しなさい」厳かにミスランディア言った。
「時が来たのじゃ。ボロミアも残りの謎がわかるじゃろ」
一同は静まり返り、フロドへと注目した。そして彼の震える手で差し上げられた指輪は、光を明滅させてきらきらと輝いていた。
「『イシルドゥアの禍』をご覧あれ!」エルロンド卿が言う。
メルリアンは、初めて目にした指輪の吸い込まれそうな程の輝きに驚きつつも、まじまじと見つめながら、きらりと目を光らせたボロミアに気づいた。
「小さい人か! それではいよいよミナス・ティリスの滅びの日が迫ったのか? しかし、何故折れた剣を探せというのだ?」
「夢のお告げの言葉は『ミナス・ティリスの滅びの日』ではない」アラゴルンはボロミアに返した。
しかし滅びの日も近い。何故なら、『折れたる剣』はエレンディルが倒れた時、その体の下で折れたという『エレンディルの剣』であるからだ。全ての家宝が失われた中で、この剣だけが後嗣達によって宝と伝えられてきた。
「あなたは何を求めている? エレンディルの王家が、ゴンドールの地に戻る事を願っているのか?」
「わたしはただ、謎解きをお願いしに参っただけだ」ボロミアは傲然と答えた。
「私としては、あなたの疑念ももっともだと思う」
アラゴルンは、自身がエレンディルやイシルドゥアのような雄姿には程遠く、ただの後継者である事、ドゥネダインとして今日まで生きてきた話をした。ボロミアはそれに対し納得とまではいかずに、まだまだ知りたい事が山ほどある様子であった。
それを割り込むように、指輪の持ち主ビルボがどうやって指輪と出会ったのか、冒険談も含め、例の誕生日祝いでホビット庄から消え失せるまでの顛末を話そうとした。けれどそれはエルロンド卿に止められ、「後継者になったフロドに話してもらうとしよう」と、今度はフロドが、自分の手に指輪が渡ってからの関わり合いを語る事になった。
長い話が終われば、エルロンド卿はミスランディアに最後の締めくくりを任せた。
金のこの指輪は、敵にとって非常に値打ちのある指輪である事。何年も前にミスランディアが、ドル・グルドゥアの死人占い師のすみかに入り込み、密かに探り、古の敵が再び形を取って力を得ていたのを知った事。サルマンが死人占い師と表立って事を構え、長い間自分達が座視するにすぎなかった事。ついにサルマンが折れて賢人会議が力を発動し、闇の森から悪しき力を追い出した事。
しかし遅すぎたのである。サウロンは九人の召使い共が住まうミナス・モルグルを通し、遠くからモルドールを支配していた。そして賢者サルマンもまた、悪の手に堕ちてしまっていた。
ミスランディアは、一体どういう経路でゴラムの手に渡ったのかを調べていた。だが、ゴラムは見張りを逃れて行方知らず。ただ時は流れて、イシルドゥアの後継者アラゴルンに全てを語り、アラゴルンは後継者にとってイシルドゥアの過ちを償うためにも、力を尽くしてゴラムを探し始めたのだった。
「私はやっとそれを捕まえたのです」
アラゴルンは、あてもないゴラム探しに望みを失い、帰国の途につこうとしていた。だが、幸運にも泥に濁った池の側に、淡く押された足跡を発見。死者の沼地の淵に沿り後をつけると、ゴラムが水の中を覗きこんでいたのである。
アラゴルンはゴラムを捕まえ、やっとの思いをして手はずとなっていた闇の森のエルフ達へとゴラムを引き渡した。その後、やって来たミスランディアが長い時間をかけてゴラムから話を訊き出し、指輪があやめ野に近い大河から出たものであることや、所持していたゴラムが指輪の力によって同類の何倍も長生きていたことを知り得た。
「この指輪に、イシルドゥアが報告した文字が今なお読めるじゃろう」
ミスランディアはその声を、にわかに猛々しく威圧的に、石のように軋ませながら文字を読んだ。高く上った日が陰り、一瞬にして暗くなった様に思われた。皆は身を震わせ、メルリアンやエルフ達は慌てて耳を塞いだ。
「ガンダルフよ、未だかつて誰一人として、このイムラドリスでかの国の言葉を声に発した者はいなかった。二度と再び、この地でそれを口にする者がいないことを望もうではないか」
影が通り過ぎ、皆がやっと息をつくと、エルロンド卿は言った。
「しかしエルロンド殿、わしはあなたの許しは乞わぬ。何故ならかの国の言葉が間もなくこの西の地の津々浦々で聞かれる事になるのだから」ミスランディアは返す。
「我が友人方よ、ゴラムから訊き出した事はそれだけではない」
それはゴラムがモルドールに赴き、そこで知る限りの事をすっかり吐かされ、敵は一つの指輪が見出されことや久しくホビット庄にあったことなどを知った。敵が召使いを放ち襲って来た以上、それが裂け谷にあることを間も無く知るか、既に知っているかもしれない。
「そのゴラムは、如何様に罰を?」一同が押し黙る中、ボロミアが口を開く。
「ゴラムは牢に。それ以上の罰は与えていない。あいつは随分酷い目にあってきた。拷問も受けていただろう」アラゴルンは言う。
かの者の敵意は底知れず、今でも自由になればいくらでも悪い事をやるだろう。だが、今は闇の森の注意深いエルフ達がゴラムを監禁してくれている。それはとても喜ばしく思えた。
「なんて事だ!」
突然、レゴラスがそのエルフらしい美しい顔に深い心痛の色を浮かべて叫んだ。
「今こそ私が使いとなって持ち来った知らせをお伝えしなければなりません! 良い知らせではありませんが、方々にとってそれがどれ程悪い事になるか、今しがたわかりました。実はゴラム……、スメアゴルは逃げました」
「逃げただと?」アラゴルンは叫んだ。
「全く悪い知らせだ! スランドゥイルの方々は、またどうしてその責務を果たしてはくださらなかったのか?」
「用心が、足りなかったからではないのです」とレゴラスは返した。
そうではなく、親切が過ぎたのである。ゴラムは外から助走の助けを得ていたかもしれない。闇の森のエルフ達は、ミスランディアからの言いつけ通り、昼も夜も見張っていた。しかし、ミスランディアの「この者が良くなる望みを捨てないように」との言葉もあり、ゴラムを絶えず地下の土牢に閉じ込めておく気にもなれなかった。また、腹黒い思いに閉じ籠る事になるだろうとも思われたからだった。
「ふん、あなた方は私にはそれ程優しくはなかったわい」怒りの色を浮かべ、グローインが言った。それは彼の古い記憶で、エルフ王の館の地下深くに閉じ込められた事があったからである。
「まあ、まあ」ミスランディアが場を取りなし、レゴラスの話に戻った。
「天気の良い日に、我らはゴラムを森に連れて行ったのですが──」
森には、他の木から離れてたった一本、高い木があった。ゴラムはこれに登るのが好きで、エルフ達はゴラムが一番高い枝に登り、自由に吹き抜ける風を楽しむのを許していたのだった。
ある日ゴラムは降りるのを拒んだ。両手以外に両足も使い、大枝にへばりついてしまった。
「その夏の夜、オーク共が不意打ちを仕掛けて来たのです」
エルフ達は暫く戦い、オークらを追い払ったが、見張りのエルフは斬り殺され、連れ去られてしまった。しかもゴラムの姿がない。この襲撃はゴラム救出が目的であり、ゴラムも前もって知っていたのである。今や闇の森は、一角を除けば再び忌まわしい場所となった。
ゴラムを捕まえ損ねたエルフ達は、オーク共の足跡に混じったゴラムの足跡を発見し、追跡を試みるのだが、忌まわしいドル・グルドゥアに近付いていた為に、それ以上の追跡は断念せざる終えなかった。
「もう一度彼奴を探している時間は無い」ミスランディアは言った。
そしてミスランディアからサルマンの裏切りや、この裂け谷に来るまでの長い経緯などが語られ終えた。
こうして始まりから終わりまで語られたのだが、目的には一歩も近付いていない。これから指輪をどうすれば良いのか。中つ国の力のあるエルフでも、指輪を破壊する事は出来はしないのだ。
「また、大海の彼方に住む者達はこの指輪を受け取ろうとはしないだろう。善きにつけ、悪しきにつけ、これは中つ国に属するものなのだ。これを処分するのは、今なおここに住む我らの仕事だ。」エルロンドが言った。
「それでは」グロールフィンデルは、大海深く投げ込もうと提案した。海の中ならば指輪も安全だろうと思っていたからだ。しかし、いつまでも安全ではない。
「我らが取る道は困難な道、予想外の道でなければならぬ。モルドールへ、指輪は火の山へ送らねばならぬ」
エルロンドの言葉は、再び皆を沈黙させた。しかしひとりだけ、ボロミアは渋面を浮かべながら口を開いた。
「私にはこの騒ぎが理解できません。何故皆さんは隠すだの破壊するだのという事ばかり話されるのか。我々の役に立つべく、我々の手中に入ったとは? これを用いれば、必ず敵を破る事ができましょうに」
ボロミアは指輪を武器にと言い出した。だが、それは出来ないのである。支配する指輪はサウロンのものであり、サウロン一人の手によって作られた。手に入れたいと望むだけで心は堕落させられ、恐ろしい危険をもたらすのだ。
そして、またどうするかの話が繰り返され、様々な意見が飛び合うと、指輪を葬り去る為の使者達についての話に移った。
「ぼ、僕が……、私が指輪を持って行きます」
皆の沈んだ物思いの中、突然フロドが言った。