蠍の尻尾   作:深波 月夜

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 外が、明るくなってきた。

 結局、主からは何の連絡もなく、そして、帰ってくることもなかった。こちらからも何度も主の携帯にメールを打ってみたが、返事は未だにない。

 夕方頃から、私達は交代で休むことにした。主が深夜に帰ってくることがあっても、誰かが起きているようにしたかった。結局、そうはならなかったけれど。

 こんなことは、私が主の所に来て以来、一度だってなかった。一体、主に何があったのだろう……。

「主、今どちらにおられるのでしょう……」

 寒い時期でないのは救いだった。しかし、心配の種がひとつ減っただけで、根本的な不安は募るばかりだった。

「姉さん、起きたッス。ご主人、帰ってきたッスか?」

「メサルティム……いえ、まだ……」

 私は、力なく答えた。時計は、そろそろ朝の五時になろうとしている。

「そうッスか……ご主人どこ行っちゃったんスかね……」

 そんなことを言われても、私だって知りたい。そんな思いが頭を過ぎる程度には、私の神経も消耗していた。

「メサルティム、少し、主の持ち物を調べてみましょうか。もしかしたら、何か行き先の分かるようなものがあるかも知れませんし……」

「そう、ッスね。チーグルつけてくるッス。あった方が楽ッスから」

 そう言うとメサルティムは、自分の装備であるサブアームを着けに行った。せめて、ご友人の連絡先だけでも分かるといいのだけれど、望みは薄い。日野様とも花道様とも、主は携帯電話で連絡を取り合うことはあっても、その他の連絡手段を使っているところを見たことがない。

「準備、出来たッス。どこから探すんスか」

「そうですね、机周りから、手をつけましょうか」

 と言ってみたところで、やはりと言うか、学習のための道具や教本などが出てくるばかりで、手がかりになりそうなものは何もない。

「姉さん、ご主人、実家の方にいる、ってことはないんスかね?」

「ご実家……?」

「そうッス。ご主人だって、一人暮らしをしてるってことは、両親がいるはずじゃないッスか。何か理由があって、そう、例えば急な呼び出しとかで、そっちに帰ってるってことはないッスかね……?」

 ご実家。言われてみれば、主がご両親の話をされているのを聞いたことがない。いや、そもそも、ご家族の話をされていること自体、聞いたことがない……。

確かに、主にもご両親がいるはずだ。でも、どこに? 連絡先は? そもそも、ご健在なのだろうか? 私は改めて、愕然とする。私は、主のことを、何も知らないのだ。分かっていたのはバトルロンドにまつわることだけで、家族構成も、交友関係も、バトルロンドに関わらないことは何も知らない!

「姉さん、ご主人のご実家の連絡先とか、知らないッスか? ……姉さん?」

「いえ、大丈夫……ただ、私も、貴女と同じで、主のことを何も知らない……」

 そう、二年もの間、誰よりも近くにいたはずなのに。あんなにも傍にいたはずなのに……。

「それじゃあ、やっぱり、警察とか……榊さんを頼れば、事情も説明しやすいッスし……」

 榊刑事のことも、考えないではなかった。だが、私はやはり連絡先を知らないのだ。その伝手をなくして、神姫が警察に通報をしたとして、何と説明すればいいのだろう。いや、それ以前に……。

「メサルティム……貴女、知っていますか……」

「え、何を、ッスか?」

 気づいてしまった。私は、いえ、私も……。

「私……主の、名前を、聞いたことがない……」

 そう。この家の中では、主の名を呼ぶ者はいない。ゲームセンターや神姫センターでは、主はプレイヤーネームで呼ばれている。深波、月夜と。でもそれは、主の本名ではないはずなのだ。

 絶望感に近い感覚が、一息に襲ってきた。その感覚は、一瞬で私の心を飲み込み、希望の灯を吹き消した。

 突然、私の足元に水滴が落ちてきた。それが、私の目からこぼれた涙だと気づくまで、しばらくかかった。

「姉さん……? 大丈夫ッスか?」

 主がいないというだけでこんなにも心細く、こんなにも寂しく、こんなにも不安になるなんて、思ってもいなかった。私は、こんなにも小さくて、弱い。そんな感情が、次々と湧き上がってくる。

「姉さん、少し、休んだ方がいいッスよ。自分とアルキオネさんが起きてるんで、休んでくださいッス。ご主人が帰ってきたらすぐに起こしてあげるッス」

「ええ、ありがとう、メサルティム……そうさせてください……」

 涙は、止まらなかった。バッテリーの残量が心もとないのもあったが、私は倒れ込むようにクレイドルに横になった。充電完了と共に目が覚めるように設定すると、瞼を閉じた。

 

 

 夢を、見た。

 夢の中で私は、主の隣にいた。

 主の肩に乗り、日差しの中を歩いていた。

『――――。』

 主が、何かを言った。しかし、私はそれを聞き取れなかった。

何とおっしゃったんですか、主?

『――――。』

 もう一度、主が同じ言葉を繰り返す。同じことを喋ってくれているのは分かる。なのに、何と言っているのかだけが分からない。私は、少し困ったような表情を浮かべる。

辺りが、徐々に暗くなっていく。急に、私だけが主の肩から取り残されて宙に浮かぶ。

主、待って、待ってください!

主と視線が絡む。しかし、主はそのまま離れていく。少し悲しそうな頬笑みを浮かべて、遠く、闇に呑まれていく。

 待って、待って! 行かないでください、主!

 私の声は、もう主には届かない。それだけが、痛いほどはっきりと分かった。主の姿が、見えなくなる。もう、私の喉から、声が出なかった。

 

 

「待って、主!」

 はっと目を見開くと、そこには見知った天井があった。クレイドルから体を起こすと、私の目からはやっぱり涙が零れ落ちた。

「あ、シャウラ、起きた?」

 その視界に、ひょっこりとアルキオネが入ってくる。その表情は、普段と比べると、どこか陰が入っている気がする。

「アルキオネ、主は……?」

「ううん、まだ何にも。シャウラのメールアドレスもチェックしてるんだけどね……」

 アルキオネの表情が、はっきりと曇る。

「そう、ですか……」

ゆっくりと、立ち上がる。目をこすった手の甲は、涙で濡れていた。

「その様子だと、手がかりになるようなものも見つかってないのでしょうね……」

「うん……ごめんな」

「止してください、貴女が謝るようなことでもないのに……」

 そう言いながらも、その気持ちはよく分かった。もし私が逆の立場だったとしても、きっと同じように謝罪の言葉を口にしていたろう。

「アルキオネ……私達は、何だったんでしょうね……」

「え?」

「主にとって、私達は、何だったんでしょう。こんなにも、簡単に、放り出していけるような、そんなものだったんでしょうか……」

 私の声は、思っていた以上に沈んでいた……それでも、それを問わずにはいられなかった。こんな声は、とてもではないがメサルティムには聞かせられない。

「そんな、簡単なことのわけ、ないじゃないか」

「でも……私は、主のことを何も知らなくて……バトルロンドのことしか、私は、知らなくて……」

 声が、湿り気を帯びる。目尻には、また涙がたまっていた。

「それがマスターにとって、生活のすべてだったんだろう? それは二年間、マスターと一緒に戦ってた、シャウラの方が良く分かってるんじゃないか? その生活のすべてを置いていったんだ。きっと簡単なことじゃないさ……ボクは、そう思うよ」

 アルキオネは、そう言って微笑んだ。私は、初めて、この娘の明るさに救われたような気がした……。

 バトルロンド……そうだ。そう言えば……。

「武装ケース……」

「え?」

「武装ケースの中に、オーナーカードが入ってる……」

 そう。春の鳳凰杯以来、主が私の武装と一緒に、持ち歩いていたオーナーカード。あれ以来交換をする機会もなかったけれど、昨日の事件のときにも、確かあったはず……。

 私は急いで自分の武装ケースを開く。開封する手順ももどかしく、全身で蓋を持ち上げる。ケースの蓋の側に設えられたポケットに、アルミで出来た名刺入れが入っている。あった……。

「でもシャウラ、マスターの連絡先が分かったって、今は仕方がないんじゃあ……」

「違うんです、アルキオネ……この中には……」

 私は、その中から、一枚のカードを取りだした。

 

 

「オーナー、メールが入ってるよー?」

「んー、今ちょっと手が離せないんだ。誰からだか分かる?」

「ちょっと待ってねー……んー? 知らないアドレスからだ……あ! これ、シャウラさんのマスターさんからだよ!」

「ああ、深波君からか。久しぶりだな、何の用だろう?」

「開いちゃっていい、オーナー?」

「そうだな、彼からならば渚さんに関係ない用件ってことはないだろう。ちょっと先に見てくれるかい?」

「はいはーい、何だろうなー、久しぶりだなー」

 名前を聞いて、久しぶりに春の鳳凰杯でのバトルを思い出す。あれは本当に胸が躍るような熱い戦いだった。あれ以来忙しい日が続いて、オーナーカードを交換したにも関わらず連絡も取れないままになっていて、心苦しく思っていたのだが……。

「ちょっと、オーナー! こっち来て! 早く!」

「ど……どうしたんだ、渚さん!?」

「いいから早く! シャウラさんが、大変なの!」

 

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