――十年ほど前。
店の席に、一人の男がいた。男はこのご時勢に珍しく、電子煙草ではない紙巻を吸っていた。店の方も珍しく、特に禁煙というわけではない。店主の私自身も煙草呑みであるし、多少のこだわりも持っていた。それだけに、禁煙政策の進む昨今でも、頑なに煙草を手元から離さない男に多少の親近感を覚えたことを今でも忘れていない。注文のコーヒーを差し出すと、男は軽く会釈して受け取った。
「お客さん、この店は初めてかい?」
「ええ、待ち合わせの相手がね、一度入ってみたい店だと言うから、寄らせてもらいました。いい店ですね、ここ」
「そう言ってくれると嬉しいね。ご贔屓にしてくれりゃなお嬉しい」
そう言って笑顔を見せる。すると男が徐に煙草の火を消した。直後にドアベルが鳴る。なるほど、待ち合わせの相手が来たらしい。
「ごめん、遅くなっちゃって」
「なあに、今来たところさ」
「……今来たところなのに三本も煙草に火をつけて、火遊びでもしてたのかしら? いい加減煙草なんて止しなさいよね」
「残念、これを止めるのは俺が死んだときだけさ」
困ったように嘯く男に、あきれたような表情を向ける娘さん。面白い客だ。はじめの印象はそんなものだった。
「あ、ここのお店って、神姫を出しても大丈夫ですか?」
神姫……聞いたことがある。確か生活サポートを目的とした15㎝くらいのロボットだ。たかが15㎝で何が出来るのかとも思うが、ここ最近では様々な媒体で関連広告を目にしない日はない。それを考えると、売れ行きも悪くないのだろう。
「ええ、構いませんよ。他に気にするお客さんもおりませんし」
我が店ながら、客入りはほとんどない。店自体が半分道楽のようなものだから仕方がないのだが。
「良かった。出ておいで、アンジェリクス」
「はい、ご主人様」
鞄の中から涼やかな声が聞こえる。後から知ったが、アンジェリクスはその声の美しさに特徴のある、「ミネルバ」という機種だったらしい。音楽に特化して作られていて、インターネットには自分の作曲した曲をミネルバに歌わせる、という動画も作られたりするらしい。長い金髪と青い目が美しい、と思った。
「アンジェリクス、貴女からもシロウに言ってあげて。煙草の匂いがつくからそんな不健康なものを吸うのはやめて、って」
「でもご主人様も、その匂いをお嫌いではないのでは?」
「それとこれとは別よ。私は貴女に煙草の匂いがつくのが嫌なの!」
「やれやれ、目の前では極力遠慮するように心がけさせてもらうよ……それと、何度も言うようで悪いんだが、俺の名前はシロウじゃなくて征司郎、な」
「何度も言うようで悪いんだけど、長いんだもの。諦めて」
男がやれやれ、と言うように頭を掻く。
――今にして思えば、それは幸せな過去だった。
「ミネルバ型? アンジェリクスってサイフォス型のはずじゃあ……?」
「それは今のアンジェリクスだな。アンジェリクスは元々榊の恋人の神姫の名前だったのさ」
昔を懐かしむように、マスターが目を細める。その光には、楽しかった頃を思い出すような輝きがあった。
「でも、それなら何で今のアンジェリクスは、榊刑事の神姫で、騎士型なんですか?」
「それにはな、わけがあるのさ……」
マスターはパイプを口から離し、ゆっくりと煙を吐き出した。煙の向こうに見えたマスターの瞳は、うって変わって悲しい色を帯びていた。
「そんな……これは……」
新聞の一面には、にわかには信じがたい記事が踊っていた。それは、この店の客として、よく知っていた人の死を告げる内容だった。
『Y市内で爆発、テロか』
『死者一名、負傷者多数』
『目撃者の話では、神姫と思しき影が爆発物を運んだ可能性』
目に飛び込んでくる内容が、頭に入らずに素通りして消えていく。顔写真も掲載されている。間違いない。あの神姫を連れてきた女性だ。あれ以来、度々店に顔を出してくれるようになり、その肩にはいつも、あのミネルバ型の神姫を乗せていた。呆然としていると、不意にドアベルが鳴る。入り口の方に目を向けると、あの時一緒だった煙草好きの彼が立っていた。
男はコーヒーを注文すると、黙ってカウンターの真ん中に座った。流れるジャズと、コーヒーを淹れる音だけが、店内に響いていた。カップと皿の立てる音がうるさいくらいに聞こえた気がする。黙ってコーヒーを差し出すと、男も黙ってそれを受け取った。
「苦いな……」
コーヒーを飲み終えて、男はそれだけを呟いた。
「これは、独り言なんだがね、マスター……」
「はい」
長い、長い、沈黙の後で、男は喋り始めた。
「犯罪捜査規範という奴があってね、近親者が被害者になった場合、その捜査から外される、って決まりがあるんだな……おかしいだろう? 誰よりもその事件の解決を願う人間が、その捜査の場にいることが出来ない、なんて……」
返す言葉が、なかった。それは胸の内をそのまま吐き出したような言葉だった。怒りも、悲しみも、苦しみも、恨みも、すべて綯い交ぜにした感情のうねりが、そのまま言葉になったようだ。
「現場には遺留品が残っていた……おそらく、実行犯はじきに特定されるだろう……でもね、あいつを殺した犯人は……殺すように命じた主犯は、別にいる……」
歯を軋る音が聞こえてくるようだった。
「あいつは、ある企業の不正を調べていた……その証拠を、集めていた……それを、揉み消すために……殺されたんだ……」
途切れ途切れに語る声は、無理やり絞り出されているようだった。 男が黙ると、沈黙が店内を支配する。流れ続けているジャズは、遠いどこかで流れているように聞こえる。それなのに、水滴が、テーブルを打つ音が、耳に届いた気がした。
「結局、実行犯は逮捕されたが、榊の言う真犯人とやらは捕まってはいない。榊が言うには、捜査に横槍を入れられて、捜査本部も解散。背景のない単なる殺人事件として処理されてしまったそうだ」
その爆破事件のニュースは、俺も覚えている。当時の報道でも神姫を使った新しいテロの可能性があるとして、大々的に取り上げられていた。確かに犯人はすぐに捕まった記憶があるが、その後については良く覚えていない。日々のニュースに紛れてしまったような、おぼろげな記憶があるだけだ。
「それから何年かして、奴さんは新設されたばかりのMMS犯罪捜査の専任に回された。それがあいつの意思なのか、上に嫌われたせいなのか、儂には分からんが。それと同じ頃に、あいつは自分の神姫を買った。それが、今のアンジェリクスだよ」
「そんなことがあったんですね……」
「ああ、恋人とその神姫を亡くし、閑職に追いやられ、おまけに本当の仇は今も平然としている……それからは、あいつの怒りの矛先は、神姫を使った犯罪に向かい続けているのさ」
マスターは何度目かの紫煙を吐き出しながら、言った。
「本当なら、市民を巻き込んだ捜査なんぞ、許されるはずがない。今度のことだって、圧力に屈しない、なんて言ってはいるが、そのどこまでが私怨だか、分かったもんじゃあない。あいつが言うんだから捜査に人を駆り出すのは本当だろうが、例え結果が出たとしても、あいつが上役から認められるってことはないだろうな」
そうだったのか。榊刑事に感じていた執念のようなものの正体が見えた気がした。あの人も、大切なものを失ってきているのだ。もしかするとさっき話していた裏バトルに関わっている大物というのも、榊刑事の言う真犯人と関係があるのかもしれない。
「でも、マスター、何でそんな話を俺にしてくれたんですか」
「なに、年寄りの気まぐれだよ。君はあいつによく付き合ってくれているし。あとは、そうだな、君も、どこかあいつと似た匂いがするから、かな」
「似ている?」
「年寄りの勘みたいなもんだ。違っているならそれはそれでいい。気を悪くせんでくれよ」
「まあ、神姫を使った犯罪を嫌ってるところだけはそうかもしれませんね」
否定する理由もないので、適当な相槌を打つ。
神姫は人間に対して拒否権を持たない。それは、自分の死を賭けた場でも変わらない。死んでこいと命令されれば、どんなにそれを嫌がっていても最終的には従うしかないのだ。そのことに、たまらない嫌悪を感じた。神姫に爆弾を持たせた相手も、命賭けのバトルをさせるのも、それを楽しむ連中も、そのすべてに怒りを感じた。それとも、機械にすぎない神姫に、死という概念を当てはめる俺がおかしいのだろうか。
「さっきの話、どうするつもりだね」
「裏バトルの話ですか。そうですね、とりあえず榊刑事に尋ねたいことがいくつかありますね」
「尋ねたいこと?」
「ええ、例えば……俺が倒さなきゃならないチャンピオンと、その神姫のこととか?」
俺の怒りは、静かに、しかし確実に灯っていた。