時を同じくして、アステカの地より南、マヤの地の北西に位置する都市国家エル・バウル。
一人の男が王宮の自室より、地平へ沈み行く燃えるような夕焼けを物憂げな目で見つめていた。年齢は三十代中盤で、まだその浅黒い四肢には瑞々しい張りがあるが、平均年齢が五十を越えない時代において、彼は十分歳をとっているといえるだろう。蛇と鳥の金の刺繍が入った衣服を纏い、歯にターコイズ――トルコ石を埋め込んだ姿からは、どこか高貴で犯しがたい雰囲気が漂っている。
彼の名はアセロイ。千年にわたりエル・バウルを納めている一族の長であり、現在、この国の王を務めている者である。
彼は王として必要な資質を全て備えた完璧な人間である。
臣下や民の意思を汲み取り、政策を考え、実行に移すという流れを完璧に行う「政治家の才能」。
組織の長として統率、管理を行い、時に外交において舌戦をこなす「王者の資質」。
戦術から戦略。防衛から殲滅。戦場における全ての出来事に対応する「指揮官の才能」。
加えて知識も豊富で、信仰心も熱く、民によりそう優しさと時に小を捨て大を取る非情さもかね備えている。
だが、始まってから既に十数年経過する彼の治世は暗黒時代と全く変わらない、永遠の停滞と退廃的な空気が支配している状態である。
彼が悪いわけではない。彼は優秀な為政者で誰もが彼を優秀だと誉めちぎるだろう。
臣下が無能な訳でもない。彼らは自らの王に忠実で、足を引っ張ることはなく、むしろ支え合い国のために行動している。
民が暗愚な訳ではない。民は自らの王が優秀であることはわかっているし、貧困と飢餓から抜け出す機会をふいにするわけもない。
誰も悪くない。彼らが恵まれていないのは、大罪を償うべき者達がすでにこの世の中に存在しないからである。
元来、人間は争いを繰り返しながら発展をしていく動物で、発展をすればするほど争いの規模も大きくなってゆくものだが、ここ二百年、マヤの地では都市、国同士での大規模な争いは発生していない。争いがないのは大変結構なことではあるのだが、裏を返せば、マヤの文明は発展をやめ、停滞期に入っていることを示している。
かつて、彼の遠い先祖の時代、まだ神々がマヤの地を捨てる前、エル・バウルは栄華を極めていた。
王宮は金銀財宝で溢れ、神殿は整備、装飾され、人々の暮らしは裕福であった。もちろん、争いも起こった。大きな国が乱立し覇権を争う中、彼の先祖も自らの都市神であるククルカンにマヤの統一を約束し、戦乱の渦中へ飛び込んだ。
だが戦乱の中においても国は繁栄し、民には幸せな日常を謳歌する経済的、精神的な余裕があった。
しかしそんな日々も長くはなかった。盛者必衰の理からは逃れられず、二百年前に状況は急変し、繁栄から一転、衰退の一途を辿ることになる。
二百年前、エル・バウルは長年の宿敵である隣国との近辺一帯の覇権を賭けた決戦へと臨もうとしていた。しかし、その年は運悪く水害が発生し、兵站の確保が十分ではなかったため、中立国から食料を買い付ける必要があったのだが、国庫は長年の戦費と建造物の維持費などでカツカツだったので、当時の王は金策に頭を悩まされる羽目になった。だがそこで、その王はあろうことか神殿を取り壊し、得た黄金を売り払うという暴挙に出てしまったのだ。
当然ながら、神殿を取り壊された神々は激怒し、エル・バウルをみかぎり、敵方の国についた。神々の加護を失ってしまったという事実は、味方の兵士の士気を大幅に下げ、敵方の兵士の士気を盛り上げた。結果、決戦に大敗したエル・バウル方は莫大な損害を被り、本拠地に逃げ帰るしかなかった。
この出来事から、神々は信仰が失われつつあるという現状を再確認した。人々は繁栄するあまりに、次第に信仰心を無くしていったのだ。神殿に捧げられる供物も減り、王は神託を全く意に介さない。ついには、信仰の家であり、神権の象徴でる神殿を侮辱したマヤの民を神々は見限り、大半の神が新天地を求め、北へと去っていったのだ。
その後、マヤの地は急激に衰退し、国体を維持することはですら困難な状態に陥った。各国の領土は縮小し、人々の生活レベルも大幅に低下。強国はただの都市国家に成り下がり、弱小国は崩壊した。
そんな状態において、人と財が集中しているエル・バウルは、敵国、山賊から見たら格好の略奪対象。いつ襲われるかわからない恐怖が住民のの精神を徐々に磨り減らしていった。
現在のエル・バウルには過去のような活気は無い。だれもが衰退を受け入れ、淡々と滅びを待つのみである。
アセロイはこの国の現状を憂い、再興のため様々な改革と試行錯誤を行った。
失われたククルカン神殿を修復、再建。信仰の火を再び灯し、神権により国を治め、秩序の回復を試みた。その他にも主要な産業であるターコイズの鉱脈の開発、採掘、農業への投資、大規模な治水工事。それぞれがある程度の成果を出したが、それでも現状の打開には遠く及ばなかった。
民に「賢王」の名で慕われ、当代一の傑物である彼の頭脳をもってしても、もはや「神に縋る」などという不確実な策しか思いつかない。そう、この国は完全に詰んでいるのだ。
脳内で状況を再確認したアセロイは諦めの溜め息を吐くと沈みかけの太陽に背を向け自室へともどる。
これ以上思考しても、解決策など出てくる筈がないことは明白で、まったくの時間の無駄であると彼は判断した。
自室の作業机で今月の歴――ツォルキンに目をとうし、明日の予定を確認し終えると、アセロイは床へと身を投げ出し、ありとあらゆる思考を停止し、瞼を瞑る。
彼にとって睡眠とは救いである。一日中悪夢のような現実と戦っている彼にとって、己の責務から目を背け、他のことに集中できる唯一の時間。
思い責務から解き放たれた彼は救いの暗闇へと歩を進めつかの間の安息を手に入れる・・・筈であった。
しかし、今夜の彼には現実から目を背ける時間は与えられなかった。
「ここは・・・・・ククルカン神殿・・?」
彼が目を覚ましたのは王宮のとなりに彼が再建したエル・バウルの都市神ククルカンの神殿。
なかでも神聖とされ、王でさえ儀式の際に限定的に立ち入りを許可される「暁の間」である。
彼には自分が床に入った記憶が鮮明に残っていたので、夢の中の幻かと疑ったが、足の裏から伝わるヒンヤリとした石の感触、部屋のなかに漂うはりつめた感覚がそうでないことを示していた。
「良く来た。定命の王。」
彼がはっと後ろを振り向くとそこには一人の青年がまるでずっとそこに立っていたかのように佇んでいた。
赤い髪に、不気味なほど整った顔。真っ直ぐと此方へと向いた赤い目からは、異様な威圧感が発せられ、響き渡る声からはまったく感情が読み取れない。
「時間がない。簡潔に話す。貴様をこの場に読んだ理由はこれだ。」
男は部屋の中央に置かれた祭壇にボロボロの布に包まれた赤ん坊を置く。スヤスヤ呑気にと眠っている赤ん坊とは対照的にアセロイは完全に混乱し、状況を飲み込めずにいた。
(これ程の威圧感を放つ存在がただ者である筈がない。恐らくは神々からの使い、もしくは人の心に入り込む悪魔の類いか。わざわざ私の心象に入り込んでまで成したいこととはなんだ?この赤ん坊がいったいなんの関係があるというんだ―――)
「貴方は一体――「言っただろう。時間がない。分体程度の力では他人の心象に介在することは難しいのだ。貴様の疑問に答える時間はない。」
無表情だった青年の顔には確かに苛立ちの色が浮かび、
有無を言わせぬ威圧でアセロイの口を閉ざす。
アセロイが引き下がり口を閉ざすと、青年は何事もなかったかのように話を再開する。
「貴様にはこの赤ん坊――アマテを授ける。持ちうる知識、知恵を全て用いて育てよ。いずれこの赤子はマヤのみならずアステカをも統べる運命にある。責務を全うするための知恵が必要だ。」
今、この男はなんといった?マヤを、アステカを支配する?この赤ん坊が?将来自らの国を支配する人間を育てろ、とこの男は言ったのだ。
王として、エル・バウルを継承する一族の長として到底受け入れられないことである。子を成せない身ならばまだしも、既に妻との間に三人の子を成し、嫡男の選定も済んだ状態で得体の知れない赤子を養子にするなど受け入れられない。
アセロイのそんな思考を見透かしたように青年は言葉を付け足す。
「ああ、貴様の王位を継がせろというわけではない。そんなことは必要ないからな。貴様はただ教育を施し、衣類を、食事を、屋根を与えれば良い。」
「貴様に我が求めるものはこれだけだ定命の王よ。ふむ、貴様の良く回る頭脳に免じて一度だけ問いを投げることを許す。なんでも聞くといい。」
正直、ひとつだけではまったく足りないほど質問したいことはあるが、この尊大な青年は自分の意見を受け付けないだろうことは予測できる。
よって、現状最大の疑問を投げることとする。
「――何故、私にその役目を?」
自らがアステカ、マヤの王となると確信している赤子の育成という大役をなぜ小都市の王である自分に任せるのか。
挙兵の際の足掛かりならば、適役は自分以外にも多いはずだ。教育役ならば山奥で修行をしている仙人どものほうが知識は多い筈。
――なぜ自分の国民すら救えずに王宮で燻っている男などに託すのか?
「理由は単純だ。我は貴様の才を知っている。知を知っている。武を知っている。腹の内を知っている。全てを知っている。貴様はバランスを欠くことなく完成された人間だ。王の教師に相応しい。それと―――
マヤの民に挽回の機会を与えるためだ。
これが最後だぞ、定命の王。神々の家を侮辱し、神権を軽んじた大罪を濯ぎ、永遠の停滞から貴様らが抜け出す最後の機会だ。
みすみす逃したくなければ、努使命を忘れるな。」
青年が喋り終えると、アセロイはすべてを納得するとともに、青年の正体に気付いた。
エル・バウルの都市神にして創造の双子の片割れ、神話における最高の存在ククルカン。この世の全ての善を司る神が暗黒時代からの脱却の道を示してくれたのだ。
「また会おう。定命の王。―――我が子を頼む。」
青年はそれだけ述べると踵を返し、黄金の炎と化して虚空に消えて行く。炎が完全に消えると、アセロイも夢から覚め、現実へと回帰する。
アセロイが跳ね起き床から出ると、丁度朝日が地平を染めている時間帯。先程までの出来事はやはり幻想かと嘆息をついたその先、違和感に気づく。
王宮の中庭の方面が何やら騒がしい。この時間帯、起きているのは守衛の兵のみの筈。
―――やはり先ほどの出来事に関連することだろう。
アセロイは慌てて部屋を飛び出て中庭へと走る。部下の制止を振りきった先、中庭で見たものは―――
―――この世のものとは思えないほど美しい赤と金の鳥。羽を広げれば並みの人間の十倍の大きさはあるであろう巨体で中庭の中央に佇み、周囲の番兵を威圧している。
その姿は伝承において語られるククルカンの化身そのものであった。
―――やはり、幻ではなかった
「アセロイ王!?お下がりを!ここは我々が―――」
番兵を押し退け、神獣の前まで進み出る。
彼の耳にもはや制止の声は届かない。それほどまでに興奮し、この神秘的な邂逅に運命を感じていた。
彼が近づくと神獣は短い前肢を器用に使い背中からボロきれに包まれた赤ん坊を下ろし、彼がそれをしっかりと受けとる。
アセロイは赤子を胸に抱くと人の目を忘れ、泣いた。
―――自らの努力が報われる、これで、民が、臣下が、国が、活気を取り戻す。望んだことがようやく叶う。
彼はこの日、運命に邂逅した。
長くなってしまってすまない。